三田渡への道 3
Suspicious Minds
丁卯胡乱の後、朝鮮は毎年春と秋に後金の首都瀋陽に使者を送り(春信使・秋信使)、貢物を捧げ、国境に交易市場を開くことになった。
後金軍の道案内として従軍し、講和のために仲介役として奔走した姜弘立と朴蘭英は、朝鮮に帰国したが、丁卯胡乱が終わって半年後の7月27日、姜弘立は病死した。
姜弘立「後金との和平は成りましたが、ほんとうにこのままうまくいくのでしょうか……」
また、2年後の11月15日には、丁卯胡乱のさいに軍司令官として奔走した張晩が死去、やや後年に飛ぶが、李貴は1633年2月15日に死去した。
張晩「壬辰倭乱、丁卯胡乱と国家の危機が続く一生でした…」
李貴「義兵を率いて東奔西走した壬辰倭乱のころが懐かしいです…」
一方、朴蘭英は、後金との関係の深さ、人脈の広さを買われて、たびたび春信使・秋信使として後金に使者として赴くようになった。
朴蘭英「わが国と後金の関係がうまくゆけばよいのですが」
後金は、ただちに寧遠城や山海関といった明の重要拠点を直接撃つのではなく、周辺の拠点を占領し、またモンゴルなどの諸族を服属させることで味方をふやそうとした。
内政面では、これまで部族合議体であった女真の国体を、中華王朝ふうの唯一無二の皇帝を頂点とする集権体制にするため、有力氏族のうち、ホンタイジに反抗的な者の勢力を削るなどの政策に乗り出した。
そんな中で、丁卯胡乱に従軍した劉興祚の収賄や略奪による不正蓄財が問題となった。
ホンタイジ「劉を解任する。以後朝鮮に対する折衝は英俄爾岱に任せる」
英俄爾岱「はっ」
劉興祚「な?!こうなりゃ謀叛よ、ってあっさりばれた!もう逃亡するしかないわね」
劉は極秘に一人の盲人を酒宴に招いて絞殺し、自宅の天井の梁からぶらさげて自分の首吊り死体に見せかけ、さらにその自宅に放火した。そして、親しかった清人庫爾纒に遺書を送った。遺書を受け取った庫爾纒が急いで劉の家に駆けつけると、すで鎮火した後で、焼け跡から一体の死体が出てきた。
庫爾纒「り、劉、早まった真似を…」
こうして劉は自殺を偽装することに成功した。脱走した劉は皮島の毛文龍の軍に逃げこんだ。
毛文龍「劉将軍、後金の内情をよく知るあなたが来てくれれば力強いです」
その毛文龍は、もはや後金とは積極的に戦おうとはせず、交易への課税や密貿易によって莫大な資金を得て安眠を貪り、「海外天子」と自称するまでになっていた。また、その内情を弾劾されることを懼れて、明朝廷の権臣や宦官などの有力者にさかんに贈賄していた。
寧遠城の袁崇煥は潔癖で知られた人物であり、毛のこのような動きを苦々しく思っていた。この時期、袁はその戦功によって兵部尚書・薊遼総督に任じられ対後金戦争の全権を委ねられていた。またその部将祖大寿も前鋒総兵官・錦州総兵に任命され、錦州に駐屯していた。
袁崇煥「あのような輩が国家を誤らせるのです。これは大問題ですね」
袁は毛の誅殺を決意した。1629年6月、袁は不意に毛を呼び出した。毛は疑いもせずやってきた。
毛文龍「何の話かな?」
袁崇煥「国家の大賊毛文龍!お前を誅殺する!」
毛文龍「!!」
袁は、毛の12の大罪を数え上げ、直ちに処刑した。皇帝(崇禎帝)の裁可を受けない独断専行であった。この報に接した北京の朝廷では、この処置について袁を責める者が多く出た。
明 大臣「袁は己の権勢を恃んで傲慢である!(これで毛からの賄賂がなくなったじゃないか!)」
明 宦官「皇帝陛下をないがしろにする暴挙だ!(せっかくの金ヅルを!)」
批判者のほとんどは毛から贈賄されていた者であった。大口の収入源を断たれたことを憎んだのである。だが、毛の専横ぶりはすでに広く知られており、結局、崇禎帝は袁の処置について不問に処した。
