参考「祢軍墓誌の碑文解釈」


『日本』の国号はいつ生まれたか?:倭と日本の差異

王政復古を掲げ大政奉還を成し遂げた明治維新によって、西欧列強に並ばんとする近代国家としての日本は誕生した。

1872年9月4日(明治5年8月2日)に太政官から『学制(学校教育制度)』が発せられたが、近代日本の歴史教育の基盤には『天皇制の権威・皇国史観』があったため、『日本の国号の始まり・日本人の自意識の形成』については史実ではなく『古事記・日本書紀』の神話に基づく教育が行われていた。


例えば、イザナギ・イザナミの国産みやニニギノミコト(天皇家の祖先神)の高千穂峰への天孫降臨、日本武尊(ヤマトタケル)の東征など記紀の神話に基づくエピソードが『日本誕生の原点(物語的な事実)』に近いものとして扱われたため、史実としての『日本の国号・国制・日本人アイデンティティの始まり』について殆どの国民がはっきり分からないという状態になっている。

記紀の神話の影響で、縄文時代より遥か昔の太古の時代から『日本(国号)・日本人』が存在していたという認識が生まれたり、『邪馬台国・奴国』があった弥生時代にも日本の国制の中に邪馬台国があって日本人(倭人は日本人と同じである)がいたというような見方がでてきてしまう。


初期の天皇の実在可能性については、『欠史八代(2代目~9代目を不在とする説)』をはじめとして、何代目の天皇から確かに実在していたと言えるのかには様々な議論がある。

だが、“イザナギ―天照大神―アメノオシホミミ―ニニギ―ホオリ――ウガヤフキアエズノミコト”の神々の系譜に連なるとされる初代・神武天皇(じんむてんのう,生没年不詳)は、その名前自体が奈良時代後期の文人・淡海三船(おうみのみふね)によって1000年以上も後に『漢風諡号(かんぷうしごう)』を一括撰進されたもので、紀元前の時代に神武天皇が『諡号を持つ天皇』として実在していた可能性はない。


神武天皇が即位したと推測される2月11日は、現在でも『建国記念日』として祝日になっているが、この建国の日は『神話上(皇室の権威確証)の建国』であって『史実の上での建国』ではない。

だが、『史実としての日本の国制』の始まりについて知っている人は少なく、古墳時代が終わってヤマト王権(大和朝廷)の成立と前後する辺りという大まかな認識しかないことが多く、7世紀末における『日本の国号・国制の誕生』については曖昧な知識しか与えない歴史教育の影響も大きい。

『日本』という国号は、聖徳太子(厩戸皇子)が隋の煬帝に送ったとされる親書『日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや』でよく知られるように、『隋・唐の中国王朝に対する独立意識・対抗意識』から生まれたが、その時期は673年~701年頃だとされている。


『日本』は地名ではなく政治的に制定された国名・国制であり、『日本人』とはヤマト王権や朝廷・天皇の政権と無関係に自然発生した民族ではないから、『日本・日本人の歴史的な起源』は『壬申の乱(672年)』に勝利した天武天皇の治世が行われていた7世紀末と考えられるのである。


天武天皇(生年不詳-686)は681年から『飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)』の編纂を始めていたがその途上で死去し、女帝の持統天皇(645-703)が689年に飛鳥浄御原令を施行した。

法令の上で『日本という国号』『天皇という地位・称号』が公式に設定されたのはこの689年の飛鳥浄御原令であり、『実証主義的な歴史』としては日本の国号、天皇の正式な呼称の始まりは“689年”という風に暫時的に定義することができるだろう。


689年は実証主義的な『日本』という国号を公式に持つようになった国の日本史の出発年、公式の天皇制の出発点と見なせる重要な年である。

だが、この年号は大化の改新の645年よりも遥かに知名度が劣っている。

『日本』という独立的な国号を東アジア世界において初めて名乗った年もはっきりとしており、“唐”“周”という国号に改めていた則天武后(そくてんぶこう,623頃-705)に面謁した日本の使者が“702年”に、自分たちの国が唐(周)の中国側が呼ぶ『倭』ではなく『日本』であると名乗っているのである。

則天武后は武則天とも呼ばれる中国王朝史上で唯一の女帝だが、残酷な刑罰や密告制度を用いた恐怖政治・粛清を行ったため、漢の呂后(高祖・劉邦の妻)、清の西太后と並んで『中国三大悪女』の一人とされている。


“倭人”は“日本人”と同一視できるか?

