三田渡への道 4

What A Fool Believes






 1636年(朝鮮:仁祖14年・清:崇徳元年)12月2日、清軍10万は首都瀋陽(盛京)を進発した。

朝鮮半島要図

 清軍は12月10日には義州に到ったが、平安道観察使の洪命耉 が兵を率いて慈母山城に入って防御を固めているのを見ると、そのまま素通りし、12日には郭山城付近に宿営した。

岳託
「定州軍が援軍で来よった。中軍に任せてうちらは進撃や」

ホンタイジ
「諸将よ。愚かなる朝鮮兵に鉄槌を下せ!」

定州遊撃軍司令官
「これは抗し難い。もはやこれまでか」

 定州の遊撃軍は救援に赴き襲撃を加えたが、惨敗して司令官は自決し、郭山城は降伏した。翌13日には定州が、15日には安州が降伏した。

 一方、漢城には13日に、金自点から安州に清軍が来たという報告がもたらされた。

仁祖
「敵はすでに深く攻め入ってきた。どうしよう?」

金瑬 [流の下に玉]
「緊急事態です。速やかに兵を送りましょう。松京(開城)の兵1千6百人を金自点のもとに送って配備させます。それと近郊の兵を集めて江華島に入るときの護衛にしましょう」

仁祖
「うむ」

臣下
「世子をもって分朝させましょう」

仁祖
「いや。そこまで事態は切迫していない。しばらく待て。で、金瑬 、江都に入るのなら、漢城の留守を守る留都大将が必要だ。誰かいるのか?」

崔鳴吉
「殿下、今は朝廷を離れていますが、沈器遠を再び起用してください」

仁祖
「うむ。それと廷臣の中で老人病人は先に江都に入らせよ」

 結局、王の夫人たちや、世子以外の王子、王族、廷臣とその家族、また金尚容が、宗廟(王家の祀堂)に安置されている歴代王・王妃の神主(位牌)などを奉じて江華島に移動することになった。江都の守備大将には張紳が任命された。
 その翌日、漢城の城外にいきなり清軍があらわれた。馬福塔が率いる商人に変装した兵300が潜入に成功したのである。

馬福塔
「敵は全く無防備よ。奇襲に成功ね」

 城外に駐屯している朝鮮軍数千は奇襲を喰らって潰走した。

仁祖
「そんなバカな!と、とりあえず南漢山城に逃げこめ!」

 仁祖一行はあわてて漢城を逃げ出し、申景禛が後衛を防御して清軍の追撃を防ぎつつ南漢山城に入った。清軍は南漢山城に迫り、兵を分けて道路を封鎖して城内と城外の通信を遮断した。

仁祖
「崔鳴吉、敵陣に使いして、事情を探ってまいれ」

崔鳴吉
「はい。講和についても打診してまいります」

金瑬 [流の下に玉]
「殿下、忠清道の軍が竹山に駐屯していますが、この状況を知らないようです。今夜、死士を募って送り出し、状況を報せればどうでしょう」

仁祖
「うむ。くれぐれも慎重にことを運べ」

金槃
「このまま城に籠もっていても、敵には援軍が来るし、こちらには援軍が来ません。どうしようもないです。どうか一つの門から兵を突出させて戦い、別の門から殿下は脱出して江華島に移ってください。諸将はみんな酔っ払いのようにアホのように(如酔如癡)たよりないですが、李廓は出撃を主張しています」

李廓
「そうです!そーれ、殿下は出撃を推奨したくなーる」

仁祖
「兵家のことを単純に論じるな。それに李廓は大口を叩くが、胆力は小さく、勇敢な者ではない(且李廓、言大胆小、非勇敢者也)」

李廓
「そ、そこまで言うかーっ」

金蓋国
「城を守っている兵は1万4千います。1万で城を守備し、4千で敵陣を襲撃しましょう」

仁祖
「平地に下りて敵陣を襲撃するのは万全の策ではない」

 結局、15日に仁祖は江華島に向けて出発しようとしたが、降雪と凍った地面で馬が進めず、また清軍も江華島への道を遮断していたこともあって引き返した。この日、清軍に使者として行っていた崔鳴吉が帰ってきた。