また、毛の根拠地である皮島では、毛の処刑に動揺して脱走、あるいは後金に投降する幹部や兵が出た。
劉興祚「ま、待て。落ち着け!袁将軍はお前たちまで罰することはないぞ」
劉興祚は弟たちとともに軍中の騒動を鎮め、兵をまとめた。だが、孔有徳、尚可喜、耿仲明といった幹部たちは、海を渡って山東半島に逃げ、登州を守っている孫元化の軍に投じた。
もっとも、1632年、かれらは給料遅配や待遇の悪さを理由に反乱を起こし、1万余りの兵を率いて再び海を渡り、今度は後金に投じた。手土産には、紅夷砲とその製造法を知る鍛冶職人を持っていった。
ホンタイジ「これが父上と我を苦しめた紅夷砲か。『紅夷大将軍砲』と命名する。直ちに製造せよ」
ホンタイジは紅夷砲の製造を命じるとともに、永平など明の拠点4ヶ所を攻略した。
ホンタイジ「阿敏、お前にこの4城の守備を命じる」
阿敏「はっ」
祖大寿「なに!永平が陥ちただと!奪回するぞ!」
劉興祚「我らも続けー!」
祖大寿はただちに軍を発して奪回に向かった。
阿敏「!明軍が来ただと!」
守備を命じられた阿敏はパニックに陥り、城中の降伏していた明の官吏や民衆を殺してその財貨を奪い、夜にまぎれて退却した。
祖大寿「よし、諸城の奪回成功!」
阿敏の醜態は、当然ながら大問題となった。
女真人「阿敏には今回の失態のほかにも罪がぎょうさんあります。かつて首都の留守を命じられたとき、真面目にやらんと逸楽に耽って狩猟を行い、諸将の拝礼を受けるにもまるで君主であるかのような応対をしとりました」
ホンタイジ「うむ。しかも今回はすでに帰順して我の民となっていた良民たちを虐殺し、その妻子を奴隷として士卒に与えたというではないか。同じく逃走した諸将に比べて阿敏の振る舞いはまことに許しがたい」
阿敏とともに逃走した諸将は爵位を剥奪されたが、専横の罪をも弾劾された阿敏は幽閉されることになった。阿敏が奪って士卒に与えていた人々は保護された。
ホンタイジ「明に正面から戦ってはなかなか勝てないな。武力より謀略を使うべきかもしれん……寧遠城・山海関を避けて、モンゴルを大回りして中原に入るぞ」
女真人「し、しかし、まともな防御関門を避けるんやったら、万里の長城の城壁の途切れ目を通らなあきません。あの程度の隙間では大量の人馬を短時間に通行させることは不可能です」
ホンタイジ「承知しておる。少数の精兵でいいのだ。無防備な北京を脅かすことが今回の目的だ」
ドルゴン「(兄上は何か考えておられるのだな)」
ホンタイジは自ら兵を率いてモンゴルを大回りし、兵を分けて万里の長城のところどころに河を通すためうがたれた小さな隙間を通って長城の内側に集合し、長駆して北京を包囲した。
明は最前線である山海関に兵力を集中しているため、首都北京は無警戒状態であった。
袁崇煥「なに!北京が包囲されただと。救援に向かいます」
袁は兵を率いて北京に駆けつけた。ホンタイジは退却命令を出した。
ホンタイジ「袁が来たか。退却せよ……すでに策は完成した」
袁崇煥「包囲は解けましたね…陛下の使いが参りましたか。わかりました。すぐに参内いたします。ん?お前たちは錦衣衛!な、何をするのですか?!」
錦衣衛「袁将軍、謀叛の罪状を以てあなたを逮捕します」
毅宗崇禎帝は錦衣衛(特務機関)を派遣し、参内のために入城した袁崇煥を逮捕した。容疑は後金と通じて謀叛を企んだというものであった。また、毛文龍を処断したことも国家有用の人材を損なったものだとして罪状に挙げられた。
袁崇煥「そ、そんなバカな!!」
袁は抗弁したものの、勅命によって処刑された。謀叛は重罪であり、生きながら寸刻みに体を刻まれてゆく凌遅刑であったという。
