三田渡への道 0
登場人物
「さ、講義を始めるぞー。と言っても、今回は出番なしだがな」
「はぁ?いきなり何を言い出すのよ」
「『世界史コンテンツリンク集』に紹介していただいた記念に、世界史コンテンツの花である『劇形式』をやろうということだ」
「たしかに世界史コンテンツと言えば、講義形式と劇形式が両輪ですよね」
「作者の力量も問題だが、題材は問題ないのか?」
「はい。先賢の皆様とかぶらないように吟味した結果、李氏朝鮮が清に服従するまでの時代を題材としました。
朝鮮古代史・近代史はAPRIL FOOL様の『白き衣を羽織る隠者の記録』がありますしね」
「1627年(仁祖5年)の丁卯胡乱、1636年(仁祖14年)の丙子胡乱という2回の清の攻撃を受けて屈服し、かの有名な『大清功徳碑』を建てるにいたる話だ。
ネタ元は『清史稿』『朝鮮王朝実録』が基本だ。また、朝鮮王仁祖の側近だった羅万甲が丙子胡乱について書いた『丙子録』は、原著の乱丁のせいで原文が全部手に入らなかったので、訳本と田中明『物語 韓国人』からの孫引き引用をも併用するという形で使っている」 2008年12月11日 作者註:後日、原文は確認入手できました。
「なお、第6回以降の登場人物につきましては、整理する必要もありましたので、幕間のほうでまとめてあります。ご注意ください。
主な登場人物
李氏朝鮮
光海君 | 李氏朝鮮の第15代国王。名は琿。第14代国王宣祖の庶子。宣祖の正妃に王子がいなかったため、党派争いのからんだ世子争いの渦中に巻き込まれる。党争による権力闘争の末即位。豊臣秀吉の唐入りで疲弊した国土を立て直すため、明の討清出兵要請を断り続け、清とも一定の友好を保とうとする。 のち、西人派と小北派のクーデターにあって王位を追われる。 |
仁祖 | 李氏朝鮮の第16代国王。名は倧 。第14代国王宣祖の孫(定遠君の長男)、光海君の甥にあたる。1623年、西人派と小北派のクーデターで擁立され(仁祖反正)、徹底した反清・親明政策をとる。 |
仁穆大妃 | 宣祖の正妃である懿仁王后の死後に、継妃として宮中に入る。宣祖の寵愛を受け、永昌大君を産む。 光海君即位後、反対勢力の中心となることを恐れた光海君政権によって廃位され、宮廷の西宮に幽閉される。1623年、光海君廃立、仁祖擁立のクーデターで救出され、仁祖支持の教書をくだす。 |
崔鳴吉 | 李氏朝鮮の重臣。宣祖38年(1605年)2月14日に生員となり、光海君4年(1612年)2月22日には兵曹正郞に任じられたが、酔っぱらった儒生が誣告された事件の取調べで実力者李爾瞻の不興を買い下獄、放逐される。 光海君廃立、仁祖擁立のクーデターに参画して朝廷に復帰した。弘文館副提学・刑曹参判などを歴任する。丁卯・丙子胡乱のさいには一貫して講和論者であった。 |
李貴 | 壬辰倭乱のさいには義兵を率い、さらには募兵や軍糧調達、兵站整備に奔走する。1616年弾劾を受け配流されるが、1619年に復帰。光海君廃立、仁祖擁立のクーデターの中心人物となる。 丁卯胡乱では講和論を唱えた。 |
洪瑞鳳 | 光海君廃立、仁祖擁立のクーデターの中心人物の一人。丁卯胡乱では講和を排斥して戦うべし、とたびたび上疏をしたが、丙子胡乱では左議政であり、講和論を唱え、降伏時の手順について清の将軍との協議に当たる。 |
金瑬 [流の下に玉] | 宣祖29年(1596年)10月26日に科挙及第。侍講院司書・江界府使・大将などを歴任する。光海君廃立、仁祖擁立のクーデターには兵を率いて宮殿を制圧する。丁卯胡乱のさいは副体察使。丙子胡乱のさいは領議政兼体察使として軍権を握った。詩文を得意とした。 |
金自点 | 光海君廃立、仁祖擁立のクーデター参加し、戸曹佐郞に任じられる。左承旨などを歴任したが、謀反人の親族の婚姻について不手際があったことで左遷追放された。丁卯胡乱の最中に群臣の要請で江華島守備に起用される。 丙子胡乱のさいは最高司令官の都元帥として朝鮮軍の指揮をとった。 |
