三田渡への道 5
Does Anybody Really Know What Time It Is?
清軍は撤兵したが、まだ漢城都城内にはモンゴル兵が留まり、物資だけでなく人間までを略奪していた。2月1日に、仁祖に高麗王の玉印を渡すためにやってきた英俄爾岱・馬福塔がそれを止めさせた。
英俄爾岱「お前たち!さっさと城外に出ろ」
馬福塔「モンゴル兵を城外に出したあとは門を守備しておくわね」
仁祖「英俄爾岱どの、捕虜となった人々を送還していただきたいのだが」
英俄爾岱「そのことについては、陛下が処分をなさる」
7日、江華島で捕虜になった1千6百人が返還された。
なお、こういった捕虜の返還は無償で行なわれたかどうか疑義がある。『仁祖実録』仁祖15年(1637年)2月13日条には、このような話が載っている。
李景奭「捕虜になった人のうち、貧しくて身代金を払えないから返還してもらえないのはほとんどが民衆です。上流階級にとってはその価格は高くはないのですが。今、もし銀100両余りを支出して、役所を通じて分け与えて、民衆の身代金にあてて返還してもらえば、多くの民衆を取りもどすまでには至らないけれども、民心を感じさせるにはじゅうぶんではないでしょうか?」
仁祖「それはまことに憐れなことだ。そのとおりにして多くの民衆を返還してもらえ」
以下原文。
都承旨李景奭 啓曰「被擄 之人、貧不能贖還、而凡民、異於貴族、価亦不多。今若捐百余両銀、分授通官、使之贖還、則所得雖不多、豈不足以感民心哉」 答曰「殊甚矜惻。令該曹優給価銀、多数贖還」仁祖実録 仁祖15年(1637年)2月13日条
このほかにも、朝鮮は、戦禍をこうむって荒廃した地方の人民に米を救援物資として支給したり、税金を免除したりするなど後始末に追われることになった。
地方では、金璟という人物が、戦役の当初に清軍に投じて財貨人間の略奪を行なった罪で捕らえられて斬られた。そういえばこの手の行動って文禄慶長の役でもあったよな。
朝廷のほうでは、江華島陥落に際して抗戦せずに逃亡した諸廷臣や、南漢山城に救援に駆けつけなかった各道の観察使・兵官たちを罰することが進められた。
仁祖「江都守将たちの醜態は許しがたい。彼らのこれまでの功績を思わないでもないが厳罰に処す。総司令官の張紳、金慶徴には死を賜り、姜晋昕は斬れ」
金自点「え?私も処罰されるの?島流しなんていやーっ!!」
金瑬 [流の下に玉]「かばってやりたいけど、あれだけ防備の失態を重ねて、しかも野戦で大敗して南漢山城にも救援に来れなかった以上、どうしようもできないわ…って私も罷免なの?!」
その他の廷臣・諸将の多くは免職や左遷、流罪となったが、そのほとんどはまもなく復帰した。金自点も2年後に許されて復帰し、金瑬 も数年後には領議政にまで昇進している。
講和で定められたように、世子・大君夫婦だけでなく大臣たちの子弟も人質に送ることになっていたが、みなそれを嫌がり、その中でも金蓋国は自分の子どもを人質に送りたくないあまり、病気を理由に大臣職を辞職したため官爵を削られた。
罰せられた人の中には、講和成立後に戦闘を仕掛け、かえって惨敗して兵3、4千と部将を失った北兵使李沆・南兵使徐佑申という人もいた。この徐佑申は、戦役中、総勢2万3千と号しながら軍を留めて南漢山城救援に赴かなかった人物でもある。ほんと何をやってんだか ……この40年ほど前にも、停戦成立後に敵を襲撃して、返り討ちにあって戦死した水軍提督がおりましたなぁ……
また、江華島陥落のさいに、行方不明になったり傷ついたりした歴代王・王妃の神主(位牌)や、破壊された太祖と世祖の肖像画を新調した。
