三田渡への道 番外編3

Wall Comes Tumbling Down!



ベッキー:レベッカ宮本「さて、黄文雄検証シリーズの完結編を始めるぞ」

よみ:水原暦「え?まだあるんですか?」

芹沢茜「しかもシリーズ名がいつの間にかついているし、完結編とか言ってるし」

美浜ちよ「朝鮮と清との間の『貢女』について詳しく書いている黄文雄の言説を再点検していて、今回のコンテンツ作成を決定したそうです。基礎材料はKJCLUBで投下した以下のスレッドです」

 ▲ゆっくり掘っていこう
 ▲少し掘り進めてみた
 ▲ドルゴンの通婚は「貢女」たり得るか?
 ▲懸案(?)解決

よみ:水原暦「上記スレッドでは論点が二つあるみたいですが、どう手をつけていくんですか?」

ベッキー:レベッカ宮本「うん、まず『色吏』という単語について見ていこうと思うんだ」

美浜ちよ「黄文雄は『色吏』についてこう書いていますね」

 李光濤著『多爾袞徴女朝鮮史事』(台湾・中央研究院歴史言語研究所)は、ドルゴン(清の太宗皇太極の弟、順治帝少年時代の摂政王)の朝鮮侍女強制徴集(強制連行)についての専門研究書である。
 同書によれば、清王朝の朝鮮半島の女性に対する強制連行は、美女と処女を原則として、朝鮮国王の妹や王女、あるいは王室や大臣の娘を宮妃として要求したという。
 しかも、清王朝の勅使は、李朝官公庁に対して、選ばれた侍女は醜女ばかりだと詰問することもよくあったらしい。
 勅使は、二品(宮廷の高官、李朝の官吏は正一品から従九品までの十八品階)以上の高官は二百人以上もいるのだから、その娘は少なくとも百人以上はいるはずだ。たった四人しか手に入らないのは怪しい。それなら、三品の官吏の娘の中から選ぶべきだと督促したりしている(『備辺司謄録』第二冊、一二二~一二三ページ)。
 侍女は原則としては両班の娘で、美女であるうえに処女が原則である。両班の妾の娘や中人(両班と常人の間の階級)以下の娘から選ぶのも問題はないが、なかなかそうはいかなかったらしい。
 また、母が官伎で、父が両班の官吏出身者でも、不正が発覚すると、責任官吏が逮捕され罪に問われることもあった(同書一三八~一三九ページ)。娼妓でごまかすものは、座首(指導、責任者)、色吏(女色統轄官)、伎生等の関係者によってチェックされ、不正役人は厳罰に処された。




「歪められた朝鮮総督府――だれが「近代化」を教えたか」(光文社 1998年8月) p33-34


 明や清の時代も元時代にならい、献上される侍女や貢女は美女で処女であることを原則としていた。また、その身分は朝鮮国王の妹や王女、あるいは王室や大臣の娘が好ましいとされていた。
 美女で処女である侍女を供出する場合は、両班の娘、またはその妾が望ましく、それ以外の地位の者を貢女として選んではならなかった。もしもこの点での不正が発覚し、宗主国である清が知った場合は、責任官吏が逮捕され厳しく罪に問われることもあった。
 貢女に娼妓をあてがいごまかそうとする気配のある者は、座首(監督官)や色吏(女色統轄官)らの関係者によって厳しくチェックされた。そして、実際に不正を働いた役人は厳罰に処されたのである。清初の貢女関係研究書については、李光濤著の『多爾袞徴女朝鮮史事』(台湾・中央研究院歴史言語研究所)に詳しい。



「韓国は日本人がつくった」(ワック 2005年5月)(徳間書店2002年4月刊行の改訂版) p41


桃瀬くるみ「好色とか色欲って単語もあるんだし、『色吏』は女性に関係のある役人と解釈しても不自然じゃないでしょ?」

美浜ちよ「でも、『八色の姓』という歴史用語のように『種類』という意味もありますし、『色代納』という歴史用語の場合は米以外の『産物』を指しています。これらは日本史のケースですけど、『色=女色』と決めつけるのは早すぎると思います」

ベッキー:レベッカ宮本「うん。たしかに一つの漢字には複数の意味や用法をもつものが多いし、ときには相反する意味を保有する漢字すらある。話はそれるが、たとえば日本史では『反正天皇』という天皇が存在するが、作者は中学時代この表記を初めて目にしたとき驚いたそうだ」

よみ:水原暦「どうしてですか?」

ベッキー:レベッカ宮本「『正しいことにそむく天皇』と読んだんだよ。『謀反(叛)』っていう言葉もあるように、『反』には『そむく』という意味があるしな」

芹沢茜「悪口満開っていうか悪意のある諡号になるじゃねーか」

ベッキー:レベッカ宮本「ところが漢和辞典を調べると『反』には『かえす』という意味もあったんだ。『反正』は『正しきにそむく』ではなく『正しきにかえす』つまり『正しい状態にもどす』という意味だったんだ」