李景奭 | 1613年に進士となり17年には増広別試に及第したが、仁穆大妃の廃妃に際して加担せず、削籍された。仁祖反正後に復籍。丙子胡乱の後、三田渡の石碑の銘文の起草を命じられる。 |
張晩 | 士林の出身ではないが、その才能は早くから認められていた。宣祖の時代、最初芸文閣、成均館の役職を務め、忠清道観察使、全羅道観察使などを歴任。軍備や火砲の整備といった軍事についてたびたび上奏している。光海君時代の末期には都元帥であったが、病気のため朝廷を離れることが多く、仁祖のクーデターにも参加していない。 軍事に通暁し士心を得ていたというが、一方では女色と貨殖を好んだともいう。 |
李爾瞻 | 大北派の領袖。宣祖の後継者争いで光海君を擁立し、権力を握ったのち、小北派を弾圧粛清する。仁祖のクーデター時に逮捕、処刑される。 |
鄭仁弘 | 大北派の領袖。宣祖の後継者争いのさい、柳永慶が、光海君に王位を譲る宣祖の教書を隠匿していることを暴露し、かえって流罪にあう。 光海君時代には田舎に隠棲し儒生の教育にあたっていた。仁祖のクーデター後に逮捕、処刑される。 |
柳永慶 | 小北派の領袖。宣祖の晩年に出生した嫡子の永昌大君を擁立し、光海君擁立の大北派と争う。光海君即位後、大北派によって流罪処刑。 |
羅徳憲 | 仁祖時代、清の太宗に送られた春信使。 |
李廓 | 仁祖時代、清の太宗に送られた回答使。 |
姜弘立 | 光海君元年(1608年)10月24日、咸鏡南道兵馬節度使に任じられてからは軍事に従事する。光海君10年(1618) 閏4月23日、都元帥を拝命し、翌年のサルフの戦いには朝鮮軍1万3千の総司令官として出征する。後金に降伏した後も留め置かれヌルハチの厚遇を受ける。たびたび光海君に書簡を送って朝鮮と後金の秘密裏の修好に尽力する。 丁卯胡乱のさいは、後金軍に帯同し講和に奔走する。戦後は朝鮮に帰国し隠棲した。 |
朴蘭英 | 部将としてサルフの戦いに参戦、姜弘立と同じく降伏後も留め置かれて厚遇を受ける。 丁卯胡乱のさいは、後金軍に帯同し講和に奔走する。戦後は朝鮮に帰国し、たびたび後金への使者を務める。丙子胡乱のさいも、講和に奔走するが・・・・・・。 |
李适 | 仁祖のクーデターに参加。その論功行賞に不満をいだいて反乱を起こす。 |
韓潤 | 仁祖2年(1625年)に李适とともに謀反を起こした韓明璉の息子。謀反失敗後は逃亡し、後金に逃げ込む。 |
その他朝鮮人 | 一瞬しか出番のない人や、とくに名前を出す必要のない文武官僚、兵士、一般人などを担当してもらいます。 |
清(後金)
ヌルハチ | 後金の初代皇帝。内部抗争の絶えない女真の中に、適度な勢力を育ててコントロールしようと目論んだ明の李成梁の後援を受け、その勢力を成長させた。 ついには女真族を統一し、1616年、国号を「金」(通称「後金」)とし皇帝となる。1618年に明に叛旗を翻し、1619年、サルフの戦いで明・朝鮮軍を撃破する。1621年には山海関以北の大都市である瀋陽・遼陽を相次いで陥落させたが、1626年、明将袁崇煥の守る寧遠城を攻略するも失敗。 |
ホンタイジ | 清の太宗。ヌルハチの第8子。1626年、ヌルハチが後継者を定めず死亡したため、兄弟たちとの暗闘のすえ地位を勝ち取る。 1627年、仁祖即位後、親明政策に回帰した朝鮮を攻め屈服させる(丁卯胡乱)。また、1636年には国号を清、年号を崇徳に改め、寛温仁聖皇帝になる。これに反対した朝鮮を再度攻撃し(丙子胡乱)、完全に屈服させ、朝鮮を清の従属国となす。 1643年、中原制覇の夢はかなわないまま急死した。 |
ドルゴン | ヌルハチの第14子。ホンタイジの下でモンゴルのチャハル部を討って功績を上げ、族内の実力者となった。丙子胡乱にも従軍、功績をたてる。1643年、ホンタイジ死去後に即位した甥の福臨(世祖順治帝)の摂政となり、呉三桂の誘降、李自成撃破、北京の占領統治など中原制覇に尽力した。 |
