三田渡への道 番外編1
Don't Stop Believin'
「今回は本編から派生した小ネタについて触れていくぞ」
「久々の出番だなぁ」
「わざわざコンテンツにするからには、何か事情があったんですか?」
「はい。本編作成時には追いきれなかったネタについて追加調査したのでまとめてみようというんですよ」
「実は他にも理由があるんだが、おいおい触れて行くかもしれんそうだ…まあ、そういうわけで、シャルル・ダレの『朝鮮事情』についての調査だ」
「ダレ?どこかで間いたような…」
「まず、本編第4回、丙子胡乱で朝鮮がついに清に降伏して、清に毎年差し出すことになった物資一覧の最後のところを引用しますよ」
なお、よく言われる「牛三千頭、馬三千頭、各地の美女三千人」の貢納については書かれていない。これについては、寧覇総督府の『「美女三千人」貢納言説について』が詳しく検証しているが、つまりは、それを聞いて書き留めたシャルル・ダレすらその事実を証明できなかったと明言した「風聞」「俗説」である。
「フランス人の神父なのね」
「そうだ。彼が鎖国状態だった朝鮮の情報をまとめたのが『朝鮮事情』という書物なんだが、その中で朝鮮と清が結んだ盟約についての話があるんだ」
「リンク先にはどう書いてあるんだ?」
「正確を期して全文を引用しますね」
「美女三千人」貢納言説について
朝鮮は、清に服属した後、清朝に毎年美女三千人を貢いでいた、といった類の主張を日本人が行う場合がある。あるいは「三千人」と述べずとも、処女を毎年献上していたとする主張も見受けられる。 以下に2例を掲載する。
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1633756
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=613275
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Google等で検索してみた限り、典拠はどうやら黄文雄『中国・韓国の歴史歪曲』のようである。この話題は広く流布しており、出典が明記されないサイトも多いようにみうけられる。
では、黄文雄は何を根拠にこの主張を行ったのであろうか。『中国・韓国の歴史歪曲』には、
朝鮮と清国の従属関係について、簡単にまとめれば、(中略)細かく定められた貢品以外に、毎年、牛三千頭、馬三千頭、各地の美女三千人を選り抜き、清国に朝貢することが義務づけられていた*1。
とあるのみで、残念ながら根拠は記されていない。そこで黄氏の翌年の著作を見ると、
李朝が毎年、宗主国へ朝貢する貢ぎ物の中にも「宦官」と「貢女」が見られた。しかし「清」に対して毎年、供出する宮廷慰安婦、美女三千人というダレの『朝鮮事情』の記述に関しては、私は多少の疑問がある。
中国歴代の王朝の宮廷では「後宮美女三千人」が通説ではあり、晋の武帝や梁の武帝の時代は一万人を超える場合もあった。清の雍正帝のような名君は、きわめて少なかった。
しかし、李朝時代には、それほど大量の美女を毎年、宗主国へ送る事は考えられない*2。(後略)
とあり、根拠はダレ『朝鮮事情』であるとする。ただしここでは「私は多少の疑問がある。(中略)李朝時代には、それほど大量の美女を毎年、宗主国へ送る事は考えられない。」との私見が加えられ、幾分慎重である。黄氏の近著にも、
李朝時代が毎年、宗主国に貢女や宦官を献上していたのは史実である。西洋の伝道師シャルル・ダレが書いた『朝鮮事情』(平凡社東洋文庫)には、李朝朝鮮は毎年、宮廷慰安婦として「美女三〇〇〇人」を供出していたと書いてある。とはいえ、三〇〇〇人とはあまりにも多すぎると私は思う*3。
とあり、「毎年、宗主国に貢女や宦官を献上していたのは史実」としながらも、「三〇〇〇人とはあまりにも多すぎると私は思う」と私見を付している。こうした意味では、毎年美女三千人を清朝に貢いだという説は、黄氏自身、既に支持していないのである。