桃瀬くるみ「まるで正反対じゃない!」

美浜ちよ「はい。『叛』じゃなくて『返』や『皈(帰の異体字)』と同じ意味ですね。正式には『撥乱反正』といって『乱ををさめて正にかへす』と読んで、『乱世を収拾して正しい世の中に調整する』というほどの意味です。もともとは春秋公羊伝の哀公一四年条に出てくる『撥乱世反諸正』という言葉です」

よみ:水原暦「あえてその意味を外して読めば『乱をひらいて正にそむく』と正反対の意味にとれることもできるな」

美浜ちよ「そうなんですよ。漢字一つだけでも複数の意味を持っていてややこしいわけですから、その集合体である漢文になるともう大変なのです。単純に一文だけを切り取って解釈したらどうとでも解釈できてしまいますから、前後関係や全体の流れなどをとらえて、その中で解釈を位置付けていかないと正確な解釈を確定できないのです」

桃瀬くるみ「もうややこしいなぁ。どうしてそんな正反対の味が一つの漢字に含まれているのよ?おかしいじゃない!」

ベッキー:レベッカ宮本「わたしだって漢字は苦手なんだ。そんなに責めるな。そのへんについて作者に素で語らせたらとんでもない分量になるので、白川静の『漢字百話』などの諸著を読んでおいてくれとしか言えない…で、本題に戻すと、漢字には複数の意味をもつものが多いから、漢字を見ただけでその意味を即断してはいけないってことなんだ」

よみ:水原暦「今回のケースで言いますと、ちよちゃんの言うように『色』=『女色』と即断してはいけないってことですか?」

ベッキー:レベッカ宮本「そういうことだ。しかも朝鮮漢文だから、中国や日本漢文とは違った独自の意味や用法を持っているかもしれないしな」

美浜ちよ「基本的な意味は共通するんですが、官制や口語的な用法になってくると独自のものがありますから…そういうわけで、ポルっちことPolalis氏の指摘もあって結局は『大典会通』を読むことになったのです」

芹沢茜「『たいてんかいつー』?なんだそりゃ?」

美浜ちよ「李朝の官職や官制について規定された書物です。日本でいえば大宝律令とか養老律令のようなものです。李朝の官制について調査するときには避けては通れない文献ですよー」

ベッキー:レベッカ宮本「で、作者は結局それを調べたんだが、以下のような記述を見つけることができた」




よみ:水原暦「えーっと、戸曹のほうは『(別営色)訓局軍兵の放科をつかさどる』『(別庫色)貢物の上下をつかさどる』『(歳幣色)節使の歳幣をつかさどる』『(応弁色)客使の支需をつかさどる』『(銀色)金銀をつかさどる』ですか」

桃瀬くるみ「兵曹のほうも見たけど、これじゃ『色』が『房』や『司』みたいに諸役所の部課係をあらわす単語として使用されているようにしか見えないわね」

美浜ちよ「そうなんですよ。複写ミスで上部が切れているのですが、朝鮮総督府中枢院編集の校註本では「色吏 係を色と云ふ。該係りの小役人を云ふ」「監色 監官と色吏」という註がついています」



よみ:水原暦「つまり『色吏』は黄文雄のいうような『女色統轄官』ではなく、単に地方庁の役人、ヒラの係員程度ってことなんですね」

ベッキー:レベッカ宮本「そういうことだ。李朝に女色専門官吏がいたなんて、それなんていうB級ポルノなんだと」

木村先生「こんなものを想像してたらいけませんなぁ。もっとも、女子高生好きの私にとってはストライクゾーンを大きく外れたビーンボールです。残念賞もあげられません」

よみ:水原暦「頭痛いマネはやめてくれ…」

桃瀬くるみ「どうして作者は、先に『李朝実録』から見ていくという回りくどい手順をとったの?最初から『大典会通』を読めば一発でわかるじゃない」

美浜ちよ「スレ本文でも書いているように図書館に『大典会通』を読みに行く時間がなかったというのもありますし、『李朝実録』の記述だけでも『色吏』が『女色統轄官』と解釈し難いことがわかり、ついついそのままほったらかしにしていたというのもあります。でも最大の理由は、『色吏』=『女色統轄官』という解釈を担保し得るあらゆる可能性を潰しておくために、本丸を急襲するのではなく外堀から丁寧に埋めていくという常套戦術を実施したからなのですよ」

よみ:水原暦「…つまり、作者の好きな、空気穴を一個ずつふさいでいくような嬲り殺しということか…」

ベッキー:レベッカ宮本「ま、そういうわけで、『色吏』=『女色統轄官』ってのは妥当ではないということを確認して、次は黄文雄の『多爾袞徴女朝鮮史事(李光濤 台湾 中央研究院歴史言語研究所)に対する取扱の妥当性について見ていくぞ』