崔鳴吉
「講和について打診したところ、王弟と大臣を人質に出せとのことです」

仁祖
「そうか…よし、綾峰守の李偁 を「王弟」、判書の沈諿 を「大臣」として遣わそう」

 仁祖は、丁卯胡乱の時と同じく王族を「王弟」、身分の軽い廷臣を「大臣」と偽って遣わそうとし、彼らは清軍の陣地に赴いた。

清人
「ん?お前ら前回もパチモンの王子で騙したやろ。今回はほんまもんの王弟やろな?ほんで、お前はほんまもんの大臣なんやろな?どないやねん、答えんかい!」

李偁
「は、はわわ…わ、わた、わたしは実は…」

沈諿
「……」

清人
「なに黙ってけつかんねん。怪しいなぁ…おい、朴さん、こいつらはパチモンの王弟と大臣なんちゃうん?ほんまもんちゃうんとちゃう?」

 先だって清都の瀋陽に使者として遣わされた朴は、この戦役の結果、清に抑留されてしまいこの陣中に随行していた。

朴蘭英
「…パ、パチモンちゃいます。本物です」

清人
「…そうけ?ほんまは、ほんまもんちゃうんちゃうんとちゃう?」

朴蘭英
「い、いいえ。ほんまもんちゃうんちゃうんとちゃうんちゃいます」

清人
「見え透いたウソをぬかすな!(ザシュッ)」

朴蘭英
「うわっ!」

 清人はたちどころに朴蘭英を斬り殺した。

清人
「ったく、しょうもない小細工を弄しくさって、全部お見通しやで。おい!王弟やのうて王の嫡男、つまり世子を出しさらせ。講和の話はそれからや」

李偁
「はわわ…」

沈諿
「…はい…」

仁祖
「ああ、なぜこのようなことになったのだ?私は才徳が薄いとはいっても不善の行いはしてこなかったのに。ああ!(号泣)」

金瑬 [流の下に玉]
「殿下は14年間の施政の中で徳を失ったことはございません。決して亡国の君主ではありませぬ。どうか功臣10数人を連れて変装して脱出して、忠州・原州、あるいは嶺南、湖南(いずれも朝鮮半島中南部)に向かってください」

仁祖
「何を言うか。私に従って城に入った者は、みんな宗族、百官だぞ。どうして彼らを死地に置き去りにしたまま脱出できようか。幸いに生き延びたところで天地にはじない顔ができようか」

崔鳴吉
「もはや講和しかありません。敵は戦勝に乗じて勢いを得ており、増援も必ずやってきます」

洪瑞鳳
「それに対して、我が軍は前回の敗戦よりダメダメです。どうしようもありません」

仁祖
「そうか…講和しかないのか…わかった。講和の交渉を進めろ。それにしても、300年間誠を以て天朝に事大し、その恩を深く受けてきたというのに、たった一日で蛮族の奴隷となってしまうとは(三百年血誠事大、受恩深重、而一朝将爲臣妾於讐虜、豈不痛哉?)!どうして、どうしてだ(諸卿、諸卿、奈何、奈何?)!」

 仁祖の言葉に廷臣たちも泣いた。

臣下
「こうなったのも全て私たちのせいです。殿下には何の落ち度もありません」

仁祖
「年若い者たちが、思慮が浅いのに議論を激しくしたためこのような災いを招いた。もしあのとき清の使者を排斥しなかったなら、このようなことにはならなかっただろうに(泣)」

臣下
「年若く思慮の浅い者たちが事を誤りました(泣)」

仁祖
「まさにそのとおりだ。そして私もその議論を拒絶できなかったため、このようなことになったのだ(泣)」

 おいおい、仁祖、何が悪かったのかを意外とわかっているじゃないか。

臣下
「体察使、城の周りに張り巡らしてある松柵は邪魔です。あれを焼き払えば兵の進退に便利ナノカナ」

 松柵は、南漢山城に籠城後、山にある松の木を伐ってきて城の周りに組み上げたもので、そこに綱を張り渡し金属の器を結わえ付けて、人が越えようとすると音を立てて知らせる鳴子のような仕組みになっていた。

金瑬 [流の下に玉]
「そうね。邪魔だから焼き払っちゃえ!」

 この処置によって、清軍は自由に城に接近できるようになってしまった。ORZ

 岳託率いる清軍の本隊の先鋒は、丁卯胡乱以来改修されていなかった平壌に入り、さらに19日には漢城に達して馬福塔の軍に合流した。ホンタイジの本隊も、29日に漢城に到着、入城した。

ホンタイジ
「モンゴル兵を都城の外城内に留める。あとの軍は馬福塔らに合流して南漢山城を包囲するぞ」

 清軍は漢城都城の外城の中に入ったが、沈器遠の守る内城には攻撃を加えなかった。
 期待していた諸道からの援兵はなかなか来なかった。というより、清軍を恐れて進撃しようとしなかった。忠清道兵使の李義培率いる軍は竹山から動こうとしなかった。また、都元帥の金自点軍も兎山(黄海北道)で大敗した後、動こうとしなかった。

洪瑞鳳
「今頼りとするのは援兵だけですが、湖西(忠清道)の軍は近くまで来ているのに形勢を観望して進まず、両南(嶺南:慶尚道&湘南:全羅道)の軍は兵数は多いといっても戦うこともできない。西北(黄海・平安道)の軍は連絡もありません。頼りとなるのは城中の士気が衰えないことだけですが、連日の寒さで兵士たちはへたれています。これではたとえ敵軍が退却しても追撃すらできそうにありません」

金瑬 [流の下に玉]
「私は軍権を任されていますが、洪どののおっしゃるとおりです」

 江原道営将の権井吉率いる軍は、倹丹山に到達し、のろしを上げて城内に連絡を取ったが、あっというまに清軍に襲われて敗走した。また、忠清道観察使鄭世規率いる軍も、龍仁、険川に進んで陣を張ったところで清軍の襲撃を受けて壊滅し、鄭は身一つで逃げ延びた。