戦後の後始末だけでなく、清との講和条約の約定にしたがって、清が鴨緑江の河口にある皮島(椵 島)など明の拠点を攻めるさいに援兵や軍船、武器兵站の提供を要請され、それに従った。
3月5日、盛京では、斥和の首謀者として引き渡された平壤庶尹の洪翼漢が斬られた。同じく引き渡されていた尹集・呉達済は4月15日に盛京に到着し、19日にホンタイジや諸廷臣の前に引き出された。
ホンタイジ「お前たちが和平破りを首唱し、両国に血を流させた罪は極めて重く、殺すべきところだが、人命の重さを考慮して生かすことにしたい。お前たちは妻子とともにここに住め」
尹集「戦後、妻子の生死すらわかりません。ゆっくり探したいと思います」
呉達済「私は恥辱を耐え忍んできましたが、万一生きることができるなら朝鮮国王と老母に再びまみえるだけです。もし朝鮮に帰れないのであれば、生きていても死んでいるのとかわりない。さっさと殺すがよい」
英俄爾岱「どうして陛下の鴻恩を思わず、そのようなことを言うのか!もはや許されないぞ」
朴潢「まぁまぁ、若い者が君主と老母を思慕するあまりこのようなことを言っただけです。許してやってください。なぁ、あなたは、徐庶の話を知らないのですか(君独不聞徐庶事乎)?君主と老親に、あなたが生きていることを聞かせれば、異国にいるといっても死ぬよりはましでしょう。許しを乞いなさい」
こんなところで徐庶の話が出るとはなぁ。
なお、徐庶は『三国志』でおなじみ、蜀の劉備に仕えたのち曹操に下った人です。曹操に囚われた老母は、徐庶を呼び寄せる手紙を書けという曹操の命令を拒んだのですが、曹操の軍師程昱がニセ手紙で徐庶を呼び寄せたんですな。で、真相を知った老母は首吊り自殺すると。
もっとも、これは『三国演義』のエピソードでして、正史じゃ、長坂坡の戦いで老母が捕虜になったことを知って曹操に降っただけです。当然だとは思うのですが、朴潢 は正史のほうの話を引いているんでしょうなぁ。
だが、呉達済はただ涙を流すだけで応じなかった。
ホンタイジ「そうか。では2人を斬れ」
尹集・呉達済「……」
んー、尹集はとばっちりくらっただけのような気が…。
臣下「殿下、かつて講和交渉中に英俄爾岱・馬福塔、鄭命寿に便宜を図ってもらうため銀を送ると伝えましたが、今講和も成立し、彼らの周旋の成果が確認されましたので、さっそく銀子を送りたいと思います。それと、盛京から返還されてくる捕虜たちの中には、帰ってくる途中で飢えや寒さのために死んでしまうものがいます。官米を支給し、また通遠堡に輸送して備蓄しておきましょう」
仁祖「うむ」
最初の話は、1月13日のロビー工作の話ですな。やっぱり工作していたのか。
閏4月28日、捕虜返還の交渉のために盛京に行っていた辛啓栄が戻ってきた。
辛啓栄「銀2千5百両を使って、身代金を払ってくれる身寄りのない人々を返還してもらうことに成功しました。とりあえず、捕虜になった士卒やその妻子たち約700人を先に返してもらうことになりました」
仁祖「そうか。帰国の道中、途切れなく食料を支給するよう協議して実行せよ」
6月11日、辛啓栄はふたたび捕虜返還交渉のため、盛京に向かった。
この後、仁祖たちは懲りもせず親明政策への回帰をひそかに念願し、内々では清の年号を使わず明の年号「崇禎」を使い続けるが、現実には清に服属し続け、その命令によって明攻撃に援兵を送るしかなかった。
その推移については、後の回で触れることにして、この回では、服属の象徴である「三田渡の碑文」についてだけ触れてゆくことにする。だって一応タイトルは「三田渡への道」だし。