美浜ちよ「『歪められた朝鮮総督府――だれが「近代化」を教えたか』のほうが詳しく書いていますので、そちらを検証していきますね」

よみ:水原暦「この『多爾袞徴女朝鮮史事』って前々回前回でもとりあげましたよね」

芹沢茜「えーっと、懐恩君の息女がどうこうってくだりだったな」

ベッキー:レベッカ宮本「ああ、そのとおりだ。で、この李論文をきちんと読めばわかるんだが、そもそも李論文の論題は、ドルゴンが夫人を亡くした際に朝鮮に対して通婚を求めた顛末や、順治帝の生母と結婚した際の朝鮮朝廷の反応などを論題としたものなんだ」

美浜ちよ「たしかに論文の中で、朝鮮に対して侍女を要求という話は出てきますが、それはドルゴンに嫁ぐことになった王族子女に仕える侍女の話です。それにドルゴンの婚姻は一回きりのことですし、侍女の徴集もその時だけの話です」

芹沢茜「侍女の強制連行や献上じゃねーのか?」

ベッキー:レベッカ宮本「侍女を集めて清に送ったのは事実だが、それはちよちゃんも言っているように、ドルゴンに嫁ぐことになった王族子女に仕える侍女の徴集のことだ。つまり、黄文雄は、婚姻にしろ侍女徴集にしろ、制度化されたものでもなく永続的なものでもないのに、制度化された「貢女」であるかそれに関係あるかのように書いているわけなんだ」

桃瀬くるみ「それって、どこかで見たような展開…」

美浜ちよ「はい。第1回で見た、清に侍女10人を送ったというお話と同じ展開です」

よみ:水原暦「どちらも清の重要人物に嫁ぐことになった女性に仕える侍女だったという点では共通しているよな」

桃瀬くるみ「じゃぁ、顛末のほうはどうなの?やっぱり同じような展開になったの?」

ベッキー:レベッカ宮本「その辺の流れについてはネタ元スレから抽出しておくぞ。少し長いが辛抱してくれ」


▲ドルゴンの通婚は「貢女」たり得るか?

 では、ドルゴンの通婚はどのような展開をしたのでしょうか。『孝宗実録』『備辺司謄録』『承政院日記』から概略を追ってみましょう。
 また、黄は、
「勅使は、二品(宮廷の高官、李朝の官吏は正一品から従九品までの十八品階)以上の高官は二百人以上もいるのだから、その娘は少なくとも百人以上はいるはずだ。たった四人しか手に入らないのは怪しい。それなら、三品の官吏の娘の中から選ぶべきだと督促したりしている(『備辺司謄録』第二冊、一二二~一二三ページ)」
「また、母が官伎で、父が両班の官吏出身者でも、不正が発覚すると、責任官吏が逮捕され罪に問われることもあった(同書一三八~一三九ページ)」
 というふうに李論文に引用されている史料をそのまま引いていますが、その妥当性についてもあわせてみていきます。ま、個々の条文についていくら妥当な解釈をしていたところで、李論文を制度化された永続的な「貢女」についての研究書であるとしている時点で既に話にならないんですけどね。

孝宗実録 孝宗元年(1650)3月5日条
初中使羅嶪因他事偕謝恩使赴北京至是巴訖乃等与之俱来而恐洩其所幹事不肯先送既近京城始許嶪還嶪既旣謁上上引見大臣及吏曹判書李時白上使嶪言其所聞嶪曰彼云婚媾事汝未及詳知故今始明言之。汝帰告国王又以国王之意来報於弘済院九王新喪夫之故欲与国王結婚国王之女子幾人年歲幾何俺等皆已知之矣若婚媾既成則群臣不敢欺侮而大国亦当専信但国王必不能独断将問於群臣群臣必曰豈可与此輩結婚云爾故不欲使之先知耳且聞爾国群臣各自分党先王升遐未久放逐旧臣此必有主論者今当査覈云(中略)嶪曰方物事亦以為礼判之所主矣婚媾事則臣応之曰公主之時存者年方二歲彼曰公主年幼則雖択於宗室中可合者亦無妨云上仍与諸臣議其可否皆曰不可不許古之帝王亦有行之者召強近宗室問其女子有無可也上曰此外諸事亦宜熟講

孝宗実録 3月7日条
上引見大臣及備局諸臣問曰昨日羅嶪以許婚之意往言于弘済院則彼有喜色(中略)清使又以一勅書授于上乃摂政王書也書中及婚事故巴訖乃祈青古等甚秘之辟左右然後請上見之上無留難之色巴訖乃等皆相顧而笑既罷上謂都承旨尹絳曰快許婚事則渠輩甚喜査問亦不行於今日事機頗緩矣(中略)其二曰皇父摂政王勅諭朝鮮国王予之諸王曁貝勒衆大臣等屡次奏言自古以来原有選藩国淑媛為妃之例乞遣大臣至朝鮮択其淑美納以為妃締結姻親予以衆言為然特遣大臣等往諭親事爾朝鮮国業已合一如復結姻親益可永固不二矣王之若妹若女或王之近族或大臣之女有淑美懿行者選与遣去大臣等看来回奏特諭