7世紀末の天武天皇あるいは持統天皇の治世に『日本』という国号が成立するまでは、日本は『倭(わ)』と呼ばれており日本人も『倭人(わじん)』と呼ばれていたとされる。

だが、厳密には統一的な政権・律令(法律)を持たず、日本人としての統合的アイデンティティもなかった『倭・倭人』は『日本・日本人』と同一の存在や概念として考えることはできないだろう。


倭人が中国王朝の正史の文献に初めて出現するのは、高祖・劉邦が起こした漢の時代の『漢書地理誌(かんじょちりし)』である。

紀元前1世紀頃の倭(主に西日本・北九州)の状態を指して、『楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす』と記されている。

また『倭・倭人』は元々、中国の王朝が非文明的で野蛮・劣等な日本列島やその周辺に住む異民族を貶めて表現するため(中国こそが文明の中心とする中華思想を強調するため)に『悪字(意味の良くない漢字)』を当てたものであり、当時の日本列島に居住していた人々が倭や倭人を自称したわけではない。


『日本』は中国王朝や冊封体制に対する独立意識(対抗心)に根ざして自称された国号であり、『倭』は中国王朝の中華思想の優越感を表すために他称された地域名であるという違いを指摘することができる。

倭の漢字は、『稲魂(いなだま)をまとって舞う巫女の形でその姿の低くしなやかな様子、五穀豊穣の儀礼的な舞い』というその語源を考えると必ずしも『悪字』ではないとする説もある。

倭を悪字とする立場からは、倭には『小さい・劣っている』といった意味があると言われている。


『魏志倭人伝』には3世紀の邪馬台国の女王・卑弥呼(=親魏倭王)についての記述もあるが、この時代の政治権力の中心や有力な豪族が率いる集団勢力は『近畿・九州』にあり、それ以外の遠い地域の人たち(東海地方よりも東の関東・東北,南九州など)が『日本という国号・日本人という民族意識』を持っていた可能性は極めて低いだろう。

5世紀の有力な豪族(王)であった倭王武(ワカタケル)も、宋の皇帝に対して『東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国』などと書いて送っており、5世紀に至ってもなお日本(倭)の内部は無数の小国が乱立する混乱した状態であったことが伝わっている。


日本という国号、日本人という民族アイデンティティが成立する以前の時代には、『倭・倭人』はあっても『日本・日本人』はなかったとするのは論理的な歴史解釈だが、聖徳太子や推古天皇、天智天皇(中大兄皇子)、藤原鎌足、蘇我蝦夷といった人たちも、7世紀末の日本の国号が成立する以前の人物であるから、厳密には『倭人』という他称的な概念に当てはまる人たちである。

これらの日本史における有名過ぎる超重要人物が『日本人』という自称的な民族概念を未だ持っていなかった、『日本』という国号・国名を用いていなかったというのは不思議な感じがするが、聖徳太子の冠位十二階・十七条憲法などは『中国王朝を模範とする律令国家』を模倣する途上の段階(中国王朝に対する独立意識の形成段階)にあったと見なすべきなのだろう。


日本という国名の意味は『日の本=東側の太陽が昇ってくる場所』であるが、この国名にしても『中国大陸の東側(中国王朝よりも先に日が出てくる場所)』といった相当に当時の随・唐の王朝の大きさを意識した命名になっている。

承平6年(936年)に、この日本の国号の意味(日出づる処の意味)が、日本国内ではなく中国大陸から見た意味になっているのではないかという質問をした人物に、参議・紀淑光(きのよしみつ)がいる。

この問答は、『日本書紀』の『日本書紀私記(講義録)』に残されている。


日本に住んでいる人間の視点では、『日出づる処(日本)』は日本よりももっと東方にある地域になり、当たり前だが日本列島の内部から太陽が昇ってくるわけではなく、日本とは語義的には『太陽の昇る東方・東側』といった方角だけを意味している。

どこから見た東側なのかといったら、中国大陸にある王朝から見た東側なのであって、日本という自称・独立の国号は、『中国大陸からの視点・中国王朝への対抗意識(冊封体制からの離脱意識)』がなければ生まれなかった可能性もあるのである。


