コラム

 

 当然のことながら、個々の研究者にとって、研究を行なう際の基本的な姿勢や考え方は様々であり、時にこのような研究者の研究の前提となるものを知っておくことは、彼等の研究そのものを理解するのにも大きな助けとなるものです。
 そこで、以下は、皆さんに、私の一連の著作等を読んでいただく際の、参考として、私の研究への姿勢・考え方を簡単にまとめてみました。関心とお暇のある方は、どうぞ。

1)研究の基本姿勢
(1999.7.20.)

2)研究対象としての朝鮮/韓国
(1999.8.10.)

3)アメリカから見た朝鮮/韓国
(1999.11.12.)

4)3年ぶりに見た韓国
「旅行者」としての視点から
(2000.5.26.

5)もう一つの朝貢国
沖縄からの視点
(2000.7.4.

6)通貨危機と外資とナショナリズム
(2000.9.4.)

7)「Newsweek」誌へのコメント
について
(2001.4.6.)

8)近代東アジア研究と我が愛読書
(2001.7.2.)

9)ソウルのインターネット事情と
「韓国的発想」
(2001.8.20.

10)研究という営みについて
(2004.6.20.

11)「読んでもらうこと」の難しさ
(2006.3.6.)

12)ある研究者への手紙
(2006.11.20.)

13)ある韓国研究者の「ありふれた」日常
(2007.2.9)

14)ごめいわくをおかけしています
(2007.8.20)

15)本が出ます

(2007.11.12)

16)実り多きオーストラリア生活
(2008.4.13.)

17)コンプレックスのある風景
(2008.9.17.)
18)「あとがき」も読んでくださいね(2009.11.6.)

 


1)研究の基本姿勢

 朝鮮/韓国研究、それも近現代のそれとなれば、多くの人が連想されるのは、例えば、従軍慰安婦問題や強制連行問題と言った、「日本の過去の責任」を巡ってのものだろうと思います。実際、近現代の朝鮮史研究をする研究者の中にも、それらを言わばライフワークとしている方も多く、私自身も、その意味を否定するものではありません。
 しかしながら、同時に、もし、地域研究が対象となる地域への「より良い理解」の為のものであるとするならば、当然のことながら、「過去」の、しかもその一部の事象のみを捉えても、当該地域の「全体像」を構成することはできません。また、「全体像」とは行かなくとも、一定の他地域と比較可能な枠組みを提供することもできないでしょう。
 後述するように、私自身は、そもそもが「近代」や「近代化」を考える為のケーススタディとして朝鮮/韓国研究をはじめたこともあり、自らの研究において、このような「他の地域と比較可能な」、言い換えるなら、何か特殊な存在としてではない、「当たり前の地域研究としての朝鮮/韓国研究」を目指しています。それ故、私の著作の中には、時に、「ガンディー」であるとか、「ラウレル」であるとか、「トルストイ」であるとかいった、著作で扱っている対象と「比較可能(と私が考える)」人物や事象の名前が頻繁に出て来ます。朝鮮/韓国史のそれとしては異色かも知れませんが、実際、我々朝鮮/韓国研究者が、「特殊だ」とか逆に「当たり前だ」と思っていることが、他国においてはそうではないことは極めて多く、我が国の朝鮮/韓国研究が「井の中の蛙」にならない為にも、このような視点は欠かすことができない、と考えています。


2)研究対象としての朝鮮/韓国

 以上のような基本姿勢からもわかるように、私は、そもそも朝鮮/韓国そのものを研究しようとして、朝鮮/韓国研究をはじめた訳ではありません。そもそもの私が、この「業界」に入ることになったのは、まだ学部生の際に、たまたまアメリカ旅行の帰りに立ち寄ったメキシコで、はじめて「貧困」なるものに触れた際の衝撃からはじまっています。この「貧困」の問題から、先進国・途上国間の貧富の格差の問題、そして、そこから進んでそもそもこのような現在の状況を産み出している、我々が生きる「近代」社会へと、私の関心は進んで行き、やがて、研究者を志すことになりました。
 しかし当然のことながら、大学院に進学して、本格的な研究を開始するまでには、そのようなおおざっぱな問題意識だけではなく、二年ないし、五年の間に、自分が具体的に何を研究して行くか、を決めなければなりません。その頃の私は、実は、この「近代」に対して、理論的な切り口から研究するか、それとも、地域研究を通じて事実面から研究を行なうか、さえ決めてなかったのですが、結局、所謂「難しい本」を根気強く読み続ける能力には欠ける私は、早々に理論研究への道を諦め、地域研究の道を選択することになりました。
 勿論、ここからでは、具体的にどこの地域をするか、ということを決定しなければならない訳ですが、当初私が考えていたのは「イスラム圏」でした。しかし、この自分の考えを当時の指導教官と相談した所、イスラム研究には卓越した語学力が必須だ、ということになり、学部入学の際にさえ、語学で苦労した私は、早々にイスラム研究者としての道を断念することになりました。
 朝鮮/韓国を研究する、というのは、そこから考え出した「次善の策」でした。朝鮮/韓国を選択した理由は、1)イスラムとは対象的に、語学の習得が楽であること(植民地時代の文献は日本語で済ませることさえ出来る)、2)資料が中国のそれほどは多くはなさそうだということ、3)日本での注目が高い割には政治学からの研究が少なく、競争が比較的少なそうだったこと、4)当時、たまたまゼミで読んだヘンダーソン『朝鮮の政治社会』(サイマル出版会)が面白かったこと、等があったのですが、今振り返ってみると、不確かな情報に基づいている上に、理由自身もどれもあまり真面目なものとは言い難く、こんな事でよく今日まで朝鮮/韓国研究者として生き残って来たものだと、思ってしまいます。
 しかし、同時に飽くまで「地域研究の一つ」と言う割り切った姿勢から、朝鮮/韓国研究をはじめられたことは、現在・過去、様々な利害や感情が入り交じり、客観的で冷静な観察が難しい朝鮮/韓国研究において、私自身にとっての一つの「武器」にもなっているのではないか、と思っています。
 尤も、とは言え、研究をはじめて既に10年が経過し、二度のソウル滞在も行なった後では、朝鮮/韓国は、私にとって公私ともにかけがえのない存在になっており、今後は学問的客観性と、かけがえのない存在としての韓国、とのバランスに注意することが一層重要になって来るかも知れません。