 南漢山城の軍はただ籠城しているだけでもなかった。29日、北門から兵を出して陣を構えたが、清軍は戦おうとしなかった。

金瑬 [流の下に玉]
「もう日没だな。撤収するよう伝令を出せ」

 清軍はその撤収につけこんで襲撃してきた。申誠立ら8人の軍官が戦死し士卒も多く死傷者を出した。しかし、翌日には清軍の攻撃を金瑬 と黄海観察使の軍が迎え撃って撃退した。
 年が明けて1637年(仁祖15年)1月2日、洪瑞鳳らが清軍陣地に行った。

英俄爾岱
「お前らに陛下の書状を渡すぞ」

馬福塔
「今回はちゃんともって帰って見るのよ」

 洪らはホンタイジの書状を受け取って帰ってきた。

ホンタイジ
「大清国寛温仁聖皇帝が、朝鮮の官民を諭す。我の今回の出征は、殺人を楽しみ財貨を貪るためではない。常に平和友好を望んでいるが、お前らの朝廷が先に原因を引き起こしたものだ。
 丁卯の戦いのとき、お前らの兵は弱く将は勇敢ではなかったが、我は兵を退いてやった。民衆の苦しみを見、隣国の誼を惜しんだから講和して撤兵してやったのだ。それから10年になるが、お前らは我に謀反した者を受け入れ明に渡し、また明を助け明将に援兵を送り、我と敵対しようとして軍事を弄んだ。そのうえ、我の使者にも会わず、国書も受け取らなかった。
 たまたま我の使者が、お前が平安道にくだした教書を入手したが、その中には『丁卯のさい権謀で講和した。今正義を以て決断し、関門を閉ざして備える。村々に説諭し、忠義の士は策を練れ』などとあったな。
 我はこのような理由を以てわざわざ兵を挙げお前らを苦しませるが、それは我の願ったものではない。お前らが自ら招いた災禍であるだけだ。もし我を拒む者があれば必ず殺し、従う者はいたわり、逃げる者は捕らえ、帰順する者からは一切略奪せずいたわる。お前は皆の者によくこの言葉を説明せよ」

仁祖
「どうしよう?」

洪瑞鳳
「この国書には傲慢にも『詔諭』という文字が使ってあります。答える必要はありません。しかし、前漢の時代に冒頓単于の無礼な国書に回答した例もありますし、回答を止めることには該当しないように思います」

金瑬 [流の下に玉]
「回答しないわけにはいきません。諸臣と協議しましょう」

 仁祖は、廷臣たちの意見を述べさせたが、みなバラバラであった。

崔鳴吉
「私は金瑬 どの、洪瑞鳳どのと同じ意見です」

金尚憲
「今謝罪したところで怒りが解くことができるのでしょうか?最後には無理難題が来るに決まっています。いっそ、この国書を全軍に配布して士気を奮い立たせましょう」

崔鳴吉
「清王が出てきてはとても抗戦できません。国は必ず滅びます」

仁祖
「守備を固めつつ、速やかに返答を送ろう」

金尚憲
「ならば、その返答の書式は軽々しく決められません」

崔鳴吉
「殿下は『朝鮮国王』と書きましょう」

洪瑞鳳
「清王は『帝兄』と書きましょう」

仁祖
「危急存亡の時だ。高尚な議論はするな。機会を失うではないか。前例に固執するな」

金尚憲
「危急のときにあって、私が国家の存亡を顧みずにむだに高尚な議論をしているとお思いですか?私は、かの賊が最後には従い難い要求をしてくることを懼れているのです」

 結局崔鳴吉が文章を起草した。崔は清の年号『崇徳』を使おうとしたが、三司(弘文館・司憲府・司諫院)の反対によってやめた。
 4日、漢城の留都大将である沈器遠は城を捨てて単身で逃亡し光陵に到った。訓練都監千摠の李井吉が、途中で落伍した砲手数百を連れてそれに合流した。
 全羅道兵使の金俊龍は兵を率いて、漢城の南にある光教山に到った。また、江原道観察使の趙廷虎は龍津に駐屯して、先ほど倹丹山で敗走した権井吉の兵を吸収し、さらなる援兵の合流を待っていた。咸鏡道観察使の閔聖徽も軍を率いて江原道の金化県に到着した。
 一方、清軍のほうも、長山口を通って朝鮮に入ったドルゴン軍は、昌州城を陥とし進撃を続けていた。

ドルゴン
「進め。敵をすべて排除して本隊に合流するのだ」

 ドルゴン軍は安州・黄州の兵5百、寧辺城の兵1千を破り、援軍1万5千を討ち取るなど連戦連勝し、ようやく本隊に合流した。また、杜度もようやく紅夷砲を本隊に輸送し終えた。

金瑬 [流の下に玉]
「我々にはもう策はありません。ただ援兵を恃むだけです」

洪瑞鳳
「その援兵は兵数が清軍より少なく、ほとんど撃破されています。咸鏡道観察使の閔聖徽軍と南兵使の徐佑申軍が合流して来ることを恃むばかりです。城中の士気も日に日に落ちています」