阿敏 | ヌルハチの甥。幼くしてヌルハチに養われ寵愛を受けた。四大 1629年、明の国境を侵して永平などを攻め取ったが、明の援軍にびびって逃げ帰り、官爵剥奪のうえ生涯幽閉される。 |
劉興祚 | 朝鮮王朝実録には劉海という名で出ている。元来は開原の漢人であったが、弟6人(興治、興基、興梁、興沛、興邦、興賢)を率いてヌルハチに従って功績をたて、「愛塔」という女真名を授かる。 丁卯胡乱のさい、阿敏の副将として従軍し、江華島に乗り込んで仁祖に和を請わせた。財貨に目がなく貪婪であったため、戦後解任され謀叛を企み、露見すると毛文龍軍に逃げこんだ。 |
英俄爾岱 | 朝鮮王朝実録には龍骨大という名で出ている。他塔喇氏の出身で満洲正白旗に属する。勇戦して参将に抜擢され、ヌルハチの孫娘をめとった。明やチャハル部に対する征戦に従うほか、朝鮮に対する使者に立ち、丙子胡乱のさいにも交渉と処理にあたった。戦後はおもに瀋陽にあって朝鮮の監視監督に従事した。 |
馬福塔 | 朝鮮王朝実録には馬夫達(あるいは馬夫大)という名で出ている。納喇氏の出身であり、満洲正黄旗に属する。丙子胡乱に従軍し、仁祖降伏時の交渉と処理に従事した。戦後は英俄爾岱とともに朝鮮を監視した。 1640年(仁祖18年)2月2日に病死した。このころ通訳も病死したのでその連続死について毒殺の噂も流れたという。 |
その他清人 | 一瞬しか出番のない人や、とくに名前を出す必要のない文武官僚、兵士、一般人などを担当してもらいます。 |
明
袁崇煥 | 広東東莞(客家の多いことで有名な土地)の客家出身であるという。福建の地方官として勤務していたが、軍事を好んだという変わり者。1622年に、兵部職方主事に任じられたが、寧遠城の戦略的重要性を強く感じたため遼東地方の防衛を志願した。山海関以北の外郭として寧遠城を築城し、ポルトガルから紅夷砲を取り寄せて城に設置した。 1626年、襲来した後金のヌルハチの大軍をその火力を以って撃退し、後継者のホンタイジの攻撃も退けた。 |
毛文龍 | 万暦末年に都司として朝鮮への援軍となり、遼東に駐屯した。 仁祖のクーデター後、親明政策に回帰した朝鮮の依頼を受け、鴨緑江河口の皮島に駐屯し、ゲリラ活動を行なって後金を脅かした。その一方では禁止されている密貿易を行い、朝鮮の物資をしきりに徴発するなどして財貨を貪ってもいた。 |
祖大寿 | 遼東の人。袁崇煥に従って戦功をあげ、その副将となる。妹は呉襄の妻であり、呉三桂の義理の母となる。 |
劉挺 | 四川・雲南での少数民族の叛乱討伐に従事し功績をたてた。 文禄の役では四川兵5千を率いて参戦した。慶長の役では順天を固く守る小西行長軍を殲滅しようとして、講和会議の席を設けるという理由で小西をおびき出そうとしたが、配下が機密を漏らしてしまったため小西は引っ掛からなかった。 サルフの戦いでは、朝鮮軍とともに進んだ。 |
楊鎬 | 1580年、進士に及第し、右僉都御史に累進した。97年、慶長の役のさいには朝鮮へ援軍におもむいたが、朝鮮の群臣が軍糧を隠匿して供給しないと弾劾の奏上をして朝鮮の恨みをかった。98年、蔚山で加藤清正・小西行長軍に大敗すると軍を棄てて逃亡し、免職された。 1618年、兵部左侍郎・遼東経略となり。19年、明軍10万の総司令官として後金を攻めた(サルフの戦い)。 |
喬一琦 | 若い頃から聡明さと膂力の強さをほこり、財を軽んじて義を重んじて朋友と交わり「喬公子」とよばれた。 サルフの戦いでは、劉挺軍に属し、遊撃将軍として朝鮮軍に同行した。 はっきり言って出番は多くないのだが、個人的に好きなので出してみた。 |
その他明人 | 一瞬しか出番のない人や、とくに名前を出す必要のない文武官僚、兵士、一般人などを担当してもらいます。 |
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