【第1章】部落学固有の研究対象
【第7節】士農工商穢多非人図式を破棄する理由
【第1項】賤民史観と士農工商穢多非人
「賤民史観」とは、「賤民」を、関係概念としてではなく、実体概念として把握する歴史学上のものの見方や考え方のことです。
この『部落学序説-「非常民」の学としての部落学構築を目指して』の執筆目的は、この「賤民史観」を批判・検証して廃棄させることであることは、以前にも述べた通りです。「賤民史観」を、最も分かりやすく図式化したのが、学校同和教育や社会同和教育の場面だけでなく、歴史学者の研究の場面においても、一般的に使用されている、「士農工商穢多非人」という図式です。
この図式に対して、私は、以下の理由で廃棄の必要性を主張します。
①「士・農・工・商」は、それぞれ漢字1字で表現されているのに、そのあとに続く「穢多・非人」は、漢字2字で表現されていること。「士・農・工・商」と「穢多・非人」の連結の仕方が不自然であること。
②「士・農・工・商」は、江戸時代の職業的階層であると言われる反面、「穢多・非人」は、「穢多役」・「非人役」として、当該身分の役務を指す表現であるから、異なる種類の分類をひとつの序列に位置づけることは問題があること。
③「士農工商穢多非人」という図式は、近世の文献・伝承には存在していないこと。
④幕藩体制下の諸藩の史料を検証すると、「士農工商」という身分制度があったことを否定するような史料が多数存在すること。
⑤幕藩体制下の身分制度は、今日考えられているように「士」・「農」・「工」・「商」各階層間は、閉じられた関係ではなく、かなり開かれた関係にあること。「士」が帰農して「農」になることが認められていたし、「士」の功績あるものが報奨として「庄屋」身分を授与される場合もあったこと。「農・工・商」にあるものが、名字帯刀を許され、士雇(さむらいやとい)の身分を兼務する場合もあったこと。「士」に属する家が断絶を免れるために「穢多・非人」身分を養子として迎える場合がかなり一般的に存在したこと。
⑥「士農工商穢多非人」を教育現場で用いることによって、「穢多非人」が最下層の人間であるという印象を与えてしまうことで、学校同和教育・社会同和教育を空洞化させる機因となる場合が多いこと。
⑦「士農工商」というのは本来中国由来の表現。幕藩体制下の身分制度を表現するのに相応しい用語であるかどうかが検証されていないこと。
この節では、最初の理由だけを取り上げてみましょう。
長州藩の枝藩である徳山藩の幕末期の史料に、「士農工商雑」という図式があります。
この図式は、「士農工商穢多非人」という図式の近世における前身のようなイメージがありますが、実際は、かなり違いがあります。
この場合の「雑」という言葉は、「その他」という程度の意味で、封建的身分制度における最下位の身分を指しているわけではありません。「士農工商」という枠に収まらないその他の職業というような意味合いです。
『広辞苑』によると、「雑」という言葉は、あまりいい意味をもっていません。『広辞苑』では、「①種々のものの入り交じること。統一なく集まっていること。②主要でないこと。③有用でないもの。④精密でないこと。粗野。」という説明が付与されていますが、江戸時代末期の徳山藩の「士農工商雑」の「雑」には、現代語の意味合いはありません。
徳山藩の身分制度は、概ね本藩に準じて構成されています。
「士農工商」は、「士・農工商」にまとめられ、「武士・百姓」の形で存在します。ただ、城下町の住人だけは、更に「百姓」から区分され「町人」とされます。城下町に住む住人はすべて「町人」とされ、城下町以外の村に住む住人は、すべて「百姓」とされています。
徳山藩の天保5年の「御領内諸町人数書取」を見ると、「町人」として次のような職業があげられています。
○「職人」(医師・地神経読盲僧・大工・木挽・車指・桶大工・桧物師・櫛挽・竹細工・茅屋根噴・左官・鍛冶・鋳物師・鏡磨・刀脇差細工・縫物師・帳綴・紅おろし・製藥師・塗師・染物師・石工・髪油蝋燭師・油絞・髪結・綿打・風呂屋・社氏・醤油造・瞽女)