次の引用文は、http://www.d3.dion.ne.jp/~mkpo/02.pdf をHTMLに変換して表示したものからの抜粋です。

祢軍墓誌の碑文解釈 2011/12/10

<はじめに>

朝日新聞(20111023日)のネット記事を下記に抜粋します。

「中国の古都・西安で見つかった墓誌(故人の事績を刻んで墓に収めた石板)に、「日本」との文字があることを紹介する論文が中国で発表された。

墓誌は 678 年の作と考えられるとしている。

日本と名乗るようになったのはいつからなのかは古代史の大きななぞ。大宝律令( 701 年)からとの見方が有力だったが、墓誌が本物ならさらにさかのぼることになる。

・・・祢軍(でいぐん)という百済(くだら)人の軍人の墓誌で1辺59センチの正方形。884 文字あり、 678 2 月に死亡し、同年10月に葬られたと記されている。

百済を救うために日本は朝鮮半島に出兵したが、 663 年に白村江(はくそんこう)の戦いで唐・新羅(しらぎ)連合軍に敗れる。

その後の状況を墓誌は「日本餘?據扶桑以逋誅」と記述。

「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり、罰を逃れている」という意味で、そうした状況を打開するため百済の将軍だった祢軍が日本に派遣されたと記していると気賀沢教授は説明する。」

以上ここで問題にしたいのは、碑文の「日本餘?據扶桑以逋誅」に対する気賀沢教授の解釈である。

気賀沢教授の解釈

碑文の「日本餘?據扶桑以逋誅」を原文に従って読めば、「日本の餘?は、扶桑によって、もって誅からにげる。」となる。

「扶桑」は、中国神話で東方にある太陽を生む樹と言われ、同じく東方にある日本をも指す。

「據」は、「依也。引也。援也。拒守也。」(『康煕字典』)。

「逋」は、「亡(にげる)也」(『説文』)。

「誅」は、「小國敖、大國襲焉、曰誅。<小国おごり、大国これを襲うことを誅という>」(『晋語』)、「罰也」(『玉篇』)。

しかし、気賀沢教授の「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり」という解釈はどこから出てくるのか?

また「扶桑」を「日本」とすれば、「日本に依って」となり、意味は「日本に守られて」となる。これでいくと語句先頭の「日本」と「国」の意味の詞が重複する。

気賀沢教授はこの「日本」の文字を「国号」と考えているようだが、「扶桑」に対応させた「方位」としての「日のもと」と読んだ方が「国」の重複を避けられるのではないか。

語の意味としては「東方」となり、語句の解釈は「東方にいる餘?は、日本に守られ、罰から逃げた。」となる。

「祢軍」とは

次に「餘?」とは誰かが重要になる。

ここでの「餘?」は、唐側から見て、ある時期に「罪」を犯し「誅(罰)」の対象となったものである。

「餘?」とこれが「誅」の対象となった原因や時期などを特定するには、墓誌全文と関連史料とを見ていく必要がある。

先ず墓誌の主人公である「祢軍」であるが、『日本書紀』にも彼の記事が下記のようにある。

『日本書紀』天智天皇四年(六六五)九月壬辰《廿三》

「唐國遣朝散大夫沂州司馬馬上柱國劉徳高等〈等謂右戎衛郎將上柱國百濟禰軍。朝散大夫上柱國郭務○。凡二百五十四人。七月廿八日至于對馬。九月廿日至于筑紫。廿二 2日進表函焉。〉」

ここの「右戎衛郎將上柱國百濟禰軍」が「祢軍」である。

時期としては百済が「唐、新羅連合軍」により滅亡に追いやられた時期にあたり、その中の「白村江の戦い」とは、「日本、百済残党連合軍」と「唐、新羅連合軍」が対峙した一つの戦いである。(結果は「日本、百済残党連合軍」の惨敗に終わる。)

祢軍は、その碑文冒頭に「公諱軍、字温、熊津蝸夷人也。」とあるように百済の人である。

続いて「其先與華同祖、永嘉末、避亂適東、因遂家焉。」とあり、その祖先は、西晋末の時に「永嘉の乱」をのがれてきた中国人であると言う。

そして百済に臣下として仕え、「曾祖福、祖譽、父善、皆是本藩一品、官號佐平。」とあるように、曾祖父、祖父、父が「佐平」と言う百済で最高位の官職を務めた家柄でもあったと記す。

『海外国記』には「・・・百済佐平禰軍」とあり、彼自身も「佐平」の地位にあったものと思われる。

次に、「去顯慶五年 660 年)官軍平本藩日、見機識変、杖劍知歸、似由余之出戎、如金?之入漢。」

<去る顯慶五年 660 年)、官軍(唐軍)本藩(百済)を平らぐ日、機を見て変を識って、剣を杖つき、(唐に)帰すことを知る。(これ)由余の戎を出でることに似、金?の漢に入るが如し。>と碑文にあります。