なお、明代は、太祖朱元璋が異常なまでに猜疑心が強く、特務機関の錦衣衛を設置して社会を監視し、数々の酷刑を考案・復活し、世祖永楽帝も甥の建文帝を殺して即位したため警戒心が強く、宦官で構成される特務機関の東廠を設置し、彼らは残虐な拷問・刑罰を開発・使用するなど、司法に関しては息苦しい時代でもあった。
ホンタイジ「袁が処刑されたか。今回の出兵の真の目的は達成された」
ホンタイジは袁崇煥を敵の手で葬るため、賄賂の収入源を断たれたことで袁を怨んでいた北京の宦官たちを買収し、崇禎帝に讒言させたのである。魏忠賢(先代の天啓帝時代に権勢を壟断した宦官)など権臣奸臣の跳梁跋扈に悩まされたことで、臣下に対する猜疑心を強く持っていた崇禎帝は簡単にその離間策に乗ってしまった。
18歳で皇帝になった崇禎帝は、明の衰退をじゅうぶんに自覚しており、自ら膨大な政務の決裁に取り組むなど、国家の再生にあせっていた。そのせいもあって些細な失敗や敗戦の責任を問い、たびたび大臣を罷免し、将軍たちを処罰処刑した。「崇禎五十相」という言葉があるように、17年間の治世の中で50人も宰相を入れ替えたのである。これでは政治の安定はできず、崇禎帝の努力は空回りするばかりであった。
さらに言えば、讒言を増幅させて、袁の処断を主張したのは、やはり賄賂の収入源を断たれたことで袁を怨んでいた廷臣たちや魏忠賢の残党(毛文龍は魏忠賢にも多額の賄賂を贈っていた)であった。
祖大寿「袁将軍が処刑された?バカな!もうこの国はおしまいか……」
袁崇煥処刑の報を聞いた祖大寿は激怒して、後金に投じようとしたが、どうにか説得され思いとどまった。
このころ、春信使として瀋陽を訪れていた朝鮮の朴蘭英は、英俄爾岱にこんな話を聞かされた。
英俄爾岱「ご使者どの、どうして来るのが遅れたのかな?今我らは明と戦っている最中だ。まさか日和見してたんじゃないだろうか?」
朴蘭英「い、いえ。そんなことはありません」
英俄爾岱「ま、そんなことはどうでもいい。皆の者、席を外せ……実は袁将軍は我らと内通したのがばれて処刑されてしまったんだ。困った困った」
朴蘭英「!(まさかそんなことが。しかし信用できそうな口ぶりです)」
英俄爾岱の耳打ちは、この謀略を利用して朝鮮に揺さぶりをかけるさらなる謀略であったのだろうか。
ホンタイジ「最大の敵は消した。寧遠城や諸城を落とすぞ。ドルゴン、お前はモンゴルの諸族を服属させてこい」
ドルゴン「はい」
ホンタイジのほうは永平、大凌河といった明に奪回されていた諸城に攻めかかった。
ホンタイジ「あの憎き劉興祚を絶対に逃がすな!」
劉興祚「うわぁっ!」
劉は戦ったのち山海関に逃げこもうとしたが、後金軍に追いつかれて包囲されついに捕らわれて斬られた。庫爾纒がその死体を埋葬した。
ホンタイジ「ヤツには死すら生ぬるい。磔にせよ」
ホンタイジはその死体を掘り出し、磔に掛けさせた。のち、庫爾纒が密かに再びその死体を埋葬したという。
一方、祖大寿は大凌河に籠城したが、兵糧が尽きてついに降伏した。
祖大寿「養子の可法を人質に出して降伏しまーす……なんてウソ☆」
祖の降伏は偽りであった。祖は人質を残したまま、隙を見て脱走して錦州に逃げ帰り防御を固めた。
ホンタイジ「なかなか骨のあるヤツだな。おもしろい。ぜひ我の配下に欲しい」
祖大寿「いやですよーだ!」
その後、ホンタイジはことあるごとに祖大寿に降伏を呼びかけ、祖は拒否し続けた。このやりとりは、1642年、祖が本当に降伏するまで11年間続くことになる。なお、人質になった可法は殺されるどころか、漢人八旗の正黄旗に任用された。
