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祢軍墓誌の碑文解釈 2011/12/10 <はじめに> 朝日新聞(2011年10月23日)のネット記事を下記に抜粋します。 「中国の古都・西安で見つかった墓誌(故人の事績を刻んで墓に収めた石板)に、「日本」との文字があることを紹介する論文が中国で発表された。 墓誌は 678 年の作と考えられるとしている。 日本と名乗るようになったのはいつからなのかは古代史の大きななぞ。大宝律令( 701 年)からとの見方が有力だったが、墓誌が本物ならさらにさかのぼることになる。 ・・・祢軍(でいぐん)という百済(くだら)人の軍人の墓誌で1辺59センチの正方形。884 文字あり、 678 年 2 月に死亡し、同年10月に葬られたと記されている。 百済を救うために日本は朝鮮半島に出兵したが、 663 年に白村江(はくそんこう)の戦いで唐・新羅(しらぎ)連合軍に敗れる。 その後の状況を墓誌は「日本餘?據扶桑以逋誅」と記述。 「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり、罰を逃れている」という意味で、そうした状況を打開するため百済の将軍だった祢軍が日本に派遣されたと記していると気賀沢教授は説明する。」 以上ここで問題にしたいのは、碑文の「日本餘?據扶桑以逋誅」に対する気賀沢教授の解釈である。 気賀沢教授の解釈 碑文の「日本餘?據扶桑以逋誅」を原文に従って読めば、「日本の餘?は、扶桑によって、もって誅からにげる。」となる。 「扶桑」は、中国神話で東方にある太陽を生む樹と言われ、同じく東方にある日本をも指す。 「據」は、「依也。引也。援也。拒守也。」(『康煕字典』)。 「逋」は、「亡(にげる)也」(『説文』)。 「誅」は、「小國敖、大國襲焉、曰誅。<小国おごり、大国これを襲うことを誅という>」(『晋語』)、「罰也」(『玉篇』)。 しかし、気賀沢教授の「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり」という解釈はどこから出てくるのか? また「扶桑」を「日本」とすれば、「日本に依って」となり、意味は「日本に守られて」となる。これでいくと語句先頭の「日本」と「国」の意味の詞が重複する。 気賀沢教授はこの「日本」の文字を「国号」と考えているようだが、「扶桑」に対応させた「方位」としての「日のもと」と読んだ方が「国」の重複を避けられるのではないか。 語の意味としては「東方」となり、語句の解釈は「東方にいる餘?は、日本に守られ、罰から逃げた。」となる。 「祢軍」とは 次に「餘?」とは誰かが重要になる。 ここでの「餘?」は、唐側から見て、ある時期に「罪」を犯し「誅(罰)」の対象となったものである。 「餘?」とこれが「誅」の対象となった原因や時期などを特定するには、墓誌全文と関連史料とを見ていく必要がある。 先ず墓誌の主人公である「祢軍」であるが、『日本書紀』にも彼の記事が下記のようにある。 『日本書紀』天智天皇四年(六六五)九月壬辰《廿三》 「唐國遣朝散大夫沂州司馬馬上柱國劉徳高等〈等謂右戎衛郎將上柱國百濟禰軍。朝散大夫上柱國郭務○。凡二百五十四人。七月廿八日至于對馬。九月廿日至于筑紫。廿二 2日進表函焉。〉」 ここの「右戎衛郎將上柱國百濟禰軍」が「祢軍」である。 時期としては百済が「唐、新羅連合軍」により滅亡に追いやられた時期にあたり、その中の「白村江の戦い」とは、「日本、百済残党連合軍」と「唐、新羅連合軍」が対峙した一つの戦いである。(結果は「日本、百済残党連合軍」の惨敗に終わる。) 祢軍は、その碑文冒頭に「公諱軍、字温、熊津蝸夷人也。」とあるように百済の人である。 続いて「其先與華同祖、永嘉末、避亂適東、因遂家焉。」