深夜特急を読んで旅に出た。なぜ旅に出るのかと聞かれると、こう答えていた。相手にとって分かりやすそうな答え方だと思ったからだ。もちろん深夜特急の影響だけで僕は旅をしていたのではないが、その影響は大きいような気がする。なので、論じてみる。好きだし。深夜特急を論じる以外に、私自身の旅を記すこともしてみたい。これは、私が旅の間に「旅の手帖」と勝手に名付けて書きつけていた小さなノートを基にして書かれるものであり、その旅の手帖の中で私は自分のことを「僕」という人称で記しているので、それに従って私自身の旅は「僕の旅」として「僕」人称で書くこととする。
本文中の鍵括弧の引用部分で、特に引用元の記述が無い場合は沢木耕太郎著新潮社発行の深夜特急からの引用であることを述べておく。また、章立ては「第1便が初々しい青年期の旅を描いたものだったら、第2便は成熟した壮年期の旅だったかもしれない。そして、トルコ以降を書くことになる第3便は、必然的に終末に向かう老年期の旅になっていた。」(Coyote No.8 特集深夜特急ノート スイッチパブリッシング 以後コヨーテ)という沢木本人の分類に基づいてなされている。
はじめに なぜ旅に出たのか
なぜ深夜特急なのか、なぜ沢木耕太郎なのか、初めにこれを書いておこうと思う。私が深夜特急と出会ったのは、小学生のときに、確か日曜の朝だったと記憶しているが、たまたま見ていたテレビ番組であった。ブラウン管の中では、黒いコートを着てサングラスをかけた日本人の若者が、古ぼけて今にも故障しそうなバスに乗りながら旅をしていた。バスはけたたましいクラクションとともに砂漠の町を駆け抜けていった。小学生の私はそのテレビ番組に朝御飯も忘れて夢中になった。特に印象的だったのが、今でも良く覚えている、インドの街中で主人公の若者がインドの少年と交流しているシーンだ。小学生の私はそれらをすべて実話だと思っていた。実はそれが大沢たかお主演のドラマ版深夜特急だったと知ったのは高校2年の時だ。私はその時、初めて沢木耕太郎の深夜特急を読んだのだが、(とても興奮して読んだのを覚えている)インドのシーンに差し掛かった時、何かデジャブのような心の奥底に引っかかるものを感じたのだ。そこでインターネットで深夜特急について調べてみると見事深夜特急ドラマ版の存在に行き当たり、あの自分が小学生だった日曜の朝を思い出すに至ったわけである。その時からだろう、私は深夜特急に憑かれてしまい、旅をしたいという想いが日増しに強くなっていった。他の紀行文も数え切れないほど読んだが、なぜか深夜特急は格別だった。とりわけインドのシーンに惹かれた。
そして、大学にいったらバックパッカーになる。高校生の私はそれだけ考えて大学と学部を選び、進路が決定した翌日にバックパックを買い、すぐにパスポートも作った。大学1年生のGWはとりあえずそのバックパックに寝袋を突っ込んで、夜行バスに乗って四国と山陽に行ってみた。夏休みはひょんなことから入部した自転車旅行サークルで北海道自転車一周旅行をすることになり、海外には行けなかった。そして、春休み、とうとう私はインドへ飛んだのである。
第1章 青年期の旅 香港
この章では後の旅にも大きく影響していくことになる香港を中心にして深夜特急の旅がどうして始まったのか、また沢木が設定したいくつかのルールとその理由を分析していく。
○旅を作る
「デリーからロンドンまでバスで行くことができるか」これが沢木の深夜特急の旅の大きなテーマの1つである。しかし、沢木が日本で手にした航空券は香港とバンコクでストップオーバーをしてからニューデリーへ向かうものだった。よって、沢木の旅は香港から始まる。香港がスタート地点になったのは、単に日本でチケットを購入する際にたまたま香港を選んだからなのであるが、沢木は後にコヨーテという雑誌でそのたまたまこそが「最初にして最大の」幸運だったと述べている。香港から東南アジアを抜けてインドへというのは、登山でいう高度順化と同じ効果をもたらしてくれたというのだ。そのお陰で、インドで高山病にならなくて済んだのだと。また、高度順化以外にも香港で旅のスタイルがほぼ決まったことも幸運の1つだと述べている。
そのスタイルとは、バックエリアを旅するということである。バックエリアとはツーリズム研究において土産物屋やホテルなどツーリスト向けの空間であるフロントエリアと対になって用いられる用語であり、舞台裏、例えば現地の人の仕事現場や生活などをさす。滝波彰弘によれば、旅人は舞台裏を旅することで「本物」に接したという充実感を得たいと望んでいるという。
