「対華二十一ヶ条」の真実

宮田昌明氏(近現代史研究家)歴史通2015年7月号

 

『対華21カ条要求』

『増殖する、抗日記念日』

中国が歴史を利用した反日宣伝を行う際、伝統的に取り上げられてきた記念日が三つ存在する。すなわち、五月九日、七月七日、九月十八日である。五月九日は、一九一五年のいわゆる「二十一カ条の要求」の中国側受諾日。

七月七日は、「支那事変」の端緒となった一九三七年の「慮溝橋事件」の発生した日。九月十八日は、「満洲事変」の端緒となった一九三一年の「柳条湖事件」の発生日である。これに加え、中国は昨年、九月三日を対日戦争勝利記念日、十二月十三日を「南京大虐殺」記念日とした。劣等感と空虚な優越感をこじらせた反日意識で自制を失い、見境がなくなっているのであろう。

この内、五月九日は、「国恥記念日」とも称される反日記念日の先駆である。しかし、その原因となった「二十一か条要求」は、後の「満洲事変」「支那事変」に匹敵するほどの重人事件ではなかった。にもかかわらず、この事件については悪評ばかりが先行しており、実際、同要求については、誤った事実認識に基づく論文が横行するほど、外交史研究者においても誤解が多い。今年、二〇一五年は、大東亜戦争終結から七十年であると共に、「二十一か条要求」から百年でもある。中国共産党は上記のように昨年より新たな反日宣伝を展開し始めており、今年の夏に向けて、日本国内にも運動した動きが生じるであろう。そうした反日勢力の虚言にだまされず、対抗するには、懸案となった歴史的事実とその背景を、 一つひとつ正確に理解しておくことが必要であろう。

『二十一か条要求の概要』

二十一か条要求は、第一次世界大戦の勃発後、当時の日中間の懸案を一括解決するために日本側より中国の「哀世凱(えん せいがい)政権に提出された。条文を機械的に数えると「二十一か条」となるため、このように呼称される。ただし、それらは、内容と想定される最終的合意形態に基づいて、「五つに分類」され、それぞれを「号」と称する。

「第一号」は山東半島の旧ドイツ租借地の処分問題、「第二号」は関東州と南満洲鉄道の租借期限の延長および南満洲。東部内蒙古の開放問題、「第三号」「漢冶萍(かんやひょう)公司に関する問題、「第四号」は中国沿岸部の不割譲問題、「第五号」は中国政府への日本人顧間の採用、内地開放、鉄道利権などに関する間題である。この内、「第一号」「第二号」「条約」「第三号」「第四号」は政府間協定を想定していた。対して「第五号」「希望条項」とされ、特定の合意形態を定めていなかった。これについては後述する。これらの懸案は、それ以前からの中国と欧米および日本との関係に由来する。したがって、「二十一か条要求」は、単に条文を眺めるだけでなく、それが懸案となった「歴史的背景」を知らなければ、その性格を理解できない。「第一号」の山東半島の旧ドイツ租借地とは、一八九八年にドイツが清朝より認められた膠州湾(こうしゅうわん)の行政施行地域である。ドイツはここに軍事基地を置いた。租借地とは、国家間で一定の土地および行政権を貸借するもので、後述する租界と比較し、国家が契約主体という点で異なる。膠州湾の「租借期限は九十九年」であった。

日本が第一次世界大戦に参戦したのは、このドイツの軍事拠点を攻略し、「第二号」をはじめとする対中交渉を有利に運ぶためであった。その意味で山東半島問題は、交渉戦術に関わる懸案でもあった。「第二号」の関東州租借地とは、一八九八年にロシアが清朝より借り受け、行政権を施行した遼東半島南部の地域である。日露戦争後、関東州租借地はロシアから日本へと移管される。遼東半島南端の旅順という軍港と大連という都市を結び、そこから北の都市。長春まで延びる鉄道が「南満洲鉄道」である。旅順は日露戦争の激戦地として知られる。満鉄以北の鉄道は、ハルビン近郊で東西の鉄道に接続し、シベリア鉄道へと連なる。これは引き続きロシアが管理した。満鉄およびその附属地もロシアから引き継いだ日本の権利であった

「第二号」は、これらの権利と、南満洲および東部内蒙古における内地開放、すなわち、日本人の居住権を確保しようとするものであった。なお、満洲とは、「万里の長城以北(以東)を指すが、京奉線(けいほうせん)、すなわち北京、天津、山海関を経て満洲に入り、錦州を経て奉天に至る鉄道路線、そしてさらに北へと至る鉄道沿線西方の内陸地域は、内蒙古に属する。

『租界の実態』

日本が南満洲および東部内蒙古の開放を求めた背景に、欧米と中国の内地開放問題があった。中国の内地開放問題は、一八四〇年のアヘン戦争にまでさかのぼる。アヘン戦争後、締結された南京条約によつて、上海をはじめとする中国の開港地が定められた。当初、開港地にはイギリス人と中国人が雑居していた。しかし、清朝当局はそうした状況を憂慮し、イギリス人のみの居留地を設定した。これが「租界」となる。上海の場合、その後、イギリスの権益にアメリカが割り込みを図ったため、共同租界が成立し、フランスは単独で租界を有した。租界は、天津や漢口などの他の開港地にも設置された。租界において外国人は、中国人土地所有者と個人的な土地貸借契約を結び、居住地を定めた。契約はあくまで民間契約であり、欧米側は租界における権利を、国家の権利としてではなく、個人の権利保護という観点から擁護した。

租界は民間契約に基づくため、当該地域の「行政権」は、本来、清朝側が有した。ただし、「司法権」に関しては、「治外法権(一国の国内であってもその国の三権(立法・行政・司法)が完全には及ばず、外部の法によって治めることができるという特権である)が存在するため、外国人の帰属する本国側が有した。ところが、租界は居住外国人の個人資産によって運営されており、本国政府に対しても一定の自立性を有した。欧米において、個人の権利、特に財産権は、国家によって侵害されてはならない原則とされたからである。さらに租界当局は、清朝の地方当局と自治権に関わる協定を締結し、「自治区」としての性格を確立していった。

その上、太平天国の乱が勃発すると、清朝の行政機能は麻痺し、租界は独自の行政権を強化したばかりか、租界内に中国人が流入する事態となった。そうした中国人を管轄するため、清朝は、租界内に独自の裁判所を設置した。ところが、中国では裁判の恣意的、政治的運用が慣例化しており「行政」「司法」の分離を原則とする欧米側と恒常的に軋蝶が生じた。たとえば外国人が中国人から被害を受けて中国裁判所に提訴しても、外国人側に十分な補償がなされなかったのである。

さらに一九一一年に辛亥革命が勃発すると、清朝の官吏は逃亡し、租界当局が租界内中国人を管轄する裁判所事務を管理し、判事を雇用するまでになった。こうした状況は、ほどなく中華民国の成立によって改められていくが、政情不安や、政治と司法の「未分離」といった中国情勢に対する防衛措置として、租界の自治権と、租界内居住中国人に対する中国側行政権および司法権の制約とが確立していったのである。