次に、黄氏が根拠として示した「ダレ『朝鮮事情』(平凡社東洋文庫)」を確認してみよう。すると、次の様な記載がある。
朝鮮人は一般に、一六三七年の条約の一項を、満州人が中国を失って自国に引っ込まざるをえなくなった場合を見越して用意されたものだと認識している。その場合、朝鮮は、三千頭の牛と三千頭の馬、そして莫大な金額を彼らのために用意せねばならず。さらに選り抜きの娘三千人を送り届けねばならず、朝鮮はいつも諸道にそれだけの女婢をかかえているが、これは、必要な場合に条約の該項を遂行するためだと言われている。しかし、いかなる宣教師も、ついにこの点に関する公的史料を発見することはできなかった*4。
ここに明らかなとおり、『朝鮮事情』には、「各地の美女三千人を選り抜き、清国に朝貢することが義務づけられていた」と見なし得る記述は存在しないのである。ここに記されているのは、「毎年」では無く「満州人が中国を失って自国に引っ込まざるをえなくなった場合」に、「選り抜きの娘三千人を送り届けねばならず、朝鮮はいつも諸道にそれだけの女婢をかかえている」という風聞のみであり、しかも、この風聞については「いかなる宣教師も、ついにこの点に関する公的史料を発見することはできなかった」のである。
つまり、
1)「各地の美女三千人を選り抜き、清国に朝貢することが義務づけられていた」とする説は、もともと黄文雄氏の誤読に基づく。
2)黄氏は後に自説に疑問を抱いたが、根拠とした記述の再検討までは行わなかった。
3)黄氏の説を再検証せぬまま、これを流布させる行為が行われた。
4)後に黄氏の呈した疑問も3)を止抑できなかった。
5)広く流布した結果説話として定着し、根拠や論者すら明記されない状況に至る。
という経緯なのである。
なお、黄氏自身が邦訳版の『朝鮮事情』に基づいているのでひとまず問題は無いが、『朝鮮事情』原著の当該記述について検討することができれば、より精度を高めることにつながろう。博雅のご助力を望む次第である。
「巷間よく言われたように『美女、牛、馬三千』を毎年朝貢するという話を裏付けるものは確認できないとダレ自身が言っているんですね」
「それを黄文雄が誤読してしまったのが流布したっていうんだな」
「はい。黄が拠った日本語訳版をあげておきます」
「それにしても、このダレの記述を素直に読めば、『美女牛馬三千』なんて風聞でしかないとわかるわけでしよ?どうして誤読が流布してしまったのかしら?」
「黄はソースとしたダレの『朝鮮事情』に疑義を抱いたにも関わらず、その再検討もしなかった。そのうえ、黄の言説を読んだヤツも『朝鮮事情』に直接当たらず、つまり未検証のまま黄言説を紹介流布させたってことだ」
「チェック不足の連鎖ですね…」
「弾薬庫のほうでは『なお、黄氏自身が邦訳版の『朝鮮事情』に基づいているのでひとまず問題は無いが、『朝鮮事情』原著の当該記述について検討することができれば、より精度を高めることにつながろう。博雅のご助力を望む次第である』と結んでいます。原著ではくだんの物資を朝貢していたことが確実であるなんて書いていて、黄がそれに拠っている可能性も無いとは言えませんし」
「そのあたりの慎重さが、作者が寧覇総督府の仕事を評価している理由の一つだったりするんだが…で、いつまでたっても誰も調べないようなので、作者がこれは
▲Charles Dallet『Histoire L'Eglise de Coree』について
「原文ってフランス語だろ?作者は読めるのか?」
「スレ本文にもありますように当然読めませんよ。作者が読めるのは英語と漢文と中国語、簡単なハングル程度だけです。ですからフランス語の辞書を図書館で借りてきて調査に臨みました」
「それ以前によく原著が見つかりましたね」
「その気になって探したら、どないかなるもんや、ということらしいわよ♪」