「由余」は、西戎の人だが先祖は中国人。「金?」は、元匈奴の人だが後に漢の臣下となる。

顯慶五年 660 年)とは、百済王(義慈王)とその王子(扶餘隆)が、唐に降り「百済王朝」が滅亡した年で、日本では斉明天皇六年にあたる。

碑文での「官軍」とは「唐軍」であり、それに抵抗した「百済」は「賊軍」扱いと言える。

そして「聖上嘉嘆、擢以榮班授右武衛?川府析衝都尉。」<聖上(唐の高宗)がほめ嘆じて、あげるに、栄班をもってし、右武衛?川府析衝都尉を授ける。>

と彼は唐の官職を受け、唐の臣下になったことを記す。

つまり、祢軍は百済を裏切り唐軍側に寝返ったことになる。

この文言の直後に「于時日本餘?、據扶桑以逋誅。風谷遺氓、負盤桃而阻固。」と今回ここで問題にする語句がある。

原因と時期碑文に「于時日本餘?・・・」<時に、日本の餘?・・・>とあるので、時期としてはこの顯慶五年であろう。

この時期の『日本書紀』での記述は、『日本書紀』斉明天皇六年(六六〇)九月癸卯《五》

「百濟遣達率。〈闕名〉沙彌覺從等來奏曰。〈或本云。逃來告難〉今年七月。新羅恃力作勢不親於隣。引搆唐人。傾覆百濟。君臣總俘、略無?類。・・・於是西部恩率鬼室福信赫然發憤據任射岐山

〈或本云。北任叙利山〉達率餘自進據中部久麻怒利城。〈或本云。都々岐留山。〉

各營一所誘聚散卒。兵盡前役。故以庁戰。新羅軍破。百濟奪其兵。既而百濟兵翻鋭。唐不敢入。福信等遂鳩集同國。共保王城。國人尊曰佐平福信。佐平自進。

唯福信起神武之權。興既亡之國。」

『日本書紀』巻二六斉明天皇六年(六六〇)十月「百濟佐平鬼室福信遣佐平貴智等。來獻唐俘一百餘人。今美濃國不破。片縣二郡唐人等也。

又乞師請救。并乞王子余豐璋曰。唐人率我螯賊。來蕩搖我疆場。覆我社稷。俘我君臣。

〈百濟王義慈。其妻恩古。其子隆等。其臣佐平千福國。弁成。孫登等。凡五十餘。秋於七月十三日。爲蘇將軍所捉。而送去於唐國。蓋是無故持兵之徴乎。〉

而百流國遥頼天皇護念。更鳩集以成邦。方今謹願。迎百濟國遣侍天朝王子豐璋。將爲國主。云云。

詔曰。乞師請救聞之古昔。扶危繼絶。著自恒典。百濟國窮來歸我。以本邦喪亂靡依靡告。枕戈甞膽。必存拯救。遠來表啓。

志有難奪可分命將軍百道倶前。雲會雷動。倶集沙喙翦其鯨鯢。嘔彼倒懸。宜有司具爲與之。以禮發遣云云。

〈送王子豐璋及妻子與其叔父忠勝等。其正發遣之時。見于七年。或本云。天皇立豐璋爲王。立塞上爲輔。而以禮發遣焉。〉」

(長文となるので、この読みは岩波文庫などの『日本書紀』注釈本を参照されたし。)

ここに、百済が滅亡し、その王族の一員である福信が百済残党のリーダーとなり、唐、新羅連合軍に抵抗活動を続け、日本側に、日本にいる「王子豐璋」を迎えて百済王とし、亡国を復興することや援軍を求め、斉明天皇がそれらを決定するまでが記述される。

つまりこの時期は 660 年であり、 663 年の「白村江の戦い」の前と言える。

また唐側史料と言える『資治通鑑』「巻二百唐紀十六高宗上之下」に、「主上欲滅高麗、故先誅百済」とあり、その原因と「誅」の対象は「百済」であることが簡潔に述べられる。

