三田渡への道 9
On The Run
昭顕世子「(いったいどういうことよ?)」
英俄爾岱「それと、明船がやってきた時に交易をしている連中がいることはみんな知っているぞ。名前を隠しても無駄だからな。定州の商人鄭と高だ。こいつらは密交易のボスだから逮捕しろ」
昭顕世子「まさか、今回の旅行って、狩猟というは口実でこの密命を伝えることが本命かしら?」
英俄爾岱「ああ、明船の件について事実究明と責任追及をするんだ…それと、洪承疇の配下の倪ナントカが、先年、明船が宣川に行ったさい、貴国は船中で宴席を設け、米500斛と朝鮮人参500斤を贈った。文書も残っているとはっきりと言ったぞ」
昭顕世子「(おいおい、本国は何をやってんのよ)」
英俄爾岱「そうそう、烏鸞営ってやつが言っていたが、林慶業が以前水軍を率いて我らの援軍に来たとき風の具合で船が漂流したとかいって戦闘に参加しなかったし、先日明船が来た時には沿岸のどの村も戦おうともせず、捕獲もしなかったそうだな。これじゃ林の行動に対する疑いもどうやらウソじゃないようだ」
昭顕世子「……」
英俄爾岱「先年貴国が降伏したさい、諸王は『朝鮮8道のうち3道を朝鮮王に統治させ、後の6道は我らが管理しましょう』などと言ったのだが、陛下は『言葉も通じぬし、正当ではない』とおっしゃって退けられたのだ。しかし今の貴国の国情を見て、陛下はいたく後悔してらっしゃる」
昭顕世子「私には本国の事情は知ることができないし、国王は貴国の恩を受けている以上、肉親の情を断って行動することがあるのだから、私に対してどうこうしてもムダよ。それに世子ってのはただ勉強するだけであって、臣下の処罰を行なうのはその役目じゃないのよ」
英俄爾岱「うむ。もし国王が元気なら我らが行って話を聞いて処断するのだが、今国王は病気なので世子殿に行ってもらいたいのだ。病人の国王に質問できるのは世子殿しかいまい」
昭顕世子「……」
こうして、昭顕世子は英俄爾岱率いる兵300人に護衛され、ホンタイジの勅書を持って朝鮮に向けて出発することになった。勅書には、
ホンタイジ「ここ数年、貴様らと明の間には往来や交易、秘密連絡が絶えない。王と諸臣はこれを知りながらどうして禁じないのだ。王はどうして調査をしないのだ。我は貴様らが降伏したのち、常に民を保全し騒がさないよう、これらの事件を不問に処してきたが、ついにここまでひどくなってきた。ゆえに世子と英俄爾岱らを遣わし事情を聴取する。速やかに返事してこい」
とあった。このやり取りと勅書の内容は、10月12日に漢城に知らされた。翌13日、仁祖は領議政崔鳴吉らを招集し事態への対策を協議した。
仁祖「さてどうしたものか…」
崔鳴吉「以前、金尚憲の詰問のさいは武装していない人数を率いて来ましたが、今回は武装兵を国境で見せつけるようにしてきています。これは良くない予感がしますね。私が行って対処するしかないでしょう」
仁祖「うむ。もっともだ」
その日のうちに領議政崔鳴吉、吏曹判書李顕英、礼曹参判李植、行護軍李景曾、大司憲徐景雨、大司諫李厚源は、清に向かって出発した。
同じ13日には、昭顕世子らは国境から遠くない鳳凰城に入っていた。
英俄爾岱「世子殿、誰か信用できる臣下を遣わして、前宣川府使の李烓 も連行してきてもらいたい」
昭顕世子「廷臣に関わることだから、まず殿下に奏上しなくちゃいけないわ。その後に連行できるようになるわ」
英俄爾岱「世子殿は陛下のご命令を受けているんだ。罪人1人の連行くらいできないことは無いだろ?」
昭顕世子「(チッ)」
英俄爾岱「李烓 が逃げたり匿われたりする時間を与えないためにも、すぐに連行するんだよ。その程度はわかりますよね?」
昭顕世子「(やれやれ、脅しと来たか)…じゃ、洪宇翼に行かせるわ」
結局、昭顕世子の命を受けた宣伝官の洪宇翼は16日に漢城に入り、前宣川府使の李烓 を鳳凰城に連行した。