「2008年末のエンコリのリニューアルによって過去スレが消去されるので、あらためてスレ本文を掲載するぞ」
かつて、黄文雄の言説を根拠にして「朝鮮は清に服属した後、毎年美女三千人を貢いだ」という類の主張が広く行われたことがあったと聞く。
その実否については、寧覇朝鮮総督府の弾薬庫に詳しいが、ようは、黄文雄はシャルル・ダレ著・金容権訳の『朝鮮事情』を根拠に用い(後に疑義を抱きはした)斯様な言説を主張した。しかしそれは金の訳文を読む限り、証明し得なかった風聞でしかないということである。
なお、弾薬庫の最後には「なお、黄氏自身が邦訳版の『朝鮮事情』に基づいているのでひとまず問題は無いが、『朝鮮事情』原著の当該記述について検討することができれば、より精度を高めることにつながろう。博雅のご助力を望む次第である」という一文がある。
…そこでですよ、用事のついでに『朝鮮事情』の原著であるCharles Dallet著『Histoire L'Eglise de Coree』を調査してきました。
つ、ついでなんだからねっ!別件調査のついでなの!わざわざあんたのために調べに行ったんじゃないんだからぁっ!(CV:釘宮理恵)
…該当部分は赤枠で囲んであります。
えーっと、フランス語を読むのは生まれて初めてのことなので、辞書を見つつ単語ごとに訳してみます。
以上の仏文をざっと訳する限り、金容権が『朝鮮事情』に於いて、
「朝鮮人は一般に、一六三七年の条約の一項を、満州人が中国を失って自国に引っ込まざるをえなくなった場合を見越して用意されたものだと認識している。その場合、朝鮮は、三千頭の牛と三千頭の馬、それに莫大な金額を彼らのために用意せねばならず。さらに選り抜きの娘三千人を送り届けねばならず、朝鮮はいつも諸道にそれだけの女婢をかかえているが、これは、必要な場合に条約の該項を遂行するためだと言われている。しかし、いかなる宣教師も、ついにこの点に関する公的史料を発見することはできなかった」
と訳しているのは妥当であると考える。
よって私は「朝鮮は美女三千人を清朝に貢いだ」という言説は、確実な根拠を有せざるものであると認むるものである。
「原文をきちんとした日本語の文章に直してざっと見る限り、金容権の日本語版と変わらない。つまり、黄が原文に拠ろうが日本語版に拠ろうが、誤読であったことは確定するわけであり、また、日本語訳者が誤訳した可能性も無い」
「訳者が在日だから、翻訳時に歪曲したんじゃないかって疑ってしまうわよね」
「そういう先入観を持たないでください。最近もこんなことがあったんですから」
延世大学出版の『朝鮮紀行』について
「でもさ、『韓国延世大学』『NYタイムズ』なんて単語を聞いただけで、ついつい『またオオニシか!』と言ってしまいそうになるよなぁ」
「では私が代わりに叫びましょう。またオオニシか!!」
「……おーい、それはいい意味での『また大西』だろ…」
「そういうボケはともかくとして、当該スレに於てシャルル・ダレの原著も検証できたことだし、朝鮮は清に美女三千人を貢いでいたという言説は根拠を持たないものであることが改めて確認できたわけだ」
「ちょっと待って。黄文雄にこんな言説があったわよ」
貢女に娼妓をあてがいごまかそうとする気配のある者は、座首(監督官)や色吏(女色統轄官)らの関係者によって厳しくチェックされた。そして、実際に不正を働いた役人は厳罰に処されたのである。清初の貢女関係研究書については、李光濤著の『多爾袞徴女朝鮮史事』(台湾・中央研究院歴史言語研究所)に詳しい。
『日本を呪縛する「反日」歴史認識の大嘘』(徳間書店) 93ページ
「それなら、作者が既に調査確認済みですよ」
▲疑問
さて、その『多爾袞徴女朝鮮史事』には「貢女」についてどのように書かれているのであろうか?確認することにした。
第1章たる「序言」には、清史稿の多爾袞列伝からドルゴンが朝鮮女性を迎えて婚儀をなしたことを引用したのち、このように書いている。
