三田渡への道 1
Nowhere Man
豊臣秀吉軍の「唐入り」と呼ばれる1592、3年の壬辰倭乱(文禄の役)、1597、8年の丁酉再乱(慶長の役)によって、朝鮮はいったん滅亡の渕に追い込まれ、その国土は極度に疲弊していたが、それ以上に宮廷内では大問題があった。宣祖の正妃である懿仁王后(朴氏)は病弱で男子がなく、王位継承者である世子が定められてなかったのである。
宣祖には正妃のほかに仁嬪(金氏)、恭嬪(金氏)といった側室があり、仁嬪に信城君、恭嬪には臨海君・光海君といった男子がいた。
このため、1591年には領議政(総理大臣に相当)李山海、左議政鄭澈らは激論の末、光海君を世子に擁立することを決定した。
だが、東人派に属する李山海は宣祖が信城君を寵愛していることを利用して、仁嬪を通じて鄭澈を讒訴した。それを受けた宣祖は、鄭澈と西人派を追放したのである。このため、正式な世子決定はいまだ行なわれていなかった。
光海君「ったく、何をやってんのよ、ウチのオヤジは。李栗谷先生が言っていたように国防を整備しなきゃいけないのに」
李栗谷は、朝鮮きっての朱子学者であり、1583年には、朝鮮が国防を軽視している現状を憂えて常備兵の整備を説いた「十万養兵」を宣祖に奏上していた。だがそれは無視されていたのである(翌年死去)。
また、李の存在は東人・西人派による党争を抑制していたため、彼の死後に一気に党争が激化した。がんらい、東人・西人派は、宣祖の王位擁立によって支配層となった士林派が、1575年、官職の任官権をもつポストをめぐって二つに分裂対立したのが発端であった。
1591年、豊臣秀吉のもとに派遣した使者が帰国後に、正使の黄允吉(西人派)が「戦争が近い」、副使の金誠一(東人派)が「日本の侵略は先の話だ」とばらばらな報告を行い、政権派閥だった東人派が正使の報告を無視して防備を怠ったことはとくに有名である。
政権を握った東人は、西人への対応をめぐって南人派(穏健派)・北人派(強硬派)に分裂した。
文禄の役が起こると、宣祖は漢城を脱出、さらに国外に逃れようとして、世子に政治権力を付与して国内で抗戦継続させる「分朝」を行なおうとした。このため1592年4月29日、脱出準備のドタバタの中でようやく光海君が世子に正式決定された。
光海君「オヤジは明に逃げこんで、私が抗戦しろっての?!」
この時期、世子争いのライバルであった信城君は病死し、光海君擁立を妨げる障害はなかった。また、国家滅亡の危機にあって奔走する光海君に対して、臣下たちも次第に信頼を寄せるようになった。
しかし、宗主国である明は、
明 朝廷「ん?兄貴の臨海君がいるじゃない。どうして長幼の序を無視するかなー」
と言って、光海君の世子決定を承認しなかった。
光海君「宗主国ヅラして言いがかりつけてくるなんて!兄貴は凶暴で、人徳も人望もまったく無いのよ!」
戦後、宣祖の後継者問題は、光海君の世子擁立によって順調に行くかと思われたが、1600年、懿仁王后が病死、後添えに迎えられた仁穆王后(金氏)が宣祖の寵愛を受け、男子(永昌大君)を産むと、宣祖はそちらに王位を継承させようと思い出した。
仁穆王后「殿下、この子を世子にしていただけるんですか!」
ここで、北人派は光海君を支持する大北派と、永昌大君を支持する小北派に分裂した。(その小北派も、清小北派と濁小北派に分裂するというグデグデもあった)
大北派
李爾瞻「すでに光海君擁立は決定されているではないか!」
鄭仁弘「殿下は何を迷われておるのか?」
小北派
柳永慶「殿下の意向が最優先だ」
光海君「……」
