釜合労-稲垣浩による 「名誉棄損裁判」の判決 ついて ★裁判所で「釜日労の主張を木っ端みじんに打ち砕きま」したか? ★市会議員候補、労働組合委員長と言う公人(公の立場の人)として「40年間働きもせずに、どうやって飯を食ってきたのか」なかまたちの疑問に答えましたか? ★「NPO釜ヶ崎が大阪市から公金をだましとった」「釜日労を使って労働者に威圧をかけ、権利を封じこめにかかる」「大阪市の差別行政の片棒を担ぎ、野宿生活者をダシにして食い物にしている」「わずかな利権に群がるクソ蝿」「番犬」などと動物扱いをし、「エセ神父」とののしり、「解放同盟は釜ヶ崎労働者を差別しています」と差別対立をあおってきたことは正当だという『お墨付き』をもらえましたか? ★「野宿者に炊き出しを」と寄せられたカンパ=大金を使ったこの裁判で、釜ヶ崎の労働者の闘い=反失業-仕事よこせの闘いは一歩でも、半歩でも前進したのですか? 9月5日、釜日労を被告とする[損害賠償等請求事件]、いわゆる「名誉棄損裁判」の判決があったようだ。この判決を受けて、釜合労-稲垣浩は、直ちにインターネットで、そして、9月10日からはビラなどで、「全面勝利と言っていい判決でした」「釜日労はこの判決を忠実に履行しなければなりません」と主張しています。 私たちはこの判決に対して、彼らのように「裁判所は公正だ」と言うつもりもないし、自分たちの言い分が通らなければ、とたんに「差別判決だ」「不当判決だ」などといちゃもん付けをするようなことはしません。 今の民事裁判の仕組みを考慮して、裁判をすること自体に意味がないと考え、裁判に応じず、争わず、一切反論しなかったのです。だから裁判所が彼らの言い分を全面的に採用するのは当然の判断であり、われわれにとっても「予想通りの判決」です。 釜合労‐稲垣氏こそ「裁判所ではウソは通用しません」「裁判の中で釜日労のウソを木っ端みじんに打ち砕きます」と力説していたにもかかわらずその意見陳述の中で、「デマ宣伝等に乗せられないため意見交換をしないか」と前委員長に持ちかけたが断られたなどとウソの上塗りをしただけで、私たちがビラに書いたことがいかに「ウソ」であるかについて一言も触れることはありませんでした。 今回、私たちが訴えられた当初から、多くの仲間たちから「言ってることは全部ほんとやないか。なぜ訴えられなあかんのや」「あいつらから先に始めたんやから、あいつらも名誉棄損で訴えて裁判で決着つけたりゃあええやんか」という意見がたくさん寄せられました。 こうした意見に対して組合は、「釜ヶ崎労働者の運動の前進とは何の関係もない裁判にムダな金など使っても意味は無い」「この裁判やったら反失業-仕事よこせの闘いが前進するならやるけどな」と答えてきました。 そして何よりも「釜日労はいつでも釜ヶ崎労働者の目の前で公然と論争して、なかまの判断にゆだねる。裁判所に『判定』してもらうつもりはない」と答えてきました。 事実こんなことは公費を使ってわざわざ裁判所の手をわずらわすような問題ではないからです。もし、それほど重要なこと-犯罪であるなら「刑事告訴」をすればいい話です。それなら私たちを裁判所に引きずり出すこともできたでしょう。 また、私たちが仲間たちに訴えかけてきた事実の中にはいくつか「刑事事件」になるようなことが含まれており、それを裁判の場で明らかにするということは「権力に売りわたす」と言うことになる恐れがあるからです。 もちろん今回の裁判に対して、通常の名誉棄損裁判に見られるように、訴訟に訴訟で反撃するという方法もあります。 先にウソ、デマ、デッチ上げを繰り返してきた彼らを逆に訴えれば悪くてもどっちもどっちという結果を導き出せたかもしれません。しかし、「どっちもどっち」などという結果はとうてい承服できませんし、なにより労働運動をする者、反権力の運動をする者の矜持(プライド)として『意見が対立しても、運動をしている者を絶対に権力には売らない』と言う掟(おきて)があります。 