租界は、成立直後から清朝と多くの紛争を引き起こしたが、その後も個人契約に基づく既成事実を積み重ねることで、徐々に膨張していった。上海共同租界は十九世紀末にそれらを統合して三倍余の面積となった。とはいえ、清朝はその間も租界の膨張を警戒し、新規の租界設定を基本的に承認しなかった。ただし、日本の租界はやや例外的に、日清戦争の結果によって認められている。こうした中、やはり中国への進出に遅れたドイツは、直接的な行動によって、中国における活動拠点を獲得した。すなわち、 一八九七年の中国におけるドイツ人宣教師殺害事件を契機とし、翌年に膠州湾租借地を清朝に認めさせたのである。

ほどなくロシアも関東州租借地を獲得した。ただし、ロシアと清朝の関東州租借地の契約は二十五年にとどまっていた。既述の膠州湾や、他のたとえばイギリスが香港に隣接する九龍(クーロン)半島に設定した租借地は、九十九年間となっていた。日露戦争後、日本が関東州租借地を引き継いだ時、期限もそのまま継承された。一九〇五年の時点で期限は一九二三年までの十八年となっていた。「二十一か条要求」は、この期限の延長を直接かつ最大の目的としていた。

『要求に至る経緯』

「二十一か条要求」を中国に行った大隈重信(おおくま しげのぶ)内閣の加藤高明外相は、日露戦争後の一九〇八年より駐英大使を務めていた。その後、一九一三年一月に第三次桂太郎内閣の外務大臣に就任するため、駐英大使を離任した。その際、加藤はイギリスのグレイ外相に対し、関東州租借地や満鉄の期限延長問題について説明し、理解を得ていた。加藤はすでにこの時点で、中国との交渉に臨もうとしていたのであろう。しかし、桂内閣は短期間で総辞職に追い込まれ、加藤は中国との交渉に着手できなかった。そこで加藤は、後継内閣の外相に就任した牧野伸顕(まきの のぶあき)に引き継ぎを行った。しかし、牧野外相は、他の外交懸案ヘの対処に追われ、関東州租借地の期限延長交渉に着手できなかった。その後、内閣はさらに交替し、加藤が再び外相に就任した。これにより、加藤は自ら中国との交渉に着手できるようになったのである。

第一次世界大戦が勃発したのは、そうした折のことであった。加藤はイギリスからの参戦要請を好機と捉え、膠州湾占領後の対中交渉を念頭に、直ちに参戦を決定した。「二十一か条要求」交渉は、膠州湾攻略後に開始された。「第一号」の要求内容は、日本が占領した旧ドイツ租借地について、中国が戦後の日独間の合意内容を承認した上で、日本は旧ドイツ租借地を中国に返還し、合わせて中国は、山東半島に開放市を設定し、 一定の条件で山東省における鉄道敷設(ふせつ)権を日本に与える、というものであった。

ドイツ租借地の占領と返還の手続きは、他の要求事項に対する中国側への対価として位置づけられており、その意味でドイツ租借地は、交渉における取引材料として位置づけられていた。旧ドイツ租借地に関しては、後に中国がドイツに宣戦布告し、「独中条約中独合作・中国はドイツに対して宣戦布告して漢口、天津のドイツ租借地を回復し、そのほかのドイツ租借地の返還を約束させた。以下省略)は失効する。そのため、戦後のパリ講和会議において中国は、日本の主張を否定し、租借地の直接返還を要求した。しかし、旧ドイツ租借地は日本の占領下にあり、その資産は日本に対する賠償に充当されるべきものであった。結局、中国側の主張は認められなかった。そこで中国は講和会議を脱退し、最終解決は一九二一年開催のワシントン会議に持ち越される。

「第二号」の懸案は、日本が関東州租借地ほかをロシアより継承した日露戦争直後から意識されていた。 一九〇六年一月に成立した西園寺公望(さいおんじ きんもち)内閣において、満洲経営に関する検討会が開催され、出席者より、積極的な満洲経営を行っていくべきとする意見が出されている。租借期限後も権益を保持していこうとする意見は強かった。ただし、この時点では、外交問題に慎重な伊藤博文の意見が優先された。しかし、政府内で期限延長問題は意識され続けた。加藤高明がイギリスに長期経営について了解を求めようとしたのも、その反映である。

しかし、加藤の後任外相となった牧野伸顕は、中国との交渉に着手できなかった。当時、アメリカのカリフォルニア州において、日本人の土地利用権を制限する「排日法案」が懸案となる一方で、中国において、日本人に対する暴行、殺害事件が三件立て続けに発生しており、その解決を優先しなければならなかったためである。いずれの事件も、日本国民の反発を招いており、政府の弱腰外交が批判されかねない状況となっていた。中国で発生した排日事件に対し、日本政府は、事件に関与した軍人の処刑、処罰などを要求した。その際、日本は中国側に、反日事件は単独で解決することとし、事件を利用して利権を得ようとしているわけではない、との説明を行った。ところが、中国側が責任回避に終始したため、牧野外相は、関東州租借期限延長その他を、代替要求として中国側に提示しようとした。しかし、それは中国駐在公使の反対で見送られた。

日本側は、関東州租借地などの期限延長について中国側が抵抗するとは基本的に予想しておらず、特に牧野は、この代替案をむしろ中国側にとって、軍人の処罰などより受け入れやすい妥協案とまで考えていた。しかし、一方的な利権供与に対する中国側の反応について、不安は払拭できなかったようである。つまり、期限問題は容易に解決できるであろうという楽観と、犯罪事件の対価として期限問題の解決を強要し、一抹(いちまつ)の不安を解消しようとする誘惑の両様の感情が存在したのである。

『日中交渉最大の焦点』

以上のような経過の上に、「二十一か条要求」をめぐる日中交渉において最大の問題となったのが、この「第二号」である。といって、日本側が重視した関東州租借および満鉄経営権の期限に関しては、若干の修正で早々に解決した。期限問題について、日本側は交渉を行った一九一五年の時点から九十九年間とすることを求めたが、中国側は「露中条約露清条約が成立した一八九八年から九十九年とすることを求め、それで合意に至った。

この交渉に紛糾は生じなかった。事前の楽観的予測は必ずしも誤っていなかった。その一方で、「第二号」で規定された、南満洲および東部内蒙古の開放問題は、日中交渉の「最大の焦点」となった。「二十一か条要求」をめぐる交渉は、かなりの部分、これをめぐってなされた。問題は、南満洲および東部内蒙古の開放に伴う、日本人の土地取得権ないし賃借権、そして関連する民事裁判に対する司法管轄権であった。日本側は中国側に日本人の土地所有権を求めたが、中国は拒否した。そこで日本側は土地取得については断念したが、借地権を強く求めた。対して中国側は、「治外法権」が認められている中での内地開放は認められないとする立場を譲らなかった。

