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2019-03-07

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・「枯れ木も山のにぎわい」ということばを、
 ぼくは、年上の人が言った悪口のひとつとして聞いた。
 嫌いな人間がなにかの場に登場することについて、
 「枯れ木も山のにぎわいというから、それもよかろう」
 というような言い方をしていた。
 やや黒いユーモアという感じで聞こえて、
 くすっと笑ったような気がする。
 それを言った年上の人の、人の悪さもおもしろかった。

 だれかのことを、美しくもなく役にも立たぬ
 枯れ木であると表現するのは、あきらかに悪口である。
 もともと、このことばは、自身のことを謙遜して、
 乞われて参加したような場面でも、あえて言うものだ。
 「枯れ木も山のにぎわいと言いますから」と、
 まわりの人びとを緑あざやかな樹木や、
 花盛りの木々に喩えたりすることとセットになっている。

 「わたしは枯れ木です」という意味のことを、
 強く言いたいというわけではなく、
 「わたしも参加させていただきます」というか、
 「いい集まりでよかったですね」という気持ちを、
 表現することばなのだと思う。
 一見するとネガティブなことを言っているようだが、
 実は、「枯れ木」のことより、「山」が主役だ。
 わたしもいる、この場をほめているのだとも言える。

 ぼくは、年齢が高くなってから、この
 「枯れ木も山のにぎわい」ということばが好きである。
 「にぎわい」を感じさせるようなものなら、
 「枯れ木」であろうが「野猿」であろうが、
 みんないいもんだと感じることが多い。
 なにかが存在しているというだけで、すばらしい。
 それは、その山が生きて息をしているということだ。
 山が、街だとしても、島やら国やら、惑星だとしても、
 なにかがいる、なにかがあるとわかるのは、
 その場の「生」の可能性をあらわしていると思える。

 「たったひとり。ぼくしかいない部屋」にも、
 孤独とぼくとがいる。
 それだけで、その部屋は生きている場である。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「とるにたらないわたし」たち、いてもいいんだよねー。


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