○「奉公稼」
○「職人・奉公稼以外の町人」(圧倒的多数)
同じ年の「百姓」については、概略のみ記載されています。
○百姓
○町人(旧町人/城下町が移転した後も旧城下町の住人は町人と呼ばれている)
○職人
○医師
○僧・社人・山伏・比丘尼
つまり、江戸時代の「町人」・「百姓」という表現は、便宜的なもので、藩が、町人に数えれば町人になり、百姓に数えれば百姓になるという状況があります。政治的意図によってどうにでもなります。
実質、同じ職業であったとしても、住む場所によって、「町人」ともなれば、「百姓」ともなるのです。城下町に住む「医師」は「町人」であるが、村に住む「医師」は「百姓」になります。「地神経読盲僧・瞽女」は、城下町に住めば「町人」になりますが、村に住めば、穢多・非人と共に、時として、「士農工商雑」の「雑」に組み込まれることになります。
長州藩の本藩領のうち、室積村(農村)と室積浦(漁村)をみてみましょう。
まず、室積村(農村)ですが、百姓の職業は以下のようになります。
農人・漁人・木挽・大工・左官・紺屋・船大工・船持・廻船持・鍛冶屋・商人、これらの人は当時の一般的な方法で租税が課せられます。当時の免税措置が講じられた人には、僧・俗女・社人・山伏・盲僧がいます。これらの人すべてが農村に住む「百姓」になります。
室積浦(漁村)の職業は以下の通りです。
漁師・問屋・魚問屋・商人・家大工・船大工・桶大工・車大工・紺屋・鍛冶・畳刺・左官・煮売屋・餅屋・茶屋・廻船持、これらの人は当時の一般的な方法で租税が課せられます。当時の免税措置が講じられた人には、僧・医・地神経読盲僧・座頭・瞽女がいます。これらの人すべてが漁村の「百姓」になります。
「百姓」に属さない村の住人としては、「在郷諸士」と「穢多」がいます。
「在郷諸士」は、萩城下の勤務を隠退したあと、自分の領地に戻って生活している、どちらかというと帰農している武士たちのことです。「在郷諸士」は、「非常時」には、武士として穢多と共に動員されました。
徳山藩の「士農工商雑」の「雑」は、「穢多」と「座頭」を指します。
歴史資料から判断すると、この「雑」には、「穢多」(非常民)と「座頭」(百姓/常民)が含まれることになります。つまり、「雑」は、「士農工商穢多非人」の「穢多・非人」のことを直接指しているわけではありません。「士農工商雑」を「士農工商穢多非人」の前身ととることはほとんど不可能なようです。
これは、長州藩の例外事項ではありません。
どの藩も、藩政上、いろいろ工夫を凝らして税務処理や事務処理をしていますので、その内容を詳細に検証すれば、同じような現象を確認することができます。
「士農工商穢多非人」を、「士」が上位にあって、「士」、「農」、「工」、「商」、「穢多」、「非人」と続き、「穢多・非人」は、当時の身分制度の最下層を形成していたと断じるには、相当無理があります。
明治以降の歴史学者、「賤民史観」に立つ歴史学者によって、強引に、その時代の要請から過去の時代を読み直して、「士・農・工・商・穢多・非人」という序列ができあがったのではないかと思います。しかも、この序列が、明治以降の歴史学者や教育者によって、人間の価値の序列として解釈されることにより、序列の最下層の「穢多・非人」は、「賤民」として実体概念として解釈されるようになったと考えられます。江戸時代の身分制度の実態にそぐわない歴史像が捏造されていきます。
明治政府が明治4年に出した二つの太政官布告、ひとつは、「穢多」に対するもので、「穢多非人等ノ称被廃候条、自今身分職業共平民同様タルベキ事」として布告され、「座頭」(検校・別当・勾当・座頭・在名等)に対しては、「盲人ノ官職自今被廃候事」として布告されました。両者共、「平民」同様の扱いをするとの名目で、明治政府の日本国家の近代化の諸政策のもとで切り捨てられていきました。