幕末から明治中期に至るまで、日本も欧米諸国に治外法権を認めていた。治外法権を認められた外国人は、横浜や神戸をはじめとする外国人居留地以外には、原則として居住を認められなかった。中国も同じ方針をとっていた。そこで中国側は、日本側の内地開放要求を全面拒否したが、日本側の強い要求に応じて譲歩し、限定的な開放地を設定するか、日中合弁事業の成立に応じて借地権を設定するかを提案した。しかし、日本側はこれを受け入れず、最後通牒に至る。

内地借地権以上に紛糾したのが、「土地関連民事訴訟」に関する司法管轄権であった。治外法権が存在すると、外国人の民事・刑事裁判に際して、被告ないし被告人は自国の法律と司法管轄権の下で審理と判決を行う。日本は中国において治外法権を認められていたので、中国において日本人が被告ないし被告人となる裁判は、日本の法律と領事裁判で扱われた。ところが、中国における土地関連訴訟に関しては難しい問題があった。

というのは、日本人が中国で借地契約を行う場合、その手続きは中国の法や慣習に従ってなされる。そのため、土地関連民事訴訟が提起された場合、その審理は、たとえ日本人被告の領事裁判であっても、中国法が適用される領事裁判となった。その上、審理に関連する登記書類などは中国当局が保管しており、特に日本人が原告となった場合の「不公正な司法処理」が懸念された。この問題は、最初の「二十一か条要求」の中にはなかったものであるが、交渉の過程で問題となり、日本側は、土地関連民事訴訟被告の国籍にかかわらず、すべてを日中の共同審判の下に置く、という提案を行った。そしてその背景も、租界特有の司法制度にあった。

既述のように、中国の租界は実質的な「外国人自治区」であったが、租界の治安、経済、人権保障などの環境は「租界外」より格段に優れていた。そのため、租界内に中国人が大規模に流入していた。そうした中国人を管轄するため、租界内に中国裁判所が設けられた。しかし、中国において、「司法」「行政」「分離」しておらず、恣意的、排外的、政治的な裁判が常態化していた。そのため、欧米側は、中国裁判所に領事代理を派遣し、裁判を監視させるようになった。これを観審という。そこから、領事代理は次第に判決に関する見解を述べるなど、干渉するようになり、共同判事とも称されるようになった。さらにその後、「辛亥革命」で清朝の官吏が逃亡したのを機に、租界当局は租界内の中国裁判所を一時的に管理するようになり、司法ど行政の分離を徹底するよう努めた。こうして、租界内における中国人の人権や自由が「租界外」より保障された結果、たとえば一九二一年、上海のフランス租界において「中国共産党」が結成される事態ともなっている。

「第二号」の南満洲および東部内蒙古の開放に関して、 一部の裁判管轄権が問題になったのも、こうした経緯からであった。日本側は以上のような歴史に照らし、日本人が当事者、特に原告となった場合の土地関連民事訴訟において、中国側の「恣意的な法運用」を警戒し、それに対する保障措置を求めた。こうした措置は、中国の司法権を「部分的に侵害する」ものであり、そうであればこそ、この問題が「二十一か条要求」をめぐる最大の対立点となったのである。

日本の条約改正史においても、外国人裁判官の雇用問題が世論の反発を招き、重大な政治問題化したことがある。ところが、この争点を理解するには、以上のような、中国の租界や治外法権に関する予備知識が必要である。そのため、「日本の侵略」と糾弾するために「二十一か条要求」を取り上げる研究者が、「中国の主権」「最も侵害する」この問題について言及を避けるという、奇現象まで生じている。この問題は専門的であるが、拙著『英米世界秩序と東アジアにおける日本』の関連章で詳細をまとめてある。

以上のような「第一号」「第二号」に比べると、「第三号」以下の重要性は低い。「第三号」は、日本にとって「鉄資源」の安定供給先の一つとして注目された事業が国有化されるのを牽制すると共に、日本企業による事業参加への道を開こうとするものであった。鉄鉱資源は、日本の重工業化の重要分野であった。著名な「官営八幡製鉄所」が操業を始めたのは一九〇一年、「二十一か条要求」の十四年前のことである。「第三号」について中国は、民間事業の問題として交渉を回避する姿勢を示した。対して「第四号」は、中国の沿岸部に「欧米諸国が新たな軍事的拠点」を作るのを阻上しようとするものであった。これらは、政府の行政措置を求めるものであり、そのため、行政協定という合意形態を想定したのである。

『警察問題』

「二十一か条要求」交渉において過大に注目され、それだけ大きく誤解されてきたのが、「希望条項」とされた「第五号」であった。「第五号」「七項目」からなる。①政治経済軍事顧間の招聘(しょうへい)、②中国内地の病院、寺院、学校の土地所有、③必要地域における日本人警察の採用、④兵器購入、⑤鉄道敷設、⑥福建省における外資事業に関する事前協議、⑦布教権、である。中でも問題になったのは、「第三項」の中国に日本人警察の採用を求める要求である。

警察の問題は、中国による関連情報の漏洩、すなわち、中国が欧米各国に日本の要求内容を通知した後、特にアメリカが反発したため、日本の法外な要求の象徴として取り上げられてきた。

しかし、「中国の主権侵害」という点であれば、上述のような、南満洲における「土地関連民事訴訟」に際しての「共同審判」の方がはるかに重大であり、現実の日中交渉でもこの点をめぐって最も紛糾した。対して警察問題は、日中交渉で比較的容易に解決した。したがって、警察問題を主な理由に「二十一か条要求」の不当性を指摘する議論は、むしろ「交渉の実態」に対する無知によるものと断定できる。その上、日本が「警察問題」を取り上げた背景には、「日本自身の経験」があった。治外法権は外国人が被告ないし被告人となった際に発動するが、たとえば治外法権外国人による犯罪が発生した場合、それを逮捕する警察と容疑者の間には恒常的に摩擦、軋轢が発生した。警察権は原理的には現地国が有するが、外国人側が在留国警察による拘束を無条件に容認したわけではなかった。たとえば「取調中の拷問」などが懸念されたからである。そのため、日本の場合、幕末に成立した外国人居留地における治安問題は、日本側が外国人警察官を雇用することによって対処された。それでも、警察権の帰属をめぐって居留地側と日本の府県側との間で対立が続いた。日本における治外法権が解消されたのは、日清戦争直前の一八九五年七月の日英通商航海条約の改定による。

これは「二十一か条要求」の二十年前であるが、居留地の廃止はさらに遅れる。日本にとって、中国居留日本人と中国側官憲との摩擦事案を避けるため、日本人警察の採用を求めることは、日本自身の経験を踏まえると、突飛な提案ではなかった。中国の租界の場合、租界当局が自警団に由来する警察を組織していた。 一九二五年に発生した五・三〇事件は、上海共同租界におけるイギリスの租界警察と中国人労働者との衝突事件である。