沢木は香港の空港に着いてすぐの偶然の出会いによって一般的なツーリストのいない安宿を見つけ、庶民の生活に溶け込んでいく。そしてそのことに快感を覚えるのである。「宿の窓からは、絵葉書的な百万ドルの夜景も国際都市の活気あふれる街並みも見えなかったが、香港の人々の日常を、だから素顔の香港そのものを眺めることができそうだった」とあるように、「危険を覚悟しなければならない」安宿に泊まるリスクよりも、そうして庶民の生活に溶け込んでいくことで得られる快感を重視しているのである。これはバックパッカーなどの貧乏旅行者がパックツアーでは行かない様な場所にわざわざ行ったりして現地の人と交流することを、団体旅行の決められた観光コース巡りより優れていると考えるのと同じ傾向が伺える。つまりバックエリアをフロントエリアよりも重視しているのである。それはバックエリアを旅することで「素顔の」その国を見ているという充実感を得ることができるからである。その充実感とはつまるところ、自分だけの旅をしているという感覚ではないだろうか。
自分だけの旅をする、これは言い換えると「旅を作る」ということになるだろう。では、自分だけの旅をする、旅を作るとはどういうことなのだろうか。沢木の「旅する力」という本の冒頭の「旅を作る」という文章から考えてみよう。(『旅する力 深夜特急ノート』沢木耕太郎著 2008年 新潮社)
まずはツアー旅行を例にあげてみる。ツアー旅行はそもそも沢木の想定する旅を作ることに含まれるのだろうか。沢木はある場所に「行ってみたい、という夢を抱くことがすでに旅を作ることの始まり」だとも述べている。パックツアーに参加することも、動機を突き詰めて考えれば旅を作ることになるのだし、ツアーの中の自由行動などでも旅を作ることが可能だというのだ。
では、ガイドとツアー旅行者の「旅を作る」ことの違いとはいったい何なのであろうか。ガイドやツアーコンダクターにとってのパックツアーとは、旅行者の夢を叶えるために「作る」ものである。一方の旅行者は自分自身の「行ってみたい」という夢に突き動かされて旅を作るのである。つまり旅行者の「旅を作る」ことと、ガイドの「旅を作る」ことの違いは、誰のための旅かという点にあるのである。
沢木はこの「旅を作る」という文章の中でアン・タイラーの2編の長編小説、『夢見た旅』と『アクシデンタル・ツーリスト』(余儀ない旅)を比較している。沢木によれば『夢見た旅』の旅人は旅そのものが目的の旅人であり、『アクシデンタル・ツーリスト』の旅人は旅を移動上の付属物としか捉えていない旅人である。そして、この2種類の旅人を比較することは、「旅の持っている2つの性格を鮮やかに表象する言葉」であるという。この2種類の旅人というのは、旅が目的の旅行者と旅が仕事のガイドと置き換えることが可能である。この文の後には、「人は余儀ない旅を続けながら、時に夢見た旅をする。もちろん、余儀ない旅にも「作る」という要素がないわけではない。中略 しかし、旅を「作る」ということが重要な意味を持ってくるとすれば、それはやはり夢見た旅においてということになる」という文が続く。つまり、ガイドよりも旅行者のほうが「旅を作る」ことに重点を置いているということである。この重点の差が生まれるのは、旅行者のためにツアーを作るガイドと自分のためにツアーを選ぶ旅行者という先程の対比の結果である。自分のために旅を作るほうが旅を作るということが重要な意味を持つ。このことから、沢木の旅に対する考えの前提には「自分のための旅」があることがわかる。つまり沢木にとっては自分のために旅をすることが、より自分だけの旅をする、旅を作るということなのである。バックエリアを旅することも、自分のためだから楽しいのである。
手短に言うと①「深夜特急での沢木は、自分だけの旅をしたいと思うあまりバックエリアを1人で旅した」。この文の結論は後の旅とはという章で書こうと思う。
○循環する旅