3)アメリカから見た朝鮮/韓国

 さて、このようにして始まった私の朝鮮/韓国研究ですが、この私の研究にとって、1998年8月末から翌1999年10月末までのアメリカ滞在は、極めて新鮮な経験であったように思います。勿論、その理由としては、Harvardという文字通り世界的な大学で、様々な研究者との交流を持てたこと、また、日本や韓国ではなかなか見る事のできない歴史資料に接することができた(その一部については、アメリカ国立公文書館所蔵 朝鮮半島米軍政期関連文書リスト(仮)としてこのサイトにも掲げておきました)ことを挙げることもできるのですが、それよりも新鮮であったのは、朝鮮/韓国研究、そして更には、朝鮮/韓国そのものの位置付けが、日本や韓国と、アメリカでは全く異なる、という至極当たり前の事実を、目の当たりにすることができたことでした。
 例えば、1999年の9月頃だったかと思いますが、HarvardのLaw Schoolに韓国の憲法裁判所長官が来て講演を行なったことがありました。憲法裁判所というのは、日本では馴染みの薄い組織なのでしょうが、韓国においては、日本での最高裁に当る大審院と並ぶ重要性を有する裁判所で、当然のことながら、その長官も、韓国においては、法曹界の一二を争う重鎮になります。しかしながら、この日、講演の会場に赴いて見ると、そこでの参加者は物見遊山気分で出かけた法律の門外漢の私を含めて、僅か15人程度、しかもその大半が、韓国からの留学生である、という散々たる状態でした。実際、アメリカにおける朝鮮/韓国への関心というのは、例えば、中国や日本のそれに比べて極めて低いもので、私の短いアメリカ滞在の間にも、上記のような経験をすることが幾度となくありました。
 勿論、このことが即ち、アメリカ人、就中、アメリカ人研究者の韓国理解が、日本人のそれより劣ることを意味するものではありませんし、実際、アメリカのトップクラスの研究者になると、そのレベルはやはり無視できないものがあるのですが、にも拘らず重要なことは、朝鮮/韓国がアメリカにおいて、このような小さな関心しか引くことのできない対象である、ということです。これは、更にいえば、アメリカをはじめとする世界の多くの国においては、朝鮮/韓国がそのような小さな重要性しか与えられないことは、寧ろ通常であり、このような点において、朝鮮/韓国研究は、本国である韓国においては勿論、その隣国として不可避的にこれとの密接な関係を持たねばならない日本とも、全く異なる重要性をもって、全く異なる形で現れる、ということでもあります。
 そして、見落とされてはならないことは、このような「朝鮮/韓国とのつながりの稀薄さ」が、時にあまりにもそれにコミットしがちな日本の研究とは、異なる、新たな視覚を生み出すことがある、ということでしょう。我々、「日本に基盤を置いて研究する者」が、このような全く異なり環境から生まれる研究を、如何にして上手く吸収してゆくか、今後、我々の課題となって行くのかもしれません。


4)3年ぶりに見た韓国 - 「旅行者」としての視点から

 ご報告がすっかり遅れてしまいましたが、去る2000年3月、久々に韓国に資料収集に行って来ました。実に、97年以来、3年ぶりの訪問で、これには神戸への異動や、アメリカ留学等により、韓国を訪れる時間を取ることができなかった、等の様々な理由があるのですが、ともあれ、89年にはじめて本格的に韓国を訪れ、そして、90年に大学院にて韓国研究を開始して以来、このように間をおいて韓国を訪れたのは、はじめてのことで、それ故、かなり久々に「いろいろな感慨を持って」この国を見ることができました。そこで以下、その際に感じたことを「研究者」としてではなく、一「旅行者」としての視点から、思いつくままに書いてみようと思います。
 まず、第一に今回の韓国訪問で最も驚き、印象を受けた場所は、かの「龍山電気商街」の変化でした。「龍山電気商街」とは、日本で言えば、東京の秋葉原や大阪の日本橋に当る町で、日本と同様、そこではコンピューター関係を中心に、様々な家電製品が売られています。勿論、この町のそのような性格自体は、3年前も今も大きく変わった訳ではないのですが、驚いたのは、そこにおける特にコンピューターのそれを中心とする「品揃え」が劇的に変化していたことです。具体的に言うと、3年前であれば、そこに並んでいたのは、多くは、金星や大宇と言った、所謂大手メーカーのコンピューターや、当時まだ存在していたワープロでした。勿論、当時においてもこの他に多くの「ショップブランド」のコンピューターも売られてはいたのですが、その多くは表通りや、電気街の中心部ではなく、寧ろ、「いかにもコンピューターに精通している人がいくような裏通り」でひっそりと売られていたような気がします。しかし、今ではこのような様相は見事に逆転し、今や、龍山の表通りを占領しているのは、甞ての大手メーカーのコンピューターではなく、様々なパソコンショップが自分たちで組み立てる「ショップブランド」のパソコン達であり、より正確には、未だ組み立てられる前の「パソコンのケース」達でした。当然のことながら、このことは、少なくともコンピューターの分野においては、甞ての大手メーカー中心の体制が劇的に崩れつつあり、逆に、極めて小さな資本で行なうことができる「ベンチャー」系の企業が韓国で生まれつつあることを意味しています。日本においては、嘗ては数多く存在していた「ショップブランド」が今日、逆に余り見られなり、大手メーカーの「廉価パソコン」が幅を利かすようになっていることを考えれば、両国の行く末について、考えさせられることが大きいように思います。
 龍山においてもう一つ印象深かったのは、甞てとは異なり、電気街においても「日本」を実感させられることが少なくなった、ということです。これはソウルの他の場所を歩いていても感じられたことなのですが、甞てであれば、電気街には日本製の電気製品が山とおかれ、また、明らかに日本製と見られるゲームソフトウェア(その多くは、日本語のままだった)で遊ぶ子供たちの姿を数多く見ることができました。しかしながら、今日、それらの多くは、甞てほどの勢いを失い、ある部分は韓国製や、アメリカ製に置き換えられ、また、日本製であっても、巧みに「韓国バージョン」へと作り替えられることにより、少なくとも表面からすぐには「日本のそれ」だとはわからなくなっています。言い換えるなら、今日の韓国においては、甞てほど「日本」を意識させられることが少なくなっている訳で、これが韓国人の今後の対日意識にどのように反映されてゆくのかは、実に興味深いものがあります。因みに、このような「日本の存在感の減退」は研究の世界にも及んでいるようで、今回お会いしたとある韓国の著名な日本研究者の方からは、「日本の勢いが振るわないから我々日本研究者はやりにくくて困る」という、お話までお聞きすることができました。
 また、これはよく言われることですが、97年の金融危機後の韓国の経済的復興は極めて目覚ましいもので、ソウルの町は、明らかに東京や大阪、そして神戸と比べて活気に満ちていました。道行く人々のファッションも年々洗練され、また、「リッチ」になっており、統計的数字に表われるよりも、遥かに韓国人の生活は豊かになりつつある、という印象を持ちました。