『要求の作成経緯』

「第五号」を中国に対する「過大な要求」とみなす議論は、そのような要求のなされた経緯、すなわち「二十一か条要求」が日本側でまとめられていった経緯に対する関心と誤解も生み出した。ただし、要求策定の正確な経緯は不明である。「第五号」については、陸軍の意向が反映していたことも明らかになっており、要求の寄せ集めという見方もある。「島田洋一(日本の国際政治学者)は、様々な要求を希望条項として要求することを決定したため、様々な便乗要求を組み入れることになり、要求の肥大化が生じたのではないか、と推測している。井上光貞(いのうえ みつさだ)他編『日本歴史体系』普及版。第十六巻(山川出版社、一九九七年)所収の島田の概説は、「二十一か条要求」問題に関する簡潔かつ要を得た記述である。

ただし、条約や協定の基本様式から推定できる経緯も存在する。おそらく「第五号」の本来の機能は、「第一号」から「第四号」までの条約ないし協定が成立した場合の、運用に関わる非公式の合意内容であった。条約や協定に非公開の交換公文や秘密協定、黙約などが伴うことは少なくない。「第二号」は、南満洲、東部内蒙古における日本人の政治、経済、軍事顧間の採用協議について規定しており、「第五号」「第一項」がこれに対応している。つまり、条約本文で協議を行うことを規定しながら、内密に採用の確約を得るということである。「第三項」の警察採用についても同様である。ただし、「第三項」については、「必要な地域」とする条件が付されており、これを、“後の拡大解釈を可能にする無法な要求”とする解釈が通説化している。

しかし、この場合の「必要な地域」とは、条約本文の存在と交渉経緯からして、明らかに「南満洲」「東部内蒙古」および山東省の一部の「必要な地域」を指す。つまり、「必要」とは字義通り、「限定の意味」である。「中国が事実を歪曲」するのは常態であるが、日本の研究者が「事実経過」から「推定可能」な事柄を無視して「中国の宣伝」を通説化するのは、研究水準を疑われる現象であろう。警察権については、交渉の過程で要求は撤回され、「第二号」の政治、経済、軍事顧問採用に関する協議の規定に、警察が追加されることで、合意に至っている。また、後の寺内正毅(てらうち まさたけ)内閣末期に山東半島問題に関する日中交換公文が成立し、そこに山東半島における日本人警察について規定される。

これは、その後の「パリ講和会議」で改めて問題になる。ところで、北岡伸一という高名な学者は、「第五号」を、当初から撤回を予定した取引材料としての過大な要求であったとし、さらに独自の見解として、交渉終盤の一九一五年四月十五日、中国が「第五号」の撤回を条件に東部内蒙古の問題に関して譲歩する可能性を示唆したものの、アメリ力の対応で中国の態度は一変し、加藤の巧妙な外交戦術は失敗に終わった、とする議論を展開している(近代日本研究会編『年報・近代日本研究』第七巻、一九八五年所収)実際は、この時点で交渉はかなり妥結する一方で、中国は土地関連民事訴訟に対する司法管轄権などの重要対立点について、一切譲歩しない姿勢を固持していた。北岡の重視する「中国側の変化」とは、中国側が「交渉の本質に関わらない失言」をすぐに撤回した、という程度のもので、中国側の本来の趣旨は、将来的な東部内蒙古における「商埠地(商埠地とは、中国政府が外国人の居住や企業活動のために指定した地区のことで、現在の中国でいう「対外経済開発区」等のたぐい)の設置を考慮することを条件に、現時点の東部内蒙古に関する日本側要求の全面撤回を求めるというものであった。

北岡の「事実誤認」は甚だしく、こうした、一次史料や全体的事実経過を理解していたならばあり得ない「創作」が横行していることは、深刻であろう。しかも、北岡による独自の、誤った筋書きは、一九二九年に出版された伊藤正徳(いとう まさのり)『加藤高明』下巻、一六七~一七〇頁において、すでに記述されているものなのである。

鉄道利権をめぐって以上のように、「二十一か条要求」は、中国と欧米諸国の間に存在した諸懸案が背景となっていた「第五号」には鉄道敷設権や学校、寺院の土地所有権などの規定も存在するが、それらも欧米諸国が中国で有する既存の権利に対抗しようとするものであった「第一号」「第二号」「第五号」には、鉄道敷設に関する要求が存在する。これらを理解するにも、やはりそれまでの中国における鉄道敷設をめぐる列強と日本の関係を理解しておく必要がある。

中国における欧米による鉄道敷設は、イギリスが先行し、フランス、ドイツが続いた。それぞれ敷設権を競い合った結果、調整がなされ、敷設権を地域分割して相互に認め合う結果となった。しかし、これにアメリカが介入し、調整が再度行われた。これと並行し、中国に融資を行うため、欧米列強の金融機関によって国際借款団が設立された。

こうした、アメリカによる中国ヘの鉄道、融資事業への割り込みは、日露戦争後の「満洲問題」にも波及した。日本は日露戦争後に満鉄をロシアから引き継いだが、ロシアの勢力後退を好機として、アメリカ側に、満洲を新たな鉄道関連投資先として捉える動きが発生したのである。そこでアメリカの投機的(とうきてき、機会をとらえて利益を得ようとするさま)活動家が、満洲における新規の鉄道敷設契約を目指して清朝と接触し、それが失敗すると、今度は日本とロシアを巻き込む構想を作り上げた。すなわち、国際借款団が清朝に融資を行い、それによって清朝が満鉄を買収すると共に、その経営を出資者である欧米の共同管理下に置く、という構想である。これにアメリカ国務省も同調し、日本にその趣旨の提案がなされた。しかし、この構想は失敗に終わった。日本政府が反対したばかりでなく、実はアメリカ金融業界自身がその構想を支持していなかったからである。

以上のような、国際金融、鉄道敷設権の問題は、日本にとって、欧米と日本の国際的影響力の格差を思い知らされる出来事であった。欧米列強は、中国に様々な経済的利権を形成し、それを相互に調整したが、それに日本が参加し、利益の分け前にあずかることはなかった。ところが、欧米列強は、日本が日露戦争によってロシアから引き継いだ満鉄について、その「経営権」を奪い取ろうとした。日本が中国に対し、内密に新たな鉄道敷設利権を得ようとしたのは、こうした欧米の既得(きとく)権益と競争するためであった。欧米列強に対する日本の不信感は、中国港湾の譲渡、貸与の禁上について中国側に求めた、「第四号」の規定に露骨に表れている。「二十一か条要求」交渉の最大の特徴は、日本が中国における「欧米の勢力拡大」を牽制し、また、欧米がすでに獲得していた権益に準ずる権益を部分的にでも獲得しようとしたところにあった。

『在満朝鮮人問題』

「二十一か条要求」に関しては、一般に知られない、もう一つの重大問題がある。それは交渉妥結後、日本政府が「在満朝鮮人」に一方的に「治外法権」を認めるという事後措置を行ったことである。日本が一九一〇年に韓国を併合する以前より、満洲内、特に朝鮮に隣接する間島地方には「朝鮮人」が多数居住し、土地を所有していた。韓国併合の後、朝鮮人は日本国籍を保有したが、満洲において土地を所有し、日本国籍を保持した朝鮮人は、「土地所有権」保持の代償として「治外法権」を認めないこととする合意が日清間で成立していた。ところが、「二十一か条」交渉が終わった後、当時の寺内正毅(てらうち まさたけ)朝鮮総督の要請で、在満朝鮮人に治外法権を認めることとしたのである。