 夫人を亡くしたばかりの九王つまりドルゴンから、孝宗にその娘との通婚についての話がもたらされ、孝宗は結局承知しました。但し、孝宗の実の娘はまだ2歳なので、孝宗の妹か王族あるいは大臣の子女から通婚相手を選ぶことになりました。

孝宗実録 3月9日条
(前略)上曰命守言当以査問曲折帰奏皇帝然若成婚媾則査事亦可少緩而処女選択迄無回報何也云其意可知而処女之中於選者尚未能得将若之何宗簿寺提調呉竣曰曽聞聖教錦林君自言其有女而且有姿色云此可以中選矣上曰昨日已令選入矣

 で、呉竣という臣下が「以前、錦林君から『うちの娘は奇麗だぞ』という話を聞いたことがあります。彼女を候補に入れましょう」と発言し、孝宗は「昨日、候補に入れるようにしておいた」と答えます。

備辺司謄録 3月13日条
啓曰文武南二品以上聚問已畢而判敦寧閔馨男孫女子左尹許啓戶曹参判呂爾載武臣行護軍朴深陽原君許選女子外或已成婚或年歳幼弱或有全無者此後則計没奈何不得已以此四人言于館所而其中亦有疵病云恐以塞責逢彼之怒極為可慮敢啓答曰数甚零星此四人則不可不見矣(中略)啓曰臣等初意以為文南二品以上必得可備参四之数不欲並及於武弁矣即者文南来会之中已問之人幾尽而左尹許啓之外皆以無女子孫女為言降此一等亦以為無館所催促甚急捜出無路事極悶迫武弁中二品以上並為一体招問何如答曰依啓速為挙行

啓曰臣等与備局堂上自闕下来詣館所使李訳通于館所曰二品以上女子及孫女尽心捜問只得四人方為聚待此外更無可得之路云則李訳入去還来伝諸勅之語曰二品以上食禄者不下二百人二百人之女子必不下百人而所択若是其少何也此四処女父祖名即須書給其余隠匿者吾自有摘発之路矣且如以二品以上為不広則参品官女子並為抄択今日内来告使之及時看審云而祁姓者最為嗔怒至以軽蔑為言云臣等以勅書中只挙大臣下及於二品既非勅意況旁侵不已至於参品乎大概藩国卿相之女猶不敢上配極尊況以参品官女子豈敢当今日之選乎且二品以上聚集之時閭閻騒擾達夜靡定参品官招問之挙継此而又起都下人心益致驚恐決難開端無已則就二品中女子一両人在近郊者亦為率来矣朝臣如此重事豈不欲尽心事勢如右竭心捜訪如是略少徒切悶迫云則李訳復以鄭勅之言来伝丁丑約婚之後皇帝命己之特用寬恩也因近来朝廷做錯使此患更起是誰之咎自上至誠奉行宗室不過百人而出示処女至於十六人朝廷以百官之多只欲以四人塞責俺等何論二品参品朝臣女子参四十人聚見後如有可合則択之無則見而帰奏而已俺等不必督過有則有云無則無云可也云在我無可增之勢在彼有務多之心恐嚇督迫愈往愈甚今若更為提起参品則搢紳間驚動輦轂下騒屑必甚於昨夜今日不如是則計没奈何臣等罔知所処不得已使李訳或先抄四人今日揀択或加得若干待明日看審事措辞探問矣李訳来言以前両款力陳于鄭使則今日已暮待明日必得六十人以来使俺等早為往見云六十之說雖是虚張而細問於李訳則必不下自内揀択之数方可塞責云今日朝家費尽心力告諭備至辞意厳明二品以上通文南武只得六人処子参品官未知幾何而能得十許処子恐未易也然不可坐而等待明日亦待開門斉会賓庁一如今日之為何如答曰知道

 二品以上の高官の娘の中から候補者を選出するとたった4人だけ。あとはすでに結婚していたり幼児であったりして対象外というわけです。勅使は「二品以上の高官は200人は下るまい。当然その娘は100人を下ることはないだろ」「三品の高官にまで範囲を広げて再調査しろ」とか「王族は100人程度しかいないのに候補者は16人も出せた。廷臣たちは王族より人数も多いのにどうして4人しか出せんのだ」と怒ります。
 このあたりは、黄が「勅使は、二品(宮廷の高官、李朝の官吏は正一品から従九品までの十八品階)以上の高官は二百人以上もいるのだから、その娘は少なくとも百人以上はいるはずだ。たった四人しか手に入らないのは怪しい。それなら、三品の官吏の娘の中から選ぶべきだと督促したりしている(『備辺司謄録』第二冊、一二二~一二三ページ)」と書いているのは妥当でしょう。