5)もう一つの朝貢国 - 沖縄からの視点

 去る5月、はじめて沖縄に行ってきました(因みに航空券+ホテル三泊込みで、一人22800円の旅でした)。言うまでもないことですが、朝鮮/韓国研究者にとって、沖縄は様々な意味で興味深い土地です。皆さん、よくご存じのように、沖縄は、前近代においては、「琉球王国」として、朝鮮やベトナムと並んで、数少ない「真面目な」の朝貢国の一つであり、多分に虚構とフィクションに満ちた「朝貢体制」の中で、その虚構が真の虚構に堕してしまわない為の、重要な役割を果たしていました。また、近代に入ってからは、同じく「日本」に新たに編入された土地でありながら、朝鮮が「植民地」として、基本的に大日本帝国憲法の適用を除外された土地であったのに対し、沖縄は、当初は朝鮮と同じように、様々な部分で帝国憲法の適用を除外されていた土地でありながら、最終的には、少なくとも法的には、「内地」としての地位を獲得し、最終的には「内地」の一部として扱われた土地でもあります。勿論、朝鮮/韓国人と沖縄人が、均しく、内地人から差別を受ける存在でありながら、台湾人や中国人を逆に、差別する対象として有する、大日本帝国における「日本人意識」構造の重要な位置を占めた存在であったことは、言うまでもありません。さらに言うなら、朝鮮/韓国が、第2次大戦後、独立の道を選んだのに対し、沖縄が紆余曲折を得ながらも、今日まで日本の一部であり続ける選択を続けていることも両者の重要な差違と言うことができるでしょう。
 このような沖縄を実際に旅してみて、印象深かったことが二つありました。まず、これ自身は予想の範囲だったのですが、沖縄における共通語の普及の程度です。以前から、沖縄出身の人 - 例えば、芸能人 - が、例えば、九州や東北、更には我々関西の人間とは異なり、非常に奇麗な共通語をしゃべることには注目していたのですが、今回の旅行でもやはりこのことが確認できました。韓国や台湾を訪れた人なら、一度は経験があるかもしれませんが、韓国や台湾でも、日本統治時代に教育を受けた世代は、その語彙はともかくとして、非常に「奇麗な」日本語を話します。甞て朴正煕が日本を訪れた際に、あなたは東北出身の佐々木社会党委員長より、日本語が上手だ、と時の佐藤総理に言われた、というのは、有名なエピソードですが、これまた有名な「方言札」の話ともあいまって、いろいろと考えさせられるところが大きいと思います。
 第二に印象深かったのが、これも月並みですが、首里城とそれを取り巻く琉球王朝の遺跡群(復元含む)でした。その規模も勿論注目に値したのですが、何よりも興味を引いたのが、前近代の琉球王朝における「日本」文化の影響の強さでした。当然のことながら、前近代の朝鮮/韓国、より具体的には、朝鮮王朝には、小銃等の限られた例外を別にすれば、そこに「日本」文化の影響を見ることは、ほとんど不可能に近く、逆にそこに一貫してみられるのは、「中国」文化の影響であり、また、それを懸命に模倣しようとする姿勢だろうと思います。これに対して、琉球王朝では、「琉球式」としか呼びようのないものが厳然と存在し、そこに明らかに「日本」から来たとしか考えられない要素が色濃く存在している、逆に言えば、同じ朝貢国でありながら、朝鮮より遥かに小さい琉球が、余り中国を意識することなく、儀式の建物等を立てているのを見て、改めて、「朝貢」とは一体何であったのか、考えさせられることが多い旅でした。


6)通貨危機と外資と韓国ナショナリズム

 8月、関西大学法学研究所のプロジェクトで、ソウル→高雄→台北と駆け足での調査に出かけてきました。台湾についてはまた、じっくりとお話するとして、今回の韓国での調査旅行は、何時ものそれとは違い、私自身にとってもよい経験となった、と思っています。まず何よりも、インタビュー調査という手法自身、私はこれまで断片的には用いたことはあったものの、今回の様にそれを前面に押し出した調査は、実は私にとって初めての経験でした。やってみてわかったことは、やはり通訳を交えてのインタビューは非常に能率が悪いということ(今回通訳を用いたのは、調査の中心となる先生方が韓国の専門家ではなかった為)、そして、にも拘らず、真面目にセッティングを行えば、意外と各々の分野の重要人物にあえるものだなぁ、ということでした。特に財界に関しては、今回、様々なパイプを使ったこともあり、非常に興味深い人々とお会いすることができ、日頃、古い時代を研究している私にとっては「生きた現実」に触れることができ、自らの研究を見つめなおす為にも、大変よい機会であったと思っています。
 肝心のインタビューはといえば、最も印象深かったのは、インタビューに応じてくださった方々がほぼ一致して、外資導入を好意的に受け止めている、ということでした。これは予想通りといえば予想通りではあったのですが、にも拘らず、これだけ立場の違う人々が、外資導入は最早阻止できない流れであり、これは韓国の将来に対して、必ずプラスの役割を果たすはずだ、と言うのを聞くと改めて、この国の「強い」はずのナショナリズムは一体何なのだろうか、という、疑問がふつふつと湧いてくることとなりました。
 この課題については、秋の政治学会でも報告するつもりなのですが、それが成功するかどうかは、本番の学会を見てのお楽しみ、ということにしておきましょう。