前者は、日本の警察の脱封建化、近代化のために「半解半縛」(筆者の造語/第4章で詳細に論じます)の形で切り捨てられ、後者は、日本の金融制度の近代化のために、不要となった過去の遺物、近代化のための障碍要因として切り捨てられていきました。
前者は、相当数の人々が、近代警察へと「再雇用」され、近代警察機構の中に組み込まれていきました。県によって、かなり、違いがあります。それは、江戸時代に、その地方にいた「穢多・非人」たちが、「士農工商」に対してどのような関係を構築していったかによって大きな違いがでてきます。後者に属する盲人たちは、「穢多・非人」と違って、「再雇用」の方策すら立てられず、明治政府によって「塵屑(ごみくず)」のように切り捨てられていきました。
「穢多・非人」に出された太政官布告も、「盲官」に出された太政官布告も、「解放令」という意味合いはつゆももち合わせていませんでした。
明治政府が出した太政官布告の中で、唯一、「解放令」という言葉が相応しい布告は、明治5年10月の太政官布告第295号だけでした。その条文の中に、「娼妓・芸妓等年季奉公人一切解放可致」とあり、解放という言葉が明確に使用されていました。
明治以降の歴史学者は、「穢多・非人」と「遊女」を同じ地平で表現できるようにするために、「賤民」という概念を導入しました。「賤民概念」が導入されることで、はじめて、「賤民」の概念は、両方の概念の外延と内包を共有することになったのです。近世、幕藩体制下では、「穢多」と「遊女」は別の世界に身を置いていて、「穢多」は「非常民」、「遊女」は「常民」の世界にいたのです。「非常民」と「常民」の関係は、「非常民」が江戸の風俗を取り締まる側で、「常民」の一角、遊女は風俗に従事するもので、「非常民」によって取り締まりの対象になる側でした。
「非常民」である「穢多・非人」と「常民」である「遊女」を「賤民」という同一概念下におくことによって、「遊女」に対する身分解放令という属性は、「穢多・非人」に対しても使用されるようになります。相いれない存在である「穢多」と「遊女」を一緒くたにして、明治4年の太政官布告を「賤民解放令」と呼ぶのは、牽強付会的な解釈以外の何ものでもないのです。
長州藩の記録では、「遊女」は「百姓」の部類に入ります。
歴史学の常識となっている「賤民史観」に立って、「士農工商穢多非人」が江戸時代の身分制度の実態を物語っていると仮定すると、「農」→「穢多」の序列になりますので、「穢多」は、「遊女」以下の存在になってしまいます。現代的に解釈すると、風俗を取り締まる警察官は、風俗を業とする人々より低い身分ということになります。そんなこと、あるはずがありません。
長州藩の穢多の給与は、平で年間約3両、長吏頭で10両から13両、室積の遊廓の女将は、遊女あがりの女将で、年収は540両・・・。穢多が収入が少ないにも関わらず、江戸時代三百年間を通じて、穢多であり続けようとしたのは、非常の民(近世警察官)としての使命と職務に対する誇り、浄土真宗の世俗化倫理に支えられた彼らの生き方が背後にあったためではないでしょうか。
徳山藩の藩士の中で、年間400両を超える収入がある藩士は、「家老職」以上になります。藩主と5人の家老をのぞいて、その他多くの徳山藩士、士雇、中間・足軽・穢多・非人は、すべて、室積の遊女の最高納税者に遠く及ばないことになります(もしかしたら、現代でも、風俗を取り締まる警察官より、売春等風俗で働く女性の方が収入が上なのかもしれません)。
私は、「賤民史観」は、明治以降の歴史学者や教育者が作り上げたひとつの「幻想」に過ぎないと思っています。歴史資料を少しく精査すれば、いたるところで、ほころびや破れが目につきます。次回は、そのほころびや破れに目を閉ざし、「賤民史観」に依拠し続ける歴史学者の実像に触れてみましょう。
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