「百済」と言ってもその具体的対象は人民ではなく、勿論国の主権者たる王や王族やそれに忠誠を誓う臣下達である。

「餘?」とは先に引用した『日本書紀』のところに(赤字部分)、「傾覆百濟、君臣總俘、略無?類。」<百済をかたぶけ覆し、君臣みなとりことなり、ほぼ?類(のこれるたぐい)無し。>とあり、碑文の「餘?」とは、百済の「君臣」の残族であると推定できる。

また「書紀」の「福信赫然發憤據任射岐山・・・唐不敢入」は、碑文の「風谷遺氓、負盤桃而阻固。」<風谷の遺民、盤桃を負いて阻固なり。>に対応するであろう。

結論

結論としては、碑文の問題語句の「時期」は、 660 年斉明天皇六年であり、「餘?」とは、当時日本にいた百済の王族や臣下達である。

よってその解釈は「時に、東方にいた百済の王族やその臣下達は、日本に守られ、罰をのがれた。」であり、朝日新聞に掲載した気賀沢教授の解釈は恐らく誤読であろう。

余談

今回の墓誌碑文で個人的に興味を抱く部分は、問題にした部分ではなく、「遂能説暢天威、喩以禍福千秋、僭帝一旦称臣。」<ついによく天威を説きのべ、喩えるに禍福、千秋(将来)をもってすれば、僭帝も一旦に臣を称す。>と言う文言である。

ここの「僭帝一旦称臣」の「僭帝」はマザコンと思える天智帝か。

※この記事に関する問い合わせ先: mkpo33@auone.jp


次の引用文は、応請矩明氏の「百済人将軍・袮軍(でいぐん)の墓誌に記された日本という国名」からの抜粋です。

日本という国号が正式に制定された時期については、今だに複数の説がある。

主な説としては、遣隋使を派遣した推古天皇の時代、壬申の乱に勝利した天武天皇の時代、あるいは大宝律令が制定された大宝元年(701)とする説などだ。

最近では、701年8月3日に完成した大宝令公式令詔書式において初めて用いられたとする説が有力である。

百済の将軍・袮軍が死亡した儀鳳3年(678)は我が国の天武天皇7年にあたる。

もし袮軍の墓誌に記された「日本」が我が国のことを指すのであれば、天武天皇以前に正式な国号として東アジア世界で通用していたことになる。

その事に着目した朝日新聞は、昨年(2011)の10月23日(日)の朝刊で、王連龍氏の論文に掲載されていた拓本の一部を紹介し、墓誌が本物ならば「日本」の呼称の最古の例が通説よりもさかのぼる時期に金石文で確認されたことになると報じた。

墓誌に記された「日本」は国号か、それとも・・・

さて、墓誌の問題の箇所である。吉林大学の王連龍氏が入手された墓誌「大唐故右威衛将軍上柱国袮公墓誌銘」の拓本には、十行目の中程に「于時日本餘●(口偏+焦、しょう)拠扶桑以逋誅(時において日本の餘●、扶桑に拠りて誅を逋る)」と記述されている。

明治大学の気賀沢保規(けがさわやすのり)教授は、この箇所を「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり、罰を逃れている」と読まれた。

2011年10月23日付け朝日新聞

「日本」を当時の我が国の国号と理解した上での訓読である。「時に」が白村江の戦いのことだとすると、「日本餘●)」とは本国から百済救援に来て百済に留まっている日本軍の残党を表しているとの解釈だ。

もっとも、墓誌に記された「日本」は当時の我が国を指すのではなく、単なる「日の本」すなわち東方を意味するとの解釈も可能のようだ。

奈良大学の東野治之教授は、”日本”は中国から見て日の出るところ、すなわち日の本、極東を意味し、「日本餘●」は”暗に滅ぼされた百済の残党”を指しているとコメントしておられる(2012年3月7日付け読売新聞)。