7)『Newsweek』誌へのコメントについて

 『Newsweek』が、私のところを通り過ぎていきました。どうもずいぶん反響があったようで、このホームページのアクセス数も飛躍的に増えています。とはいえ、どうも誤解も多いようですので、少し書かせていただくことにします。
 『Newsweek』からの数回のインタビューに対する私のかなり長文・長時間のコメントの中で、同誌が使用したのは、次の部分でした。日本語の正確な原文を書いておきますと、次のようになります。「日本人は、このように劇的に変化する韓国を、一面では『妬み』ながらも、他面ではそれを理解できずにいる。今日再び経済的苦境に苦しむ、『変革した韓国』と、『「変わらない日本』。日本という、『タイタニック』は、一度沈んで浮かび上がった韓国という「小船」を前に、ゆっくりと沈みつつあるのかもしれない。」
 文章を少し解説してみることにしましょう。まず、このコラムにも書いてありますとおり、97年の通貨危機以降、韓国の経済や社会が大きく変化したことは、否定のしようのない事実です。特に経済分野における変化は、劇的といってよいもので、よくも悪くもその方向性において、日本が意図しようとする改革の方向を先取りしている、ということができます。
 これは私の政治学会での報告用ペーパーをご覧になられれば、明らかかと思いますが、この背景に存在したのは、深刻な経済危機が韓国人の「小国意識」に作用して、極端なまでの危機意識を引き起こし、それが「個別利益」を主張する労働組合や財閥オーナーの勢力を圧倒して、改革を可能とした、ということです。自らが「小国」であり、国際社会からの支援を受けることなく「自国」を維持・発展させることが困難である、という前提に立つ韓国ナショナリズムにおいて、国際社会から突きつけられた「NO」の効果は余りにも大きく、それは韓国における政治・経済・社会構造を大きく変えることとなります。
 このような韓国と比べた時、日本との最大の違いは、それなりに「豊か」で、(韓国の通貨危機のような)極端な経済的破局に陥ることのなった日本においては、韓国に存在したような強固な「危機意識」を齎すことはなかった、ということです。このような「危機意識」の欠如は、韓国に比べて、自国に対する相対的に強い、自国を「大国」、より正確には、少なくとも潜在的にはアメリカと対抗することもできる能力を有する「大国」であると認識する日本ナショナリズムの特殊性とも相俟って、日本の改革を困難にしています。
 そして、このような改革の遅れが、少なくともビジネスや官界の一部に、「どうして韓国において(さえ)可能であった改革が、日本において不可能なのか」という苛立ちを齎しています。因みに、詳細は述べることができませんが、私のところに来る最近の実務の方々からの、依頼や要請は、ほとんどこの点に集中しています。
 ここまで来れば、私が、「日本という、『タイタニック』は、一度沈んで浮かび上がった韓国という「小船」を前に、ゆっくりと沈みつつあるのかもしれない。」と比ゆ的に書いた意味がおわかりだろうと思います。日本は、(当時の)最先端技術を集めて作られた「巨大な」高級客船であり、それ故誰もが、その船が沈むとは考えていません。しかし、タイタニック号がそうであったように、自己への過信は、時に針路を誤らせることになります。少なくとも、この「失われた10年」において、日本の自らの実力への過信と、それに伴う楽観が、改革の遅れを齎したことは間違いない訳で、少なくとも今の所、残念ながらわが国は、「沈みつつ」あります。韓国という「小船」の行方とは関係なく(私は必ずしもこれが成功すると思っているわけではありません)、これは日本にとってどうにかしないといけない問題な訳ですが、様々なレベルから聞こえてくる様々な情報から判断する限り、私はこの点について少々悲観的になっています。でもって、今回は、少し、刺激的なコメントを出して見た、ということになります。そりゃ、私だって、日本人として「変わって」欲しいですからね。
 もう一つ、これは私のコメントとしては出ていませんが、同誌へのインタビューにお答えして述べたのは、上述のような韓国の変化は、結果として、韓国の文化を「ハリウッド的」なわかりやすいものとすることとなり、日本にも浸透しやすいものとさせた、ということです。これが「シュリ」や「トンデムン」の成功を齎したことは否定不可能でしょう。但し、それは日本人が韓国を「尊敬している」とか「憧憬している」ということではなく、わかりやすくなった韓国のあるもの(質の高いもの)が、日本人にとって「韓国のもの」ではなく、「どこかの外国のもの」のとして受け入れやすくしているという背景があります。従って、最も大きな変化は、学生の多くが海外旅行先を決める際の判断理由に端的に表れているように、韓国を「特別な国」と考えるのではなく、(香港や、タイなどと同じような)「外国の一つ」と考える人たちが多くなってきた、ということになります。まあ、この点は、『Newsweek』では取り上げられなかった訳ですが。当然のことですが、あくまで同誌の記事は、同誌の意見に基づくものであって、全面的に私の意見と同じという訳ではありません。
 また、この数日間のインターネット上に現れた様々なこの記事、更には私に関する発言を読んで、改めて考えたのは、あいも変わらず、依然として、韓国を「特殊なもの」として意識している人が如何に多いか、です。歴史的経緯、或いは、韓国ナショナリズムの論理構造から言って、韓国人が日本を過剰に意識するのは、ある程度避けられないことだろうと思いますが、どうして日本人が、これ程までに自国が、「大国」であるアメリカや中国でもなく、「小国」韓国と比較されるのを嫌がるのか。日本と韓国の関係はゼロサムゲームではない訳ですから、これは日本人自身の問題として、大変興味深い問題だと思っています(この点については、岡本幸治編著『近代日本のアジア観』ミネルヴァ書房、所収の拙稿をもご参照ください)。
 最後に、もう一つ興味深いのは、韓国そのものに対する過剰意識同様、『Newsweek』だって唯の雑誌ですから、過剰に意識することはない、と思うのですが。