とあり、その祖先は、西晋末の時に「永嘉の乱」をのがれてきた中国人であると言う。 そして百済に臣下として仕え、「曾祖福、祖譽、父善、皆是本藩一品、官號佐平。」とあるように、曾祖父、祖父、父が「佐平」と言う百済で最高位の官職を務めた家柄でもあったと記す。 『海外国記』には「・・・百済佐平禰軍」とあり、彼自身も「佐平」の地位にあったものと思われる。 次に、「去顯慶五年( 660 年)官軍平本藩日、見機識変、杖劍知歸、似由余之出戎、如金?之入漢。」 <去る顯慶五年( 660 年)、官軍(唐軍)本藩(百済)を平らぐ日、機を見て変を識って、剣を杖つき、(唐に)帰すことを知る。(これ)由余の戎を出でることに似、金?の漢に入るが如し。>と碑文にあります。 「由余」は、西戎の人だが先祖は中国人。「金?」は、元匈奴の人だが後に漢の臣下となる。 顯慶五年( 660 年)とは、百済王(義慈王)とその王子(扶餘隆)が、唐に降り「百済王朝」が滅亡した年で、日本では斉明天皇六年にあたる。 碑文での「官軍」とは「唐軍」であり、それに抵抗した「百済」は「賊軍」扱いと言える。 そして「聖上嘉嘆、擢以榮班授右武衛?川府析衝都尉。」<聖上(唐の高宗)がほめ嘆じて、あげるに、栄班をもってし、右武衛?川府析衝都尉を授ける。> と彼は唐の官職を受け、唐の臣下になったことを記す。 つまり、祢軍は百済を裏切り唐軍側に寝返ったことになる。 この文言の直後に「于時日本餘?、據扶桑以逋誅。風谷遺氓、負盤桃而阻固。」と今回ここで問題にする語句がある。 原因と時期碑文に「于時日本餘?・・・」<時に、日本の餘?・・・>とあるので、時期としてはこの顯慶五年であろう。 この時期の『日本書紀』での記述は、『日本書紀』斉明天皇六年(六六〇)九月癸卯《五》 「百濟遣達率。〈闕名〉沙彌覺從等來奏曰。〈或本云。逃來告難〉今年七月。新羅恃力作勢不親於隣。引搆唐人。傾覆百濟。君臣總俘、略無?類。・・・於是西部恩率鬼室福信赫然發憤據任射岐山。 〈或本云。北任叙利山〉達率餘自進據中部久麻怒利城。〈或本云。都々岐留山。〉 各營一所誘聚散卒。兵盡前役。故以庁戰。新羅軍破。百濟奪其兵。既而百濟兵翻鋭。唐不敢入。福信等遂鳩集同國。共保王城。國人尊曰佐平福信。佐平自進。 唯福信起神武之權。興既亡之國。」 『日本書紀』巻二六斉明天皇六年(六六〇)十月「百濟佐平鬼室福信遣佐平貴智等。來獻唐俘一百餘人。今美濃國不破。片縣二郡唐人等也。 又乞師請救。并乞王子余豐璋曰。唐人率我螯賊。來蕩搖我疆場。覆我社稷。俘我君臣。 〈百濟王義慈。其妻恩古。其子隆等。其臣佐平千福國。弁成。孫登等。凡五十餘。秋於七月十三日。爲蘇將軍所捉。而送去於唐國。蓋是無故持兵之徴乎。〉 而百流國遥頼天皇護念。更鳩集以成邦。方今謹願。迎百濟國遣侍天朝王子豐璋。將爲國主。云云。 詔曰。乞師請救聞之古昔。扶危繼絶。著自恒典。百濟國窮來歸我。以本邦喪亂靡依靡告。枕戈甞膽。必存拯救。遠來表啓。 志有難奪可分命將軍百道倶前。雲會雷動。倶集沙喙翦其鯨鯢。嘔彼倒懸。宜有司具爲與之。以禮發遣云云。 〈送王子豐璋及妻子與其叔父忠勝等。其正發遣之時。見于七年。或本云。天皇立豐璋爲王。立塞上爲輔。而以禮發遣焉。〉」 (長文となるので、この読みは岩波文庫などの『日本書紀』注釈本を参照されたし。) ここに、百済が滅亡し、その王族の一員である福信が百済残党のリーダーとなり、唐、新羅連合軍に抵抗活動を続け、日本側に、日本にいる「王子豐璋」を迎えて百済王とし、亡国を復興することや援軍を求め、斉明天皇がそれらを決定するまでが記述される。 つまりこの時期は 660 年であり、 663 年の「白村江の戦い」の前と言える。 また唐側史料と言える『資治通鑑』「巻二百唐紀十六高宗上之下」に、「主上欲滅高麗、故先誅百済」とあり、その原因と「誅」の対象は「百済」であることが簡潔に述べられる。 「百済」と言ってもその具体的対象は人民ではなく、勿論国の主権者たる王や王族やそれに忠誠を誓う臣下達である。 「餘?」とは先に引用した『日本書紀』のところに(赤字部分)、「傾覆百濟、君臣總俘、略無?類。」<百済をかたぶけ覆し、君臣みなとりことなり、ほぼ?類(のこれるたぐい)無し。>とあり、碑文の「餘?」とは、百済の「君臣」の残族であると推定できる。