仁祖「いろいろと頭の痛いことだ。また鄭命寿らにうまく収まるようお願いしておかねばなるまい。英俄爾岱・鄭命寿にそれぞれ白金5,000両黄金10余両を贈れ」
18日、英俄爾岱らは李烓 を訊問した。
李烓「(他人をも巻き込んで告発すれば私は助かるカモ)はい。私が宣川府使のとき、平安道観察使の鄭太和の命を受けて、明船に備えての警邏任務についていましたが、密命書類を授かり米や食料を支給しました」
英俄爾岱「なるほど。では鄭太和らも連行してきてもらおうか、世子殿。それと高忠元、お前も何か知っていることがあるそうだな?」
高忠元「は、はい。先年、明船が宣川に来たさい、崔鳴吉殿と林慶業殿が僧1人と水手4人に文書を持たせて遣わしました」
英俄爾岱「おいおい、どうしてそんなに詳しいんだ?」
高忠元「おらぁこの目で見ただ。まちがいねぇだよ」
英俄爾岱「UFOを目撃したアメリカ人農夫かよ…林慶業も連行せねばなるまい。世子殿、一括してヨロ」
昭顕世子「……了解」
林慶業「え?逮捕?私が?チッ、全部ばれてしまったのね」
林慶業夫妻はさっそく拘束され、鳳凰城に送られることになったが、
林慶業「おとなしく死地へ送られてたまるか!脱走してやる」
なんと護送中の11月6日に脱走してしまったのである。これを知った林の兄の広州中軍の承業と弟の熙川郡守の俊業も逃亡してしまった。
備辺司「全土に手配して逮捕させます」
仁祖「うむ。それと李烓 は自分だけ生きようとして、他者をチクって機密を漏らした売国の罪人だ。処断してまいれ」
備辺司「御意。宣伝官の朴之墉 と禁府都事の鄭錫文を派遣して斬刑に処します」
仁祖「清が何か口を挿んでくるかもしれん。その隙を与えないためにもいちいちこちらに報告せず即時に処断しろ。それと、これは通常の法にこだわることは無い。一家親族にも累を及ぼせ」
備辺司「(こういう場合、律によれば連座は無いんだけどなぁ)御意」
これによって、李烓 の父晋英、叔父の晋翼・晋賢、従兄弟の煥等はいわば超法規的に逮捕され獄に下された。また、少し後のことになるが、閏11月14日、子の国均は絞首刑を執行され、妻と他の子は身柄を官に没収された(官有奴隷にされたんでしょうな)。
仁祖「しかし、今回の清の行動の実情はいったいどういうことだろう?」
申景禛 「清において英俄爾岱は我々との交渉を一任されていますが、常々ホンタイジに『朝鮮のことは問題なし』と言っていました。それが今回のような意外なことが起こって面目を潰されたせいで廷臣たちをやたらに拘束連行しているのでしょう。しかしホンタイジの態度が穏やかなのは、いわば飴と笞のような緩急をつけた操縦術ではないかと」
警察の取調べで、若い刑事が怖い言動で締め上げ、老練な刑事がそれを宥めつつ容疑者に優しく接して落とそうとしたり、ヤクザの因縁付けでチンピラがすごんで、兄貴分がそれを叱り飛ばして対象者に優しく接するってテクニックと同じなんですな。イギリスとかの特殊部隊の訊問テクニックにもそういうのがあったような…
仁祖「李烓 を処断するという意外な展開にはなったが、なんと気持ちのよいことではないか!(至於李烓之処断、曾是慮外、何其快也)」
金自点「はい。やつの父や叔父など一族はすでに逮捕しました。やつの処断を待って罪を論じていきます」
仁祖「うむ!…それにしても林慶業はどこにいるのだろう?」
申景禛 「最初は海へ逃げようとしたみたいですが、まだ行っていないようですね」
沈器遠「林は常に死を以て国事を為すと言っていました。逃走するだけの人間ではありません」
仁祖「先月右議政になったばかりの沈器遠か。たしか林は卿の配下だったことがあったな。どのような人物だ?」