8)近代東アジア研究と我が愛読書

 忙しかったこの夏の仕事の一つとして、早稲田大学で行なわれた東アジア近代史学会に行って来ました。ご依頼を受けて、前日に三宮で市民講座の仕事を終えた後、夜行バスで東京に直行して、セッションの司会をこなす、というお仕事だったのですが、壇上で司会を行ないながら、また、午後はフロアで総合討論を聞きながら、どうもふに落ちない思いを捨てきれませんでした。帰りの新幹線の中でも、学会での先生方の様々なお話を思い起こしていたのですが、同様の思いはやはり変わらなかったように思います。
 問題は何か、ということになりますが、上記の学会は、その名の通り、東アジア、即ち、日本、中国、朝鮮/韓国、台湾等を研究する様々な国の様々な研究者が一同に会し、相互の研究の知見を交換しながら研究を深めて行く、為のものであり、また、私自身もこの学会のあり方には大きな共感を覚えています。しかしながら、歴史研究に限らず、ある地域を研究する研究者は、どうしても自らが研究する地域に愛着を持ち過ぎ、その結果、自らの研究する地域の枠組み、そのものを恰も自明なものであるかのように看做してしまう傾向があります。しかし、言うまでもなく、国民国家同様、歴史上様々に存在する如何なる地域も、自明・不変ではありません。実は、今年の東アジア近代史学会は、満州事変を巡ってのものだったのですが、正に東アジアにおいてそのことを最も典型的に示す旧満州を巡る貴重な機会でありながら、多くの報告は、その点を見過ごしてしまっており、それ故に、議論が全くかみ合っていなかったように思います。
 重要なことは、結局、東アジアにおいてさえ、今日のような形で、日本、中国、朝鮮/韓国の枠組みが最終的に定まったのは、1945年以降の話であり、それ以前には、実は、「日本人」そして、その影響を受けて「朝鮮人」が何かであるかさえ、明確ではありませんでした(その意味で、山室先生のご報告は、さすがにポイントをおさえておられたと思います)。「中国人」については、今日までそれが論争の種であることは余りにも明らかですし、「台湾人」や「台湾」については一層そうでしょう。にも拘らず、時に研究者は、そのことを無視し、恰も、今日と同じ形で、これらの「国」や「国民」が存在していたかのような、幻想の上に議論を組み立てる傾向があり、時にそのことは、膨大な資料を駆使しながらも、その結果個々の研究者が描き出す歴史像を実際の過去とは著しく乖離したものとしてしまいます。実際、このような当時の東アジアの状況を理解しなければ、孫文や毛沢東、蒋介石は勿論、李承晩や朴正煕、更には、1945年を取り巻く時期の日本の政治指導者の「苦悩」や「試行錯誤」は理解できない、と思います。
 少し脱線になりますが、仕事を大量に抱えて忙しい時期には、それとは直接関係ないことをやりたくなるものでして、この1ヶ月余りの間、私は、自分の研究とは凡そ関係ない、ラピーエル&コリンズ『今夜、自由を』(早川文庫)を、寝る時間を削ってまで、読んでいました。実は、この本は、私が研究者となることとなった大きなきっかけの一つでもある、学部二回生時の、2ヶ月に及ぶインド・バングラデシュ旅行の際に、カルカッタの古本屋で出会った本なのですが、実に10数年ぶりに今度は翻訳で読み直してみて、改めて、いろんなことを考えさせられました。勿論、その中には、「独立闘争により自力での宗主国からの解放を果たしたインド」と「日本の敗戦により上から解放を与えられた韓国」の対比もあるのですが、しかしながら、より印象的であったのは、この二人の著者による、当時の状況に対する描写の見事さであり、また、そこで生き生きと描かれる、魅力あふれるインド独立・分断を取り巻く人々の姿でした。
 研究者、特に昨今の研究者は、「理論的整理」や、「新資料発掘」に重きを置き、また、そのように我々も大学院生に指導をしています。勿論、それはある分野における学問を発達させ、また、相互に理解可能にする為に欠かせないことではあることは事実です。しかしながら、もし、ある学問、特に歴史研究が、過去や特定の事象のある部分を再現し、現在の我々に理解可能な形で、しかも何らかの「内容」をもったものとして提示されるべきものであるとするならば、我々はもう少し、「学問的な決まりごと」の枠をも外れた「発信力」を持たなければならないのかも知れません。その為にはラピーエル&コリンズほどではないにせよ、我々ももっと「筆の力」をつける必要があるのかも知れません。
 それは研究者の仕事ではないし、研究者にはそのような能力は必要でない。多分、それが正しいのでしょう。しかし、我々が何時までも噛み合わない、そして、現在からも過去からも浮き上がった議論をしているだけなら、我々はいつしか「聴衆」を失ってしまうことになるでしょう。研究論文や専門書も、それが作品である限り、誰かに読まれ、評価されることが必要です。一般の方に理解されることが難しくても、せめて隣接する分野の人間にはわかるもの。そのようなものを努力して書き、報告する。そのことは、やはり、必要であるように思います。「聴衆」は努力して獲得するべきものであり、自然に集まるものではありません。
 シューベルトは生前には評価されなかったかもしれません。しかし、それはシューベルトの作品が多くの人に理解されなかったことを、意味する訳ではありません。政治学研究の、歴史研究の、地域研究の、そして、その他の様々な「専門的」研究の枠を超えて、より多くの人間に理解されるものを。もう少し、この方向で努力してみたいと思っています。

*ラピーエル&コリンズには、他も『さもなくば喪服を』(スペイン内戦)や『おお、エルサレム』(イスラエル独立)、等、優れたノン・フィクション作品があります。是非、ご一読を。