では先程の夢見た旅と余儀ない旅という、沢木のいう所の「旅の持っている2つの性格を鮮やかに表象する言葉」の旅の2つの性格とはいったい何なのであろうか。余儀ない旅とは人生と言い換えてしまうと少し大げさすぎるかもしれないが、実生活くらいになら言い換えられそうな現実的な感じがする。一方その余儀ない旅と対比させられている夢見た旅とは、夢と現実というようにそのまま非現実的な意味にとることができる。旅という言葉は、ともすると非現実的な意味付けばかりがなされてしまう場合もあるが、沢木の場合の旅とは現実と非現実の両面を持ったものなのである。そして、その現実と非現実という2つの側面のどちらを重視するのかは、「旅を作る」ということが重要な意味を持つかどうかによって決定されるのである。
これを例えば民俗学の「ハレ」と「ケ」に当てはめてみるとどうなるであろうか。ウィキペデアによると、ハレ(晴れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)はふだんの生活である「日常」を表している。つまり「夢見た旅」がハレ、「余儀ない旅」がケということになる。しかし、民俗学にはもう1つ「ケガレ」という概念がある。日常生活を営むためのケのエネルギーが枯渇するのが「ケガレ(褻・枯れ)」であり、桜井徳太郎という民俗学者の循環理論によれば、「ケガレ」は「ハレ」の祭事を通じて回復するという。この循環モデルを沢木の旅に応用すれば、余儀ない旅によって枯渇したものが夢見た旅によって回復するという循環を描くことができる。では、ケガレの状態とは沢木の旅に置き換えるといったいどのような状態なのだろうか。
前出の「旅を作る」という文章に結びにおいて沢木は、『夢見た旅』の主人公がフランスに行ってみたいというシンプルな夢を実現するための旅人であったことと深夜特急の時の沢木自身とを重ねて、当時の自分はユーラシアをバスで横断したいというシンプルな夢を実現するための旅人であったと述べている。そして、「その夢を具現化し、実現していく過程で、つまり「夢見た旅」を自分のものとしていく過程で、私は「私の旅」を作っていくことになったのだ」と。これはつまり、深夜特急という夢見た旅をすることによって、現実生活である余儀ない旅で失われたものが回復されたということである。いったい旅立つ前の沢木には何が失われていて、深夜特急の旅をすることによって何が回復されたのであろうか。それは沢木が何故旅に出たのかということを考えると良くわかるだろう。
○旅立ちの訳
「なぜユーラシアなのか。それもなぜバスなのか。確かなことは自分でもわかっていなかった。日本を出ようと思った時、なぜかふとユーラシアを旅してみたいと思ってしまったのだ。中略 この地球の大きさを知覚するための手がかりのようなものを得たいと思った中略 私が訪れた最初の異国である韓国のソウルに降り立った時、いったいここからどれほど歩けばパリに辿り着けるのだろう、という感慨を抱いた」
沢木は深夜特急の第1章でこのように、旅に出たのは「真剣に酔狂なことをしたかった」からだと書いている。これは、あの遺跡が見たいなどの夢とは少し違うようだが、夢と呼べなくもないものである。つまり、深夜特急は夢見た旅であると定義するに足る文章である。しかし、第6章においては別な見方のできる旅立ちの理由が明かされている。
横浜国立大学を出て内定企業を入社当日に退社した沢木は、学生時代の教授の紹介で「偶然」ルポライターになった。沢木は初めの3年程は気ままなフリーランス生活を満喫していた。ルポライターという仕事に対しては、「どんな世界にでも自由に入っていくことができ、自由に出てくることができる。出てくることが保証されれば、どんなに苦痛に満ちた世界でもあらゆることが面白く感じられるものなのだ。私自身は何者でもないが、何者にでもなれる。それは素晴らしく楽しいことだった。」(深夜特急第1便)と述べている。偶然なったルポライターという職業であったためか、あまりプロ意識を持つことなく楽しみの一種として行っていることがわかる。しかし、月刊エコノミスト誌で「若き実力者たち」という連載を持ち、やがてそれは同名の本として出版されるに至って「状況が急激に変化した」という。