三田渡の盟約から半年経った1637年6月26日(この年は閏4月があった)、仁祖はある命令を出した。
仁祖「三田渡にあらためて壇を築いて、平たい石を敷いて閣を造れ。清人の功徳を書くため石碑を立てよ」(命改築三田渡壇所、鋪磚造閣。以将立碑石、撰述清人功徳故也)仁祖実録 仁祖15年(1637年)6月26日
さらに、11月20日清から勅使として英俄爾岱・馬福塔がやってきた。
英俄爾岱「このたび陛下は、そなたをあらためて『朝鮮国王』に冊封することにした」
馬福塔「はい、これが『朝鮮国王』の金印と冊書よ。大事にしなさいよ」
ここにおいて、朝鮮は清の冊封を受け、その属国であることが正式に確認された。これを受けて、11月25日、仁祖は石碑に彫るべき碑文の起草を命じた。
仁祖「張維、李慶全、趙希逸、李景奭 、お前たちが三田渡の碑文を起草せよ」
張維「すいません、無理です。書きたくても書けないんです。私の右腕は錆びついていまして、半万秒以上筆を持って文章を書くと、ガラスの心臓が……」
仁祖「それが辞退の理由なのか?」
張維「ダメカナ?」
仁祖「ダメダヨ♪」
洪瑞鳳「(『ぱにぽに』ですか!)」
李景奭「殿下、この命令はひとことで言って屈辱です」
仁祖「ふむ。じゃあふたことで言って」
李景奭「ちょー屈辱です」
仁祖「ふむ」
崔鳴吉「(今度は『あずまんが大王』ですか!)」
4人は辞退しようとしたが許されず、病気のため作ることができなかった李慶全をのぞく3人が文案を作成した。その結果、趙希逸の作品は言葉が難しすぎるということでボツになり、李景奭 と張維の作品が採用された。
仁祖「よし、張維と李景奭 の文章を清に送って選んでもらうぞ」
英俄爾岱「朝鮮から碑文の文章案が送られてきました」
范文程「うーん、張維の文は喩えを引くところで当たってないものがあるし、もひとつやわ。李景奭 のほうは使えそうやね。ただ、ちょっと直さなあかんとこはあるけど」
ホンタイジ「そうか。では李景奭 のほうを採用し、朝鮮に連絡して修正させろ」
仁祖「李景奭 、そなたの文章を修正して採用することになった」
李景奭「は、はい」
翌年の1638年2月28日、ようやく修正された文章が完成した。
李景奭「殿下、完成しました」
しかし、そこから進捗はピタリと止まったようである。なんと1年半の間、石碑の建造についての記述は記録に見えなくなる(これが史書の脱落や未記入でないことはこの後の進展で明らかになる)。
1639年6月25日、清の使者が漢城を訪れ、仁祖は慕華館において使者を迎えた。
崔鳴吉「今回、王妃に直接お渡しになる文書があるとのことですが、それは非礼でしょう」
馬福塔「そう?じゃ、それは勘弁してあげるわ」
以前もふれたように君主といえども臣下の婦人に会うのは非礼であった。仁祖は馬福塔に会った後、急に命令をくだした。
仁祖「三田渡の碑文を速やかにつくって送れ!そうすれば弊害を残すことから免れる。作成する者はこの任務を互いに押し付けあってはならぬ。呉竣は文章を清書せよ。馬を給わって送らせる。碑面に書いて彫るべき篆文は申翊聖が書け」
洪瑞鳳「(馬福塔に何か言われたんでしょうか?)」
申翊聖「私は、殿下が恥辱を受けたあの日に死ぬことができなかったことをいつも悔やんでおります。どうしてこのような任務を遂行する資格がありましょうや?」
仁祖「そうか…では呂爾徴に命じる」
申翊聖の辞意は堅く、仁祖もついにあきらめ、呂爾徴にあらためて命じた。7月2日、盛京駐在の朴 らが英俄爾岱の言葉を報告してきた。