両派はともに弾劾奏上合戦を繰り広げ、宮廷には粛清の嵐が吹き荒れた。
しかし、病に倒れた宣祖は、無理な意向は通らないと弱気になり、ついに光海君に位を譲る教書を書いた。
柳永慶「!今さら何ということだ!このような教書を公開するわけにはいかぬ」
小北派の首領である柳永慶はその教書を隠して公布しなかった。鄭仁弘はたまたまその秘密を知ってしまう。
鄭仁弘「不忠の臣め!しかし、下手に告発すればかえって逆襲を喰らうかもしれぬ。どうしたものか……よし!」
鄭は逡巡した末、ついに柳の所業を暴露した。
柳永慶「おのれ!鄭め」
しかし、鄭の危惧どおり、柳は言葉巧みに宣祖を動かし鄭を流罪に処した。これにより小北派が優勢となったのだが、1608年2月1日宣祖は逝き、光海君が即位した。
なお、実在の医者である許浚を描いた韓国ドラマ「許浚」の最終回では、許浚がこの告発をし、そのために流罪にされたというシナリオをつくっている。
光海君「やっとわたしの時代ね」
李爾瞻「そうです。我々の時代です。しかし、宮廷はまだまだ安定しておりません。柳永慶のような小北派の連中だけでなく、兄ぎみの臨海君たちのような不満分子もいます。どんどん粛清すべきです」
光海君「うむ。兄貴はとくに凶暴な上に私の中傷を撒き散らしているし、普通に考えても危ない人間だしな」
柳永慶「やれやれ、党争の結果とはいえ流罪か…何をする?!ぎゃー!」
こうして柳永慶、臨海君は流罪となったが、柳のほうは配流先で処刑された。一方、放逐されていた大北の人々が次々と復権していった。とくに鄭仁弘は赦免されたばかりか、ソウル市長に相当する漢城府尹のポストを与えられた。
鄭仁弘「ありがたいことです。しかし私は病身である上に先王の罪人です。謹んで辞退いたします。故郷の陜川で後学の教育に従事する所存です」
李爾瞻「そうですか、仕方ありません(しかし、この人の名声と人望、影響力は大いに利用価値がありますしね)。宮廷に何かございましたらお知らせいたしますので、上疏を依頼いたします。よろしくお願いします」
小北の人「こ、このままでは粛清されつくしてしまうカモ。そうだ!永昌大君を擁立するしかない。それと明を動かしてみよう」
危機感を抱いた小北派と西人派は、明に要請して、王位継承について真相調査の使者を派遣する、ということを言わせた。
光海君「ちっ、余計なことを。兄貴を消せ!」
1609年、臨海君はついに誅殺された。
さらに1612年、兵役を逃れるために官印を偽造した男を拷問にかけて、反逆事件を「自白」させ、小北派100余人を逮捕し、宣祖の孫晋陵君を殺した。「金直哉の獄事」である。
その翌年には、有力両班の庶子7人による強盗団を逮捕した。これは、光海君に庶子の差別をなくすように上疏したが聞き入れられなかった彼ら7人が火病ってキレて、強盗を繰り返したという事件である。拷問のすえ、彼らは謀反の資金集めが目的だったと「自白」した。「七庶の獄」である。
李爾瞻「永昌大君の除去がわれわれの狙いだ。なんとしてもこの謀反事件を永昌大君一派に結び付けなければならぬ」
李爾瞻は、彼ら7人が「永昌大君を王に擁立し、母后の仁穆大妃が政務(垂廉の政)をとる」という謀反計画を企んでいたとし、大妃の父金悌男に毒薬を与えて自決させ、永昌大君を庶人に落とした上、江華島に配流した。そればかりか、彼の殺害をもはかった。
鄭仁弘「お待ちください。永昌大君は8歳の幼児です。殿下のおっしゃるように謀反に関わっているはずはありません。どうか終生保護なさって、無実の者を殺さないでください」
光海君「私もそう思う。殺すのはやりすぎだ」
