ご本の紹介になっていない | Study Hard
2009-08-21 01:22:42

ご本の紹介になっていない

テーマ:ブログ
【目次】
 前書き
 院志望→体系的→宗教社会学
 関係→宗教学
 最後に

 前書きは宗教学のSのところへのリンク。
 院志望以下は、お薦めの本が思いつかなかった話。
 関係以下は、宗教関係者としての記述。決して宗教学関係者ではない。
 気になった単語を調べて貰えればよいという形で書いた。全体を通じた論旨はない。長いと思ったら最後の方の「宗教学・宗教者学・宗教学者学」の項目だけ読んで頂きたい。

【前書き】
 i君からご相談いただいた件について、携帯電話の操作が不慣れであることと、かなり長くなることが必定であったので、こちらに記述することにした。
 また、宗教学のSと談合の結果、私とSがそれぞれ自分のブログで本を紹介することにした。Sが書いたものは以下のリンクより。

 http://nirvanaheim.blog116.fc2.com/blog-entry-355.html

 宗教学のまともな見解はSが書いてくれるだろうから、私は歪で独学丸出しの見解を語ろうと思う。まず概論を、そして3種類の要請に対する見解を述べる。

【院志望・現代宗教・歴史・洋書・社会性】
 最初に相談された文面を見て、おそらく誰でもぱっと思いつくのが、エリアーデの世界宗教史だろう。ただ、全3巻ではあるのだが、1冊が分厚く、文庫版だと全8冊(うち6冊が本人の著)になっていた。
 院志望者レベルというのを深く考慮しないとすれば、宗教学入門やそれに類する題名の本は、大抵問題ない。仮に過剰に困難な内容であった場合は、京都学派だろうから、それは後々読めばよい。だいたい、専門分野は別にすれば、入門書レベルのことを一通り学んでおくだけで、院試でもそう不利な扱いは受けない...はず。
 エリアーデにせよ、初期宗教学の諸大家にせよ、神学者や教学研究者に比してさえ、偏っていないなどとは言えない。神学の方がむしろ、大前提を明らかにする分、誠実だとさえ言える。日本は宗教概念に最も色のついていない国だとは思うが、それでも洋書に信頼をおくなら、"study of religion"などと題名のついた、なるべく最近の本を読むことになるのだろうか。もちろん、内容はキリスト教が中心ないし規範になる。
 分厚い本が嫌でなければ、エリアーデの世界宗教史を薦める。1冊でというなら、同じエリアーデの「聖と俗」なども、宗教学の一分野の体系的アプローチではある。聖だの俗だので言えば、デュルケームやオットーなのかもしれないが、それはまた詳しくなってから読めばいいことだ。

・筑摩書房 世界宗教史8冊セット
 http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480085603/

・ミルチャ・エリアーデ「聖と俗—宗教的なるものの本質について」

【体系的・専門レベル・教科書】
 宗教の総合的体系を示すのは難しいが、宗教学の総合的indexを示すのでいいなら比較的容易になる。Sが見つけてきた以下の本など、ちょうどindex用に良さそうだった。

・棚次正和・山中弘 編著「宗教学入門」
 http://www.minervashobo.co.jp/find/details.php?isbn=04146-6

 体系的かと言われると甚だ疑問なので、お薦めするわけではない。また、各宗教の概説も疑問が多く、紛うことなき「初学者」向けに仕上がっている。この本に具体的な出典を示しながらケチをつけられるようになれば、それなりに勉強が進んだ証拠にはなるだろう。
 宗教を体系的に理解しようと努め、ある程度成功した人は複数いるが、どれかが特に受け入れられているわけでもない。宗教学はいまだ、ケーススタディの域を出たとは言えない。
 以下は一般市民への回答の例だが、参考にしては如何だろうか、とお茶を濁しておく。

 宗教情報リサーチセンターFAQ
 Q23.世界にどんな宗教があるのか、その概要が知りたいのですが?
 http://www.rirc.or.jp/faq1.html#q23

【宗教社会学】
 知らないですね、そんな分野。
 あ、弓山先生が関わってるから、これにしとこ。

・井上順孝編「現代日本の宗教社会学」

【関係・時代背景・形而上学】
 素人考えだと、比較宗教学、宗教史学、たぶん宗教哲学、をそれぞれ意味していると思える。最近の人は少し嫌な顔をするかもしれないが、比較宗教学なら、入口として中村元先生をお薦めする。