 真冬であり、がんらい十分な籠城準備ができていないまま籠城したということもあって、城中には凍死する兵もいた。恃みとする閔聖徽軍&徐佑申軍は、楊根・薇原に陣を張り総勢2万3千と号していた。もっとも、彼らがこの後、講和成立までの間に、南漢山城救援のために進撃し、清軍と戦ったという記録はない。また、義州の慈母山城から出て南漢山城救援のために南下中の平安道軍の別将が騎兵800騎を率いて安峽に到着した。
 だが、慶尚道左兵使の許完・慶尚道右兵使の閔栐 の率いる御営軍8千と慶尚道軍は双嶺で清軍に破れ、許・閔はともに戦死した。

 13日、ようやく洪瑞鳳・崔鳴吉らが、崔の起草した国書を持って清軍陣地に赴いた。

崔鳴吉
「国書を持ってきました」

英俄爾岱
「すぐに皇帝陛下のもとに回して、返答する」

 戻ってきた洪らは仁祖に報告した。

洪瑞鳳
「殿下、どうやら講和はできそうです。それと、清の通訳李信倹なるものが『丁卯胡乱の時は劉興祚に工作して講和したじゃないですか。今、鄭命寿に賄賂を贈れば講和のことは望みどおりにいくでしょう』と言ってきました」

仁祖
「なるほど。それでは鄭命寿に銀1千両を、英俄爾岱・馬福塔にはそれぞれ銀3千両を贈ろう。秘密裏に行ない、くれぐれも他に洩らすなよ」

 鄭命寿は、もともと平安道殷山の人(命寿、平安道殷山賤隷也)であり、清軍の捕虜になったが、賢く朝鮮の事情に通じているというので重用されたという。
 これと関係あるかどうかはわからないが、16日には護軍の閔馨男が、

閔馨男
「昔、散宜生は珠玉、美女を贈って羑 里に囚われていた文王を解放しましたが、これはやむを得ざる行為でした。また、白登山において冒頓に包囲されたとき、陳平を用いて脱出したのは秘計奇謀のきわみです。兵は詐術を厭わず、策は全勝を貴しとします。どうか計略があれば、大臣と協議して固い決心で行なってください」

 と上疏している。周の散宜生は、商の紂王に珍宝・美女を贈って羑 里に囚われていた主君の文王を釈放させた人物であり、前漢の陳平は、白登山において匈奴の冒頓単于に包囲された漢高祖を救うため単于の夫人に贈賄して包囲を解かせた。これらは贈賄によって危地を脱した例である。

 17日、ホンタイジからの返書が来た。その内容は「生を望むなら城を出て降伏せよ。戦を望むなら兵を率いて一戦せよ」というものであった。18日、崔鳴吉は再び国書を起草した。今度は諸臣の反対にあって「陛下」の二文字を消し「大清国寛温仁聖皇帝」と書くことになった。それでも難色を示す者はいた。

李景奭
「まだまだ妥当ではない箇所が多くありますし、敵陣に送るのは明日まで待ちましょう」

崔鳴吉
「あなたたちはいつも些事ばかりを言い立てる。文言の是非についての協議はもう終わったのです。それに、いつ送るかについては私たちの責務であって、あなたのあずかり知らぬところですよ!(怒)」

李景奭
「……」

 その日のうちに、国書は清軍陣地に送られた。

英俄爾岱
「ん、使者が来たのか。馬福塔、お前に任せた」

馬福塔
「わかったわ。どれどれ…この国書じゃ受けとれないわね。理由はわかるでしょ」

 国書は差し戻され、結局「陛下」の文字を追加することになった。
 講和については、戦役の当初から崔鳴吉・洪瑞鳳が中心となって主張し、進めてきたが、それだけに彼らを弾劾する声も大きかった。

鄭蘊
「民に二主なしといいますが、崔鳴吉は二主に仕えようと望んでいるのです!どうしてこれが我慢できましょうか?誰が我慢できましょうか?殿下には、崔鳴吉の言辞を排斥してその売国の罪を正してくださいますよう、伏してお願いいたします(伏顧殿下、痛斥鳴吉之言、以正売国之罪)」

 20日、李弘冑らは「陛下」を書き足した国書を持って清軍陣地に行った。

英俄爾岱
「今回の国書は受けとれるよ。それと、返書はもうできているから渡すよ。しかしまずいことになったなぁ。陛下は最初好意をお持ちでなくはなかったんだが、あんたたちの態度に対して、ついにお怒りになってしまったんだよ」

馬福塔
「そうね。城を出て降伏する前に、講和を破るよう言い出した連中を1、2人引き渡さないとね。そうでないと、城を出たあとで一悶着あるでしょうね」

 李らは返書を持って帰ってきた。その返書には、

ホンタイジ
「今、お前は城を出て降伏しなくてはならんのだが、まず盟約を破った廷臣の首謀者2、3人を縛って出せ。我はそいつらをさらし首にして人々への警告とするであろう」