9)ソウルのインターネット事情と「韓国的発想」


 韓国に来て、早くも一ヶ月になりました。私にとっては、92年、96年、に続いて三回目の滞在になる訳ですが、今回韓国に来て印象的なのは、やはり、インターネットの劇的な普及でしょう。日本でもよく知られているように、この分野においては、韓国は日本に先んじている訳ですが(とはいえ、昨今の日本のブロードバンド普及速度を考えると追いつくのは時間の問題でしょう。こういうのは、ようは、普及してしまえば終わりですからが)、現在私がお世話になっている高麗大学でも、研究室は勿論、宿舎にまでもれなくLANが使い放題の状態で来ています。町にはずいぶん前から、「PC房」と言うインターネットカフェが文字通り、あちこちにありますし、インターネット接続携帯電話の普及も進んでいます。実際、e-superと呼ばれる、インターネットでの食品や生活雑貨をも含む、通信販売も普及していますし、インターネットの生活への浸透度は、ひょっとするとアメリカ以上かもしれません。
 これは快適だ、しかし何故これほど急速に(日本におけるNTTの問題はさておき)、と思っていたのですが、暫くしてなるほど、と思うようになりました。というのは、実はこの国では、日本では考えられないことですが、かなり頻繁にLANにトラブルが起こり、しかも例えば、金曜日の夜に起こった場合には、月曜日の朝まで復旧しない、などということが、頻繁にあります。私も、神戸大学ではネットワーク関係の委員を幾つかしているのですが、日本ではこういうトラブルが起こった場合には、ひょっとするとシステムに重大な問題が起こっているかもしれませんし、また、ネットワーク上でデータを共有するなどして研究その他に使用しているケースも多いので、直ちに復旧作業に従事することになります。考えて見れば、あるシステムを作る、という場合、特にLANを普及させる、なとどいう場合には、単純にあちこちにハブを置いて、ケーブルを張り巡らせる、というだけなら、(予算さえあれば)別段大変な作業ではありません。重要なのは、寧ろ、そうして作り上げたシステムを、如何にして安定的に機能させるか、であり、そちらに膨大な人力と費用がつぎ込まれることになります。言葉を変えて言えば、多くの場合において、問題は「初期費用」よりも、寧ろ、「ランニングコスト」だということになる訳です。
 でもって、韓国ではこの「ランニングコスト」を徹底的に省いた状態でインターネットを普及させた。なるほど、これなら確かに「できる」訳で、些か極端な例ではあり、とてもそこまではできないにせよ、様々な意味で「コストの高い」我が国としては、そろそろ「完璧なサービス」だけではなくて、「安かろう悪かろう」のサービスを利用することも考えないといけないのかもしれません。考えて見れば、大学や企業ならともかく、一般家庭向においては、インターネットが止まったから大変なことになる、ということはない訳ですから。
 考えて見れば、未だに停電があったり(停電用の巨大な蝋燭が売ってます)、雨がふったら地下鉄が水没したり、より極端な例としては、ある日突然老朽家屋が崩壊したり、考えて見れば、韓国は様々な意味で、その経済的発展度に比べて、「ランニングコスト」を節約した社会構造になっています。アメリカだって、日本と比べればそういう部分があるでしょう。それをいろいろ言うことは簡単なのですが、ともあれ我々はそういう相手と様々な分野で競争をしている、ということを忘れてはならないと、思います。世の中には「完璧にしなくてよい仕事」というのはたくさんありますし、そもそも「完璧な仕事」が真に必要とされる部分の方がどの程度あるのかは、大きな疑問です。「つぶれても良いもの」「90%動いていれば十分なもの」「時間どおりに配達されなくても支障のないもの」、そういった我々の生活の中で大部分を占めている部分についても、他国と競争したければ、我々はもう少し「手を抜く」ことを考えないといけないのかもしれません。


10)研究という営みについて


 月日の経つのは早いもので、このコラムに文章を書くのは実に3年ぶりになってしまいました。その間に第二子が生まれ、大学も「独立行政法人」なるものへ移行するなど、私を取り巻く環境も大きく変わってきました。
 そのような変化の中の一つに、最近、マスコミ関係の仕事、特に新聞や雑誌からの執筆依頼がずいぶん増えた、ということがあります。このような傾向は、二冊の著作が、どこでどう間違ったのがそれぞれ身分不相応な学術賞の対象となった、という、言わば一種の「カミカゼ」によるところが大きいことは今さら言うまでもありません。
 しかしながら、最近、その影響であちこちから私に関する様々な声を聞くことができるようになりました。その中で、少し、いや正直に言えば「かなり」気になっていることが、「木村は最近まともな研究をしていないのではないか」という声がある、ということです。この傾向は先月(2004年5月)出版した新書の関係もあって、このところますますよく聞かれるようになっているように思います。そこで、ここでは私自身が自分の仕事の全体像について、どんな考えを持っているか、について少し書いてみようと思います。
 私がマスコミ関係の仕事を引き受けるにようになったのには、幾つかの理由があります。自己顕示欲の為だ、或いは金の為だ、という(特に私自身をよく知る人達の)指摘を否定するつもりはありませんが、それよりも大きな理由は、多分、「基本的に仕事のオファーは断らない」という私自身の仕事に対する基本方針にあるように思います。私のような仕事をしている人には、そこに至るまでに幾つかのパターンがあるのですが、最大の違いは、一つには、その出発時点から学会や世間に対する報告の機会や、研究会や様々なプロジェクトに参加する機会を豊富に与えられながら育ってきたか、否か、そして二つ目は、早期に研究や生活を支えるに足る生活の場、つまり就職先、を確保できたか否か、ということにあるように思います。私の場合、後者については、様々な人のご支援をいただいた結果、大変に恵まれた研究生活のスタートを切れた訳ですが、他方、研究発表の機会、ということになると、それなりに苦労してきたつもりです。私はそもそも政治学の出身でありながら、朝鮮/韓国史の資料と歴史学或いは社会学的な手法を駆使しながら研究を行う、という文字通り中途半端な人間ですので、論文発表の場は主として紀要やそれに準じる媒体に頼ってきましたし、それなしにはやっていけなかったと思っています。また、最初の著作を出版するのにも、これまた様々な方々の支援をいただきながらも、原稿完成から出版まで都合四年間を費やすこととなった、という苦い経験を持っています。
 勿論、当時の私が多くの研究成果発表の場を得ることができなかった、ことの最大の原因が、私自身の未熟さにあることは当然のことです。しかしながら、私は研究を開始して今日に至るまで、こうして試行錯誤を重ねながら、少しずつ様々な方々から評価をいただき、自らの研究成果発表の機会を増やしてきました。それは私にとって、自分が持っている知識や研究のノウハウと同様、いや恐らく、それ以上に、研究生活を続ける為の重要な資源です。私はこれからも研究生活を続けていく為には、こうして獲得してきた様々なチャンネルを維持、拡張していかなければなりませんし、また、それを私の学生や後輩、更には友人達に繋げていかなければならないと思っています。この業界には、10年以上前の私以上に能力を持ちながら、私よりも研究成果発表の機会に恵まれない人達は沢山います。彼らに機会を与え、彼らを励ましてゆくことこそ、個人の範囲にとどまらない「研究」全体の底上げに必要だと思っています。私が切り開いてきたルートを使って、私より優秀な誰かが有意義な成果を挙げてくれるなら、それはひょっとしたら、私自身が研究成果を挙げるよりも意味のあることなのかもしれません。
 ともかく、大事なことは、研究は周囲の協力なくして成立せず、また、意味も持たない、ということです。当たり前のことですが、私達が論分や著作を書いているのは、「誰かにそれを読んでもらう」為です。勿論、その際には研究そのものの水準の高さも重要ですが、同時にその研究が「誰にも読んでもらえない形」で書かれているのであれば、その研究の意義は極めて小さなものになります。よく「どうして自分の研究は読んでもらえないんだろう」という人がいますが、もし、その人が本当に自分の研究には意義がある、と思うのであれば、その人は自らの研究成果をより理解して貰う為に努力すべきですし、また努力することなく、自らの不遇を嘆くことは、単なる甘えに過ぎません。「読んでもらう為の努力」は研究とは別にあるのではなく、研究の重要な一部だ、という考えを持つべきだ、と思っています。
 また、世間に訴えることは、より大きな意味では、それを同じ考えを持つ人々と共に、継続的に行うことにより、社会の問題に対する認識を変えさせ、社会を正しい方向へ持ってゆき、次いでにその延長線上で、その正しい方向と合致しているはずの、自分達自身の正しい研究(尤もそんなものがあれば、ですが)へと人々の目を向けさせる効果を持っています。研究者は時に、多くの人々は知らない、しかしながら重要で且つ「確からしさ」の高い情報を、持っています。この情報に高い確度があることを、その研究者が確信しているなら、それを外に発信することは、決して難しいことではありません。であれば、その研究者が仮にその情報を外部に発信しないのであれば、それは単なる怠慢であり、その研究者には自らの不遇を嘆く資格はないでしょう。
 自らの研究に対して周囲を振り向かせ、またその作業の中で、社会を自らの信ずる方向へ向けるべく努力し、そしてその成功と成果により、更なる研究へと取り組める環境を作り出す。勿論、その中核には、確度の高い、そして意義ある研究成果がなければなりません。そう、それでも私を批判したいあなた。私の研究・教育業績等一覧をよく読んで、きちんとした学術的批判を行ってみて下さい。そのような批判であれば、大歓迎です。論争の中で共に切磋琢磨し、この業界全体の水準をあげてゆきましょう。