日中交渉において、日本人の土地所有権が認められたわけでなかったから、寺内の主張は「朝鮮人のみに特権を与える」法外な主張であったが、日本政府はそれを承認した。この後、満洲において朝鮮人をめぐる紛争が多発し、「満洲事変」直前の「万宝山事件(まんぽうざんじけん・中国吉林省万宝山付近で、朝鮮人移住農民と中国農民とが開墾地および水路をめぐって争った流血事件)で頂点に達する。

『二十一か条要求の歴史的評価』

「二十一か条要求」は、中国における日本の経済的権益が欧米列強に劣る中、中国政府との内々の合意、つまり癒着強化によって日本の権益を拡大するためになされた。中国政府との癒着を目指す日本政府の動きは、続く寺内正毅内閣による巨額かつ不明朗な対中経済支援として大規模化する。しかし、貸付金は踏み倒されて不良債権化し、日本国民に甚大な損害を与えてしまう

その一方で当時の中国は、日本人に対する暴行、殺害事件を頻発させていた。しかも、中国政府は犯人を自ら逮捕、処罰することなく、日本側の圧力によって、対応を余儀なくされていた。そこで日本政府は、恫喝を駆使し、中国に対する門戸開放と合わせて中国司法権を部分的に制限することで、中国における日本人の人権を保障しつつ、その経済活動の範囲を拡大していこうとしたのである。

この後、一九二〇年代末に中国は、治外法権の撤廃を目指して関連国、特にイギリスおよびアメリカと交渉を進める。その際、欧米側は、中国における治外法権撤廃の条件として、近代法の施行に加え、司法顧間の名目による外国人裁判官の雇用や、弁護士の保証、裁判の公開、令状のみによる逮捕、保釈の権利、そして特定租界における一定期間の治外法権の継続などを強硬に求めた。この交渉は「満洲事変」の勃発によって中止となるが、欧米諸国は人権保護のため、「二十一か条要求」における日本の要求以上の要求を中国に対して行うのである。また、「二十一か条要求」をめぐる交渉に際し、日本政府は中国政府に対して高圧的であったが、中国の官憲、民衆は、日本人に対して差別的、侮蔑的、攻撃的であり、しかも凄惨な事件に対して「無責任」を貫いた。中国は断続的内戦状態にあり、中国人同士で強奪、殺害を行っていたから、彼等が憎悪する日本人を殺傷することに、自制はなかった。躊躇があったとすれば、それは日本人殺傷事件が外交問題となり、制裁を受けてより大きな被害を受けることを避けるためであった。

以上のように、「二十一か条要求」は、中国の複雑な状況や中国をめぐる欧米列強の動向に対応してなされたものであった。したがって、当時の状況を理解しなければ、「二十一か条要求」という単独の事実を知ったところで、無意味である。ところが、日本の歴史学は逆に、中国の状況に対する無知か故意の無視によって「二十一か条要求」の異常性を際立たせるという、倒錯(とうさく)した手法を駆使してきた。それだけ、知的怠慢や、現実を無視した反日意識、政治的意図がひどかったのである。「二十一か条要求」に関する日本政府の最大の過失は、中国との癒着関係を強化しようとしたことそのものであり、また、「在満朝鮮人」の権利を中国側との事前の合意なく、一方的に拡大したことであった。さらに中国側の対応にも重大な問題があった。自国の司法や行政の腐敗や機能不全、治安の悪化、反日殺傷事件の発生などに適切に対処できないのに、事実経過に反する虚言、宣伝を世界にまき散らし、日本と欧米、特にアメリカとの関係を悪化させ、あるいは中国民衆の反日感情や差別偏見をあおることで、政府の無能を隠蔽しようとしたことである。これらの問題は、現在にも多く通ずるであろう。

 

 

アヘン戦争

1840年に始まった清とイギリスとの間の戦争。この戦争は、「麻薬」である「アヘン」が原因となったため、アヘン戦争と呼ばれています。約2年続いたアヘン戦争は、イギリスの勝利で終わり1842年、清は「南京条約」を結ばされました。

 18世紀ごろ。ヨーロッパでは、紅茶が大流行となりイギリスでは清から大量の茶を輸入していました。しかし、イギリスにしてみたら、清から茶を大量に購入するばかりで清との間では「大幅な貿易赤字。時計や望遠鏡などを輸出するものの、そんなもの清の一部のお金持ちにしか人気がない。そこで、メキシコやスペインから購入した銀を中国に輸出し茶を購入していましたが、その銀も清国内でだぶつく状態となっていきます。そこで、銀よりもっといいものないかなぁ。とイギリスは考えます。

 「そうだ!」

と思いついたものが、とんでもない代物でした。「麻薬であるアヘン」です。こんなの現在なら国際問題ですよね。しかも、イギリスでは、絶対に輸入を許していない代物を他国に売りつけちゃおうというのだから、メチャクチャです。

当時、清ではアヘンの輸入禁止を決めていましたが「密輸入」でどんどんアヘンが入ってくるようになってしまいます。当時すでに清は衰退期に入っており、輸入禁止と叫んでみてもあまり効果もない・・・。しかも、清の政府内では、「賄賂」をもらってアヘン輸入を黙認している人たちもいっぱいいるような状態。

そんな、こんなで、このアヘンが清で大ヒットとなってしまう。アヘンの輸入量が茶の輸出量を上回り、茶だけでは足りず、イギリスから嘗て購入した銀まで流出していくほど・・・。これが、原因となり清では経済危機にまで発展していきます。

そして、ついに清もいよいよ本格的に動き出します。清の「道光帝(どうこうてい)は、アヘンを販売した者、アヘンを吸った者は死罪という厳しい法律を作り対応。そして、「林則徐(りんそくじょ)という大臣は、これに従いイギリスの貿易商からアヘン2万3000箱を没収し捨ててしまいます。

これに怒ったイギリスは、軍艦にて清の沿岸に発砲し、「アヘン戦争」が始まりました。しかし、圧倒的なイギリス海軍の力により清は敗北。1842年、「南京条約」に調印となり、イギリスは香港島を占領となりました。

このアヘン戦争。日本にはまったく関係ないようにも思えますが、よく考えればお隣の国の出来事。アヘン戦争の清敗北が原因となり鎖国中の日本にも外国船がたびたびやってくるようになります。そして、ついに1853年にはペリーが浦賀に来航するのですね。

南京条約

「アヘン戦争」の中国側の敗北によって1842年にイギリスとの間で結ばれたのが「南京条約」ですね。まずは、「公行」の廃止。これは、清の貿易業者の組合のことですが、これを廃止させます。この組合の廃止によってイギリスは誰とでも取引が出来るようになるんですね。

次に5港の開港。広州、福州、厦門(かもん、アモイ)、寧波(ねいは、ニンポー)、上海の5港です。これによってイギリスは綿織物がスムーズに中国へ輸出できるようにします。