英俄爾岱「今回そちらに行かせた勅使には、モンゴル語パートを書く人間をつけようと思ったんだが、間にあわなかったんだ。とりあえず、勅使には碑石を見せておいてくれ。モンゴル語パートの作成者は後から送るよ」
7月28日、呉竣は碑文をようやく清書し終えた。
仁祖「さっそく清に送れ!」
碑文は盛京に送られ確認された。11月15日には、英俄爾岱からまた伝言が届いた。
英俄爾岱「碑文だが、碑石の表にはモンゴル語を刻み、裏側には貴国の漢文を刻め。勅使が漢城に入るまでに裏面は完成させて待っておけ。くれぐれも遅れるなよ」
あれ?満洲文字パートについては触れられてないぞ?ま、いいか。11月には英俄爾岱がやってきて作業の監視をおこなった。
英俄爾岱「よし、私が進行状況を監視する」
作業は順調に進んだようで、12月5日、ついに三田渡の石碑に関する工事は終了し、監督官たちには賞が与えられた。(以三田渡碑役完畢、賞賜監役官以下有差。按、受賞之人、苟有士夫之心、豈不以爲恥乎)仁祖実録 仁祖17年12月5日条
6日には、勅使として来ていた馬福塔が視察に訪れた(実は、碑の視察を目的に、約定に背いて南漢山城が修理されているのを確認するため)。
馬福塔「うん、いい出来じゃないの」
その碑文の内容は以下のとおりである。
崇徳元年(1636年)12月、清皇帝は、朝鮮が和平を壊したため大軍を発してこれを討ったが、徳を布くことを優先し、勅をくだして説諭し「降伏すれば生かし、拒めば皆殺し」とおおせになった。
私は懼れ惑い、ついに降伏してその罪を乞うたが、皇帝は礼を以て遇し、恩沢を施された。朝鮮王は帰還することを許され、清軍は撤収した。民を撫育し農業を勧めると、逃げ散っていた人々ももとのように暮らすようになった。これはすばらしい幸福である。
小国である我らが上国である清に罪を犯して久しい。サルフの戦いの折、都元帥姜弘立が明の援軍として出征し敗れて捕虜になったが、清太祖は姜ら数人を留めるだけでその他は全部送還した。その恩義は限りなく大きいが、我らは惑いてそれを悟らなかった。
丁卯の年(1627年)、太宗は諸将に命じて朝鮮に出征させると、我が国の君臣は江華島に避難して使者を出して和を乞うた。皇帝はこれをお許しになり、兄弟の国と見なしてもらったため、国土は保全され、姜弘立も帰国した。
だが、不幸にも軽薄な論議に煽動されて、我が国の臣下は斥和を為したが、皇帝はなおも寛大でこれを許そうとし、兵を発せず勅諭で諭そうとした。だがそれをはねつけたことは我が国の君臣の罪を一層重くしたのであった。皇帝は大軍を率いて南漢山城を包囲し、また副将の軍を以て江華島を陥落させ、王の妻子、廷臣と家族らを捕虜にした。皇帝は諸将を戒め危害を加えないようにし、保護させた。
このような大きな恩徳によって君臣と捕虜になった家族はもとのように会うことができ、国土は再生し、国家の社稷も復活した。このように東国数千里の国土が再生する恩沢をこうむったことは、古来の書物にも稀にしか見られないものである。なんとすばらしいことか。
漢江に面した三田渡の南は、皇帝が駐屯された所で壇がある。私は命じて壇をさらに高く築き、石碑を立て永久に皇帝の恩徳を顕彰する。その恩徳は天地創造に同じものであり、我らが小国は永久にそれを頼らないことがあろうか?そもそも、大国の仁と武の義に服従しないことがあろうか。
以下にその大略を記載する。
天降霜露 載肅載育 惟帝則之 竝布威徳 皇帝東征 十万其師 殷殷轟轟 如虎如豼
西蕃窮髮 曁夫北落 執殳前駆 厥霊赫赫 皇帝孔仁 誕降恩言 十行昭回 即厳且温
始迷不知 自貽伊慼 帝有明命 如寝之覚 我后祗服 相率以帰 匪惟怛威 惟徳之依