陜川の伽耶山のふもとに隠棲していた鄭仁弘は疏文を送ってこれを諌め、光海君自身も殺害には反対した。
李爾瞻「何を甘いことを言っているんですか!永昌大君は災いのタネです!」
仁穆大妃「!廃位するだけならともかく、なんということを!!」
李爾瞻は反対を押し切って強行し、1614年、永昌大君は密室に幽閉されて蒸し殺された。さらに、翌年には宣祖の庶子定遠君の次男である綾昌君が流罪、処刑された。彼は綾陽君(のちの仁祖)の弟である。
綾昌君「!弟よ」
李爾瞻はこういった粛清を進める中で、名声のある鄭仁弘を最大限に利用した。田舎に隠棲している鄭に、たびたび中央の情勢を都合のよいように「編集」して知らせ、自分に都合のよい上疏をさせたのである。それどころか、勝手に鄭の上疏を代作し、鄭に事後報告するということまでやってのけたという。
1618年、李爾瞻は仁穆大妃を廃位、西宮に幽閉し、例によって殺害をも目論んだ。
仁穆大妃「王の母にあたる私を廃位、幽閉するというのですか!」
李爾瞻「王妃に反対勢力が結集する可能性があるわ。廃位幽閉だけではぬるいわね。ちゃんと排除しておきましょう」
光海君「それはならんぞ!殺すのはやりすぎだと言っておろうが!」
鄭仁弘「私も反対です」
ここでも光海君は反対し、81歳の長寿を祝する杖を下賜されるため上京していた鄭仁弘も強く反対した。義理とはいえ母に当たる大妃の殺害はさすがに抵抗が大きかったのである。
李爾瞻「ちっ!」
李爾瞻は反対する臣下たちを片っぱしから放逐したが、ついに殺害を断念した。弟の永昌大君を殺し、母にあたる仁穆大妃を廃位したこの事件を『廃母殺弟』という。
このように、朝鮮内部はグデグデであったが、それ以上に外交関係は前途多難であった。
徳川家康の政権掌握、樹立によって日本の侵攻の可能性はなかったが、北方の国境地帯では女真族と小競り合いが絶えなかった。光海君は即位以来、女真の情勢を気にかけ、国境の防備を固めて銃砲弾薬といった軍備を調えることに余念がなかった。
ヌルハチ「女真を統一した我々は、国号を金とし、明から独立することを宣言するなりー!」
1616年、ヌルハチが女真を統一、国号を「金」(通称「後金」)とし、1618年には公然と明に叛旗を翻した。
これに対し、明朝はヌルハチ討伐のため、朝鮮に援軍の出兵を求め続けた。
光海君「うちはまだ戦災が癒えてないし、だいたい、うちの兵は弱く天朝(明)の兵の助けにならん、と言って断っておきなさい。それにヌルハチの勢いは強大よ。今の天朝とうちの兵を合わせたところでたやすく勝てるとも思えないわ。軽々しく遠征なんかできるかっての」
張晩「し、しかし、そういつまでも断りきれるものではありますまい。大臣たちも出兵すべきと言っております」
臣下「小国が天朝につかえるには父子の義があり、中華に戦乱があれば諸侯が救援に駆けつけるのが春秋の大義です!また天朝には、倭乱で壊滅したわが国を再生してくれた恩もあります!」
李爾瞻「そうです。朝に命令が届けばその夕方には軍を発するように直ちに兵を出すべきです。今、我が軍は兵糧も不足しておらず、精鋭が揃っています!」
楊鎬「お前らはうちの皇恩に浴している身であろう。さっさと援兵を出せ!」
明の遼東経略に就任した楊鎬の厳しい要請もきた。ついに光海君は出兵を嫌々ながら承知し、1618年7月4日、援兵の陣容を発表した。
光海君「それじゃ発表するわねー。都元帥(総司令官)は姜弘立、副元帥は金景瑞、中軍節度使は李継先、部将は以下省略…兵は、砲手(鳥銃兵)3千5百、射手(弓兵)3千5百、殺手(歩兵)3千、計1万ね……あ、姜弘立は後で来てちょうだい。大事な話があるから」