 なお「丁丑約婚之後皇帝命己之」とは以前紹介した1637年の婚姻の話を指します。侍女だけ先に送っといて結局中止になったやつですよ。
 ここから1週間、選定に関する作業が続きます

承政院日記 3月14日条
迎接都監郞庁以領右相意啓曰臣等先往掌楽院俄而五勅一時来到看審処女即為爲還館臣等隨往館所則五勅仍坐西庁招臣等及六卿判尹臣等与吏戸兵刑工判及判尹入坐則鄭勅伝言曰俺等往見処女無一人可観者必択一様庸劣人以試之也臣等以惶恐之意尽心之状措辭答之則鄭勅伝諸勅之言曰今則如斯而止此後如有隠匿而現発則其事不細云臣等致謝罷出(後略)
又啓曰即刻諸勅似有怒色促入騎馬未知■■極為悶慮之意敢啓伝曰知道
又啓曰諸勅使到掌楽院看審■処女後卽還館所而三公六公卿皆令来会館下云敢啓伝曰知道
又啓曰今日処子揀択事已為無事結末而鄭使頗有徳色此時別遣承旨独於鄭勅致謝則似合権宜敢稟伝曰独謝於鄭勅似未妥当従容致謝可也

 鄭命寿らが「俺らは候補者を見に行ったが、一人として見るべきものはなかった。大したことない者を選んで俺らを試しているんかい」と怒っています。これは黄が「しかも、清王朝の勅使は、李朝官公庁に対して、選ばれた侍女は醜女ばかりだと詰問することもよくあったらしい」と書いている個所ですね。但し、詰問が「よくあったことらしい」なんてのはダメですな。このドルゴン通婚時だけでの話ですから。
で、ついに決定です。

孝宗実録 3月20日条
上接見清使于仁政殿巴屹乃等帰到坡州清使又自西路先至遂与巴屹乃等還入京城直詣闕下上即出而見之清使曰東西副使二人先帰其他諸使仍留与女子俱帰以除往来之弊上曰惟命是時巴屹乃称東正使祈青古称西正使其下二人各称東西副使鄭命守称第五使矣清使又入殿内見宗室女良久而出曰十六歲女子治装十参歳女子因留養宮中以待之其余皆出之女子率去時則大君宜行上曰小祥迫近而今若遽作此行則情理罔極予即大君也大君即予也情豈有異同哉往復数四清使曰大君及大臣皆治装祥祭過後則大君去未過則大臣可去矣又曰朝臣女子宜充侍女上曰予既以宗室女為養女而入送何可更以冗雑女子並往乎清使曰当従容量処上曰二大人明日何時当発耶今夕当往見於館中明日又送行於郊外彼曰鷄鳴当発請毋来臨

 清の使者(計5人)は16歳の女子を選びましたが、これは原文の注に「女子之治装者錦林君愷胤之女也」とありますので、先ほど出てきた錦林君の娘ということになりますね。彼女を王の養子として形式を整えるわけです。さらにその侍女には廷臣の子女をあてるべしともあります。
 さて、王室の婚姻ともなると、それを取り仕切るために官職が設置されます。

孝宗実録 3月22日条
以工曹判書元斗杓等四人為婚礼都監堂上主管宗室女治装

承政院日記 3月22日条
又啓曰朝者以処子治装事四曹判書差定称以都監将為挙行之意使之告知矣即聞李馨長之言則鄭使以此意言於上勅曰我国国婚時雖以都監排設不過堂上官差出而今此都監則以判書等差出本国尊敬上国之意拠此可知云則上使喜色動於顔面云敢啓伝曰知道

 婚礼都監という官職なんですが、通例を破って判書という高級官位の者をあてたのは清を敬ってのことなんです、と勅使の鄭命寿に対して言ったりしています。もちろん、鄭は喜色をあらわします。
 このまま順調にいくかと思いきや、ちょっとした問題が発生します。

承政院日記 3月23日条
備局堂上引見入侍時(中略)斗杓曰更而思之宮人則不可矣且処女名号定之宜当上曰公主之称乃僭号也彼中如漢人輩知而執言則奈何竣曰漢唐宋皆以公主称之上曰諸侯王之女称以何号耶墰曰或云郡主(二行缺)(後略)

承政院日記 3月25日条
尹順之以吏曹言啓曰礼曹啓曰伝曰称公主事問于館中則以為無妨云作号啓下事言于該曹使之速為挙行可也事伝教矣自前凡公翁主定号吏曹専掌為之今亦依伝教令吏曹照例急速下批何如伝曰依啓事伝教矣公翁主定号自前有上命後宝啓請安宝例也自下無擅便之事上裁何如伝曰以義順公主下批可也
承政院日記 3月26日条
伝曰客使所聞処則処女宜以下批之号称号事分付于都監錦林君女子名号義順公主
(前略)澯曰彼以臣為宗戚若問錦林君族譜則将何以答之上曰既言錦林与予五寸親而其女即六寸也取為養女今作国家子孫則錦林不得以子之也以此答之為可