皇帝嘉之 沢洽礼優 載色載笑 爰束戈矛 何以錫之 駿馬軽裘 都人士女 乃歌乃謳
我后言旋 皇帝之賜 皇帝班師 活我赤子 哀我蕩析 勧我穡事 金甌依旧 翠壇維新
枯骨再肉 寒荄 復春 有石巍然 大江之頭 万載三韓 皇帝之休
嘉善大夫礼曹参判兼同知義禁府事の呂爾徴、篆書を書く
資憲大夫漢城府判尹の呉竣、文を書く
資憲大夫吏曹判書兼弘文館大提学芸文館大提学知成均館事の李景奭 、文をつくる
*旧字は改めた。
*原文はこちら
1640年2月11日、京畿道観察使から、三田渡碑とその建物に警備兵を置きたいという要請が上げられた。議政府に属する六曹の一つ兵曹はこれについて仁祖に答申した。
兵曹「収監中の罪人3、4人に役を課して配置したらいいでしょう」
仁祖「そうだな。きちんと警備させてくだらない災禍のないようにせよ」
この処置と関係あるのかどうかはわからないが、5月17日、英俄爾岱に随行して朝鮮に行っていた通訳の鄭命寿が、盛京に帰還して世子に会い、「慶尚道・全羅道の人士が、清軍に水軍の援軍を送ることに反対して容れられず、憤慨して帰るとき、三田渡碑を壊した、という噂を聞いた。本当か?」と訊ね、否定されている。この噂は盛京に伝わったらしく、半年後の10月30日には、清の使者が確認のため三田渡碑を訪れている。
その後、1895年に解体されるまで、朝鮮の清への服属を象徴する記念碑として、この碑は三田渡に立ち続けたのである。
「やっと終わったわね」
「そうはいかないんだ。本文中でも触れているように、明の滅亡まで延長することにした」
「え?あくまでも予定じゃなかったんですか?」
「史料をざっと読んでみたところ、いけそうだと判断したようだ。いつ完成するかはまだ見えてないがな」
「とりあえず、いったん今回でしめて、解説部分をつけることにします」
「で、いまさら私らが解説なんてする意味があるのか?」
「最初はそのつもりはなかったんだがな、気になることが出てきたんだ。みんなは『堕落の2000年史』という本を知っているか?」
「知っているわ。著者は崔基鎬とかいう韓国人でしょ。韓国の現状や反日、歴史認識やらを批判した本よね」
「そうです。作者は、その中でちょっとした引っ掛かりを感じたのです。三田渡の降伏のあとのところですね。2箇所あります」
この和約によって、李氏朝鮮は明から清の属国になった。
仁祖王は和約を結んだうえで、皇太子である昭顕(ソヒエン)世子と王子の鳳林大君(ポムリムデグン)らを人質として送るかたわら、斥和派の強硬論者であった三人の党人を逮捕して、斬刑に処した。
仁祖王は、清の太宗に屈辱的な降伏をした後に、降伏条項に従って長男の昭顕世子、その妻の姜嬪と、次男の鳳林大君、三男の麟坪大君を人質として差し出した。
三人の王子は、三百人以上の官僚や、従者をともなって満州の瀋陽へ赴いた。その時は、清はまだ北京を攻め取っていなかった。
「韓国 堕落の2000年史」崔基鎬 祥伝社
「作者がどこに引っ掛かったか、お気付きになりましたか?」
「あれ?本コンテンツじゃ、人質になって連れて行かれたのは昭顕世子夫妻・鳳林大君夫妻なのに、ここでは三男の麟坪大君まで連れて行かれたことになっているじゃないか」
「それに、強硬論者で逮捕された3人って清に引き渡されて処断されたんじゃねーのか?ここじゃ朝鮮がわで斬ったことになっているぜ」
「そうです。では崔基鎬と作者のどちらが正しいかを見てゆきましょう。まずはよみさんの疑問のほうです。史料は『仁祖実録』『清史稿』です」
仁祖実録 仁祖15年(1637年)2月1日条
清人因置王世子及嬪宮鳳林大君及夫人于陣中、以麟坪大君及夫人還送于京中。
2月8日条