考多爾袞之「徴女朝鮮」、並非自多爾袞時為始;当太宗之世、既已有之。参朝鮮乱後雑録続録(一九六四年九月韓国石印本)載:
(1)丁丑(明崇禎十年、清崇徳二年、朝鮮仁祖十五年、西一六三七年)二月初三日 汗聞宗室懐恩君有十六歳絶色処子、督令納之、即為輿送本土。又求宗室子女作婚。(巻四葉二十七)
(2)丁丑十一月三十日
朝議以為清婚不可専責於朝仕之家、各道士夫家処子抄括、以為応約之路。自上然之。令各道監司内処子、捧単字成冊及期上送事、行移分発。(巻四葉五十四)
(3)丁丑十二月
各道有処子家、懼奔走、日日婚嫁、新郎之行、項背相望、猶恐不及。此誠何時、而事事如此。(巻四葉五十五)
(4)戊寅(明崇禎十一年、清崇徳三年、朝鮮仁祖十六年、西一六三八年)十二月懐恩君女入瀋陽、汗納之後宮、遂専寵。先是、要免与汗有相背之意、事多牴牾。有一胡名皮巴各氏者、以其意潜告於汗、汗喜之、即出懐恩君女与之。蓋有功賞賜以妻給之者、胡風也。其胡近日見妻父母事出来云。
上引史事、検清太宗実録及朝鮮仁祖実録倶不載、今姑録於此、以見清人於崇徳二年併鮮之後、其対於朝鮮之徴求、可謂無微不至。
李光濤の書くように、清史稿にも仁祖実録にもこのような話は記載されていないが、1637年の丙子胡乱の直後に清が朝鮮に対して通婚を求めたことは仁祖実録にあり、朝鮮に女性を求めたことは根拠のないものでもないとしている。だが、その推移と顛末については私が以前ふれたように、両国の大臣の子女同士の通婚と侍女の徴召についての話であって、これとドルゴンの婚姻に伴う侍女の徴召は、朝貢のように制度化された「貢女」といえるものではないと私は考える。
(中略)
この『多爾袞徴女朝鮮史事』の主題は、当然ながら清の順治帝の叔父で摂政であるドルゴンが女性を朝鮮に求めて通婚したことについてであり、それ以外の朝鮮と清のあいだでの女性に関する話についてはこの「序言」以外ではふれられていない。
(中略)
当該書物はドルゴンが朝鮮と通婚したことについての資料紹介及び考察であり、それ以外は上記にあるように大臣の子女同士の通婚について僅かにふれているのみである。黄文雄は「貢女関係研究書」という表現をしてはいるが、その主張するように朝鮮の清に対する「貢女」について何らかの根拠を与え得る、あるいは関連する資料として紹介するに妥当なものであろうか?私は疑問を抱くものである。
「たった2ページ、それも中身は史料抜粋と解説だけというもののどこが『詳しい』んだと」
「黄の言い方はピントが外れていますね。これじゃ論拠にもならない」
「はい、はーい。三千人じゃないけど、朝鮮が清に女性を献上したことならソースがあるわよ」
「おい、今度はほんとうか?」
「ほんとうよ。ウィキペディアで丙子胡乱の項目を見て」
『仁祖実録』によれば和議の10ヵ月後には8歳から12歳の6人の女を送ったり[5]、その翌年には10人の侍女を送った記録がある [6]。
5.^ 『仁祖実録』35卷, 15年 11月 27日
辛卯/備局抄啓婚媾女子六人。 右議政申景禛, 以妾孫女,爲養女年八歲, 前判書李溟妾女年八歲, 工曹判書李時白養女年八歲, 前僉知李厚根妾女年十二歲, 前判書沈器遠妾女年十一歲, 宗室之女一人, 亦在其中, 上命去之, 遂以平安兵使李時英妾女, 充其選。
6.^ 『仁祖実録』37卷, 16年 7月 8日
擇各司婢子之在諸道者十人, 入送瀋陽, 以淸國曾有侍女之請故也。
「くるみ、それは本編でやっただろ。侍女10人は送られたが、結婚の方は解消されたって。だいたい、それは清の大臣の子弟たちに嫁ぐことになった朝鮮大臣の子女たちに仕える侍女であって、女性の朝貢や献上じゃぁない」
「作者が以下にまとめてスレ化しているのですが、仁祖実録原文の画像を追加して転載しておきます」
▲清に女性を献上していた朝鮮【再掲】
「清に屈服した朝鮮は、毎年三千人の宮女を差し出した」という言説もめっきり見られなくなってきた今日この頃、同説を主張されていた方々はいかがお過ごしでしょうか?