ちなみにアヘン戦争以前は「片貿易」といって清から茶を輸入するだけで、イギリスは綿織物などを輸出ができずに大幅な貿易赤字になっていたんですね。中国には絹などの高級な布地の文化があるのでイギリス製の綿は人気薄だったんです。そこでイギリスは、植民地のインドを経由して「アヘン(麻薬)を清に輸出し始めたんです。清では、アヘンの吸引、輸入も禁止しますが、それでもイギリスはアヘンの密輸を続け、ついには戦争となったわけです。

つまり、イギリスとしては、兎に角、自国に有利な条件で貿易ができるようにしたかった!ですから、「南京条約」では清にとっては「極めて不平等」、イギリスにとっては「有利な条件」で条約が結ばれます。話は戻りますが、あと香港島の割譲。この香港島が中国に戻ってくるのは約100年後になります。1997年ですから、記憶に新しいところです。

ちょっと余談ですが、「割譲」というのは「貰う」ということ。つまり、本来なら返す必要はないんです。しかし、イギリスは、この後も1860年に香港島の対岸の九龍半島の一部も割譲させ、1898年には、その九龍半島の付け根にあたる新界という地域を租借します。租借っていうのは借りるってことです。この新界の借りられる期限が99年。ですから、新界を返すときに香港島や九龍半島の一部だけ持っていてもなぁ・・・。ということになったんですね。中国からの圧力があったのも事実ですけど、香港だけは「中国の共産化」に巻き込まず、自由社会のままでいいという条件でイギリスは香港を返したんですね。

話は再び「南京条約」に戻りますが多額の賠償金というのもおまけでついてきます。

■南京条約の主な内容です。■

「公行の廃止」・公行とは清の貿易業者の組合のこと。これによりイギリスは誰とでも自由に取引が可能になる。   

「5港の開港」・広州、福州、廈門、寧波、上海の開港。イギリスは綿織物の中国への輸出がスムーズになる。

「香港の割譲」・香港が割譲された後も1860年には香港島の対岸の九龍半島の一部が割譲され1898年には、その九龍半島の付け根にあたる新界という地域がイギリスに租借(借りる)されることになります。

しかし、その後もイギリスによる清への圧力は続きます。

まず、1843年7月の「五港通商章程(ごこうつうしょうしょうてい)。これは、開港した5港での貿易に関する取り決めなのですが、これによって清はイギリスに「領事裁判権」を認めさせられます。領事裁判権とは、「治外法権」と言った方がわかりやすいでしょうか?これは清国にてイギリス人が悪いことをしても清の法律では、そのイギリス人を裁けないということ。では、イギリス人はどこで裁かれるのか?それは、イギリス本国でイギリス人によって裁かれるんですね。つまり、イギリスは清国でやりたい放題ってことですね。

同じ年の10月南京条約の追加項目として広州の虎門で「虎門寨追加条約(こもんさいついかじょうやく)が締結されます。これにより清はイギリスに対して「関税自主権」を失うことになります。

普通、輸入品にはその国が自由に「関税」といって税金を掛けることができます。これは、自国の産業を守るためのもので安い外国車なんかが大量に輸入されたら日本でも日本車が売れなくなっちゃう可能性があるでしょ。ですから、外国車には高い税金を掛けて日本国内で販売するときは、高い値段になるようにしてるんですね。しかし、この条約によって清は自国で関税を決めることができなくなり、イギリスとの協定によって関税を決めるということになります

さらにイギリスは「片務的最恵国待遇(へんむてきさいけいこくたいぐう)をも獲得します。「片務的」というのは「片方の国だけに義務を強制する」ということ。つまり、この場合、清ですね。最恵国はイギリスのこと。つまり、清はイギリスを「最恵国」として待遇する義務があるということです。

どういうことかというと、イギリスは清にとって最恵国であるわけですので、「イギリス以上の高待遇」「他の国」に認めちゃだめですよ。ということ。つまり、フランスからの輸入品の関税を20%にするとします。その時、イギリスからの輸入品が25%の関税が掛っていたとしたらフランスの方がイギリスよりも有利な条件となってしまうのでイギリスの関税を20%に引き下げなければならないということです。

もうイギリスはやりたい放題ですね。しかし、その後、清は他の国にまでもたかられることになっていきます。アメリカとは「望廈条約(ぼうかじょうやく)。フランスとは「黄埔条約(こうほじょうやく)といってイギリスに与えたのと同様の条件を認めさせられてしまうんです

 

「対華二十一カ条」は支那の自作自演

「対華二十一カ条は支那の自作自演。」

以下、「かつて日本は美しかった」ブログ様より転載です。

私は第一次世界大戦中、日本は支那に対して「二十一カ条の要求」(1915年大正4年1月18日)というひどいことをした、と教えられました。世界大戦のドサクサに紛れて、支那にとって屈辱的な要求をした、日本は悪いことをしたと教えられました。そう教えられた人は多いでしょう。二十一カ条の内容を簡単に書くと、

「第一号」山東省における旧ドイツ権益の処分についての事前承諾など。

「第二号」旅順、大連租借期限と南満州・安奉両鉄道の期限の九十九ヵ年延長ほか、日本人の土地所有権、居住権、営業権の優先権の要求など。

「第三号」製鉄会社の合弁企業など。

「第四号」沿岸の港湾・島嶼を外国に譲与・貸与しないこと。

「第五号」日本人を政治・軍事顧問として雇用することほか、必要地方に日支共同警察、日本からの武器購入、福建省の鉄道鉱山湾口に関する優先権など(希望条件)

この二十一カ条を交渉中の1915年3月中旬に支那革命家の「孫文」は日中盟約案として(一)兵器はすべて日本と同式にする、(二)支那の軍と政府は外国人を雇用するときは日本人を優先させる。(三)鉱山、鉄道、沿岸航路経営のために外国資本を要したり合弁を行う場合は、まず日本と協議する、というのを提案しており、これは「二十一カ条の要求」にほぼ一致しており、実は「支那側の要求」だったようです。孫文は「二十一カ条の要求は、袁世凱(えん せいがい)自身によって起草され、要求された策略であり、皇帝であることを認めてもらうために、袁が日本に支払った代償である。」と述べています。

この頃、支那は辛亥革命(1911年)によって共和国が誕生していましたが、非常に不安定な政権で混乱が続いており、大総統の袁世凱は「皇帝」になりたくてしょうがなかったのはホントで1915年12月には立憲君主制が議会で可決されると、袁は皇帝の宗教儀式を復活させるなど行って中華帝国皇帝についています。二十一カ条は袁が皇帝、あるいは外国と交渉できる国家元首として認めてもらいたかったための譲歩であり、面子をたてるために日本に強要され仕方なかった、ということにしたのでしょう。日本の加藤高明外相は「条約の最後通牒は、譲歩する際に支那国民に対して袁の顔を立てるために、袁に懇願されたものである。」と公然と認めています。さらに、アメリカ公使ポール・ラインシュの国務省への報告書には、「支那側は、譲歩すると約束したよりも要求がはるかに少なかったので、最後通牒の寛大さに驚いた。」とあります。