袮軍墓誌に記された「日本」は、我が国の正式な国号か、それとも単に東方を意味する一般用語なのかは、専門家の間でもこのように意見が分かれている。

大宝律令で国号が正式に制定されたとする立場からすれば、儀鳳3年(678)の時点では日本という国号は存在しないことになる。

だが、大宝律令以前にすでに制定されていたとする立場からすれば、儀鳳3年の時点で墓誌銘にこの国号が用いられていても不思議はない。

『三国史記』(1143年執筆開始、1145年完成、全50巻新羅本紀第六の文武王十年(670)十二月の条には、日本の国号変更に関する記述がある。

倭国、更(あらた)めて日本と号す。自ら言う、日出ずる所に近し、以て名となす”と記されている。

我が国の専門家はこの記述の信憑性をあまり信用していないようだ。中国史書からの流用の可能性があるからだ。

しかし、王連龍氏はその論文の中で、儀鳳3年(678)に亡くなった袮軍墓誌に「日本」とあるからには、この『三国記』の記述を史実と認めて良いとされた。

そして、袮軍の墓誌に記された「日本」を、734年に西安で病死した留学生井真成(せいしんせい)の墓誌に見える「日本」より早い金石文の具体例とされた。

この王氏論文が「社会科学戦線」7月号に記載されて3ヶ月も経って、事の重要性に気づいたのか、朝日新聞は昨年の10月23日になって論文の内容を取り上げ、明治大学の気賀沢保規教授の上記のようなコメントを掲載した。

気賀沢教授は、この箇所は白村江の戦い以後の状況を打開するため、百済の将軍だった袮軍が日本に派遣された背景を示していると言われる。

気賀沢氏は中国史が専門の明治大学の教授である。2年前には、河南省登封市の法王寺で見つかった「円仁」の名を刻んだ石板から採取した拓本の鑑定を依頼されている(2010年8月27日付け橿原日記参照)。

王連龍氏や気賀沢教授の理解の仕方が正しいならば、「日本」という国号が金石文で確認された最古の例となる。

この場合、大宝元年(701)の大宝律令で制定し、翌702年唐側に国号の変更を願い出て、武則天の承認を得て初めて正式な国号となったとする従来の通説は破棄されることになる。

一部の歴史学者は、冊封体制が敷かれていた当時の中国文化圏では、国号は宗主国である中国の承認を受けるものであり、勝手に決めて勝手に使うことなど許されなかったと説いてきた。

そのため、白村江の戦いに破れ669年に謝罪使を派遣して以来、実に33年ぶりに派遣された第7次遣唐使は、国号変更の承認伺いをその目的の一つとしたという。

 粟田真人(あわたのまひと)を執節使とするこの遣唐使節が大陸に到着したとき、12年前に武則天が帝位に就き、唐に変わって新しく「武周」王朝を開いており、その絶頂期にあった。

粟田真人は武則天にいたく気に入られ好感をもって迎えられた。麟徳殿の盛宴に招かれたのみならず、司膳卿という名誉職まで授けられた。

そんなこともあってか、武則天はこころよく国名変更を承認したという。唐の張守節が開元24年(736)に撰した『史記正義には「武后、倭国を改めて日本国となす」とある。

当時の我が国は白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた敗戦国であっても、唐の冊封を受けていたわけではない。

何も宗主国の承認がなければ国号を変えることができなかったわけではあるまい。白村江の敗戦で飛鳥から大津に遷都して即位した天智天皇はさまざまな国政改革を進めている。

壬申の乱に勝利した天武天皇もさまざまな制度改革を行っている。両天皇の治世のいずれかの時期に、国号変更が実施された可能性は否定できない。

筆者は、国号をなにも大宝律令による制定にこだわる必要はないと考えている一人である。

『三国史記』は新羅本紀の文武王10年(670)12月の記述以外にも、新羅本紀の孝昭王7年3月の記述にも、「日本国使、至る。王、崇礼殿に引見す」とある。

孝昭王7年は西暦698年に当たり、すでに対新羅外交では「日本」という国号が使用されていたと見る。

他の例証も『日本書紀』の中にある。『日本書紀』の記述には、高句麗の僧・道顕が天武朝の末頃に撰述されたと推定されている『日本世記』という書籍が引用されている。

通常、歴史家が別の書籍を引用する場合、そのタイトルまで変更するようなことはしない。

『日本書紀』の編者も例外ではあるまい。すでに、天武朝の頃には日本という国号が定着していた証ではないのか。

伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)が記した『伊吉博徳書』も『日本書紀』の斉明紀に何カ所か引用されている。

伊吉連博徳は斉明5年(659)に遣唐使の一員として唐へ渡り、たまたま我が国と唐とが戦争状態に入ったため一時抑留されるが、無事帰国した人物である。

『伊吉博徳書』では、斉明5年(659)7月30日、遣唐使は洛陽で唐の天子に引見したときの様子を伝えている。

その時の天子の言葉を「日本の天皇平安にますや否や」とのたまふ、と記している。

こうした例から判断すると、国交を断絶していた唐(武周)への国名変更の連絡が遅れて702年になっただけで、それ以前の東アジア外交では「倭」に代わる「日本」を正式な国号として用いていたと見なすべきではないのか。