一方、ドルゴンはホンタイジにモンゴルの平定を命じられていたが、モンゴルの西方にあって覇を唱えていたリンダン・ハーンが1634年に急死し、その遺児エジェイが降伏したことをもってモンゴルの平定事業を完成させた。
ドルゴン「モンゴルの諸族は、ことごとく我が後金に忠誠を誓いました」
ホンタイジ「よくやった。北方の諸族はすべて我の下に集結したな」
ドルゴン「それと、降伏してきたエジェイがこのようなものを献上してまいりました」
ホンタイジ「これは大元帝国の玉璽ではないか。これで我はモンゴルの大汗をも兼ねることになったな」
『制誥之宝』という文言が彫られたその玉璽は、大元からオイラート部の嫡流であるメトゥト部に伝わるものであり、かつてリンダン・ハーンがそこから入手したものであった。
ホンタイジ「我も、女真・モンゴルを合わせた皇帝となっていい頃かもしれんな」
ホンタイジの内意を受けて、首都盛京(1634年に瀋陽を改称)では、女真人・蒙古人・漢人の有力者に根回しが行なわれ、まずホンタイジに皇帝の尊号を奉ることになった。
ホンタイジ「諸子よ。朝鮮は我の兄弟の国(丁卯胡乱の和約で後金を兄、朝鮮を弟としたことにちなむ)だ。彼らとも協議すべきだ」
後金の大臣やモンゴルの王子など有力者たちは協議を求める書状を書き、英俄爾岱と馬福塔が使節を率いてその書状を持って朝鮮に向かった。ちょうど仁祖の王妃(仁烈王妃)が死去した時であり、その葬儀に参列するためでもあった。
英俄爾岱「わが国は大元を獲得して、その玉璽を得た。モンゴルの諸王子たちもホンタイジ様に皇帝の尊号を奉りたいと願っておる。そこで貴国と協議したい」
馬福塔「ぜひともいい返事がほしいわね」
仁祖「こ、これは天をも畏れぬ所業ではないか!」
洪翼漢「あの使者どもをぶち殺してその首を天朝に送りましょう。兄弟の盟約に背いたこと、皇帝を僭称したことを責めて、礼と義の大事なことをはっきりと言い、隣国の道理というものを述べればわが国の勢いは増します。どうか大勇を奮ってヤツラを誅殺し、その体を街に捨ててください」
臣下「ヤツラが皇帝を僭称するのは、我らを奴隷にしてわが国を属国にしたいがためです」
「天に二日なく、地に二王なし」という言葉があるとおり、彼らにとってこの世に皇帝は一人しか存在しないものであった。明との絶交は不承不承受け入れることができても、その明じたいの否定となる明以外の皇帝を認めることは、イデオロギー上とうてい不可能なことであった。
臣下「こんな書状はとても受けとれません」
英俄爾岱「我が王は戦えば必ず勝ち、業績は山のように高い。内にあっては大臣たち、外にあっては諸族の王子たちがみな帝位に就くことを望んでいる。我が王は、朝鮮とは兄弟の国であるから協議しないわけにはいかない、とわざわざおっしゃって使者をよこしたのだぞ!」
激怒した英俄爾岱は席を立ってそのまま帰ってしまった。数日後の2月26日、仁烈大妃の弔祭が行なわれ、馬福塔が参列したが、その席は上席ではなく、川べりに幔幕を張っただけの場所に設けられた。
馬福塔「何この席?」
臣下「殿上が狭いため良い席を用意できないのです」
むろん、そんな配慮などではなくただの嫌がらせであったのだが、たまたま風によって幔幕がめくれ上がり、そこが末席であることがばれた。
馬福塔「なんて程度の低い嫌がらせを…しかし兵が伏せてあったということは私を討つ気なのね!」
その幕の後ろには演習帰りの兵たちが通りかかったところであった。馬はそれを伏兵だと勘違いして、馬を奪ってその場から逃げ出した。こうして英俄爾岱と馬福塔は漢城を逃げ出した。
そうなると、例によって朝鮮の廷臣たちは争って上疏して強硬論を唱え始めた。
太学生140名「使者を斬って、その書状を焼いて大義を明らかにしましょう」