沈器遠「彼は清への援軍を率いて出発するさい『国の為に死のうと思っていたのに無駄死にになる』と言って泣いていました。我が身を顧みず奮闘して国家の急に尽くすのは必ず彼です」
仁祖「発言が実情を越えている人間ってさ、最後は失敗するんだよね。この慶業みたいにさ。最初は大言していて最後は逃走だろ。こいつの行動のどこに道理があるんだよ?(上曰言過其実者、必至於僨事、慶業之謂矣。始為大言、終乃逃走、此豈人理)」
んー、えらい言われようですな。たしかに明への密使に直接関わった同志の崔鳴吉は潔く出頭して弁明しようとしてますし、それに比べたら、ねぇ…。
20日、備辺司から林慶業の妻子、弟の俊業・興業と姪振茂を逮捕したので漢城に護送する旨と、先に逮捕した興業の妻子を代わりに釈放するよう申請があり、仁祖はこれを許可した。
また、李烓 処断のために派遣していた鄭錫文らが義州に到着し、即座に李烓 を処刑して、首を国境にさらし、胴体を各地に巡回してさらす処置をとった22日、昭顕世子が瀋陽に帰還した。
昭顕世子「ただいまー。ったく災難だったわよ」
姜氏「お帰りー。今日は崔鳴吉殿たち大臣とかぎょうさん人が来たでー」
鳳林大君「林慶業の妻子や弟など逮捕された林一族も護送されてきたんですよ」
崔鳴吉「世子さま、ご迷惑をおかけしています」
昭顕世子「今回は大司憲の徐景雨や大司諫の李厚源たちも一緒なのね。清の感触はどうかしら?」
崔鳴吉「はい。今のところ、どうやら処断された李烓一人が全ての罪悪を背負ったようなかたちになっていますが、きちんと対処してゆかなければなりませんね」
翌23日、英俄爾岱らによる訊問が始まった。
英俄爾岱「明の降将が、貴国に使者を送って明と連絡を取っていたことを証言しており、文書も残っているが、どういうことだ?」
崔鳴吉「私たちは明を敵国としましたが、海岸の防備はまったくできておらず、そのため間諜を送って明の攻撃を緩めようと考えました。しかし殿下はそのような権謀は好まなかったので、私と林慶業が相談して僧1人を送りました。つまり計略なのです。皇帝陛下が禁じられたのは交通往来であります。敵と相対しているときにどうして間諜を送ることは禁じていましょうか?」
英俄爾岱「その僧が出発する時、何の話をした?」
崔鳴吉「間諜の任務についての話ですが何か?」
英俄爾岱「フッ…では、その僧を送ることを主張したのは誰だ?」
崔鳴吉「私と林だけです」
英俄爾岱「その前年に皇帝陛下が『明の漂流してきた人間を取り扱ってもいいが、食糧は与えるな』とおっしゃられたぞ」
崔鳴吉「漂流してきた人間を送還するのは大きな善事です。食糧などを供与したのは小さな罪でありましょう」
鄭命寿「聞くところによると、箕子廟で祭祀を行なった際、祭文を焼いたそうね。どんな内容だったの?」
崔鳴吉「箕子は東方の聖人ですので祀ります。祭祀には祝文が必要で、祭祀が終わったあとにそれを焼くというのはいつものことです。何か怪しい点でも?」
鄭命寿「ふーん(我が国との盟を破り明を助けるという内容だという情報があるんだけど)。じゃ、本題の明との密通についてだけど、王は知っているの?」
崔鳴吉「備辺司で協議して行なったものだから、殿下は知っておられません」
崔鳴吉らだけでなく、年が明けた1643年1月には前政丞李敬輿・東陽尉申翊聖・前判書李明漢・前參判許啓・前正言申翊全たち、さらには義州監禁中の金尚憲も瀋陽に召喚されて訊問は続いたが、2月になってついにホンタイジの裁決が下った。
英俄爾岱「では陛下のご裁決を申し渡す。まず金尚憲は世子どのの館の北館に移せ。李敬輿・李明漢・許啓ら三人は法に照らせば死罪であるが、陛下は殺すことを忍びなくお思いになり職を免じて放逐せよとのことだ。李敬輿・李明漢は贖罪金としてそれぞれ銀1,000両、許啓は600両を用意して納めよ」
昭顕世子「(金尚憲と崔鳴吉らについては未決なのね)」