結論 結論としては、碑文の問題語句の「時期」は、 660 年斉明天皇六年であり、「餘?」とは、当時日本にいた百済の王族や臣下達である。 よってその解釈は「時に、東方にいた百済の王族やその臣下達は、日本に守られ、罰をのがれた。」であり、朝日新聞に掲載した気賀沢教授の解釈は恐らく誤読であろう。 余談 今回の墓誌碑文で個人的に興味を抱く部分は、問題にした部分ではなく、「遂能説暢天威、喩以禍福千秋、僭帝一旦称臣。」<ついによく天威を説きのべ、喩えるに禍福、千秋(将来)をもってすれば、僭帝も一旦に臣を称す。>と言う文言である。 ここの「僭帝一旦称臣」の「僭帝」はマザコンと思える天智帝か。 ※この記事に関する問い合わせ先: mkpo33@auone.jp |
次の引用文は、応請矩明氏の「百済人将軍・袮軍(でいぐん)の墓誌に記された日本という国名」からの抜粋です。 |
日本という国号が正式に制定された時期については、今だに複数の説がある。 主な説としては、遣隋使を派遣した推古天皇の時代、壬申の乱に勝利した天武天皇の時代、あるいは大宝律令が制定された大宝元年(701)とする説などだ。 最近では、701年8月3日に完成した大宝令公式令詔書式において初めて用いられたとする説が有力である。 百済の将軍・袮軍が死亡した儀鳳3年(678)は我が国の天武天皇7年にあたる。 もし袮軍の墓誌に記された「日本」が我が国のことを指すのであれば、天武天皇以前に正式な国号として東アジア世界で通用していたことになる。 その事に着目した朝日新聞は、昨年(2011)の10月23日(日)の朝刊で、王連龍氏の論文に掲載されていた拓本の一部を紹介し、墓誌が本物ならば「日本」の呼称の最古の例が通説よりもさかのぼる時期に金石文で確認されたことになると報じた。 墓誌に記された「日本」は国号か、それとも・・・ さて、墓誌の問題の箇所である。吉林大学の王連龍氏が入手された墓誌「大唐故右威衛将軍上柱国袮公墓誌銘」の拓本には、十行目の中程に「于時日本餘●(口偏+焦、しょう)拠扶桑以逋誅(時において日本の餘●、扶桑に拠りて誅を逋る)」と記述されている。 明治大学の気賀沢保規(けがさわやすのり)教授は、この箇所を「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり、罰を逃れている」と読まれた。 「日本」を当時の我が国の国号と理解した上での訓読である。「時に」が白村江の戦いのことだとすると、「日本餘●)」とは本国から百済救援に来て百済に留まっている日本軍の残党を表しているとの解釈だ。 もっとも、墓誌に記された「日本」は当時の我が国を指すのではなく、単なる「日の本」すなわち東方を意味するとの解釈も可能のようだ。 奈良大学の東野治之教授は、”日本”は中国から見て日の出るところ、すなわち日の本、極東を意味し、「日本餘●」は”暗に滅ぼされた百済の残党”を指しているとコメントしておられる(2012年3月7日付け読売新聞)。 袮軍墓誌に記された「日本」は、我が国の正式な国号か、それとも単に東方を意味する一般用語なのかは、専門家の間でもこのように意見が分かれている。 大宝律令で国号が正式に制定されたとする立場からすれば、儀鳳3年(678)の時点では日本という国号は存在しないことになる。 だが、大宝律令以前にすでに制定されていたとする立場からすれば、儀鳳3年の時点で墓誌銘にこの国号が用いられていても不思議はない。 