 形式上国王の娘となる錦林君の娘の称号をどうする?ってことなんですが、最初孝宗は「公主って僭称になるよね」と言いましたが、結局は「義順公主」となりました。なお、錦林君は孝宗の五親等に当たるらしいです。
 侍女の選定についてもいろいろ進んではいるようです。

備辺司謄録 3月21日条
啓曰侍婢揀択事已為停当而前日則以官婢択送事分付今則与此不同依彼言更為行会宜当但只択十六人則恐有臨時有頉之患預差五人加抄事並及於移文中而両西京畿亦為分定之意敢啓答曰知道

備辺司謄録 3月22日条
啓曰侍女額外加数並二十一名內京畿一名全南江原各二名洪清黄海慶尚咸鏡四道各参名平安道四名分定昨已行会于各道矣侍女抄送京中之挙万分緊急不可無領来之人別定差使員星火押領上送而侍女所騎馬及載卜刷馬到即替給供饋護送等事着実挙行之意諸処監司処亦為発馬行移更為申飭何如答曰依啓及其上来之後預備五人則勿為混雑元額内処他処不得已後出用事銘心秘密挙行可也

 おや?定員の16名に加えて、5人を追加で送ることになりましたよ。どんな「患」をおそれたんでしょう?ともかくも全21名中、京畿道から1人、全南道・江原道から2名ずつで4名、洪清道・黄海道・慶尚道・咸鏡道から3名ずつで12名、平安道から4名という内訳です。

承政院日記 3月29日条
又啓曰即者四勅使並会于山亭使差備訳官送言于臣等曰侍女被抄之人近道則今日定限未知幾人已到乎俺等当親自往見云臣等答曰近道定限雖在今日時未入来今夕明朝間必連続入来待其斉到相致看品可也大人何可往見乎勅使曰公主陪往侍女事体重大与俺等為同班之人何敢自重不為往見乎須速催促待令云勅使若往見則夫馬似当前期招集以待而勅使又言公主一行帳幕之内他無出入之人宦寺不可不優為定送中使二人及小宦四人入去之説雖已聞之小宦之数略少不足於使喚小宦十余人定送事即為啓知云敢啓伝曰知道

 清の勅使も選定オーディションに加わっていますね。

備辺司謄録 4月2日条
婚礼都監啓曰今者勅使所見侍女七人内洪清黄海両道各参人京畿一人也黄海道二人京畿一人似非庸品而亦未免一様見責前頭抄来者並皆見可於勅使実所未料極為悶慮但洪清道抄送参人尤甚麤劣延安所送一人則其父乃内奴而以司果載録於成冊中自都監詰問時始為発覚殊甚可駭洪清監司尹得悦延安県監申洬姑先従重推考以為警責之地此外未上来各道則各別精択両班嫁公賎所産閨中長養之人罔昼夜上送事発馬知委何如伝曰知道
婚礼都監啓曰今月初二日引見時領相曰今此侍女抄択之挙万分緊急而外方不念朝廷渇悶之状致有如此之事極可駭也右相曰外方所為殊甚非矣元斗杓曰当初備局分付内各道所抄侍女其母雖是公賎其父則必以品官出身納粟人等所生抄択非不厳明且鄭使言曰其父公私賎而見覚於北京則当大罪云行会各道前後丁寧而今此選送女子之中江原道二人則私奴内奴所生也殊極駭異矣南銑曰外方之官請従重推考何如上曰監司亦宜拿推而但如此則新旧交替之間似未及為之故監司則姑為推考守令則為先拿推尹履之曰洪清道参人尤甚麤劣延安一人則以司果載録而其実内奴也自都監詰問始為発覚此亦一体拿推乎上曰其欺罔之罪不可不懲並為拿推各邑実色吏及監営営吏捉致京獄厳治事伝教矣洪清道抄送侍女参人尤甚麤劣黄海道抄送延安女人則其父乃内奴而以司果冒録於成冊中江原道原州侍女則其父以私奴公然開録横城侍女則其父以内奴開録京畿侍女只一人而亦未免麤劣不省当初啓下事目苟為塞責之地事極駭異江原監司李元鎭則昨以此事已為請推矣洪清監司尹得説京畿監司崔恵吉黄海監司金汝鈺等為先従重推考原州牧使朴純義延安県監申洬等依上教拿鞫定罪横城県則乃峽中至残之地人物鮮少雖不可比擬於大邑而似難全釈県監閔煦令本道監司営門決杖四道当該営吏及有頉各邑実色吏拿致京獄刑推何如伝曰依啓横城県監亦為拿推京畿洪清道尤甚麤劣該郡守令亦為摘発重治監司則此非推考之罪姑勿推考更観所為結末後稟処