九王撤兵還、以王世子及嬪宮鳳林大君及夫人西行。
清史稿 列伝 属国1 朝鮮
四月、倧 送質子 ・淏至。
「2月1日、つまり三田渡の降伏式の翌日だ。世子夫妻と鳳林大君夫妻は清軍の陣中に留められ、麟坪大君夫妻は送還されたと書いてある。さらに8日条では九王つまりドルゴンが撤兵する時、世子夫妻と鳳林大君夫妻を伴ったとあるな。
清史稿では4月に世子李 と鳳林大君李淏が着いた、とある」
「次は芹沢さんの疑問のほうです。同じく『仁祖実録』『清史稿』からです」
仁祖15年(1637年)3月5日条
清人殺洪翼漢。翼漢曾為掌令、上疏請斬虜使以明大義。至是清兵入寇去邠 之日、廟堂建議以翼漢差平壌庶尹促行赴任。及呉達済・尹集被執而去也。朝廷令平安都事、械繋翼漢竝送于虜陣。入瀋陽遂被害。
4月19日条
尹集・呉達済在清兵後陣、至是月十五日始到瀋陽。十九日、龍骨大招宰臣講官于衙門、 坐両人于前以皇帝之言。問之曰「爾等倡議絶和使二国成釁、其罪極重可以殺之、特以人命至重、欲令全活。爾輩可率妻子入居于此」集曰「喪乱之後不知妻子存沒、徐当聞見而処之」達済曰「我之濡忍至此者、万一生還、復見吾君与老母耳。若不得復帰故国、生不如死、須速殺我」龍胡曰「渠不念皇帝全活之恩、抗言如此、今不可復貸矣」宰臣朴潢 ・宮官李命雄曰「年少之人、只切恋君親之心、妄陳所懷、請貸其命」懇乞不已。潢 仍顧謂達済曰「君独不聞徐庶事乎?使君老親聞君之生存、雖在異域、不猶愈於殞命乎?」達済不応只出涕而已。 胡人即縛出西門外殺之。請收屍、不許。達済被係在途中、作詩寄其老母及兄。其一絶曰「孤臣義正心無怍 、聖主恩深死亦軽。最是此生無限慟、北堂虚負倚門情」聞者莫不流涕。
6月8日条
瀋陽陪従宰臣馳啓、言 尹集・呉達済・洪翼漢等被害之状。上下教曰「事極惨惻。依前下教挙行」於是、賜集・達済・翼漢等老母及妻月廩。
清史稿 太宗本紀 崇徳2年
三月甲辰、殺朝鮮台諫官洪翼漢・校理尹集・修撰呉達済、以敗盟故。
「清史稿では3人は同じ日に殺されたことになっているが、ようは清が3人を処断したってことだ。ちなみに仁祖実録4月19日条では、尹集は殺されたかどうかわかりにくいが、あとの記事を見ればやはり一緒に殺されたと見ることができるな」
「ということは、両方とも作者のほうが正しいわけだ」
「崔基鎬って結構詰めが甘いのね。こういうミスは論旨の全体的な流れには影響しないんでしょうけど」
「作者は別に正しさを誇りたいというわけではなく、一次史料に自分であたってみることの大切さと、通俗歴史本の
「なるほど。『斜め上の雲』第21回の解説パートで言っていたことの実例なんだな」
「そういうことだ。実は通俗歴史本ということではもっと大物がひかえているんだ。まずはウィキペディアで『丙子胡乱』の項目を見てくれ。こういう文章があるだろう」
朝鮮がこの戦いに敗れるまで、歴代の朝鮮王が明朝皇帝に対する臣節を全うしたことを清側も高く評価し、後の康熙帝がこれを賞賛する勅諭を出している。[要出典]
「要出典とありますね。ソースを明記する必要があるぞ、ってことですか」
「はい。作者は、ここの記述の元ネタは陳舜臣の『中国の歴史 六』(講談社)だろうと目星をつけております」
「え?そうなの?」
「ああ、こんな文章だ」
満洲に服属していた諸部族のなかで、ホンタイジが清の皇帝として即位することを、最後まで認めようとしなかったのは朝鮮だけでした。そのために太宗の親征がおこなわれたのです。けれども、朝鮮の「節操」には、清も大いに敬意をもち、高く評価していました。太宗の孫にあたる康熙帝は勅諭のなかで、