これはいろいろな闘いをしている仲間たちと団結を求めていくのに守らなければならない絶対的なルールで、それを守れないものは彼らのように孤立し、自分たちのためだけの運動になってしまうのです。 釜の仲間の前で論争をすること =「人民裁判」はリンチという主張について 以上の観点から、我々はこの間一貫して「裁判所に『公正な判断』をしてもらうというのは運動上誤りである」「釜の労働者の前で議論を…」と求めてきました。 これに対して彼らは、「飛行機は持ってません」「ベンツは乗ったことはあるが持ったことはない」「兵庫に別荘は持っていません」と我々が聞いてもいない(書いてもいない)ことに反論し、「釜日労の組合員が労働者に暴力をふるい罰金刑になった」だの事実無根の宣伝を繰り返していただけであった。 そして、ただ、ただ、釜日労の言うことは「ウソ、デッチ上げだ。」「裁判で…」とくり返していました。 そしてついには「釜ヶ崎の労働者の前で論争するのは『場外乱闘』であり『人民裁判』であり、リンチです」とまで言い放ちました。 これは釜ヶ崎の闘い、否それだけではなく全ての被支配層の闘いを否定するものではないでしょうか。 「人民裁判でなく、正規の手続きと裁判で」「そしてその『決定』には従いましょう」というのは、権力を持っている支配階級の理屈であり、闘いの内部(?)でこういう主張をしているのは日本共産党ぐらいです。 釜共闘(暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議)は、寄せ場の暴力支配に対して「やられたらやり返せ」のスローガンの下、大衆的な実力闘争を闘い抜きました。 賃金不払いや労災もみ消し、労働者への暴力に対して身体をはって闘い抜いてきました。 幾多の弾圧の中、裁判では「たしかに暴力や賃金不払いの相手は悪いが、その決着は警察や裁判所にやってもらいなさい。人民裁判的なやりかたはダメですよ」と、監禁・恐喝・傷害・はては「爆取」までデッチあげられてきたではありませんか。 しかし、釜ヶ崎の地では、以降も争議や手配師の追及を弾圧に屈せず闘い抜いてきたからこそ労働者の権利を主張できるようになったのです。 80年代の賃金闘争においては、ケタオチ単価を開き直る手配師に対して、まさに人民裁判-つるし上げによって、賃金を上げさせてきたではないですか。 たしかに戦術上も含めて、反省するところはたくさんあるでしょうが、こうした闘いは決して誤りではありませんでした。 釜合労-稲垣氏は「裁判所は公正な判断をしてくれます」「悪いことをすれば裁判所が罰してくれます」「労働者の前での議論など『場外乱闘』です」「裁判所の判断に従うべきです」とビラで言っていますが、これは、これまでの釜ヶ崎労働者の闘いをすべて否定しています。 そして、選挙権をめぐる闘いの中で弾圧され、罰金刑や執行猶予付き判決を受けた人たちも悪いことをしたから裁判所に罰せられたので裁判所の判断(判決)に従うのが当然と言うことになります。稲垣氏自身刑務所に入ったのは稲垣氏が「悪いことをしたから裁判所に罰せられた」ということなのです。 花園公園横でテント生活をしているFさんの件も大阪市への抗議行動(場外乱闘)ではなく、裁判所に正式な告発すればいい、ということになります。 本人がそう思っているのなら、そう主張することも良しとしますが、言ってることとやってることがあまりにちぐはぐです。 暴力などにより自由な論争ができない、ということもない以上、「裁判闘争路線」はかつての日本共産党の「告訴・告発路線」と同じ誤りだといえます。 何故に「告訴・告発路線」に転落したのか? 彼らは「意見陳述書」のなかで次のように述べています。 「労働者が私を皮肉な目でみて『稲垣さん金持ちなんやてなァ』等と言われたことが何度もあります」と。たしかに、彼らがNPO釜ヶ崎つぶしのウソで塗り固められたデマキャンペーンを繰り返すのに対して、わたしたちは、それまでの「勝手にやらせておけ」という態度を改め、彼らに対する批判を開始したのは事実です。下世話な言い方をすれば「売られたケンカを買った」のです。 