崔鳴吉「英俄爾岱らはただ春の通信と弔問のために来ただけです。その書状の理に背く言辞はこちらも書状で指摘すればよいだけです。それより来るべき兵禍を避ける策を考えなくてはなりません」
尹昉「使者を怒らせたことで我が国には兵禍が及びましょう。防御策を考えるべきです。江華島に移って善後策を考えましょう」
金慶徴「今は防御策を考えるのが先です。江華島に移るのは優先事項ではありません」
3月1日、仁祖は全国(八道)に教書をくだした。その一方で崔鳴吉の建議どおり、ホンタイジと英俄爾岱にそれぞれあてた書状をつくって送らせた。
仁祖「今蛮族どもはますます図に乗ってついには皇帝を僭称するようになった。我々は正義を以て彼らの書状を受けず、そのためヤツラの使者はついに怒って帰った。都の者どもよ、戦火が迫っているが、敵を退けて快事としようではないか。また八道の者たちも朝廷の正義の挙を聞けば、危機が迫っているといえども激して死を誓ってともに戦うであろう!都への遠近、身分の貴賎は問題ではない。忠義の士は策を練り、勇気ある人は出征に従い、艱難をともにして国恩に報じよ」
英俄爾岱「さっさと盛京に帰るぞ。ん?あそこを走っているのは朝鮮の使者じゃないか」
馬福塔「何かあったのかもしれないわ。捕らえて尋問しましょう」
盛京への帰国途上にあった英俄爾岱らは、平安道に教書を届ける使者を発見して捕らえた。
英俄爾岱「ほう、こんなものを持っていたのか。やつら和約を台無しにする気だな」
馬福塔「急いで盛京に戻って報告しましょう」
臣下「殿下、平安道監司から報告がありました。教書が後金兵の手に落ちたとのことです。やつらは『貴国の書状を手に入れたが焼き捨てた』と言ってきましたが、おそらく持ち帰ったものと思われます」
平安道への教書は再発行された。また黄海道にくだした教書も後金兵に奪われていた。
ドルゴン「朝鮮は反対したか。まぁいい、既定路線どおりホンタイジ様を皇帝に推戴するよう進めるぞ」
4月11日、盛京で行なわれた大会議において、ホンタイジは『寬温仁聖皇帝』に推戴された。同時に国号は「清」、年号は「崇徳」と改められ、民族名も「満洲」となった。
ちょうどこのとき、朝鮮からは、春の定期使者である春信使の羅徳憲と、崔鳴吉が建議していた国書を持ってきていた回答使の李廓が盛京にいた。
清人「お前らもさっさと祝賀の席について拝賀せんかい!」
李廓「皇帝の僭称など認められません」
羅徳憲「こんな席にはつくことはできませんし、拝賀もできません」
清人「なんやとー!このわからんちんどもが!みんなー、こいつらをいてまえ!」
羅徳憲&李廓「きゃーっ!!」
清人たちは二人を激しく殴打し、その衣服はずたずたに裂かれ、冠は壊されたが、ついに席につかず拝賀もしなかった。
ホンタイジ「そのくらいにしておいてやれ。朝鮮国王は和約を破る理由づけのために、我にこの使者たちを殺させようとしているだけだ。ほっておけ」
羅徳憲・李廓は帰国を許され、国書を託された。
羅徳憲「国書はどんな内容なのでしょうね」
李廓「ちょっと確認してみましょう…!『大清皇帝』の文字が使われているわ!こんな無礼なものはもって帰れない!もって帰ったらどんな目にあわされるでしょうか?!ひ、ひっ翡翠ちゃん、どうしましょう?」
羅徳憲「…姉さん、ちゃんと役に入ってください。で、仕方ありませんね。写しをもって帰って、原本は捨てましょう」
李廓「は、はい。そうしましょう、そうしましょう」
彼らは帰国途中の通遠堡で国書を見て、写しをもって帰り、原本は通遠堡のガラクタの中に置き去った(『丙子録』では清人のもとに放置してきたという)。
彼らの帰国と報告に対して、平安道観察使の洪命耉 は上疏した。