――外藩は唯だ朝鮮のみ文物を声明して中国に近し。太宗文皇帝、其の国を親征せし時、八道の諸島の軍到らざる無く、其の国亡びて而して復存す。国人、碑を文皇帝駐軍の地に樹て、頌徳、今に至る。其の尤も嘉すべきは明の末造に当り、臣節を固守し、始終未だ嘗て弐あらず。……
弐あらずというのは二心のない忠誠のことを意味します。それを康熙帝は称讃しているのです。この勅諭は康熙四十五年(一七〇六)のもので、太宗の朝鮮親征から、ちょうど七十年たっています。七十年たって評価が変わったのではなく、おそらく親征当時から、朝鮮の心意気に、満洲政権の人たちは敬服していたのでしょう。
「中国の歴史 六」陳舜臣 講談社
「それで清史稿を見たのですが、このような康熙帝の勅諭はありませんでした」
「どーゆーこと?」
「正確に言うとだな、この文章そのものはなかったんだが、『列伝 属国1 朝鮮』に、康熙帝の勅諭としてこういう文章はあったんだ」
四十五年十月、諭大学士曰「朝鮮国王奉事我朝、小心敬慎。其国聞有八道、北道接瓦爾喀地方土門江、東道接倭子国、西道接我鳳凰城、南道接海外、尚有数小島。太宗平定朝鮮、国人樹碑於駐軍之地、頌德至今。当明之末年、彼始終服事、未嘗叛離、実属重礼義之邦、尤為可取」
「文章に異同はありますが、指している内容はほぼ同じでしょうね」
「陳は出典を明記していませんので、清史稿ではなく別の史書が出典なのかもしれません」
「で、陳の文章のほうだが、そこに出ている『康熙帝の勅諭』を読むと、たしかに称讃しているように見えるし、清史稿のほうの『康熙帝の勅諭』もそうだろう。
だけどな、結局は朝鮮が明に『臣節を固守』『服事』したことを誉めているわけだろ。つまり属国として宗主国に忠実に仕える姿勢を評価されているってことなんだ」
「ふうん。康熙帝にしてみれば、『朝鮮は
「じゃ、この史料を『朝鮮は高評価されていた』証拠に出したりなんかしたら…」
「自爆、ですね」
「まぁ、個人の『節操』のあり方は自由だが、国家の場合、国民を保護し国家を保つことのほうがより重要なわけだ。しかも李氏朝鮮の場合、光海君を追い出したように、彼我の状況を察するリアリズムが欠如した『節操』だろ。
これはたんに硬直したイデオロギーに束縛された教条主義だ。その強固というより偏執狂に近いような墨守ぶりを康熙帝が本当に高く評価したのか、作者はその疑問を捨てきれないんだ」
「朝鮮に普及していた朱子学って、もともとそういう教条主義的なイデオロギーじゃなかったんですか?」
「はい。イデオロギーとしての朱子学は『尊王攘夷』という言葉もあるように華夷秩序を病的なほどに厳格にするものです。学問としての朱子学は『格物致知』という言葉もあるように、ものごとの本質をつきつめる合理的なところもあるのですが」
「まぁ、そうではあるのだが、作者はその疑問を以って、最後の段落(当明之末年、彼始終服事、未嘗叛離、実属重礼義之邦、尤為可取)を見たとき、康熙帝は、朝鮮の明への『節操』と、三田渡碑を立ててホンタイジを『頌德』していることを並べて皮肉って『まことに礼と義を重んじる邦に属す』なんて言ったんじゃないかとさえ思ってしまったんだ」
「考えすぎじゃねーのか?」
「そうかもしれません。で、作者がほんとうに問題に思ったのは、陳の最後の段落『七十年たって評価が変わったのではなく、おそらく親征当時から、朝鮮の心意気に、満洲政権の人たちは敬服していたのでしょう』です。これは根拠のない推測でしょう」
「清史稿や仁祖実録を見ても、ソースとなる記述や示唆がなかったってこと?」