* 私ももう38歳。そろそろ母校や恩師に頼ることのできない年になりました。それでも、今まではどこかで何かの「傘」に守られてきたような気もしますが、研究生活は、ここからが本領の発揮しどころ。お世話になった先生方が「大きく見える」この頃です。


11)「読んでもらうこと」の難しさ(2006.3.6.)

 「研究という営みについて」で、凡そ、自らの能力を超えた文章を書いてから、早くも2年近く経ってしまいました。この数年間に、新聞をはじめとするマスメディアで執筆する機会が飛躍的に増大し、こちらに回せる文章も、またそれを書く時間もめっきり少なくなってしまいました。今日はその中で、感じることについて、少し書いてみようと思います。
 まず、感じるのは、自分の書いた文章を人に「きちんと」、つまり、自らの意図通りに読んでもらうのが、如何に難しいかということです。私は、基本的にM.Weber流の「価値相対主義者」ですから、イデオロギー的な議論そのものには参加しようとは思いませんし、そもそもそのイデオロギーそのものを分析対象としています。例えば、「日本側と韓国側のどちらが正しいか」といった類の議論の建て方には意味があるとは思いませんし、また、少なくとも学問的には生産的ではないと思っています。研究者にとって自らのオリジナリティーは生命線ですから、正直、既に存在する何かしらをそのまま弁護する、というのは余り魅力的でもありません。
 従って、メディアに何かを書く場合にも、そのメディアの意見を代弁しようとは思いませんし、だから特にどのメディアでなければ、という仕事の選び方もしていません。「社会への発信」のページをご覧いただければわかるように、新聞であれば、主要全国紙には、どこにも一回は原稿を出していますし、雑誌も、左右、大手中小様々なところと仕事をしています。条件はただ一つ、自分の意見に沿って文章を書かせてもらえること、これだけです。幸か不幸か、私はどうもどこのメディアに使われる場合にも、「少し変わった人」として扱われることが多く、そのためかこの点では、少し楽をさせてもらっているかもしれません。
 しかしながら、文章を書いた後で毎度毎度思い知らされるのは、同じ文章を書いていても、時に文章が自らの意図したのとは異なる形で読み取られてしまう、ということです。例えば、私の様々な文章に共通しているメッセージの一つに、「過去とは常に多面的なものであり、それを一面的なストーリーに還元することは、過去に対する誠実なやり方ではない」というものがあります。ホブズボームの「伝統の創造」の話を持ち出すまでもなく、それはまた、ナショナリズムが常にお家芸とするものであり、だからこそ私は、韓国や日本、そして、その他のどのような擬似ネーション的な人間集団のこの類の言説からも常に距離を置くことにしています。しかしながら、本来同じような論理構造を持った文章であっても、読者には時に「(日本のナショナリズムに警笛を鳴らしているので)韓国側べったりだ」と読み解きたがり、また、ある時には「(韓国の歴史観に否定的なので)強い民族主義的心情の持ち主だ」と解釈されてしまいがちです。しかし、言いたいのはそういうことではありません。韓国側のものであろうと日本側のものであろうと、また、特定のマイノリティのものであろうと、同じ基準に照らして、批判すべきだと思ったものは批判する。だからこそ、「韓国人だから、隣の国だからというレッテルにとらわれず」ものを見なければならないと思いますし、「歴史を学ぶことに価値があるとすれば、そのような人間が、如何に現実と格闘し生きたかを学ぶことであり、自らもできもしない基準を掲げて、批判することではない」、ということになるのですが、なかなかわかっていただくのは難しいのかもしれません。
 難しいと思うことは、もう一つあります。私の研究の中心は、常に、「ある主体(アクター)が何故に一定の認識を持つに至ったかを読み解く」ことにあるのですが、時にこのような営みは、「相手の言うことに同意する」と、いうことと誤解、同一視されてしまいます。本来なら、例えば、外交交渉において、相手が一定の立場に立っている場合には、相手が何故にその立場を堅持しているのかを「理解」しなければ、適切な戦略を立てることはできませんから、相手が「何故にその認識を持つに至ったかを読み解く」ことは必要不可欠です。これを「相手の立場を弁明している」として封じ込めてしまうのは、相手の戦略も考えずに戦争をしかけるようなもので、凡そ合理的とは言えません。だからこそ、韓国のナショナリズムも、日本の同等の動きも「読み解」かれねばなりませんし、「理解」されなければなりません。戦略論的に言うのなら、どのような時であっても、重要なのは、相手の考えと動きを読むことにより、自らのコストを最小限化して、自らの目的を達成することの筈です。些細な部分に拘り、他人の揚げ足をとることに満足するだけでは他者を動かすことはできず、自己満足に留まってしまうだけです。相手に問題があるからといって、付き合わなくてもいい、ということにはなりませんし、また、逆に「良い奴」だというだけで、我々にとって重要な相手である、ということにもなりません。そう思うのですが、いかがでしょうか。
 勿論、読者がそのように「読み取ってしまう」のは、私の文章がいたらないからであることは言うまでもありません。メッセージを出すチャンスがある間に、できるだけ多くの方に正確なメッセージが伝わるように、精進したいと思います。 


12)ある研究者
(註)への手紙(2006.11.20.)