洪命耉「羅徳憲、李廓のもって帰った書状に賊めのとんでもない言葉があったことには、心が張り裂けおもわず泣いてしまいます。義士数人を募って、羅徳憲らの首をやつらの門に投げ入れて、大義によって厳しく責めたてれば犬羊のようなやつらといえども必ず恐れ入るでしょう。もし怒って攻めてきたとしても、我が国の軍兵はみんな勇気を奮って立ち上がり、敵の刃を恐れず死をかけて戦うでしょう!」
羅徳憲&李廓「(やっぱり殺されるんだー!)」
臣下「羅徳憲、李廓が義によって自決できなかったことは驚くべきことです。また国書を途中で見て、きちんと捨てずにただ放置したのも驚くべきところです。使者として君命を辱めたことは確かですので、何らかの罰は必要でしょう」
仁祖「うむ。そうだな」
羅徳憲&李廓「(命だけは助かったぁ)」
もっとも、彼ら二人が罰せられたという記録はない。
朝鮮はこれ以降清の侵攻に備えて軍備をととのえるわけだが、『仁祖実録』を読むと、羅徳憲・李廓が帰国した1936年(仁祖14年)4月26日から、馬福塔率いる清軍が漢城の城下に奇襲同然に進撃する12月14日までの8ヶ月弱の間に、軍備に関する具体的な記事を拾うと以下のようになる。
5月 5日:訓練を終えた騎兵100騎を漢城に配備する。平安道で募兵することを決定。
7月 4日:金瑬 が各道の兵8万7千63人から精鋭を2万人選んで編制する。
7月14日:兵曹が軍布4百余を義州に送り、また糧穀を購入して城に備蓄する。
7月23日:平安道観察使の洪命耉 が義州の城郭の修理を申請するも否決される。
8月 2日:平安道の学生から1300人を選んで弓砲の取扱いを練習させる。
9月 9日:砲手4百人を訓練して平安道の守備に配属する。
11月12日:魚膠4百斤(弓の接着剤)、正筋2百斤(弓の弦)、雉羽5万個(矢の羽根)、箭竹7万個を義州に送る。
11月21日:漢城の軍器寺に貯蔵されている火薬4千斤を江都に運ばせる。
たったこれだけけ?もっとようけ動かなあかんやろが!と作者は呆れるわけです。まぁ、たんに記録に残っていないだけかもしれないのだが。
ともかくも、朝鮮の態度には明人すら不安をいだいていた。9月1日に崇禎帝の勅書を持って朝鮮を訪れた明の使者黄孫茂はこう警告している。
黄孫茂「経書を読むのは実際の政治に役立てるためであって、そうでないなら詩経300篇を読んでも意味がない。貴国の士大夫は何を読み、何を修めようとしているのか、私にはわからない。ただうわべだけの薄っぺらい理解とはっきりしない読書の声で自分を飾るだけではないか。貴国の廷臣で、政治を行い軍備をととのえることをできるものはいるのか?」
6月13日、崔鳴吉は江華島への移動を提案したが否決された。17日、仁祖は、盟約に背いたのはお前たちのほう(清国という国号はもはや使わなかった)である、という内容の国書を送って決戦の決意を示した。
9月10日、義州府尹の林慶業は、人参の交易で義州に来ていた馬福塔にこの書状を渡そうとして、まず林の軍官が内容を読み上げた。
馬福塔「ふうん。うちの国じゃ皇帝陛下も諸王子も『朝鮮はガキの国だ。何を恃みにしているんだ?己自身か?』といつも嘲笑っているわよ。そうそう、私は商売に来ただけだし、これは受けとらないわ。そっちで適当に送っておいて」
その言葉どおり、このころ清は、
清人「斥和交戦を唱えているのは儒臣だけやろけど、筆先だけでうちらを退けられるとでも思っとんのん?」
といったことも言っていた。
これに対して、先にも少し触れたように、朝鮮のほうは首脳陣の仲が悪かったこともあり防備対策は全く進まなかった。領議政兼体察使となった金瑬 は本来主戦派であったが、