米外交官のラルフ・タウンゼントはこの二十一カ条について以下のように述べています。

「これは交渉にあたった日本の外交官からじかに聞いた話であるが、(二十一カ条の)内容が公になるずっと前に支那代表団は内容に満足し、調印に同意していたそうである。ところが、支那側はこう持ち出してきた。『内容はこれで結構だが”要求”ということにしてはくれまいか。そうした方が見栄えがする。やむなく調印したのだという風にしたいのだが』と。これを受けて日本側は『そのほうが良いのならそういたしましょう』と言って、高圧的な態度に出るふりをした。それで支那人は不承不承、署名をするという風にしたのである。裏でかなりのお金が動いたであろう。支那の交渉ごとは金次第とみてきたからである。」

当時このあたりの裏事情はジャーナリストたちには知られていたようです。ところがこれにアメリカが噛み付いてきました。この頃、米国で「日系移民の排斥」が再燃していたのです。

ちなみに孫文は辛亥革命のとき、日本に資金援助と武器の援助を要求しており、そのかわり満州をやる、と提案しています。これに頭山満などの日本の右翼は「孫文は売国奴だ。信用できない」と激怒しています。それでみんな引いてしまいました。もらっときゃいいのに、ですね。この頃の日本人の思考がわかります。もっとも孫文は漢民族で、満州は満州民族のものですから、有効な話とは言えないでしょう。

『参考文献』

「大東亜戦争への道」中村粲著

「紫禁城の黄昏」R・F・ジョンストン著/中山理訳/渡部昇一監修

「暗黒大陸中国の真実」ラルフ・タウンゼント著

「アメリカはどれほどひどい国か」日下公人・高山正之共著

『参考サイト』

WikiPedia「対華21ヶ条要求」

 

袁世凱が日本に要求させた【自作自演のヤラセ】

http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-date-20150809.html

 

袁世凱が「21か条要求」を考えて、袁世凱が日本に要求させた【自作自演のヤラセ】だったのだ!このことは、支那の国父(孫文)が非常に詳しく証言している。二十一箇条条約の歴史に付いて略述する。

 

多くの人は「21か条要求」を日本の「中国侵略」の現れだと思っている。もし、それが本当であれば、統一中国は、日本の圧迫に対抗すれば良い訳である。ところが、この問題は「中国側から起こった」というのが事実である。

すなわち、袁世凱は、このような過大な特権を日本に承認する(与える)代償として、「自分が皇帝になる」ことを日本に支援させようとしたのである。

当初、日本は、このような激烈な要求を出すことに、しりごみした。当時の外相加藤高明は、袁世凱が要求を呑むかどうかを仔細に観察し、呑むことを確認した後、絶対に秘密を守ることを要求し、日本側が提出するまでは内容を漏らすことを禁じたのであった。

ところが、提出後、新聞に載り、中国はもとより外国や袁世凱の部下までもが反対をした。袁世凱は日本に対して終始この要求内容を堅持することを求め、必要ならば日本軍を出兵して武力を誇示することを求めた

そこで、日本は、袁世凱の画策に従って中国に派兵したのである。当時の日本人も、日本政府の暴挙を攻撃したが、政府はおかしな言い訳しか出来なかった。一方、袁世凱は、中国においては、日本の派兵を威嚇行為であるとし、中国人に彼を信じさせようとした。

すなわち、21か条要求を承諾しなければ、日本は武力行使をするであろうと。この袁世凱の深い密謀は、従来中国民衆が知り得なかったものである。

当時世論は、日本政府の大失態とし、加藤外務大臣は辞職。中国側においても全体が一致してこの事に反対したが、袁世凱は当時の首相(現北京総統)の徐世昌と外交総長の陸徴祥に、無理に中国を圧迫するこの協定に調印させた。このため21か条条約は既成の事実となって、日本人も重ねて政府を責めないようになった。

『孫文全集』より抜粋要約

(原典)

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外務省調査部偏『孫文全集』中

原書房、昭和42年8月20日発行

編集兼発行人、成瀬恭

第2編 講演及談話

より抜粋

 

 次ニ二十一箇条条約ノ歴史ニ付イテ略述スル。

 二十一箇条約トハ何カ。多クノ人ハ之ヲ単ニ日本ノ中国蚕食(サンショク)ノ一ツノ現レデアルト思ツテヰル。之レガ若シ真ニ然ルナラバ、至ツテ簡単ナ問題デアツテ、一箇ノ統一国タル中国ガ、日本ノ圧迫ニ対抗スレバヨイ訳デアル。

 然ルニ此ノ問題ハ中国人カラ起ツタモノデアル。即チ袁世凱ガ故意ニ日本ノ斯クモ過大ナル特権ヲ承認シ、之レガ代償トシテ、日本ヲシテ、彼ガ中国ノ皇帝タルコトヲ援助セシメタノデアル。

 当初日本ハ、斯ル激烈ナ条約ノ提出ヲ逡巡シタ。当時ノ日本ノ外務大臣加藤高明男爵ハ、予メ先ズ仔細ニ袁氏ガ応諾スルヤ否ヤニ付イテ観察シ、彼ニ応諾ノ意思有ルコトヲ確メ得タ後、更ニ袁氏ニ絶対秘密ヲ守ルベキコトヲ要求シ、日本側ヨリ提出スル迄ハ、之ガ条約ノ内容ヲ漏洩スルコトヲ禁ジタノデアツタ。

 然ルニ提出後、新聞紙ガ此事ヲ世ニ漏スヤ、中国及外国ノ各方面ニ於テ、紛々タル反対ガ起ルニ至リ、袁氏ノ部下迄モ反対ヲ唱フルニ至ツタ。茲ニ於テ袁氏ハ日本政府ニ、終始其ノ主張ヲ堅持シ、必要ガアレバ出兵シテ武力ヲ示スベキヲ要求シタ。

 ソコデ日本ハ袁ノ画策ニ従ツテ中国ニ派兵シタノデアル。当時日本人モ、皆日本政府ノ斯ノ如キ無暴ナ挙ヲ攻撃シタガ、日本ノ首相ハ、満鮮駐屯軍ノ満期ニ当ル為、派兵交代セシムルモノナル旨ヲ声明シタ。然シ之レハ完全ナ飾詞デ、派兵シタノハ満期ノ二ヶ月前ノコトデアツタ。而モ日本ノ首相ハ遂ニ之ヲ以テ中国ノ反対ヲ圧ヘテシマツタノデアル。

 他方中国ニ於テハ、袁世凱ハ日本ノ派兵ヲ直接威嚇行為ナリトシ、中国人ヲシテ彼ヲ信ゼシメントシタ。即チ二十一箇条条約ヲ承諾シナケレバ、日本ハ武力ヲ用フルデアラウ、トナシタノデアル。此ノ種ノ深イ密謀ハ、従来民衆ノ暁リ得ナカツタモノデアル。然ルニ此ノ種ノ事実ヲ知ルコトナシニ、中国問題ノ正当ナル解決方法ヲ求メヨウトスルコトハ、実ニ至難デアル。