とあり、
1.仁祖が城を出て降伏
2.和平を破った首謀者の引渡し
の2点が要求されていた。

仁祖
「こんな厳しい文言があるなんて、いったいどういうことなんだ?」

崔鳴吉
「英俄爾岱・馬福塔が『ついに清王が怒った。城を出て降伏する前に、斥和を首唱した連中を1、2人送らないと、城を出たあとで一悶着あるだろう』と言っていました」

仁祖
「斥和を唱えた廷臣を縛って引き渡すなんてできようか」

金瑬 [流の下に玉]
「『我が国は明に服属することが長いため、それに背けないと考えた人々がいたのです。今日より清に服属し後日背くことはありませんが、これはまさに今、明に背かないとした姿勢と似ているではありませんか』と答えましょう。宗主国にはずっと背こうとしないという姿勢をアピールするのです」

崔鳴吉
「講和条件を検討し回答しましょう」

仁祖
「回答の文案はそなたたちに任せる」

 斥和の首謀者を引き渡すことについては、まず該当者は自首するよう布告することになった。21日、李弘冑らは再び国書を持って清軍陣地に行った。

馬福塔
「さて、今回はどんな回答を持ってきたのかしら」

崔鳴吉
「はい。『朝鮮国王臣李倧、謹んで大清国寛温仁聖皇帝陛下に書を奉る(朝鮮国王臣姓諱、謹上書于大清国寛温聖皇帝陛下)…(中略)…以て陛下の裁断を待つこと、あえて死罪にあたることも知らず申し上げます。崇徳2年1月20日(以俟陛下裁度、謹昧死以聞。 崇徳某年月日)』です」

馬福塔
「ようやく『臣』と称して、我が国の年号も使ったのね」

英俄爾岱
「ところで、前に出した2つの条件についてはどうなんだ?」

崔鳴吉
「斥和の首謀者を引き渡すことについては、問題ありません。ただ国書にもありますとおり、彼らは今左遷追放されているので時間がかかります。殿下が城を出ることについては、国書を読んで意のあるところをご判断ください」

英俄爾岱
「ふむ…陛下が盛京にいらっしゃるなら、この国書を送ればそれだけで済むんだがなぁ、今陛下はこちらにおいでになっているだろ。曖昧なことではとうてい通らないぞ。実際にきちんとしたかたちを見せないとなぁ。国王は城を出るしかないぞ」

 帰還した崔鳴吉からこの報告を受けた仁祖は、城を出ることを拒絶した。

仁祖
「あいつらは、私が城を出れば、捕らえて帰国する計画に違いない!どうしてそなたらは拒否しなかったのか!」

崔鳴吉
「厳しい言葉で撥ねられました」

ホンタイジ
「ほう、国王は出てきたくないというか…よろしい、ドルゴン、江華島を攻撃占領せよ!」

ドルゴン
「はい!」

朝鮮半島要図

*進撃路はイメージ

 ドルゴンは、3万の兵を率い、まず小船を車で陸上輸送して甲串津に浮かべた。

ドルゴン
「砲撃せよ!敵の水陸両軍を吹きとばせ!そして敵がひるんでいる間に上陸せよ」

 紅夷砲の砲撃によって、対岸の江華島に停泊していた朝鮮軍の大艦30隻が撃沈された。さらにこれを援護射撃として上陸作戦が開始された。

張紳
「に、逃げろ!」

 江都留守の総司令官である張紳、忠清水使の姜晋昕、江都検察使金慶徴、京畿右道観察使李敏求といった高級幹部はあっというまに逃亡した(皆望風而走)。具元一という将官はこれに憤慨して、張紳を斬ろうと兵を率いて迫ったが撃退され、海に身を投げた。黄善身は兵数百を率いて上陸した清軍と戦ったが潰滅して戦死した。金尚容は南門楼に登って、孫1人、下僕1人とともに火薬を使って焼身自殺した。
 将兵の多くが逃げ散ったため、仁祖の第2子である鳳林大君李淏は身辺から勇士を募って出撃させたが、とうてい抗することはできなかった。清軍は城を包囲した。

ドルゴン
「この城を屠るのは簡単だが、そうはせぬ。陛下はすでに和をお許しになられた。誰かこちらに来て事情を聞け!」

 大君は逡巡したが、まず韓興一、次に尹昉を遣わして様子を探らせ、その様子が好意的な雰囲気であったためついに城を出て降伏した。このとき仁祖の舅(仁烈王后の父)である韓浚謙と一族10余人が自決した。

ドルゴン
「よし、捕らえた人々を連れて陛下のもとに帰還するぞ。方々は鄭重に扱ってくれぐれも粗略な振る舞いがないようにせよ」

 23日、ドルゴンは捕虜にした王妃、鳳林大君李淏、その弟麟坪大君李[シ窅 ]といった王子や王族76人、群臣とその家族166人を連れてホンタイジの元に戻った。そのあと残ったモンゴル兵が放火殺人略奪を行い、太祖と世祖の肖像画は破られ、破片が城外に散っていたという。また開城時に、尹昉が宗廟の歴代王・王妃の神主(位牌)を廟の下に埋めて隠したが、モンゴル兵が掘り返し、仁順王后(第8代朝鮮国王明宗の正妃)の神主(位牌)は行方不明になったという。