ま、そんなことは擱くとして、今回のネタは、実際に朝鮮から清に送られた女性のお話です。
1637年の丙子胡乱で清に屈服した朝鮮は、多くの約定を受け入れざるを得なかったのですが、こんな一款がありました。以下、仁祖実録から見ていきます。
1637年(崇徳2年・仁祖15年)1月28日条より引用
与内外諸臣、締結婚媾、以固和好。
清・朝鮮の大臣たちの間で婚姻を結んで仲良くしましょと。ようは政略結婚・体のいい人質と解釈していいでしょうね。では、どのような過程を経て、この話は進められたか。
11月22日条より引用
上幸南別宮、行翌日宴。清使等仍陳五件事。其一、向化刷還事也。其二、漢人執送事也。其三、被擄逃還者執送事也。其四、偸馬人推問事也。其五、戊午・丁卯被擄人中、以通事使喚、而逃還者執送事也。上以隨事曲副之意、措辞以答之。上還宮後、清使招館伴語之曰宰相子女婚媾事及侍女抄送事、須速定奪以報云。
仁祖を朝鮮王に冊封する使者がやってきたときのことです。清の使者は婚姻と侍女を送る件についてさっさと決裁して進めろと言ったんですね。
なお、侍女をも送れという要求は、ここが初出です。
24日条より引用
上引見大臣及備局堂上、議侍女・婚媾等事。大臣以為侍女則於各邑・各司婢子中、揀其有姿色者、一道一人、凡八人。婚媾則使方在宰列者、進其庶女、或以家人子為己女、凡五人、粧束以待之、姑令訳舌、微探其意以処之為当。上曰然。
で、大臣たちが協議した結果、侍女は朝鮮全八道から一道一人ずつ、合計8人を選ぶこと、婚姻させる子女は、大臣の庶子や、大臣の家臣の娘を大臣の娘として合計5人を選ぶことが決定しました。
講和交渉時にパチモン王弟や大臣を送った前例がありますが、この期に及んでもこの手を使うなんて、よっぽど好きなんですねぇ。
26日条より引用
上下教曰清人所言婚媾一款、似係安危、令廟堂速為処置、俾無更詰之弊。
備局堂上請対、上召見之。李弘冑曰侍女以幾名定数、以何様人為之乎。上曰姑勿定数、只言従後択送之意、且不言入送日期。彼若問之、以明年入送之意、答之可也。弘冑曰以可様人定送乎。上曰此則徐議処之可也。彼言中所重、在於婚媾、故処女年歳父母姓名、皆令書示云、此是目前緊急事也。弘冑曰群議皆以為、宰臣中無女子者、当以養女為之矣。上曰彼無迫促之意、以年少児書示、以待年壮之間、自至遷延、是則幸矣。宰臣中必有妾女者。国事到此地頭、為臣子者、豈惜一妾女乎。先以妾女送之可也。申景禛曰以幾人書示乎。上曰書示四五人、亦可矣。
侍女の数はどうしますか、と尋ねられた仁祖は、
「しばらく数は決めなくていいよ。人を選んで送るってことだけを伝えなさい。それと、いつ送るかについても言っちゃダメ。向こうに訊かれたら、来年には送るよ、って答えておきなさい」
と指示します。どうやらなんとかして先延ばしにしようって腹積もりだな。(苦笑)
また、大臣の子女については、すぐに送られて婚姻をとりおこなうわけではなく、婚約者として通知され、成長を待つってかたちなんだよ、ってなことを言っていますね。
27日条より引用
備局抄啓婚媾女子六人。右議政申景禛、以妾孫女、為養女年八歳、前判書李溟妾女年八歳、工曹判書李時白養女年八歳、前僉知李厚根妾女年十二歳、前判書沈器遠妾女年十一歳、宗室之女一人、亦在其中、上命去之、遂以平安兵使李時英妾女、充其選。
で、結局6人の少女が選ばれました。仁祖、さりげなく王室の子女を臣下の子女に交代させています。
1638年(崇徳3年・仁祖16年)2月28日条より引用
両将曰何其少也。且侍女何不帯来。至於婚姻事、只五人書示、故接見時更達加数書送之意、今行亦不書来耶。臣等答曰向化則所捕得者只此、侍女則教習容儀、隨後入来。婚姻家加数事、則勅使出去時、未聞有停当之説、今何提起耶。両将使臣等具由馳啓云。