 当時ノ日本ノ世論ハ、之ヲ日本政府ノ外交上ノ大失態トナシ、其ノ結果加藤外務大臣ハ辞職ヲ迫ラルルニ至ツタ程デアツタ。

 他面全体ノ中国人モ一致シテ此ノ事ニ反対シタガ、袁世凱ハ現北京総統タル、時ノ首相徐世昌及外交総長陸徴?ヲシテ、無理ニ中国ヲ圧迫スル此ノ協定ニ調印セシメタ。之レガ為ニ此ノ二十一箇条条約ハ既成ノ事実トナリ、日本人モ重ネテ其ノ政府ヲ責メナイ様ニナツタ。

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(ひらがな変換)

外務省調査部偏『孫文全集』中

原書房、昭和42年8月20日発行

編集兼発行人、成瀬恭

第2編 講演及談話

より抜粋

 

 次に二十一箇条条約の歴史に付いて略述する。

 二十一箇条約とは何か。多くの人は之を単に日本の中国蚕食(さんしょく)の一つの現れであると思っている。之れが若し真に然るならば、至って簡単な問題であって、一箇の統一国たる中国が、日本の圧迫に対抗すればよい訳である。

 然るに此の問題は中国人から起ったものである。即ち袁世凱が故意に日本の斯くも過大なる特権を承認し、之れが代償として、日本をして、彼が中国の皇帝たることを援助せしめたのである

 当初日本は、斯る激烈な条約の提出を逡巡(しゅんじゅん・決心がつかず、ためらうこと。しりごみすること)した。当時の日本の外務大臣加藤高明男爵は、予め先ず仔細に袁氏が応諾するや否やに付いて観察し、彼に応諾の意思有ることを確め得た後、更に袁氏に絶対秘密を守るべきことを要求し、日本側より提出する迄は、之が条約の内容を漏洩することを禁じたのであった。

 然るに提出後、新聞紙が此事を世に漏すや、中国及外国の各方面に於て、紛々たる反対が起るに至り、袁氏の部下迄も反対を唱ふるに至った。茲に於て袁氏は日本政府に、終始其の主張を堅持し、必要があれば出兵して武力を示すべきを要求した

 そこで日本は袁の画策に従って中国に派兵したのである。当時日本人も、皆日本政府の斯の如き無暴な挙を攻撃したが、日本の首相は、満鮮駐屯軍の満期に当る為、派兵交代せしむるものなる旨を声明した。然し之れは完全な飾詞で、派兵したのは満期の二ヶ月前のことであった。而も日本の首相は遂に之を以て中国の反対を圧へてしまったのである。

 他方中国に於ては、袁世凱は日本の派兵を直接威嚇行為なりとし、中国人をして彼を信ぜしめんとした。即ち二十一箇条条約を承諾しなければ、日本は武力を用ふるであらう、となしたのである。此の種の深い密謀は、従来民衆の暁り得なかったものである。然るに此の種の事実を知ることなしに、中国問題の正当なる解決方法を求めようとすることは、実に至難である。

 当時の日本の世論は、之を日本政府の外交上の大失態となし、其の結果加藤外務大臣は辞職を迫らるるに至った程であった。

 他面全体の中国人も一致して此の事に反対したが、袁世凱は現北京総統たる、時の首相徐世昌及外交総長陸徴?をして、無理に中国を圧迫する此の協定に調印せしめた。之れが為に此の二十一箇条条約は既成の事実となり、日本人も重ねて其の政府を責めない様になった。

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袁世凱は、自分が皇帝になることを日本に支援させる代償として、日本に過大な特権を与えることにした。その際に、袁世凱は、日本に対して「日本からの『要求』ということにしてくれ」と依頼し、更に「必要ならば日本軍を出兵して武力を誇示してくれ」とも求めて高圧的な要求を演出し、一方で支那においては【日本からの威嚇行為】と主張した。つまり、「対支21か条要求」は、袁世凱による【自作自演のヤラセ】だった。

『二十一ヵ条要求の背景』

世界中が戦争に巻き込まれていた1915年、日本はこれを好機と捉え失地回復を図った。二十一ヵ条からなる文書を認め、中国代表団に提示した。いわゆる「二十一ヵ条要求」である。

確かに「要求」といわれれば「要求」かもしれない。全容は明らかにされなかったが、日本が最も力を入れたのは、1923年に期限切れとなる鉄道の租借期限の延長であった。これを知ったアメリカがまず日本非難に回り、列強も同調したので要求を幾分和らげることとなった。

これは交渉に当たった日本の外交官からじかに聞いた話であるが、内容が公になるずっと前に、中国代表団は内容に満足し、調印に同意していたそうである。ところが、中国側はこう持ち出してきた。「内容はこれで満足だが『要求』ということにしてくれまいか。そうした方が見栄えがする。やむなく調印したのだという風にしたいのだが」と。

これを受けて日本側は「その方が良いならそういたしましょう」と言って、高圧的な態度に出るふりをした。それで中国人は不承不承、署名をするという風にしたのである。裏でかなりの金が動いたであろう。中国との交渉事は金次第とみてきたからである。

ところが今回は計算違いだった。「日本に脅迫されやむなく調印した」という体裁にしたのは、中国の国内の中国人に納得してもらうためであった。ところがアメリカがこれに噛み付いた。「哀れな中国に、過酷な要求を突きつけるとは許せん」とばかり、同情が湧き上った。

(P256~258)

『暗黒大陸中国の真実』ラルフ・タウンゼント著(1933年)、田中秀雄・先田賢紀智共訳

 中央であると地方であるとを問わず中国当局が余りにも妨害政策を推進したために、日本は1915年に中国に対して「21ヶ条要求」を提出しなければならなくなった。この要求に関しては中国の宣伝によって余りにも大きな騒ぎが生じたためにその本質がかすんでしまうほどであった。

 この21ヶ条要求(本質的な狙いは満州の日本利権の保護)は、中国に侵害されかけているこの地域での日本の足場を確り固めようと言う意図の下に考えられた警告手段以上の何ものでもなかった、というのが真相である。

(中略)

 21ヶ条要求が出されたとき日本側の責任者であった外務大臣の加藤伯爵の伝記の中に、1915年の交渉のときに日本政府が最後通告を出すことを中国側代表が非公式に求めてきた、と記されている。

その理由は、そうすることによって袁世凱大統領が条約により調印しやすくなり、彼の政敵に対するもっともらしい言い訳を与えてくれるからだ、というのだ。

『シナ大陸の真相』 K・カール・カワカミ著(1938年)、福井雄三訳

以上紹介した複数の資料からも判るとおり、「21か条要求」は、実際には袁世凱が考えて、袁世凱が日本に要求させた【自作自演のヤラセ】だった。紹介した『暗黒大陸中国の真実』『シナ大陸の真相』 などでも演出「日本からの高圧的な要求」ということにしたヤラセ)について述べているが、何よりも『孫文全集』において【袁世凱が考えて、袁世凱が日本に要求させた演出(自作自演のヤラセ)だった】旨を暴露されているから、決定的だ!