『三国史記』の文武王十年(670)の記述は、あんがい史実を伝えているのかもしれない。

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■ 去る2月25日、「新発見百済人『袮氏(でいし)墓誌』と七世紀東アジアと日本」と題する国際シンポジウムが、東京・千代田区の明治大学駿河台キャンパスで開催された。袮氏一族の墓を発掘調査された西安市文物保護考古研究院の張全民氏と袮軍墓誌に関する論文を『社会科学戦線』に発表された吉林大学の王連龍氏を招聘し、明治大学の気賀沢保規教授、滋賀県立大学の田中俊明教授、國學院大學の金子修一教授、大東文化大学の小林敏男教授らが加わったシンポジウムは、さそかし有意義なものだっただろう。

■ 残念ながら、筆者は所用でシンポジウムに参加できなかった。後日、シンポジウムのレジメを有償でもよいから分けて貰えないかとメールで依頼したら、明治大学東アジア石刻文物研究所から郵送で送っていただいた。レジメを一読して、マスコミ報道では知り得なかった貴重な情報のいくつかを知ることができた。そのいくつかを以下に付記しておく。

■ 先ず、『百済人袮氏墓誌の全容とその意義』と題する気賀沢教授のレジメには、袮軍、袮寔進、袮素士、袮仁秀の4人の墓誌の誌蓋と誌石の拓本が付されていた。これらは「日本」国号の研究のみならず、古代朝鮮半島と中国大陸との関係や,往来移住した移民たちの動向を研究するための第一級史料であり、貴重なものとなろう。

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■ 『「袮軍墓誌」と「日本」国号問題』と題する王連龍氏のレジメで、氏は重要な指摘をしておられる。

・墓誌には"官吏が銘を作る"と明記されていることから、袮軍墓誌の「日本」などの内容の記述は、時の政府の姿勢を代表している。つまり、「日本」という国号は儀鳳3年(678)の時点で唐朝で公認されていた国号である。

・中国の歴史文献に記された「日本」国号に関する記載を総合的に分析すると、『新唐書』巻220日本伝の記事が最も合理的である。

そこには、「咸享元年(670)、使を遣わして高麗を平らげたことを賀す。後稍く夏の音を習い、倭の名を悪みて、更めて日本と号す」とある。

この朝貢記事は『日本書紀』の天智天皇8年(669)12月に河内直鯨(かわちのあたいくじら)などを唐に遣わしたという記述や『唐会要』巻99「倭国」にある”咸享元年(670)3月に使を遣わして高麗を平らげるを賀す”という記述に該当する。

したがって、670年の唐の高句麗平定を慶賀するために唐に派遣された使節が、国号の変更を報告したことになる。


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次に、「似由余之出戎、如金碑之入漢。」という典拠について、すでに指摘されたように、「由余が西戎を出て秦に仕えることに似て、金碑(金日碑) が北秋を出て漢に入ることの如く」との意味である(董延寿、越振華、2008年、王連龍、2011年)。

由余という人物は、『史記・秦本紀』に見られる。

金碍という人物はまた金日碑、日碑とも呼ばれる。『漢書・ 金日碍伝』の中に詳しく記されている。

この二人は異域の出身者であるが、秦、漢に仕え、才能によって官職を授けられ、賢明の君主を補佐 して、国家を経略した功績を持っている人物である。

広弘明集』巻十四「耕惑」に「夫由余出自西戎、輔秦穆以関覇業。日硝生於北狄、侍漢武市除危害。」とある。

ちなみに、『祢寒進墓誌』にも「宣与夫日硝之輩、由余之毒、議其誠績、較其優劣者失。」とあり、『扶鈴隆墓誌』に「比之秦室 、則由余謝美。方之漢朝、則日揮慨徳。『黒歯常之墓誌』に「恭聞日硝為漢之牌、亦有里実為秦之嫌。」とあるように、唐に降伏し朝廷に仕える百済人の墓誌には、この用例はよく見られる。

ちなみに、『祢素士墓誌』に「休屠侍漢、角里違秦。」とある。この休屠とは金日硝のことである。

『漢書・金日硝伝』に「金日樺、字翁叔、本旬奴休屠王太子也。」とある

祢軍を百済王義慈を脅迫して唐に帰順させた祢植と比定する王連龍氏は、恐らくほかの百済人墓誌に記されているこの典拠を見落としたのであろう

以上のことから、この典拠の文意は、祢軍が百済から唐に入り、仕えたことは「由余の出戎に似て、金砲の入漢の如く。」と理解する。

そして、「於時、日本鈴礁、披(拠) 扶桑以遁訴。風谷遺目亡、負盤桃市阻固。」という典故について、すでに指摘があるように、「扶桑」は日本国の旧称呼と思われることから、「日本」の二字についても日本国号のことを指すと見なされている(王連龍、2011 年)。