姜弘立「はっ!」
支那の伝統に則って、総司令官の姜は文官、副将の金と李は武官である。なお、鳥銃は日本式の火縄銃であり、光海君がその整備に心を砕いていたものであった。
この鳥銃は、壬辰倭乱のさい降伏した日本兵が持っていたものや、日本からの輸入品のほか、朝鮮で製造したものも雑じっていた。
また、鳥銃には必要不可欠な焔硝(火薬)の原料については、日本と同じく硫黄は朝鮮国内で産出した。硝石は、これも日本と同じく床下の土から製造(『朝鮮王朝実録』では焔硝燔煮・煮取焔硝と表記されている)したものの、その大部分は明からの輸入に頼っていた。
姜弘立「殿下、お話とはなんでしょう?」
光海君「ぶっちゃけた話、無理に戦わなくていいわよ。勝てるかどうかわかんないし」
姜弘立「はぁ?」
光海君「天朝に義理立てして、こんなバカげた戦につきあう必要ないわ。形勢をよく見て、金が優勢ならさっさと降伏しちゃいなさい。傷口は広げないようにね」
光海君がこのように密命したという話は広く知られているが、光海君を悪者にするために仁祖政権が作った話ではないかとして疑問視する見方もある。
ともかく、総勢1万3千となった朝鮮軍は秋に進発し、明軍と合流した。
劉挺「朝鮮軍は私の指揮下に入ってもらうぞ。喬遊撃将軍、そなたは朝鮮軍に同行せよ」
喬一琦「はっ」
1619年1月、明軍総司令官の楊鎬は、全軍を4つの軍団に分け、四路に分かれてヌルハチの本拠地である興京を包囲すべく進撃を開始した。いわゆる「分進合撃」である。
北路は開原総兵官の馬林がヌルハチと敵対していた海西女直イェヘの援軍とともに、興京のやや西北にあたる開原から出発して北方から回り込み、西路は山海関総兵官の杜松が瀋陽から出発し、両軍は興京と撫順の中間にあるサルフで合流して興京に向かう計画であった。
また、南路からは遼東総兵官の李如柏が遼陽から清河を越え、東南路からは遼陽総兵官の劉挺が朝鮮軍を帯同して丹東付近から北上して、それぞれ西南と東南から直接興京に迫った。総司令官の楊鎬は、予備兵力とともに後方の審陽で待機し全軍の総指揮をとった。
2月11日、遼陽で出陣式が行なわれ、全軍はそれぞれ進発を開始した。
楊鎬「老酋ヌルハチに告ぐ!我らが天兵の精鋭は47万、早々に膝を屈して和を請え!」
ヌルハチ「47万だってー。ウソばっか♪ほんとは10万程度でしょ」
楊鎬は手紙を送ってヌルハチを恫喝したが、その実情はすでに把握されていた。
ホンタイジ「しかし父上、我らは総動員をかけても2万程度。この興京で包囲されてしまうとまずいだろう」
ヌルハチ「うん。だからねー、明軍が集結する前に各個撃破してまわるんだよー。西のサルフ山とジャイフィヤン山に築城してここで時間を稼ごうかなって」
阿敏「なるほど。では早速築城人夫1万5千と護衛軍4百をサルフに派遣して築城させます」
姜弘立「分進合撃はいいのですが、諸将の連繋はうまくいくのでしょうか?雪のせいで進軍も滞りがちです。それに、西路の杜松どのは功をあせっておられますし、北路の馬林どのと潘宗顔どのは仲がよろしくないようです。
我が軍も、劉挺どのが先に進みすぎではありませんか?」
喬一琦「劉将軍は、かつて四川におられた頃、苗族の少数の精兵を率いて、剽悍な少数民族を撃破するのが得意でした。今回もできるだけ少ない兵数で身軽に動きたいと楊さまに願い出たのですが、却下されたのです」
姜弘立「それで、私たちを後ろにおいて先に進んでおられるのですね……それにしてもお腹がすきました。ああ、ご飯が食べたい」
姜と喬の東南路後軍は、雪と兵糧不足に悩まされその進撃は遅れていた。