瀋陽に行った廷臣は、清の英俄爾岱・馬福塔に「なぜ侍女を連れてこなかった」と訊ねられ、侍女は教育を終えてから送るんですよと答えるんですね。
6月18日条より引用
清国以徴兵・侍女・向化・走回人等事、尚無挙行之報、龍・馬詣館所見世子、多有嗔責之語、世子送賓客朴、稟議于朝廷。
英俄爾岱・馬福塔は、侍女を送る件やら援軍やらの件で瀋陽に滞在中の昭顕世子を訪れて責めるわけです。世子は配下の朴を本国に送って協議させます。
7月8日条より引用
択各司婢子之在諸道者十人、入送瀋陽、以清国曾有侍女之請故也。
その結果、侍女10人が瀋陽に送られました。
1641年(崇徳6年・仁祖19年)4月26日条より引用
鄭命寿伝言于館所曰両国既為一家、故初欲媾婚矣。今更思之、道里遼遠、往来有弊、亦不無怨苦之患、特令停止。前日所録処子、使本国処置云。
あれ?婚姻の話は取りやめになってしまいましたねぇ…
とりあえず、朝鮮は清に侍女10人を送ったということなら、自信を持って主張してもよさそうですね。
黄文雄でもダレでもええけどやぁ、鵜呑みにすんなと。複数のサイトで確認したっつーてもそいつらのネタ元が同じなら意味無いやんけ。
「念のために言い添えておきますと、最後の『朝鮮は清に侍女10人を送ったということなら、自信を持って主張してもよさそうですね』は皮肉表現なので注意してくださいとのことです」
「その実状についてはきちんと史料を読んで検証しろ、というメッセージなんだな…」
「日本語をきちんと解釈できない日本人もいることだしねぇ…」
「婚姻の話が解消された時点で本国に送り返されたとみるのが妥当でしょうね。仕える対象が来なくなったんですから彼女たちの役目もおしまいになりますし」
「じゃぁ、ウィキは間違いなんだな」
「編集履歴やノートを見てみると、3000人はありえない、仁祖実録にはこんな記録がある、と指摘して編集したのはどうやら韓国人らしい。ただ、その人物も仁祖実録の1641年(崇徳6年・仁祖19年)4月26日条『鄭命寿伝言于館所曰両国既為一家故初欲媾婚矣今更思之道里遼遠往来有弊亦不無怨苦之患特令停止前日所録処子使本国処置云』という箇所までは発見できなかったようだな」
「せっかく誤謬を正したのに、詰めが甘くて誤謬を残してしまったわけね…ん?作者からの呼出し?ちょっと行ってくるわ」
「ともかく、女性朝貢三千人言説は事実ではない、ということでいちおうカタがついたわけだな、ちよちゃん」
「はい。でもネットが発達した現代では、一旦流布拡散した言説は、誤謬が証明されたとしても、その影響力はなかなか消えるものではありません。『駟も舌に及ばず』という言葉が譬えどころか現実のものになっているのです」
「作者はこの言説を主張しとる方を見かけたら、根拠を訊ねたいて言うてんねん」
「ひょっとすると、ダレの『朝鮮事情』以外に根拠があって、その方がそれに拠っているかもしれないからだって」
「もしそういう根拠があるんやったら、また検証したる。調査は楽しいもんやさかいなぁ、ということらしいで」
「そういうわけで、次回『それは根拠なの?』リリカルマジカルがんばります♪」
「二人ともオブラートに包みすぎだよ。もっと作者の本音を出してあげなきゃ」
「まるで悪魔だな」
「…悪魔でいいよ」
「なんだか分からないが、コンテンツを乗っ取られた!…上でなのはが言っていることが、最初には言わなかった今回のコンテンツ作成の理由なんだよ…主張する以上は根拠史料を出せと」
「こういうときに真っ先にツッコミを入れるはずのくるみさんがいませんよ?」
「ご、ごめーん。作者に呼ばれとってん」
「『呼ばれとってん』?関西弁?」
「…中の人つながりの小ネタか…作者はいいオチを思いつかずに小細工に走ったんだな」
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