英俄爾岱「そうそう、もう一つ陛下から伝言。世子どの、貴国は長く明に臣事し、壬申倭乱(文禄慶長の役)のさいに明が援軍を出兵したため恩義があるというのは理解できる。しかしサルフの戦いで貴国が明に援軍を送ったことでその恩はチャラになったではないか。今、明のもとに還りたがって計略をめぐらすのは不当だろう。先年、陛下が親征されたとき貴国の君臣は穴蔵に逃げ込んだが、和約のなった後、上は国王、世子どのから下は民衆まで無事に生かされたのは我らの恩ではないか。国王はそれを忘れることができるのかね?もし我らと明が戦って我らが劣勢になったときは兵を出して救援しないのかね?」
昭顕世子「…殿下にきちんと伝えるわね」
3月25日、勅使が漢城に入り正式な裁決を伝えた。
ホンタイジ「我はお前の国を保全してやってから、お前たちがしばしば妄動をし法律を破っても、一人たりともみだりに殺すことを忍びなかった。今、スパイ工作をした罪臣崔鳴吉と衆を惑わし国を誤らせた罪臣金尚憲を獄に下し、登州、寧遠などに往き来した高忠元・申金たち8人を斬って警告とする。その他の者は全て赦す。今後このような罪を犯した連中は赦さない」
仁祖「は、はい。帝恩を蒙り放免していただき、国家臣民をあげて皆喜んでおります」
4月1日、英俄爾岱から昭顕世子にも正式な処置が伝えられた。
英俄爾岱「崔鳴吉、金尚憲、お前たちは死罪であるが、年老いていることを憐れみ、また人命を惜しんで、大いなる恩恵を施し特別に死罪は赦すことにする」
崔鳴吉「はい。(金どの、ホンタイジのいる西に向かって一緒に拝礼しなきゃ)」
金尚憲「すまないが、私は腰痛を患っているので拝礼できない」
英俄爾岱「拝礼しろよ」
英俄爾岱の強要に関わらず、けっきょく金尚憲は拝礼しなかった。
英俄爾岱「そうそう、もし林慶業が連行されてきたら、崔鳴吉を釈放し、林の代わりに連行されてた林一族は林の妻と奴婢以外は赦すことになっている」
崔鳴吉「は、はい」
英俄爾岱「ああ、忘れていた。朴
・申得淵・曺漢英・蔡以恒たちも赦すことになった」
これによって、このたび瀋陽に連行されてきた朝鮮廷臣たちは、崔鳴吉・金尚憲以外は全て釈放された。これを受けて、朝鮮朝廷では、金尚憲らの名前を清に白状した申得淵に対する処置が協議された。
司憲府&司諫院「申は逮捕された時自分の安全を図って廷臣を誣告しました。国民はみな等しく憤っています。法によって速やかに処断すべきです」
仁祖「大赦もすでにやったし、流罪でいいんじゃないか?」
申得淵「え、えー?!」
けっきょく申は済州島に流罪になった。
依然として林慶業の行方は知れないままではあるが、いちおう朝鮮の騒動は収集した。ここで明に眼を転じると、かつて洪承疇と孫伝庭に撃破され行方知れずになっていた李自成が、1640年ごろから姿を現し活動を再開していた。そして1641年1月20日、河南の大都市洛陽を陥落させた。
李巌「福王朱常洵と前兵部尚書の呂維祺を処刑したで」
福王朱常洵は万暦帝の第3子で崇禎帝の叔父である。
李自成「よーし、これで闖王復活ね!次は大都市開封を攻めるわよ」
開封は、遠く戦国時代に魏が首都として以来、北宋など7つの王朝が首都とした都市であり、当時の河南では第一の大都市であった。
牛金星「…だめです。敵の抵抗は頑強です」
李自成「仕方ないわね。転進して別の都市を襲うわよ」
開封の守りは固く、攻め落とすことができなかった李自成軍は撤退し、7月になって河南南西部の鄧州を攻めた。
紅娘子「あかん、ここの官軍も強いで」
李自成「くっ、退けぇー。転進よ」
ここでも敗れた李自成は再び撤退し、11月、鄧州の北東に位置する南陽を攻めた。
紅娘子「よっしゃぁ!南陽を落城させたで」
李巌「唐王朱聿鏌と総兵官の猛如虎を討ち取ったで」
牛金星「各地の城邑を落として勢力を増やし、さらには勝ち癖をつけていきましょう」