3月1日、サルフ近郊に着いた西路軍の杜松軍は、金軍がサルフ山とジャイフィヤン山に築城しているのを発見した。
杜松「この機を見過ごしてはなりません。馬林将軍を待っていては手遅れです」
功をあせった杜は、渾河を渡って急襲し、サルフ山を占拠、1万の兵を守備に置き、1万5千の兵を率いてさらにジャイフィヤン山に襲いかかった。敵襲を知ったヌルハチは、自ら兵を率いて向かった。
ヌルハチ「今こそ各個撃破のチャンス!夜にまぎれて、まず手薄なサルフ山を襲うのだー」
暗闇に乗じた奇襲を受けた明軍は壊滅し、それを知ったジャイフィヤン山の明軍は動揺した。
ヌルハチ「よし。この勢いでジャイフィヤン山に突撃だー!」
杜松「ば、ばかな。ぐわぁぁ!」
杜松ら主だった武将は戦死し、明の西路軍は壊滅した。
杜松の西路軍と合流するため北からサルフに向かっていた北路軍の馬林は、3月2日、サルフの北にあるシャンギャンハダの南方で杜松の戦死と西路軍壊滅の知らせに接した。
馬林「なんと、杜松が戦死、西路軍が壊滅したとな!仕方ない。いったん後退して野戦陣地を構築して潘宗顔の後軍を待とう」
北路前軍を率いていた馬は、シャンギャンハダに後退して塹壕を掘り、火砲を並べて後金軍の攻撃に備えた。
ヌルハチ「塹壕陣地か。これは厄介だなー。まず高地を占領してそこから攻撃しろ」
馬林「そうはさせるか!打って出ろ!……なぜ潘宗顔の軍は来ない?!外から包囲すれば一撃ではないか!」
たちまち乱戦となったが、後軍を率いていた潘宗顔は、馬林と不仲だったせいもあって、自陣を固めて本隊を救援に向かわなかった。このため、馬林はついに潰走した。
ヌルハチ「このまま潘軍にもなだれ込めー!女真名物『騎兵のなだれ攻撃』だー」
潘宗顔「むう、あれがかの有名な。こっちは『とりかご』で対抗せよ!」
勢いに勝る後金軍は、下馬した歩兵が明軍の戦車を排除したあとに騎兵がなだれ込み、潘宗顔をも敗走させた。この敗報を聞いて、明軍に加担して出兵していた海西女直のイェヘ軍は、合流をあきらめ早々に撤退した。
楊鎬「なにぃ!西路・北路軍とも壊滅だと!これはいかん、李如柏の南路軍と劉挺の東南路軍を呼び戻せ!」
敗報を聞いた楊鎬は、あわてて撤退を命じる急使をとばした。進撃が遅れていた南路軍にはその命令が届いて退却できたが、東南路軍は戦勝を重ねて敵地に深く入りすぎており、命令が届かなかった。
ヌルハチ「南路軍は撤退したわ。残るは南東路の劉挺軍だけね。全軍再集結、急速包囲、一気に殲滅するのだー!」
3月4日、興京の南、アブダリで劉挺率いる東南路の前軍はヌルハチの次男ダイシャンの軍と遭遇した。
劉挺「あれが後金の主力だな。陣を固めて死守せよ!」
ホンタイジ「おっと、後金軍は兄貴だけじゃないぞ。我もいることを忘れるな」
阿敏「明軍は背後の我々に気づいていないぞ!一気に突っ込め」
ホンタイジ、阿敏らは三方から包囲攻撃を開始した。
劉挺「聞きしに勝る精悍さだな。もはやこれまでか……ぐふっ」
激戦の末、劉挺は戦死した。彼の養子劉招孫は包囲され、武器を失ったあとも素手で後金兵数人を殺し、ようやく戦死した。
ホンタイジ「よし、このまま後軍を蹂躙する。我に続け!」
ホンタイジはさらに南下して、朝鮮軍前衛の守るフチャに突撃した。
金応河「後金軍が接近してくるだと!劉将軍はどうなさったのだ?拒馬木を前面に展開し、鳥銃で迎撃するぞ」
金応河率いる5千の朝鮮軍前衛は、急いで拒馬木を陣の前面に敷設して防備を固め、鳥銃の一斉射撃を行なった。
なお、拒馬木は、支那では拒馬槍の名前で知られる、野戦陣地に敷設される防御柵である。