・中村元著「比較思想論」

 他にも比較思想の本は幾つか書いているので、自分に合ったものを選ぶとよい。中村先生は、諸宗教(特に東洋宗教)文献への入口としても適切で、広説佛教語大辞典は部屋のインテリアに最適。
 宗教史学の本ならば、時代背景は簡単に説明されるとは思うが、宗教に時代性というか「同時代性」があるのかについては怪しげなところなので、明確に言及はされないだろう。また、宗教哲学が宗教を哲学しているのかというと、甚だ疑問。なんにせよ、この要望を最初に見たとき、真っ先にグノーシス主義研究書を思いついたのだが、明らかにただの専門書なので除外した。
 私個人の見解として、この項に相応しい著作が存在するとすれば、いわゆる宗教学ではなく神学ではなかろうかと思う。シュライエルマッヘル(つい文学青年様式で書きたくなる)を宗教学と無関係にしたとしても、彼が当時の諸宗教や時代、哲学と無関係だったわけではない。
 また、神学はどこか根本的にメタ的な要素を持っているように私は感じる。とは言え、バルトだボンヘッファーだと神学そのものを薦めるわけではない。書名は敢えて挙げないが、カソリックのキリスト教「哲学」の本を読めば、他宗への悪口、時代背景、膨大な人名群、あらゆる思考体系、が詰まっている。

・教文館のキリスト教書部にあるキリスト教哲学の適当な本

【宗教学・宗教者学・宗教学者学】
 宗教学を構築することが宗教することと乖離しているという発想には馴染めない。数学者は数学を創るが、数は創らない、などと言い出したら、幾つかの相容れない意味のどれかで気が狂ったと思われるだろう。
 それはそうと、宗教学者とも宗教者とも言いがたい人物の著作を1つ紹介する。

・井筒俊彦「イスラーム思想史」

 井筒俊彦が何学者なのかは知らないが、宗教一般の研究者でもないし、なにより著作一覧に本人の偏りがよく表れている。
 それでも、初学者に何を薦めるかと漠然と聞かれたなら、これを薦めたい。日本では少し縁遠いイスラームの、井筒俊彦という少し古めだが世界的にも定評のある、膨大な文献に裏付けられつつも本人の宗教がそっと秘められた、この本をどう感じるかで、宗教と今後どの方向と距離で付き合っていけるかが大雑把に測れる。
 日本人にはどこか縁遠く、やや古さを感じさせるが世界的には定評があり、膨大な文献を持ちながらも個性が表れる。これが宗教の外観でなくて何なのだろうか。

・西田幾多郎「絶対矛盾的自己同一」
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/1755.html

 初学者が絶対に知ってはいけない宗教学、宗教哲学といえば京都学派だ。その首魁の1人が西田で、さらにその西田の名を燦然と輝かせているのが、この「絶対矛盾的自己同一」に他ならない。
 別に上記リンク先の文章をマジメに読めとは言わないが、この文章が「宗教そのもの」だと思うかどうかは考えてほしい。この文章と宗教の関係をどう考えるかで、その人の宗教に対するセンスというか癖のようなものが、局所的ではあるが浮き彫りになるはずだ。
 京都学派のもう1人の首魁である鈴木大拙に対して、西田がこの単語を発したとき、鈴木は西田に、この単語は的で区切るのか一息に読むのかと聞いたそうだ。そこで西田が、切らずに一息に読むと答えたところ、鈴木は膝を打って納得したと言い伝えられている。この話が本当かは知らないが、京都学派の説明に最適であると確信する。

・中村元「論理の構造」

 最晩年の中村先生は、文献学者ではない。己一代の宗教を求めて得られなかった悲しき凡夫の姿がそこにはある。他にも「自己の探求」など、最晩年の著作は幾つかあり、通して読むと中村先生の悲劇がよく写し出されている。
 だが憶えていてほしい。この本から与えられる苦痛は、求めて得られなかった苦痛そのものだ。大文献学者がその最期を宗教一般の祭壇に生きながら投げ出したのだということを、どうか憶えていてほしい。