李自成はこの勢いに乗って翌月には許州、長葛、鄢陵といった河南中部の都市を攻略し、流賊の大先輩にあたる曹操こと羅汝才と連合して再び開封を攻めた。
李自成「ちっ、今回も勝てないみたいね。転進するけど諦めないわよ」
今回も兵を一旦退いた李自成は、やはり河南の陳州・睢州・帰徳を落とし、1642年4月にまたもや開封攻略を開始した。
李巌「闖王、同じことを繰り返しとっても開封は落ちへんよ」
李自成「今回は秘策があるわ。黄河から水を引いて城内を水浸しにしてやるのよ」
紅娘子「水攻めやな。さっそく実行するで」
牛金星「…敵も同じことを考えているみたいですよ」
なんと守備側も黄河の水を使って李自成軍を水攻めにしようと考えたのである。双方黄河に対する土木工事を進めたが、9月に入って…
牛金星「…堤防が決壊しました。大洪水です」
洪水は大量の土砂の流出を伴って開封を襲った。この結果、開封の街は土砂の下に埋もれてしまい、もはや軍事経済の拠点としての価値を失ってしまった。
李自成「あーあ、どうしよう…」
李巌「もう河南には大都市は残ってへんし、南下して湖北に向かいましょ」
李自成軍は廃墟同然になった開封を諦めて、湖北の大都市襄陽に向かった。なお、現在の開封の街の下には、このときに埋まった明代の市街があり、その下には宋代の市街があるという。
李自成が大都市にこだわるのには理由があった。軍勢に飯を食わすために食糧が大規模に集積されている大都市の攻略が必要不可欠だったのである。支那大陸の戦乱期の軍勢や流賊の常として、彼の軍勢は戦闘員だけでなくその家族をも含んでいる。開封の官吏だった李光壂の『守汴日誌』によると、李自成軍の人数について、第1次開封攻撃の際は精兵約3千、脇従の衆約3万、第2次攻撃の際は精賊約3万、脇従の衆40余万、第3次攻撃の際は歩賊10万、馬賊3万、胸従の衆約100万とある。「脇従の衆」とは戦闘要員ではなく、兵士の家族や日常の雑役などを行う後方勤務者のことである。
流賊という行為は生活そのものであったわけで、もし流賊以外できちんと飯を食えて生活できる手段があるなら、流賊生活を選ばない者が大多数であっただろう。
紅娘子「闖王!襄陽の官軍は退去しとる。ほぼ無血入城や」
李自成「やったぁ!しばらくここに腰を落ち着けるわよ」
官軍とて李自成の活動を黙って見ているわけでなく、たびたび討伐軍を派遣したのだが、悉く敗れていた。兵部侍郎・陝西三辺総督の傅宋龍は、1641年9月に敗死し、後任の汪喬年も1642年2月に敗れて捕虜となり処刑されていた。
崇禎帝「諸将はだらしがないわね!獄中の孫伝庭を釈放して督師尚書に任命します」
孫は、かつて洪承疇とともに李自成を打ち破り、その功績によって北京防衛の任についたが、1640年に弾劾を受けて入獄していたのである。
孫伝庭「まず軍の再建が急務です。討伐軍の再編と育成に集中することにします」
襄陽に腰を据えた李自成は、まだ王や皇帝こそ名乗ってはいないが、統治機構を作り新国家の体制を整えつつあった。これまでの流賊から脱皮しようとしていたのである。そうなると幕下にいるかつての大先輩たちはいろいろ目障りになる。
李巌「羅汝才さま、李自成将軍が宴席に御招待したいとのことです。どうかお越しくださいませ」
羅汝才「今の地位はどうあれ先輩を敬うのはいいことですね。喜んで招待を受けましょう……な、何をする。あっー!!」
宴席への招待という口実で呼び寄せられた羅は捕縛されその場で斬られた…この手って春秋時代から使用されている伝統的手法やんなぁ…
紅娘子「曹操(羅汝才)と革裏眼(本名は不明)は斬ったで。老回回(馬守応)は逃亡してもた」
李自成「彼等の配下の軍勢も無事吸収できたわね。これで私が唯一のリーダーね」