けれども「日本」と対応して使われる「風谷」は国の称呼ではない。「日本」を国号と考えるのは、文章構成上は無理があろう。

最近、東野治之氏は、「風谷」という用語は風神即ち箕伯と関係があり、箕子朝鮮 の都王険城 (現在の平壌) に箕子の墓があるから、高句麗を指す言葉であって、「日本」は百済を指す言葉であろうと指摘している(東野治之、2012年)。

王連龍氏は、「扶桑」という言葉が唐代の詩文に見え、日本国と関連していることを根拠に、「日本」を日本国号と理解した。

確かに、「扶桑」はしばしば唐代の詩文に現われ、日本国と関連しているが、そのほとんどは八~九世紀の唐詩にみえるものである。

これらの「扶桑」がたとえ日本を指すとみなしでも、七世紀までは遡れない

しかも「扶桑」は新羅・高句麗を指す場合も見られるから、決して日本国の意味だけに拘束されない。

そもそも「扶桑」は、日の出でる処(東方) を意味し、そこから東方の朝鮮半島と倭国(日本列島) が仮想的な扶桑国という認識・理解が誕生したとみられるo

扶桑」が明確に日本を指す用語となるのは宋代であろう。

しかし、宋代の時でも、「扶桑」は日本国を指す言葉としてはまだ定着していなかった。

中国少林寺に現存する『淳拙和尚碑 j 039 2年立) には「扶桑沙門徳始撰」とあり、日本僧徳始は自ら扶桑の僧侶と記している。

おそらく中国における日本国の称呼としての「扶桑」は、元明時代に中国に渡った留学僧によって伝わり、受け入れられたものであろう。

つまり、扶桑=日本国という呼び方は、まずは日本で登場したと考えられるのである。

また、盤桃(播桃) も東方の地名・園名としては古くから認識されていて、日の出づる所を指す言葉である。

したがって、「盤桃」という言葉は、「扶桑」だけではなく、日の出づる所、即ち「日本」の対句として使われていると思われるO

さらに、風神箕伯の国とは、遼州(箕州、現在の山西省太原市の西) にあり、高句麗ではありえない。

風丘」は「青丘」と同じく、朝鮮半島の高句麗と百済を指す言葉であるが、「風谷」とは「風丘」と同じ意味であるかどうか今は判断できない。

また「日本」と対句となっている「風谷」は、「日の出づる処」を指す「陽谷」と同じ意味で、曲目夷と同じく朝鮮半島の百済を指すと考えられる。

ちなみに、東野氏は「日本」には新羅を指す用例もあると指摘したが、新羅人に送った唐詩にある「日本」二字は、もともと「日東」とある可能性が高い。

管見のかぎり、「日本」が百済を指す用例は見当たらない。

ところで、唐と高句麗との戦いは、主に乾封元年(666)九月以降に展開した。この当時、唐は倭国のことについて無関心ではいられなかったはずである

したがって、「日本儀喉」という表現も、白村江の戦いに敗北した倭国を指す可能性も否定はできないだろう。

ちなみに、「海表」「海東 」「東旗」は唐代の人々がよく使ったが、「海左」「獄東」などはあまり使われない表現で、これらの言葉を発した者(祢軍基誌銘原資料の提供者) は海の辺りにあったと考えられる。

そして、この「海の辺り」とは百済を指すと考えるべきである。

つまり、「日本」国号は朝鮮半島(特に百済) に由来する可能性がある。

ともかく、史料上は「日本」の二字が唐において日本国号として公式に認められたのは八世紀初頭であって、『祢軍墓誌』の「日本」は文章構成上も国号とは考えられない

ただし、国号「日本」の由来と関係がある可能性までは否定できなし、「日本」の二字がどのようにして国号となり定着したのかは、今後、改めて詳細な検討が必要である。

以上のことから、この典拠の文意は、「時に、日本の飴喉、扶桑に拠りて以て訴を連れ、風谷の遺目亡、盤桃を負いて阻固す。」と理解すべきである。


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