『三国史記』(1143年執筆開始、1145年完成、全50巻)新羅本紀第六の文武王十年(670)十二月の条には、日本の国号変更に関する記述がある。 ”倭国、更(あらた)めて日本と号す。自ら言う、日出ずる所に近し、以て名となす”と記されている。 我が国の専門家はこの記述の信憑性をあまり信用していないようだ。中国史書からの流用の可能性があるからだ。 しかし、王連龍氏はその論文の中で、儀鳳3年(678)に亡くなった袮軍墓誌に「日本」とあるからには、この『三国記』の記述を史実と認めて良いとされた。 そして、袮軍の墓誌に記された「日本」を、734年に西安で病死した留学生井真成(せいしんせい)の墓誌に見える「日本」より早い金石文の具体例とされた。 この王氏論文が「社会科学戦線」7月号に記載されて3ヶ月も経って、事の重要性に気づいたのか、朝日新聞は昨年の10月23日になって論文の内容を取り上げ、明治大学の気賀沢保規教授の上記のようなコメントを掲載した。 気賀沢教授は、この箇所は白村江の戦い以後の状況を打開するため、百済の将軍だった袮軍が日本に派遣された背景を示していると言われる。 気賀沢氏は中国史が専門の明治大学の教授である。2年前には、河南省登封市の法王寺で見つかった「円仁」の名を刻んだ石板から採取した拓本の鑑定を依頼されている(2010年8月27日付け橿原日記参照)。 王連龍氏や気賀沢教授の理解の仕方が正しいならば、「日本」という国号が金石文で確認された最古の例となる。 この場合、大宝元年(701)の大宝律令で制定し、翌702年に唐側に国号の変更を願い出て、武則天の承認を得て初めて正式な国号となったとする従来の通説は破棄されることになる。 一部の歴史学者は、冊封体制が敷かれていた当時の中国文化圏では、国号は宗主国である中国の承認を受けるものであり、勝手に決めて勝手に使うことなど許されなかったと説いてきた。 そのため、白村江の戦いに破れ669年に謝罪使を派遣して以来、実に33年ぶりに派遣された第7次遣唐使は、国号変更の承認伺いをその目的の一つとしたという。 粟田真人(あわたのまひと)を執節使とするこの遣唐使節が大陸に到着したとき、12年前に武則天が帝位に就き、唐に変わって新しく「武周」王朝を開いており、その絶頂期にあった。 粟田真人は武則天にいたく気に入られ好感をもって迎えられた。麟徳殿の盛宴に招かれたのみならず、司膳卿という名誉職まで授けられた。 そんなこともあってか、武則天はこころよく国名変更を承認したという。唐の張守節が開元24年(736)に撰した『史記正義』には「武后、倭国を改めて日本国となす」とある。 当時の我が国は白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた敗戦国であっても、唐の冊封を受けていたわけではない。 何も宗主国の承認がなければ国号を変えることができなかったわけではあるまい。白村江の敗戦で飛鳥から大津に遷都して即位した天智天皇はさまざまな国政改革を進めている。 壬申の乱に勝利した天武天皇もさまざまな制度改革を行っている。両天皇の治世のいずれかの時期に、国号変更が実施された可能性は否定できない。 筆者は、国号をなにも大宝律令による制定にこだわる必要はないと考えている一人である。 『三国史記』は新羅本紀の文武王10年(670)12月の記述以外にも、新羅本紀の孝昭王7年3月の記述にも、「日本国使、至る。王、崇礼殿に引見す」とある。 孝昭王7年は西暦698年に当たり、すでに対新羅外交では「日本」という国号が使用されていたと見る。 他の例証も『日本書紀』の中にある。『日本書紀』の記述には、高句麗の僧・道顕が天武朝の末頃に撰述されたと推定されている『日本世記』という書籍が引用されている。 通常、歴史家が別の書籍を引用する場合、そのタイトルまで変更するようなことはしない。 『日本書紀』の編者も例外ではあるまい。