こうして李自成は名実共に流賊最大の勢力となった。もう一方の雄である張献忠は四川に活動拠点を移していたため、競合勢力になる心配はなくなっていた。
官軍の総指揮官である孫伝庭はひたすら軍の育成に意を用い、あわせて李自成軍の疲弊を待つつもりであったが……
崇禎帝「孫はなにをぐずぐずしているのです!さっさと出撃して『結果』を出しなさい!」
孫伝庭「……御意」
前回に出てきた、洪承疇への出撃命令と同じパターンなんですよねぇ…つーことはこの後の展開もほぼ想像どおり…1643年8月、孫は討伐軍を率いて潼関を出撃し、李自成軍の手にあった河南の汝州や宝豊を攻略して襄陽に迫った。
李自成「くっ、さすが孫伝庭ね。これまでの官軍とは全然違うわ」
李巌「まともに戦ってはなかなか勝てへんよ。糧道を断つしかあらへん」
李自成は別働隊を組織して官軍の背後に派遣しその補給路を襲わせた。
孫伝庭「糧道が切断されたか!これでは戦えない」
紅娘子「敵は動揺しとるで。突っ込めー」
9月、孫伝庭軍は壊滅状態に陥り多数の死者を出して潰走した。孫はかろうじて潼関に逃げ帰った。
李自成「この勢いに乗って一気に攻めるわよ!」
孫伝庭「無念!」
勢いに乗った李自成軍は翌月潼関を落として孫を戦死させ、そのまま西安に雪崩れこんで占領した。
このように中原の情勢は激変していったのだが、清の方でも大事件が起きていた。
鳳林大君「兄上っ、大変です。清帝ホンタイジが崩御しました!」
8月9日に太宗ホンタイジが急逝したのである。
昭顕世子「何ですって?ホンタイジの長子ホーゲは凡人と聞くわ。後継者選びでひと悶着ありそうね」
後継者会議の席上、ホーゲは相続権の放棄を宣言し場は紛糾したが、結局ホーゲの弟(ホンタイジの第2子)のフーリンが後継者に選ばれた。順治帝である。
順治帝「私はまだ6歳です。叔父上、摂政として私を助けてください」
ドルゴン「はっ」
昭顕世子「どうやらドルゴンが摂政として全権を握ったようね。お家騒動も起こりそうにないわね」
清人「こんにちはー。世子殿、狩りにいけへんかー」
昭顕世子「皇族たちのお誘いね。鳳林、行きましょう」
鳳林大君「は、はいっ」
清人「そや、鄭命寿も言うとったけど、世子殿、一旦帰国でけるんやて?ほんま?」
昭顕世子「ほんとうよ。家内の姜氏の父(領中枢府事の姜碩期)が6月に死去してるから、墓参りさせるために姜氏も連れて行くつもり」
姜氏「ドルゴン様は世子様を厚遇されるつもりやから、許可されるようみたいやねん」
昭顕世子「そうね。それと贈答外交が効いてきたのかもね」
前回触れたように、鄭命寿の勧めに従って、購入した明人や身代金を払って返還された朝鮮人捕虜たちを使役して下賜された田地の耕作をはじめたのだが、その収穫物を売却して換金し生活費だけでなく交際費まで捻出できるようになっていたのである。また財物を購入し、清の大臣諸将の求めに応じて贈り物をするなど、積極的なおつきあいもするようになっていた。
12月15日、昭顕世子夫妻と、ホンタイジの崩御について進香使として派遣されていた麟坪大君の一行は瀋陽を出発した。
仁祖「そうか。世子が一旦帰国できるのか…ところで明を捨てるのは忍びない。祭文や祝帖、家に所蔵する文書には清の年号を使わず、みんな崇禎の年号を使え」
廷臣「はっ」
仁祖「ん?朝貢使にどうして済州島の白蝋と網巾を運ぶ者が雑じっているんだ。どこへ運ぶつもりなのだ?」
廷臣「世子様の御命令でして、網巾は瀋陽の捕虜用、白蝋は清将が欲しがったため取り寄せるとのことです」
仁祖「???話が見えない」
ここで仁祖は、昭顕世子が買い戻した捕虜を本国に送らず、館の雑役や耕作をさせて富を築き館を改築していることを初めて知ったのである。