・V.E.フランクル「意味への意志」

 現代における宗教への要請を考えるならば、この本はよくまとまっている。新宗教、スピリチュアリティ、霊性などを従来宗教に対置して持ち出すのに飽きたら、こういう本を読んでみてはどうだろうか。
 同著者の有名な「夜と霧」に、私は一箇所宗教を発見したのだが、独自説なので披露するのはやめておく。宗教は、収容所の中でも、何らの遜色も影響もなく存在する。

・神谷美恵子「生きがいについて」

 やや押し付けがましい文体が、辻説法を受けているようで心地よい。
 らい病患者、さらには「もがく肉塊」、が生きがい感を得るかという話は、中村元先生のもがくような最晩年と逆命題のようで面白い。宗教法人には、3年と生きられず意識も感じられない子どもを抱えた母親が来るが、そのときに母親ではなく子どもを見ながら宗教を考えてしまう人(父しか知らないが)にはお薦めする。
 ここでは「健常者がかんがえた幸福」やパッと思いつくような現世利益はすべて死に絶えている。ここにおける現世利益とは何かを答えられない宗教には、力がない。

【最後に】
 宗教がzeroであることは宗教者の望みだろう。
 宗教がemptyであることは多くの直観を満足するだろう。
 しかし、nullの場において宗教とは何であろうか。非可算濃度の零集合の宗教がわからなければ、宗教が現代的形式を獲得することは覚束ないだろう。特異点は正則性あってこそなのだから。

(角が立たないようにジャーゴンで記述しました)

コメント

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11  ^^

>御坊さん
お気分を害されたようで申し訳ありません。
しかし、中村先生が哲学について何と申されていたかを思い出して頂ければ、ある程度はご納得いただけるのではないでしょうか。
また、あとがきまで隅々お読みになれば、最晩年に中村先生の置かれていた境遇について、そこはかとなく、うかがいしれるものと思います。
これ以上は、中村先生のご本人の著作を引きながらしかお話できませんので、まずは失礼させていただきます。

10  無題

>>「ご本人しか伺い知れぬところでしょう。」

その通りです。
だからこそ、「悲しき凡夫」だの「中村先生の悲劇」だのというわかった風な表現はして欲しくなかったという思いがありました。
先生はいつも穏やかで優しく、執着から解き放たれ安寧の中に身を置いていた、というような人であったと私は思います。

いちゃもんをつけた形のようになって申し訳ありません。あなたも中村先生を尊敬している方とお見受けしたので、遠慮なく言わせてもらった次第です。失礼しました。

9  ^^

然様でしたか。
中村先生がどのような境涯に至っていたかは、ご本人しか伺い知れぬところでしょう。

8  文献学を低く見ているわけではありません。

が、「文献学者」と「文献学の素養のある哲学者」とは別物であると思います。下記の文章に多少の違和感を感じたので投稿させていただきました。

「最晩年の中村先生は、文献学者ではない。己一代の宗教を求めて得られなかった悲しき凡夫の姿がそこにはある。」

先生の晩年は余人のうかがいしれぬ境涯に至っていたと思うのです。

7  ^^

>御坊哲さん
学者の分類は排他的ではありませんが、文献学者かつ哲学者だとするのには何か問題があるのですか。

>lae
Bien.

6  無題

¡Es muy interesante!

5  中村先生は初めから文献学者ではありません

あまりに知識が広大で、かつ手法が着実なので、研究の一部を捉えるとそのような印象を受けるのかもしれません。

私は先生がまぎれもなく日本最高の哲学者であると信じています。

先生のお仕事はアカデミズムに徹しておりましたが、そのひたむきさと誠実さが仏道修業の実践に通じていたのだと思います。徹頭徹尾学者でありながら、禅の高僧の悟りの境地に達していたと私は確信しております。

4  ^^

初学者にグノーシス。十分すぎるぐらいの矛盾語法だ。

3  >>明らかにただの専門書なので除外した

俺も思わずヨナスの『グノーシスの宗教』とかを挙げかけたよ。グノーシス研究書とか、下手に一般向けを意識された普通サイズの単行本とかになると、キリスト教グノーシスだとかに幅が狭くなるから難しい。

2  ^^

書き上げるまでもうしばらくお待ちください

1  warさん、Sさんありがとうございます

友人も大変助かると言っておりました。ありがとうございます。