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【社会】

<届かなかった叫び 千葉小4女児虐待死事件>(上)SOSそれでも救えず 「思いを聞いてあげれば…」

両親の再婚前、栗原心愛さんが母親なぎさ被告と暮らしていたアパート=沖縄県糸満市で

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 「本当は行きたくない。沖縄に残りたい」。沖縄県糸満市の無料塾で栗原心愛(みあ)さん(10)に算数を教えていた女性講師(69)は二〇一七年七月下旬、千葉県野田市に転居前の心愛さんの姿を忘れられずにいる。いつもの穏やかな笑顔はなく、どこか心細そうだった。

 その頃には父親の勇一郎被告(41)からどう喝を受けていたとみられる。「今思えば父親と暮らすことが不安だったのかもしれない。あのとき、心愛の思いを聞いてあげればよかった」

 心愛さんは〇八年に沖縄県で生まれた。三歳の時、勇一郎被告と母親なぎさ被告(32)が離婚。糸満市にある母方の実家やアパートでなぎさ被告と暮らし、祖父母らに見守られて育った。近所の女性(50)は「元気いっぱいでしっかりした子。家族皆にかわいがられていた」と振り返る。

 平穏な生活は、両親が一七年二月に再婚したことで一変した。四カ月後に妹(1つ)が誕生。同年七月六日、母方親族から糸満市に「心愛が父親にどう喝されている」と相談が入った。市は二度、家庭訪問しようとしたが勇一郎被告は応じず、同年八月末、心愛さんらを連れて野田市に転居した。

 「お父さんにぼう力を受けています。先生、どうにかできませんか」。転校先の小学校でのいじめに関するアンケートで心愛さんがそう回答したのは、転居の約二カ月後の十一月六日だった。担任は心愛さんから「頭や首を蹴られて今も痛い」と聞き取っていた。翌七日、学校から連絡を受けた千葉県柏児童相談所が心愛さんと面談の上で一時保護した。

 野田市の記録によると、柏児相で同年十一月二十二日、一時保護中の心愛さんは両親と対面した。

 両親を前にして座る心愛さんはその日、泣きっぱなしだった。勇一郎被告が満面の笑みを浮かべて「家で待ってるよ」と手を差し出したが、心愛さんは手を引っ込めた。勇一郎被告は「照れてるんだ」と平静を装ったものの、同席した児相職員には心愛さんがおびえているように見えた。

 一時保護の期間は原則二カ月。その間に家庭に戻すか児童養護施設などに移すかを判断する。心愛さんには「心的外傷後ストレス障害(PTSD)の疑いがある」と医師が指摘していたが、柏児相は同年末、父方の親族宅での滞在を条件に一時保護を解除した。勇一郎被告の意向で翌一八年一月に野田市内の別の小学校に転校。柏児相は同年二月末には自宅への帰宅を認めた。

 心愛さんがSOSを発したのは野田市に転居後の最初の小学校でのアンケートだけだった。野田市教育委員会は、強硬に開示を迫る勇一郎被告にコピーを渡し、悲痛な叫びは筒抜けになった。

 同年十二月中旬、転校先の小学校の個人面談に両親が参加。心愛さんと妹も同席した。担任らは「仲が良さそうな家族」と感じたというが、心愛さんが自宅で死亡したのはその一カ月後だった。

 両親の再婚前、祖父母らの愛情に包まれながら暮らしていた心愛さん。虐待された子どもを数多く診察してきた国立成育医療研究センターの奥山真紀子医師(65)は「沖縄で大事に育てられた経験から心愛さんは父親の暴力的支配をおかしいと感じ、転校後にSOSも出せた」と分析する。だが届かなかった。「児相や学校を信頼して守ってもらえると思えず、父母の元にいるしかなかったのでは」と心愛さんの切ない気持ちを推し量った。

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 千葉県野田市の小学四年栗原心愛さんが自宅で死亡した事件で、父親勇一郎被告が傷害致死罪と傷害罪で、母親なぎさ被告が傷害ほう助罪で起訴された。周囲の大人は、孤立していた心愛さんにどう寄り添うべきだったのか。二回に分けて考える。

 

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