義州府尹洪瑑録上正朝使一行人馬之数、而其中有白蝋・網巾等物載運者。上問白蝋・網巾、何処所送耶。備局啓曰去年秋間、侍講院移牒于本司曰被擄公贖人等、竝無網巾、且清人欲得白蝋云、故本司通于済州、将此二件物以来、順付于節使之行矣。上下教曰講官之職、勧学・匡救而已。不此之思、乃敢貽弊於海外之民、事極非矣。当該官員、姑先従重推考。是時、世子久留瀋陽、広建館宇、私殖貨利、酬応清将之求索。又以其贏余、贖得我人之被擄男女、至於累百人、或留止館中、或移寘野坂、以備使令、皆不許放還本土、不欲使大朝知之。宮僚諫之不従、遂令徴求白蝋・網巾於済州、至是、上始知之、有此教。(仁祖実録 仁祖21(1643)年12月22日条)
仁祖「民に余計な労苦を強いるばかりか、返還された民を留めて使役までするとは!」
その昭顕世子が漢城に到着したのは1644年1月20日のことであった。
昭顕世子「父上、ただ今帰りました」
仁祖「…うむ」
昭顕世子「姜氏の父姜碩期が6月に死去しておりますので、ぜひとも往哭省親の機会をいただきたくぞんじます」
仁祖「…その必要はない」
仁祖の態度は冷たかった。そればかりか、前述した白蝋・網巾の件について、世子付きの賓客李昭漢・輔徳柳景緝・文学李袗・司書李正英らの罪状を調査させ、ついには罷免した。
さらに、瀋陽への帰還に際してはまるで監視役であるかのように宦官の金彦謙を同伴させたのである。
昭顕世子「父上…」
2月19日、昭顕世子夫妻は漢城を出発した。瀋陽に着いたのは3月24日であった。
清では1643年8月に太宗ホンタイジが崩御し世祖順治帝が即位したのだが、1644年1月、中原では新たな国家が誕生した。
西安
李自成「よーし、国号を「大順」、年号を「永昌」と制定して新しい国家をつくるわよ、この西安は西京と改称して首都にするわね。六府とか弘文館とかの機構を設けて、配下に官職を授けるわ」
李巌 紅娘子
「うちらは何になるん?」
牛金星「実在しないあなたたちには何もありません。ちなみに私は天佑殿大学士になりました」
李巌 紅娘子
「そんな殺生なー(涙)」
李自成「さ、本格的に明を打倒する方策を練らなくちゃね。機転の利く連中を何人か集めて」
大順兵士「集合いたしました。どのような御用でしょうか?」
李自成「あななたちは商人に化けて北京に行きなさい。城内で商店を開業して生活し、私たちの攻撃時には内応やら攪乱やらの工作をするのよ」
大順兵士「はっ、了解しました」
李自成は工作要員として兵士を行商人・小売商に仕立て上げ、開業資金を持たせて北京に送って商売を営ませた。いわば「草」として潜入させたのである。
めまぐるしいようだが、この年の3月、朝鮮では大事件が勃発した。
漢城
仁祖「なにっ、右議政の沈器遠が謀叛を企んでいたというのか?!」
金自点「はい。既に逮捕いたしました。沈に話を持ちかけられた黄瀷の供述によりますとこう言っていたようです」
沈器遠「殿下を退位させ懐恩君を王位につけて、林慶業とも呼応し、明と力をあわせてて反清行動をおこなおう。実は林が脱走した時、変装用の僧服を与えて隠匿と逃亡の幇助をしておいたんだよ。あいつは今明国にいるんだぜ」
洪瑞鳳「最近城下で『林慶業が軍を率いて帰ってくる』『明の軍船がやってくる』と騒いでいた連中がいたとのことですが、沈ら逆徒の策動だったのでしょうか」
仁祖「沈器遠の功績は大きいがこの罪もまた大きい。しかし、すでに大臣になっているのだから軽々しく刑罰を実施できまい」
金瑬「『春秋』の義によればこのような賊はどうして大臣といえましょうか。彼の兇悪さは言うまでもありません。すばやい御決断を」
仁祖「ならば死を賜れ。既に大臣の名のある者を処刑するのは後々よくない例となる」
司憲府&司諫院「それはなりません。速やかに処刑すべきです」
仁祖「…わかった。沈を処刑せよ。ただし、彼の死体を諸方で晒しものにせず、家族に下げ渡してきちんと葬らせろ」
沈器遠「……」