 一方、南漢山城では、23日から25日の間、断続的に清軍の攻勢があった。すべて撃退はしたものの、一日中砲撃は止まず、城中のさまざまな施設に着弾、破壊された。
 23日には、斥和の首謀者として、洪翼漢を引き渡す旨を書いた国書を持っていったものの、ホンタイジが不在という理由で受けとられず、翌日受けとってもらえた。そして25日、英俄爾岱・馬福塔の呼び出しで、崔鳴吉らが清軍陣地に行った。

英俄爾岱
「陛下がそろそろ帰還しようとおっしゃったのだ。国王が城を出て降伏しないのなら、お前たちももう来なくていいよ」

馬福塔
「そういうわけで、今まで渡された国書は全部返すわね」

崔鳴吉
「え?え?え?でも、あの、その…」

英俄爾岱
「はいはい、ムダ口はやめて、さ、帰った帰った」

馬福塔
「じゃ、お達者でね」

 もはや降伏勧告の必要を認めず、朝鮮を屠って帰還する、という脅しである。崔鳴吉たちは、話を接ぐこともできず追い返された。

仁祖
「そうか…仕方ない。世子を出そう」

 翌日、崔鳴吉・洪瑞鳳らは再び清軍陣地を訪れた。

洪瑞鳳
「王の世子を城から出してそちらに行かせます」

英俄爾岱
「んー、それはもう遅いんだ。もう国王が出てくるしかないんだよな」

馬福塔
「そうそう、鳳林大君、尹昉と韓興一から手紙を預かっているわよ。どうぞ」

崔鳴吉
「は、はい。ありがとうございます(大君と尹どのたちは江都にいるはずですが、何かあったのでしょうか)」

 帰還した崔たちは仁祖に報告を行い、大君たちからの手紙も渡した。

仁祖
「大君たちの手紙によると、江都は陥落して彼らは捕虜になったそうだ(泣)」

崔鳴吉
「清人たちが江都を攻めるぞと言っていましたが、こうなったのですか…しかし、大君やお妃、廷臣と家族たちはみんな礼遇されているようですね」

洪瑞鳳
「今までこれほど恐ろしい災禍があっただろうか!」

仁祖
「……(泣)」

崔鳴吉
「ひょっとして、この手紙は清人たちが私たちを動揺させようとする謀略のニセ手紙ではないでしょうか?」

仁祖
「いや、大君の手紙に間違いない」

金瑬 [流の下に玉]
「手紙の中には金慶徴と李敏求の名前がありませんね。彼らは兵を率いてどこかで健在なんでしょうか?それとも戦死したのでしょうか?」

仁祖
「私が思うに、逃亡したから名前が出てこないのだろう」

 んー、事態をけっこう正確に推察しているじゃないか。(苦笑)

洪瑞鳳
「私たちはこの城で孤立しております。その上、敵は江都まで占領して益々勢いに乗っています。回答が遅れれば、測ることもできない災禍が必ず訪れるでしょう」

崔鳴吉
「早く決断すれば、万に一つ、明るい望みがあるかもしれません」

 兵たちも動揺していた。訓練軍を率いて東城を守る申景禛、南城を守る具宏、南門を守る水原府使具仁垕 、洪振道が共謀して、訓練都監・御営軍の将兵を煽動し、斥和の首謀者を捕らえて清軍に送ることを求めたのである。

仁祖
「軍の様子はどうだ?」

金瑬 [流の下に玉]
「士卒は動揺しております。引き下がるよう諭しても従いません。もはや沈静させることはできません、要求を受け入れるしかありません。直ちに協議して、明日斥和の首謀者を引き渡しましょう」

崔鳴吉
「兵たちが盛んに往来し引き下がろうとしません。私は変事が起こることを恐れます」

 むろん「変事」とは、軍兵が、降伏を逡巡する首脳部を「実力」で排除し、降伏を進める王族を「王」に推戴するというクーデターを指すものである。大東亜戦争のポツダム宣言受諾終戦に際して、軍の抗戦継続派が昭和天皇を廃して抗戦派の皇族を担ぎ出そうと図ったのとは逆バージョンですな。
 27日、崔鳴吉らは国書を持って清軍陣地に行った。

馬福塔
「…全面的に要求を受け入れるようね。陛下のところに回すわ」

 28日、英俄爾岱が国書を持ってやってきた。そこには、

  1. 清の冊封を受け、その正朔を奉じる(清を宗主国としてその暦・年号を用いる)こと。
  2. 明と断交し、その年号も使わないこと。また冊封の証として明から授けられた誥命、玉冊を差し出すこと。
  3. 仁祖の長子ともう一人の王子、また大臣たちの子息(いなければ弟)を人質として差し出すこと。
  4. 仁祖にもしものことがあれば、清帝が、人質になっている王子を立てて王位を継がせる。
  5. 清が明を攻めるときは、きちんと援軍を出すこと。鴨緑江河口の皮島(椵 島)を攻める際は軍船50隻と兵・武器兵站を提供すること。
  6. 皇帝や皇太子の誕生日といった祝日には、明の時と同じように大臣たちを使者として派遣し、国書を奉ること。
  7. 城郭の新築補修は許さない。
  8. 朝鮮の大臣の娘たちと清の大臣の息子たちを結婚させて友好関係を強固にする。
  9. 朝鮮に逃げこんでいる兀良哈(ウリャンハ。オランカイともいう。豆満江付近にいたモンゴル系)人を引き渡すこと。
  10. 昔のように日本との貿易を行なうこと。ただし清に来る日本の使者を案内する時は、清から使いを派遣する。