すでに、天武朝の頃には日本という国号が定着していた証ではないのか。 伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)が記した『伊吉博徳書』も『日本書紀』の斉明紀に何カ所か引用されている。 伊吉連博徳は斉明5年(659)に遣唐使の一員として唐へ渡り、たまたま我が国と唐とが戦争状態に入ったため一時抑留されるが、無事帰国した人物である。 『伊吉博徳書』では、斉明5年(659)7月30日、遣唐使は洛陽で唐の天子に引見したときの様子を伝えている。 その時の天子の言葉を「日本の天皇、平安にますや否や」とのたまふ、と記している。 こうした例から判断すると、国交を断絶していた唐(武周)への国名変更の連絡が遅れて702年になっただけで、それ以前の東アジア外交では「倭」に代わる「日本」を正式な国号として用いていたと見なすべきではないのか。 『三国史記』の文武王十年(670)の記述は、あんがい史実を伝えているのかもしれない。 --------------------------------------------------------------------------- ■ 去る2月25日、「新発見百済人『袮氏(でいし)墓誌』と七世紀東アジアと日本」と題する国際シンポジウムが、東京・千代田区の明治大学駿河台キャンパスで開催された。袮氏一族の墓を発掘調査された西安市文物保護考古研究院の張全民氏と袮軍墓誌に関する論文を『社会科学戦線』に発表された吉林大学の王連龍氏を招聘し、明治大学の気賀沢保規教授、滋賀県立大学の田中俊明教授、國學院大學の金子修一教授、大東文化大学の小林敏男教授らが加わったシンポジウムは、さそかし有意義なものだっただろう。 ■ 残念ながら、筆者は所用でシンポジウムに参加できなかった。後日、シンポジウムのレジメを有償でもよいから分けて貰えないかとメールで依頼したら、明治大学東アジア石刻文物研究所から郵送で送っていただいた。レジメを一読して、マスコミ報道では知り得なかった貴重な情報のいくつかを知ることができた。そのいくつかを以下に付記しておく。 ■ 先ず、『百済人袮氏墓誌の全容とその意義』と題する気賀沢教授のレジメには、袮軍、袮寔進、袮素士、袮仁秀の4人の墓誌の誌蓋と誌石の拓本が付されていた。これらは「日本」国号の研究のみならず、古代朝鮮半島と中国大陸との関係や,往来移住した移民たちの動向を研究するための第一級史料であり、貴重なものとなろう。 --------------------------------------------------------------------------- ■ 『「袮軍墓誌」と「日本」国号問題』と題する王連龍氏のレジメで、氏は重要な指摘をしておられる。 ・墓誌には"官吏が銘を作る"と明記されていることから、袮軍墓誌の「日本」などの内容の記述は、時の政府の姿勢を代表している。つまり、「日本」という国号は儀鳳3年(678)の時点で唐朝で公認されていた国号である。 ・中国の歴史文献に記された「日本」国号に関する記載を総合的に分析すると、『新唐書』巻220日本伝の記事が最も合理的である。 そこには、「咸享元年(670)、使を遣わして高麗を平らげたことを賀す。後稍く夏の音を習い、倭の名を悪みて、更めて日本と号す」とある。 この朝貢記事は『日本書紀』の天智天皇8年(669)12月に河内直鯨(かわちのあたいくじら)などを唐に遣わしたという記述や『唐会要』巻99「倭国」にある”咸享元年(670)3月に使を遣わして高麗を平らげるを賀す”という記述に該当する。 したがって、670年の唐の高句麗平定を慶賀するために唐に派遣された使節が、国号の変更を報告したことになる。 |
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