沈器遠は処刑され、彼の配下や一味たちも杖刑で殺されたり、逃亡中に首を吊ったり舌を噛んだり切腹(剚其腹而斃)したりして自殺するなどした。また王に推戴されるとされていた懐恩君李徳仁は済州島に流罪となり、最終的には死を賜った。
朴「え?瀋陽にいたとき沈から旅費の銀貨を贈られたから私も一味だって言うの?金海に流罪?久々に出てきてこんな扱いイヤーッ!」
昭顕世子つきの廷臣から全羅道の観察使に出世していた朴もまた一味とされて流罪になった。もっとも、これは冤罪であるという噂がもっぱらであったのだが。
4月に入って、瀋陽では清軍の動きがあわただしくなった。
姜氏「なんかみんな忙しそうやなー。あ、英俄爾岱さんが来たでー」
英俄爾岱「世子殿、ドルゴン様が全軍を率いて出陣されるのでご同行願いたい」
昭顕世子「えっ?急な話ね」
英俄爾岱「そうなんだよ。諜者からの報告によると寧遠城が空っぽになっているらしい」
鳳林大君「そんなことが…」
英俄爾岱「全軍は9日に出発するけど、世子殿は15日出発してくれ。大君殿はかねてからの予定通り一時帰国してくれ」
ドルゴン「どんな異変があったかは知らないが絶好の機会だ。すぐに出陣するぞ。道々情報収集は怠るな」
1644年4月9日、寧遠城が空っぽという知らせを受けて摂政ドルゴンは全軍を率いて出陣した。
一体どんな異変が起きたのであろうか。時間を3月上旬に戻してみる。
寧遠城
呉三桂「北京から勅書がもたらされましたが、陛下は何をおっしゃられているのでしょうか……」
崇禎帝「反乱軍が北京に迫っています。将軍は全軍を率いて救援に駆けつけなさい」
明軍人「なんと!この寧遠城を捨てろというのですか!」
呉三桂「北京が陥落して陛下にもしものことがあれば明はおしまいです。そうなった場合、この寧遠城が安泰でも意味はありません。全軍出動の準備をしましょう。兵士だけでなくその家族や城内の住民たちも連れて行きます。どうせなら空っぽにしてしまいましょう」
明軍人「はい。さっそく準備します……それにしてもイゼルローンを捨ててハイネセン救援に向かうヤンそのまんまですね」
というわけで、呉三桂は兵士住民全てを率いて北京に向かったため、寧遠城は空っぽになったのであった。
では、崇禎帝のいう北京の危機はいかにして起こったのか?むろん、李自成の軍勢がもたらしたものであった。
李自成は2月に入って北京攻略の軍を起こし、東へと進んでいた。
紅娘子「まったく官軍の抵抗を受けへんね」
李巌「もはや人心は離れ明の命運が尽きたっちゅうことやねんな」
黄河を渉って山西に入ったところでようやく抵抗を受けたがすべて退けた。そののち、黄河沿いに東進して河南・河北に進むルートは取らず、山西を北上して迂回するかたちで北京を目指し、太原・大同・真定を落として明皇族たちを討ち取った。
北京
崇禎帝「反乱軍が北京に迫っているのですか!唐通を派遣して居庸関を守らせなさい。それと寧遠城の呉三桂を呼び寄せるのです。孫伝庭も亡き今、最大にして最精鋭の軍は呉三桂のもとにしかいません」
3月7日、崇禎帝は手元に残った最後の軍を唐通に率いさせて、要衝居庸関を守らせた。しかし15日、唐は居庸関に迫った李自成軍に一矢も放つことなく降伏した。
李巌「この居庸関が最後の最大のポイントやってん。ここを無血で突破できたんは大きいよ」
李自成「そうね。無駄かもしれないけど一応降伏勧告をしておこうかしら」
北京
崇禎帝「唐通が降ったのですか!ええぃ、廷臣たちは黙るばかりで誰も対策を発言しないし!」
王承恩「陛下、太監(宦官の長)の杜勲が戻ってきました。拝謁を求めています」
崇禎帝「軍事視察のために出張していた杜勲ですね。何か妙案があるかもしれません。さっそく引見しましょう」
杜勲「陛下、私は既に大順に帰順しております。今日参ったのは大順の国使として禅譲を勧めるためです」
崇禎帝「ぶ、無礼な!下がれ!……」