といった条項が書かれていた。また、毎年貢納する「歳幣」として以下の物資と量が記載されていた。

黄金 100両
白銀 1000両
水牛角 200対
豹皮 100張
鹿皮 100張
水獺皮 400張
1000包
青黍皮 300張
胡椒 10斗
好腰刀 26口
順刀 10口
蘇木 200斤
好大紙 1000巻
好小紙 1500巻
五爪龍蓆 4領
各樣花蓆 40領
白苧布 200疋
各色綿紬 2000疋
各色細麻布 400疋
各色細布 10000疋
1400疋
(註1)
10000包
(註1) 『清史稿 列伝 属国1 朝鮮』では4000疋。

 なお、よく言われる「牛三千頭、馬三千頭、各地の美女三千人」の貢納については書かれていない。これについては、寧覇総督府の『
「美女三千人」貢納言説について』が詳しく検証しているが、つまりは、それを聞いて書き留めたシャルル・ダレすらその事実を証明できなかったと明言した「風聞」「俗説」である。
 さらに、この問題については番外編1でもあらためて追加検証しているのでご一読されるとありがたい。
 また、これらの物品は「歳幣」であり、「朝貢」ではない。朝貢は清からの回賜とセットになった双務的なものであり、儀礼としての性質が強いが、この歳幣は清からのお返しを伴わない片務的なものであり、宗藩秩序に関する儀礼性よりも軍需物資や生活物資の負担献納といった実務的な性質が強いことには留意されたい。

洪瑞鳳
「たしかに受け取りました」

英俄爾岱
「ご苦労さん。すでに三田渡に降伏の儀式を行なう場所を築いてあって、陛下もおいでになっているし、明日にも降伏式を行なえるんだ。こういう場合、降伏する側は自分を縛り上げて棺(あるいは斧鉞)を背負うといった細々した作法があるんだが、別にいらんだろう」

洪瑞鳳
「そうですか。殿下は龍袍をお召しになっているのですが、その服のままで行くべきでしょうか?」

英俄爾岱
「龍袍はダメだな」

洪瑞鳳
「では、南門から出発してもいいでしょうか?」

英俄爾岱
「降伏する側は勝者にたてついた罪人って位置だからなぁ、正門の南門を通るのはダメだろ」

 結局、1月30日に三田渡で降伏の儀式が行なわれることになった。
 南漢山城では、各役所にある文書を集めて焼き捨てた。それらの文書の中には、清を『賊』などと呼んだ言葉が使われており、それが露見するのを恐れたからであった。
 この日、絶食を続けていた礼曹判書の金尚憲が首をつって自殺を図ったものの、それを発見した子息に救助されるという事件が起こった。彼は江華島陥落のさい自決した金尚容の弟である。
 また、南漢山城救援のために南下し、たびたび清軍に勝っていた平安道観察使洪命耉 の軍がついに金化で敗れ、洪が戦死したという知らせが届いた。これによって、頼みの綱であった諸道の援軍はほぼ全滅したことになる。
 29日には、斥和の首謀者とされた尹集・呉達済が縛られ、崔鳴吉たちによって清軍陣地に護送された。

崔鳴吉
「斥和の首謀者である尹集・呉達済を連れてまいりました。あと一人、清の使者を斬るべしと上疏した洪翼漢がいますが、現在平壌庶尹として平安道に赴任しておりますので、捕縛するよう命令を出しているところです」

ホンタイジ
「そうか、2人の縄を解いてやれ。崔鳴吉、ご苦労であった。そなたたちに貂の裘(かわごろも)を与えよう」

崔鳴吉
「ありがとうございます」

 1月30日、仁祖は粗末な藍染めの服を着て白馬に乗って、南漢山城の西門から出て山を下りた。通常王の行幸などに従う儀杖のたぐいはいっさい用いず、世子李 と廷臣50余人を従えただけであった。山を下りた後、用意したいばらの上に座って迎えを待った。

馬福塔
「朝鮮国王殿下、お迎えにあがりました」

仁祖
「今日のことは、皇帝陛下のお言葉とあなた方ご両人のお力に頼るばかりです」

英俄爾岱
「これから両国は一家です。何を心配することがありましょうか。さ、日は短いので早く参りましょう」

 英俄爾岱が先導し、馬福塔の率いる騎兵数百騎に守られ、仁祖一行は三田渡に向かった。従うのは三公(領議政・左議政・右議政)、判書・承旨各5人、他2人だけであった。また世子は侍講院、翊衛司の諸官を率いて随行した。
 三田渡につくと、黄色い幔幕を張り巡らした中にホンタイジが座っており、武装兵が四方を固め、音楽が演奏されていた。これは中華王朝の礼式を簡略化して模倣したものであった。一行は東門の前でいったん停止した。