 ダメ出しがあったり、父親が奴隷であることが発覚して退けられたりといろいろあるようです。黄が「また、母が官伎で、父が両班の官吏出身者でも、不正が発覚すると、責任官吏が逮捕され罪に問われることもあった(同書一三八~一三九ページ)」と書いているのはここの記事のことです。鄭命寿は「父が奴隷であることが北京でばれたら大罪になるぞ」と言っています。自分の指導監督不行き届きにもなってしまうわけだしねぇ。黄の言説は「色吏」の解釈以外は妥当でしょう。
 なお、青字部分の「各邑色吏」は「色吏」と同じく現場の係員を指し、黄文雄のいう「女色統轄官」ではないと解釈するほうが妥当であることについては先に触れています。

承政院日記 4月11日条
又啓曰即刻中使以侍女整斉之意来告館中則使人馬整斉即欲往見於掌楽院故敢啓伝曰知道
又啓曰諸勅往見侍女初則十六人択取後更択十一人辞縁詳在昏礼都監啓辞中矣即刻還館之意敢啓伝曰知道

 なんとか当初の定員である侍女16名もそろったようです。4月22日、義順公主一行は北京に向けて出発します。

孝宗実録 4月22日条
上幸西郊送義順公主之行侍女十六人女医乳媪等数人従之都民観者無不惨然

 侍女5人を追加して送るという件は残っていますが、いちおうは一件落着…しませんでした。北京でクレームがついたというのです。

孝宗実録 8月27日条
護行使元斗杓等自北京還上召見之問曰彼国以李景奭趙絅事為何如斗杓曰(中略)九王初見公主頗有喜色待臣等亦厚。及至北京以公主之不美侍女之醜陋詰責万端此甚可慮矣九王云自先汗施恩本国甚厚我亦有私恩於国王而毎以倭釁請築城錬卒必爾国上下皆有異志也且侍女之選進自明朝已有旧例今日之挙欲観爾国之所為而爾国不肯精択公主既不満意侍女亦多醜陋爾国之不誠於此益可見矣(後略)

 ドルゴンが公主も侍女もブサイクやんけ!ほんでやなぁ、散々わしらの恩をこうむりながら、日本の侵攻を理由に築城したり兵を鍛えたりとワレら含むところあるんちゃうんけ?と言ってきたようです。実はこの前年から朝鮮の態度に不審なものがあるとして、大臣たちが罪を問われたりしているのです。そういうこともあって朝鮮朝廷も鄭命寿もピリピリしていたんでしょうかね。

 で、追加侍女の選定のほうですが、ゆっくりと進んではいるようです。

備辺司謄録 9月8日条
以本司侍女抄択単子伝曰第五条件内勿以泛称重律監司以下皆以依前拿推論罪可也年歳則以十七歳為限可也
啓曰全南道長城及慶尚道安東等地有年少女人頗称姿色人多言之者発馬急急行会于両道監司処本月十七日内使之上送何如答曰允

備辺司謄録 9月23日条
啓曰平安道選女七人咸鏡道四人等再参看審則並皆不合而不得已平安道参人咸鏡道一人姑為留置其余並令還送領来両道差使員亦為一時還送之意敢啓答曰知道

備辺司謄録 9月28日条
啓曰今日中使与臣等更為看審侍女抄択其五人其余則並令留待渠家而其中咸鏡平安道各一人既為不合又難留置京中故並為還送矣京中士夫女二人亦令留待本家待推捉人畢到後更為抄択事敢啓答曰知道

備辺司謄録 10月5日条
啓曰咸鏡道侍女八名江原道四名今日来到即者臣等齊会看審則皆甚無形遐外之人留置不当故並令卽為還送之意敢啓答曰知道此類皆給回糧以送

 なかなか順調とはいかないようですが、10月1日になって侍女を広く徴集することを辞める決定が下されます。

備辺司謄録 10月1日条
昼講時同知事趙錫胤榻前所啓近以選女民間多有騒擾之弊遠外之事雖未能詳知而以聞見言之畿輔残邑亦多所選云当初只選両界及京中而已今則諸道皆有抄選之挙閭閻騒屑無異於今春云似有変通之挙矣上曰初以為監司聞見善処矣豈意騒屑至此也諸道選女事亟令停罷

 とりあえず5人そろって清に送り出されたようです。いつ出発したかは記録に見えないのですが、結局は北京に着く前に事態が急変して引き返したということが、以下の記事によってわかります。

孝宗実録 12月9日条
義州府尹蘇東道馳啓曰摂政王十一月初九日病死清使以伝訃出来追送侍女亦自中路還送云

 なんとドルゴンが病死してしまったのです。追加で送られた侍女は途中で引き返しました。

 なお、黄が「娼妓でごまかすものは、座首(指導、責任者)、色吏(女色統轄官)、伎生等の関係者によってチェックされ、不正役人は厳罰に処された」なんて書いていますが、関係者として妓生が出てくるのはこの記事だけです。