「仕事の量がいつの間にか私を職業的な書き手になるように強いはじめていた。プロになるのは御免だった。ものを書くという仕事が自分の天職だとはどうしても思えなかった。私には、どこかで、自分にはこれとは違うべつの仕事があり、別の世界があるはずだと考えているようなところがあった。」そして、「春のある日、仕事の依頼をすべて断わり、途中の仕事もすべて放棄し、まだ手をつけていなかった初めての本の印税をそっくりドルに替え、旅に出た」のである。第1版の印税が40万円だったという。貧乏生活をしていた沢木だったが、実際にはその気ままな貧乏生活を面白がっているところがあり、沢木は印税をそっくりそのまま貯金していた。それは、「金が入ってから旅が具体的なものになった」(コヨーテ)と後年述べていることから、旅費として、または少なくとも生活費や嗜好品購入に使うのではなく、何かを「する」ために貯金したと考えられる。漠然ではあったかもしれないが何かをしたかったから貯金をしたのであり、つまり第1作目の出版時点ですでに旅立ちたい、または仕事以外の何かをしたいという願望があったのである。
「私には未来を失うという「刑」の執行を猶予してもらうことの方がはるかに重要だった。執行猶予。恐らく、私がこの旅で望んだものは、それだった。確かに、酔狂なことをしたかった。デリーからロンドンまで、乗り合いバスを乗り継いで行くという、およそ何の意味もなく、誰にでも可能で、それでいて誰もしそうにないことをやりたかった。しかし、それは自分や他人を納得させるための仮の理由に過ぎなかったのかもしれない。多分、私は回避したかったのだ。決定的な局面に立たされ、選択することで、何かが固定してしまうことを恐れたのだ。逃げた、といってもいい。ライターとしてのプロの道を選ぶことも、まったく異なる道を見つけることもせず、宙ぶらりんのままにしておきたかったのだ」(深夜特急第1便)
第1章で旅立ちの理由とされていた「真剣に酔狂なことをしたかった」という動機は、「自分や他人を納得させるための仮の理由に過ぎなかったのかもしれない」と述べられている。つまり、深夜特急の旅とは真剣に酔狂なことをしたいと夢見た旅ではなく、「刑」の執行から逃れるための旅なのである。逃げる旅、これは夢見た旅なのだろうか。もしそうだとするならば、逃げる旅で見る「夢」とはいったい何なのだろう。
「夕日が眼にしみる」という沢木の文章集の中に「旅のドン・ファン」と題された文章がある。人との宿命的な出会いと同じような、土地との宿命的な出会いについて述べられた文章である。ここで沢木は、夢見た旅の「夢」とは「たぶん宿命的な土地に遭遇したいという思いに支えられたものではないか」と述べている。ドン・ファンが「たったひとりの女」を探すように、旅人沢木耕太郎もまた「たったひとつの土地」との宿命的な出会いを求めているのではないかと。この「たったひとつの土地」というのは、深夜特急第6章の旅立ちの理由の中に出てきた「私には、どこかで、自分にはこれとは違うべつの仕事があり、別の世界があるはずだと考えているようなところがあった。」という文章と対応しているものである。つまり「たったひとつの土地」を探す旅とは、今とは違う場所と今とは違う自分を探す旅だということであり、「夢」とは今とは違う場所と今とは違う自分と遭遇したいという思いに支えられているのである。
現実生活での未来を決定する「刑」の執行を旅に逃げることで先送りにし、今とは違う場所と今とは違う自分と遭遇したいという夢を見る旅。そして、今とは違う場所と今とは違う自分と遭遇するためには「自分だけの旅」をする必要があった。これが、沢木耕太郎の深夜特急の旅である。
唐突にこの卒論の結論めいたものが飛び出してしまったが、気を取り直して再び深夜特急第1便の第6章に戻ると、旅立ちの理由の続きとして、逃げるだけではなく「不分明な自分の未来ににじり寄っていこうという勇気も、ほんの僅かながらあったのではないか」とも述べられている。逃げながらも、見方を変えれば逃げることによって、新たな自分を見つけたい。つまり、逃げる旅も「夢見た旅」になりうるのである。
ここでやっと「ケガレ」とは沢木にとってどんな状態であったのかという問いに帰ることができる。民俗学の復習をすると、日常生活である「ケ」が枯れて「ケガレ」の状態になったのを「ハレ」によって回復し、日常生活にもどっていくという一連の流れが「ハレ・ケ・ケガレ」の概念であった。沢木の場合、セミプロ状態の悠々自適な駆け出しライターとしての日常生活、つまり「余儀ない旅」が出版によって窮屈になることで「ケガレ」の状態になり、余儀ない旅の自分や自分のいる場所とは違う自分や違う場所を求めて深夜特急という「夢見た旅」に出たという流れである。
果たして沢木耕太郎は「ハレ」によって「ケガレ」を回復することができたのであろうか。それは第2章にて。第2章の前に、私自身の旅の第1章を旅行中つけていた旅の手帖を基に記しておきたい。
インド紀行
TOP