英俄爾岱
「陛下、朝鮮国王殿下が参られました」

ホンタイジ
「これまでのことを話せば長くなるが、よくぞ勇断して来られた。我は嬉しく思うぞ」

仁祖
「ははぁ、ありがたき幸せ」

英俄爾岱
「さ、入られよ」

 仁祖は壇の下、南側に設けられた席に進み、三跪九叩頭の礼を行なってから北に向かって座った。そして英俄爾岱に引率されて、いったん東門から出て、東北の隅から入りなおして、壇の東側に座った。鳳林大君以下江華島で捕虜になった人々は壇下に立っていた。

英俄爾岱
「陛下、お上りください」

ホンタイジ
「うむ」

 ホンタイジは、壇上に南に向かって座り(すなわち『天子南面す』である)、仁祖は東北の隅に西に向かって座り、清の王子3人がその横に並んで座った。また、清の王子4人が西北の隅に東に向かって座り、それに並んで鳳林大君と麟坪大君が座った。朝鮮の随行してきた廷臣たちは壇下の東の隅に席を与えられ、江華島で捕虜になった廷臣たちは壇下の西の隅に席を与えられた。

英俄爾岱
「諸廷臣よ、今我らは一家となった。そこで、そなたたちの弓の腕を見てみたい」

従者
「今日来ているのはみんな文官です。とても弓なんて引けません」

 断ったものの、結局鄭以重という者が弓を射ることになったが、朝鮮のものと構造が違うせいもあって5発射ても的に当たらなかった。これを見た清の王子や諸将はその弓を射て遊び、酒も出てきたが、少ししたところで酒が下げられた。

清人×2
「陛下、お持ちしました」

ホンタイジ
「うむ」

 ホンタイジは、従者2人がそれぞれ連れてきた犬をみずから屠殺し、肉を切り分けた。天地を祀るための犠牲いけにえということであったのだろう。そのあと仁祖は退出して、江華島で捕虜になった人々と再会した。

仁祖
「皆の者、よくぞ無事であった」

英俄爾岱
「ご歓談中申し訳ない。陛下が世子のお妃と大君夫人に会いたいとのことだ」

 世子の妃と大君夫人らはホンタイジに拝謁したが、これは朝鮮の信じてきた儒教礼儀にもとるものであった。儒教礼儀では、たとえ君主といえども臣下の夫人には会ってはならないのであり、これを破ることは、夫人の貞操を傷つけたのと同じとされていたのである。

英俄爾岱
「そうそう、陛下からそなたたちへの下賜品があるんだ」

 仁祖にはきれいな鞍を置いた白馬と貂裘が送られ、随行してきた三公と判書・承旨10人には貂裘が送られた。

仁祖
「ありがとうございます」

 仁祖はその貂裘を着て礼を述べ、国宝を献上させた。英俄爾岱はそれを受けとって去ったが、すぐに戻ってきた。

英俄爾岱
「おいおい、明からもらった誥命、玉冊がないじゃないか。あれを差し出せって講和条件にあっただろ」

仁祖
「それが、玉冊のほうは李适 の反乱(1623年)のなかで行方不明になってしまい、誥命のほうは、今回の戦役で江華島に送っておいたのですが、貴国の占領時にバラバラになってしまったんですよ」

英俄爾岱
「そうなのか?それじゃ仕方ないな」

 日暮れになってようやく漢城へ帰ることが許された。しかし、世子夫婦と鳳林大君夫婦は人質として盛京に連れてゆかれるため、帰ることはできなかった(麟坪大君夫婦は2月1日に返還された)。
 一行は英俄爾岱に護衛されて漢城都城に入り、昌慶宮養和堂に帰り着いた。捕虜になった人々は仁祖一行の帰るのを見て「我が君は我らをお捨てになったのか?」と泣き叫んだという。

 2月1日、英俄爾岱・馬福塔が養和堂に来て、ホンタイジから預かった高麗玉印を仁祖にわたした。2日、ホンタイジは、三田渡から撤収し帰国の途につき、仁祖はこれを箭串場で見送った。また、8日、人質となった世子夫婦と鳳林大君夫婦、諸大臣の子弟を引率したドルゴンが帰国の途についた。
 斥和の首謀者であるとして引き渡された尹集・呉達済は、後軍の陣中に収容され、しばらく後に盛京に護送されることになる。もう一人の首謀者とされた洪翼漢は、任地の平安道で捕縛され、撤収中の清軍に引き渡されることになった。
 ここにおいて、清と朝鮮の戦争は終結し、ついに朝鮮は完全に清の属国となることを余儀なくされたのである。この戦役を朝鮮では「丙子胡乱」という。


>>登場人物

>>次回

<<前回

>>トップ