備辺司謄録 10月1日条
啓曰柳大華妾女自忠原所居之処今始来現臣等斉会看審則容貌年歲俱極可合而頭髮尽剪所見驚駭領来本県座首趙球色吏石起英妓生礼眞及其同生男柳晅等捉入推問則到中路見之以剪刀手自断髮云不謹看護以致如此各人所犯已極可悪而県監李袗不念朝家緊急之意専不検飭押来之人至令女人自翦其髮亦甚不当李袗従重推考趙球等四人令攸司囚禁厳刑以為懲励之地何如答曰依啓

 侍女候補者が道中で髪を切り落とすという事件が発覚し、監督不行き届きを責められたわけですね。

 さてさて、その後義順公主はどうなったのでしょうか?

孝宗実録 孝宗2年(1651)2月18日条
遠接使李時昉平安監司鄭維城馳啓曰臣等問鄭命守曰清使四人所幹何事答以尊封清主生母為太后且蠲本国歳弊為此頒詔又密言摂政王生時陰懐簒奪之志預備黄袍叛形已具又有告之者清主大怒削号黜廟籍其家産於官分其諸姫於諸王義順公主亦帰於白陽王之子云

孝宗実録 6月3日条
上引見大臣及備局諸臣戸曹判書元斗杓曰聞鳳凰城将八人一時被囚於清国未知因何事也上曰近聞本国人潛商狼藉城将之被囚無乃以此故耶?使義州府尹探問宜矣斗杓曰聞孫伊為名者用事於清国云矣上曰所謂孫伊以前汗之腹心今汗亦信任之而其人鵰悍常不屈於人故曾聞免為庶人矣今必復用而甚是不吉人也。刑曹判書李時昉曰臣纔於赴燕時見鄭命守気色則与前頓異大有憂懼之色及到義州有星隕之変諸清使相顧失色彼国必有可慮之事而然也斗杓曰義順公主又適甫老其人主管東事云似当存問矣上曰姑且観勢為之

 どうやら皇族か廷臣と再婚したようです。もっとも、以下にあるように数年後に朝鮮に帰国を許されます。

承政院日記 孝宗7年(1656)3月4日条
成貼謝恩使状啓(中略)皇帝曰(中略)陪臣錦林君李愷胤之女孀居邸第骨肉遠離朕㦖惻久矣且此女於王既続宗支又経撫養睽諸親誼王之懸念必深今李愷胤進貢来朝奏請欲見其女朕夙昔矜憐之意因之愈切特遣太子太傅議政大臣哈什屯等送令帰国俾依親自守王其悉之特諭(後略)

孝宗実録 4月26日条
上幸西郊迎清使接見于仁政殿其勅書曰朕撫育万方心存博愛原無分於内外爾国称藩奕世效順有年至情相関亦宜体恤陪臣錦林君愷胤之女孀居邸第骨肉遠離朕憫惻久矣且此女於王既属宗支又経撫養王之懸念実深今愷胤進貢来朝奏請欲見其女朕夙昔矜憐之意仍之愈切特遣太子太保議政大臣哈什屯則令送帰国俾依親自守王其悉之。
義順公主還自清国

 冬至使として北京に赴いた父の錦林君が帰国を請願し、帰国を許されました。そして9年後…

顕宗実録 顕宗3年(1662)8月18日条
上下教政院錦林君女子之喪令該曹優給喪需孝宗朝清国九王欲与我国結婚遣使要得公主孝宗重違其意選宗室錦林君愷胤女称以義順公主送与九王九王既死清国以其女遽与九王手下将愷胤適奉使入燕京呈文請還清人許出送至是病死上憐之命官庇其喪

 一生を閉じました。


よみ:水原暦「清の使者が怒ったりとか役人が罰せられたりといった個々の部分については、黄文雄の文章はさほど外しているわけでもないんですね」

ベッキー:レベッカ宮本「まぁな。とは言っても一回きりの事象を永続的なものとととらえている時点でダメダメなんだがな」

美浜ちよ「スタート地点でボタンを掛け違えているわけですからねー。とりあえず、ドルゴンの通婚は『貢女』とは解釈し難く、それを取り上げている李光濤の論文は、黄文雄のいうような『貢女関係研究書』としては扱い難いということはわかっていただけたと思います」

桃瀬くるみ「少なくとも、朝鮮から清へ女性を献上し続けたという言説を担保する史料じゃないってことね」

ベッキー:レベッカ宮本「そういうことだ。以後、朝鮮から清に女性を献上したという言説や朝鮮には貢女に関する専門の官吏がいたなんて言説については黄文雄以外の論拠を要求する。むろん、黄以外に論拠があるなら喜んで検証するぞ」

芹沢茜「そんな論拠になる史料なんてないって知ってて言ってるだろ、この作者…」


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