組合内部では「彼らの批判の仕方は明らかで 人権侵害で訴えるべきだ」という意見もありましたが、運動の原則にのっとり、釜ヶ崎の労働者の前で事実を明らかにし、判断を仲間にゆだねるという姿勢を堅持してきたのです。 労働者が「皮肉な目で見る」のは私たちのデマ(彼らに言わせれば)キャンペーンが原因ではありません。 釜ヶ崎の労働者は愚かではありません。一時はデマにまどわされることはあっても、ていねいに説明すれば「裁判所のお墨付き」などなくとも事実を判断できます。 彼らが行った日雇健保の「適用除外申請」運動もNPO釜ヶ崎の説明によって裁判の「判決」を待たずしてとっくに破産しているではありませんか。 彼らが「対職安闘争」を始めるまで、20年以上に渡って、夏・冬の一時金カンパの時と選挙の時以外、センターに顔も出さなかったことを、労働者はよく知っています。カンパの額を労働者に絶対公表しないことも知っています。だから労働者の支持と共感を得られず「皮肉な目で見られる」のです。 稲垣氏は判決の日に舞い上がってしまい、判決後、公園で「やっと山田実に一矢報いることができました」と、つい本音を漏らしてしまいました。 釜ヶ崎に来てまだ間もない仲間は知らないかもしれませんが、山田実とは 前釜日労委員長であり、現在はNPO理事長です。 稲垣浩氏は、全港湾西成分会に対する『100円起訴』を契機として釜日労の委員長を解任され、(他にも解放会館や組織運営上の様々な問題もあったのですが)それ以降何をやっても運動上大きく水をあけられ、出番がなくなってきたことに、まさに「一矢報いたかった」のです。 釜日労の委員長だった頃、そして解任されてしばらくの間は、他の運動団体やマスコミ、そして行政も「釜ヶ崎といえば、その歴史的経緯から全港湾西成分会と稲垣浩」でした。 しかし、何が理由なのか解りませんが20年以上、夏・冬の一時金カンパと選挙の時しかセンターに出てこなくなり、悪徳業者に対する労働争議もしなくなり、闘いらしい闘いをしてこない間に、釜ヶ崎の労働者の支持・共感を全く失い、マスコミや行政にも相手にされなくなったのです。 80年代、毎年春3月に「釜ヶ崎春闘」としてセンターの最低賃金を500円ずつあげさせる闘いをセンターに集まる労働者全員で行い、最賃の底上げを続けてきましたが、彼らはそんな労働者の闘いに見向きもしませんでした。 全国の寄せ場の労働組合が寄せ場日雇いの力を結集して、対悪徳業者、資本との闘いに団結して立ち向かおうと日雇全協をつくった時も、山谷に右翼の旗を掲げ寄せ場支配をもくろんで国粋会金町一家が登場し、全国の寄せ場から労働者が駆け付けた時も知らん顔でした。 とりわけ90年代、バブル経済の崩壊以降、困窮する労働者を前に何も運動を提起することもしないで炊き出しとそのカンパ集めだけに終始していました。 一方、釜ヶ崎反失業連絡会(反失連)の下で釜ヶ崎労働者は、あいりんセンター夜間解放闘争、大阪府庁舎・市庁舎前野営闘争と実力闘争(場外乱闘)で反失業闘争を大きく前進させ、「特掃」「シェルター」を闘い取りました。 またリーマンショック以降 全国的に反貧困闘争が盛り上がり、それによって釜ヶ崎も世間の注目を集め、釜ヶ崎を取り上げた本も多数出版されましたが、その中には稲垣浩のいの字も出てきません。大金を使って何度も市議選に出ましたが、全く票が入らない。日本共産党が「反共宣伝によって敗北した」と他人のせいにしたのと同じように「釜日労のデマによって選挙に当選できない」とでも思っているのでしょうか。 なんとか「一矢報いたい」と「告訴・告発路線」に走ったのでしょうが、自らの運動をキチンととらえ返し、誤りを正さなければ、いつまでたっても労働者から「皮肉な目で見られる」だけでしょう。 また、「告訴・告発路線」の下地は、全港湾西成分会に対する『100円訴訟』から続いているものです。 - ②に続く - |
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