「それもあるんだが、丁卯・丙子胡乱で朝鮮がとった態度を見てみろ。口先だけ勇ましくて現実の防備はなんの対策もしない、パチモンの王弟を人質に出そうとする、その場しのぎの降伏だけで、ちょっと経ったら講和条件を反故にしようとする、こんな態度を、敵対した当事者の清人らが評価したと思えるのか?」
「んー、どうかなぁ?」
「むしろ不信感や軽蔑の念を抱いたと考えるほうが自然な気もします」
「現代でも『外交戦争』とか平気で軽く言ったり、『日本海を平和海に』なんて安倍首相にアドリブで提案して、それがばれたら平気で『言ってみただけ』ってごまかす大統領の国だもんね。そんなことじゃ驚かないわよ」
「そういうわけで、作者は『親征当時から、朝鮮の心意気に、満洲政権の人たちは敬服していたのでしょう』というのは陳舜臣の『言い過ぎ』だと考えざるをえない」
「それでは、初挑戦の劇形式、ここでいったんお開きです」
「続きもできたぜ」
*旧字は改めた。
大清崇徳元年冬十有二月 皇帝以壊和自我 始赫然怒 以武臨之 直擣而東 莫敢有抗者 時我寡君 棲于南漢 凛凛若履春氷 而待白日者 殆五旬 東南諸道兵 相継崩潰 西北帥逗撓峽内 不能進一歩 城中食且尽 当此之時 以大兵薄城 如霜風之巻秋蘀 爐火之燎鴻毛 而皇帝以不殺為武 惟布徳是先 乃降勅諭之曰 来 朕全爾 否 屠之 有若英馬諸大将 承皇帝命 相属於道 於是我寡君 集文武諸臣謂曰 予托和好于大邦 十年于茲矣 由予昏惑 自速天討 万姓魚肉 罪在予一人 皇帝猶不忍屠戮之 諭之如此 予曷敢不欽承 以上全我宗社 下保我生霊乎 大臣協賛之 遂従数十騎 詣軍前請罪 皇帝乃優之以礼 拊之以恩 一見而推心腹 錫賚之恩 遍及従臣 礼罷 即還我寡君於都城 立召兵之南下者 振旅而西 撫民勧農 遠近之雉鳥散者 咸復厥居 詎非大幸歟 小邦之獲罪上国久矣 己未之役 都元帥姜弘立 助兵明朝 兵敗被擒 太祖武皇帝只留弘立等数人 余悉放回 恩莫大焉 而小邦迷不知悟 丁卯歳 今皇帝命将東征 本国君臣避入海島 遣使請成 皇帝允之 視為兄弟国 疆土復完 弘立亦還矣 自茲以往 礼遇不替 冠蓋交跡 不幸浮議扇動 搆成乱梯 小邦申飭辺臣 言渉不遜 而其文為使臣所得 皇帝猶寬貸之 不即加兵 乃先降明旨 諭以師期 丁寧反覆 不啻若提耳面命 而終不免焉 則小邦君臣之罪 益無所逃矣 皇帝即以大兵 囲南漢 而又命偏師 先陷江都 宮嬪王子曁卿士家小 倶被俘獲 皇帝戒諸将 不得擾害 令従官及内侍看護 即而大霈恩典 小邦君臣及其被獲眷属 復帰於旧 霜雪変為陽春 枯旱転為時雨 区宇即亡而復存 宗祀已絶而還続 環東数千里 咸囿於生成之澤 此古昔簡策所稀観也 於戲 盛哉 漢水上游三田渡之南 即皇帝駐蹕之所也 壇場在焉 我寡君爰命水部就壇所 増而高大之 又伐石以碑之 垂諸永久 以彰夫皇帝之功之徳 直与造化而同流也 豈特我小邦世世而永頼 抑亦大朝之仁声武誼 無遠不服者 未始不基于茲也 顧搴天地之大 画日月之明 不足以彷彿其万一 謹載其大略 銘曰
天降霜露 載肅載育 惟帝則之 竝布威徳 皇帝東征 十万其師 殷殷轟轟 如虎如豼
西蕃窮髮 曁夫北落 執殳前駆 厥霊赫赫 皇帝孔仁 誕降恩言 十行昭回 即厳且温
始迷不知 自貽伊慼 帝有明命 如寝之覚 我后祗服 相率以帰 匪惟怛威 惟徳之依
皇帝嘉之 沢洽礼優 載色載笑 爰束戈矛 何以錫之 駿馬軽裘 都人士女 乃歌乃謳
我后言旋 皇帝之賜 皇帝班師 活我赤子 哀我蕩析 勧我穡事 金甌依旧 翠壇維新
枯骨再肉 寒荄 復春 有石巍然 大江之頭 万載三韓 皇帝之休
嘉善大夫礼曹参判兼同知義禁府事 臣呂爾徴 奉教篆
資憲大夫漢城府判尹 臣呉竣 奉教書
資憲大夫吏曹判書兼弘文館大提学芸文館大提学知成均館事 臣李景奭 奉教撰