金瑬 [流の下に玉]「もし、敵が深く攻め入ってきたら、都元帥・副元帥はもちろん黄海・平安道の観察使は妻子もろとも厳罰に処すべきです」
仁祖「そのときは体察使も重罪を免れないぞ」
金瑬 [流の下に玉]「!やっぱ講和しましょう!」
と意見を変えたというグデグデなありさまであった。このような中、一貫して和平を主張していたのは崔鳴吉と洪瑞鳳の2人であった。
また『丙子録』によれば、緊急事態のさいの援軍を遠い慶尚道(朝鮮南東部。釜山・大邱がある)から招集することにしたり、せっかく定められている軍の鎮営地をむちゃくちゃに変更してしまい、そのため鎮営地間の距離は近いところでも3、40里(約12~16キロ)、遠いところでは連絡ですら1、2日かかるような事態になった。
そのうえ、都元帥(最高司令官)の金自点は、士卒をねぎらうことを知らない人物であり人心を得ていなかった。正方山城(黄州の南4キロ地点の山にある)を築くときも人々を酷使した。
金自点「お前らー!きりきり働けー!(ビシッ)しっかり山城を築くのだ!(ビシッ)」
兵士A「鞭を振り回して脅すなんてひどすぎる」
兵士B「ちょっとは休憩くらいさせろよな」
金自点「ま、冬の間は敵は攻めてこないでしょうけどね」
軍官「そんなことはありますまい。やつらはこの冬に来ますよ」
金自点「来るわけがないでしょ!!来ないといったら来ないの!」
軍官「ひっ!」
金自点は、冬の間には敵襲がないと決めつけて軍兵の補充・兵備の点検を行なわなかったために、秋冬に兵力は増強されなかった。
そうこうしているうちに、清では朝鮮征討の計画が着々と進められていた。12月1日、服属した蒙古などの諸族を含む全軍が盛京に集結した。
ホンタイジ「これより我は盟約に背いた朝鮮を討つ。ドルゴン、お前は満洲・モンゴル兵を率いて、義州の北東の寬甸から鴨緑江を渡って長山口(慈江道)に進撃せよ」
ドルゴン「はい」
ホンタイジ「馬福塔、お前は兵300を率いて密かに漢城に潜入して奇襲せよ。兵1千を後続させる」
馬福塔「さっそく兵を商人に変装させて出発します」
ホンタイジ「我は中軍を率いて義州に向かう。岳託、お前は兵3千を率いて先鋒となれ」
岳託「はい」
ホンタイジ「杜度・孔有徳は輜重を護衛せよ。また杜度は紅夷砲も運搬せよ」
このほか、阿済格・阿巴泰を遼河海口に駐屯させて、明の援軍が水路でやってくるのに備えさせ、盛京の留守居に済爾哈朗を置き、12月2日、総勢10万の清軍が盛京を進発した。
では、朝鮮のほうはどうであったか。以下『丙子録』から引用する。12月6日、国境の羲州に設置していた烽火台から敵軍来襲を知らせる烽火が上がった。
軍官A「都元帥!国境で星火(のろし)が上がりました。清軍の来襲です」
金自点「こんなに早く来るわけがないでしょ。和議の使者が戻ってきたのを勘違いしたんじゃないの?殿下に報告の必要もなし、と」
正方山城に駐屯する都元帥金自点はその報を信じず漢城に報告もしなかった。
翌日以降も敵軍来襲を知らせる烽火が上がり続けたが、9日になって金自点はようやく軍官の申榕を斥候を出した。その申榕は翌10日に復命した。
申榕「都元帥!斥候に行ってきましたが、すでに清軍騎兵が順安(今の平壌北部)に充満しています。平安道観察使にも報告しておきました」
金自点「ウソツキ!あんたは妄言を吐いて軍中を乱した罪状で斬首よ!」
申榕「な!私を斬るのは待ってください。明日になればこの地に敵が来ますから」
軍官B「都元帥!斥候に行ってきましたが、清軍が迫ってきました!」
金自点「なんですって―?! 朝廷に報告するのよ!」
そしてその報告は12月13日(『丙子録』では12日午後)に漢城の朝廷にもたらされた。…いったいなんのコントやねんと。