 先日は学会でのご報告、ご苦労様でした。お気づきになられなかったかも知れませんが、学兄のご報告、私もフロアの一聴衆として、興味深く聞かせていただいておりました。学兄の研究者としての資質については、多くの先生方が認められているところであり、その点については、私も人後に落ちないつもりです。しかしながら、今回のご報告をお聞きしながら、私にはどうしても納得できない部分がありました。神戸へと戻る新幹線の中でもその思いは消えることはなく、些か異例ではありますが、こうして学兄にお手紙を差し上げることにした次第です。
 さて、今回の取り上げられた問題は、これまで学術的な研究対象としては本格的に取り上げられなかったものであり、その意味で学兄の研究は一定の意味を有していたと思います。また、事実の整理とまとめも、要領を得たものであり、学兄の能力の高さを垣間見せるに十分であったと思います。
 しかし、それだけでよかったのでしょうか。例えば、私のような研究者がある対象を学術的な研究対象として取り上げる場合、そこには大きく二つの方向があると思います。一つは、事実そのものの究明を目的とする場合、もう一つは、事実そのものではなく、事実そのものを巡る議論や考え方の変化を示すことにより、ある特定の社会や政治等の変化を明らかにすることを目的とする場合です。勿論、研究には、必ず、研究自体の意味づけ、が必要ですから、最初の場合には、究明されるべき事実そのものが意味を有していなければなりませんし、後者の場合には、直接的な観察の対象となっている事実を媒介として、何が観察で、その観察可能なものがどのような意味を有しているのか、が明らかにされなければならないことになります。
 しかし、先日の学会での学兄のご報告を聞いても、私は結局、学兄がどのような目的を持ってこの報告を行われたのかがわかりませんでした。勿論、聡明な学兄のことですから、自らの研究にどのような意味があるかは、よくご理解されていることと思います。或いは、自分がやっている研究の重要性については、同じ研究分野にいる人間であれば、理解できて当然だ、とお考えになっておられるのかも知れません。だとすれば、お話の目的を私が理解できなかったのは、私が学兄の高度な学識や最先端の研究を理解するに十分な知識と理解力を有していないせいなのでしょう。
 しかし、例えば、こんなことを考えて見られてはいかがでしょうか。研究というものは、専門化が進めば進むほど、問題意識を共有できる研究者の数は少なくなる性格を持っています。だとすると、最先端の研究とは、殆どの人にとって理解不能な研究だということになりかねません。研究とはそもそもそういうものだ、と言われるかもしれませんし、或いはそれが正論なのかも知れません。しかし、学兄はお気づきになっておられないかもしれませんが、私が知っていることが一つだけあります。それは研究とは、時に耐えがたいほど孤独な営みである、ということです。学兄は今、ソフト・ハードの両面で整備された大学院の恵まれた研究環境の中で、豊富な研究発表の機会を与えられていることと思います。そこには問題意識を共有する仲間と、研究の相談に乗ってくれる指導教員や先輩もおられることと思います。
 しかし、一旦社会に出ると話は違ってきます。大学という職場は、新参者に何も教えてくれない不親切なところですし、何よりも一つの大学に同じ専門を分野の先生は二人要りませんから、大学内で本当の意味での専門について語ることのできる環境もありません。一部の大学院生を別にすれば、学生は教員の研究分野についてなど関心を有してはいませんし、また、彼等にはそのような関心を向ける必要もありません。多くの教員がこの中で、孤独感を深め、やがて迷走をはじめます。例えば、学生時代には、地道な研究者であった人々が、何時しか研究らしい研究をやめてしまい、甞ての研究分野とはかけ離れた分野で、耳を覆いたくなるような発言をするようになるのを、学兄もたくさん見てこられたことと思います。学兄は、彼等を笑うのかも知れませんが、私は寧ろ、悲しい思いをして彼等を眺めています。何故ならそれは、研究分野にて自らの「聴衆」を見つけられなかった、彼等が「聴衆」を求めて試行錯誤した結果としてたどり着いた道だからです。暗く狭い研究室で、或いは誰にも読まれないかも知れない学術論文を書き続けることは、誰にとっても容易ではありません。だからこそ、多くの人々は、この次第に先の細くなるだけの「象牙の塔」で、袋小路に迷い込み、研究そのものを何時しか断念することになってしまいます。その意味で、例えば、マスメディアで活躍する人々は、仮令、研究という分野では「聴衆」を獲得できなかった代わりに、別の分野でそれを獲得した人々なのです。そして、もしもその水準が聞くに堪えないものであるとするならば、それは彼等が「聴衆」欲しさの余りに、「聴衆」に媚びてしまったことの結果なのです。
 話がずいぶん回りくどくなってしまいました。学兄に私が申し上げたいことは簡単です。それは、研究をする、という営みの中には、自分が何故その研究をしているのかを説明する、ことも含まれている、ということです。その意味で、私は学兄の今回の研究発表は、単に不親切というのみならず、傲慢でさえあったのではないかとさえ思っています。学会は、学兄の属されている大学の中や、或いは卒業した先輩や後輩の間で作った「仲良しサークル」ではありません。「仲良しサークル」では、誰しも、学兄がどのような方であり、どのような問題関心を持っているかを知っていますから、その部分は省略して話を始めることができます。しかし、学会はそうではありません。そこには様々なバックグラウンドをもつ人々が、様々な関心と思惑を持って、学兄の話に耳を傾けています。国際学会ならなおのことです。恐縮ですが、そこでの大前提は、学兄や学兄の指導教員や出身大学、況して学兄の博士論文の進行状況など、誰も知らないし、関心もない、ということです。勿論、時には、ある特定の大学の特定の人々が「仲良しサークル」の雰囲気そのままで、牛耳っている達の悪い学会もない訳ではありません。しかし、そんな人達は放っておきましょう。彼等とて、国際的な場に出れば、自分達がこれまで「手を抜いてきた」ことにはどうせ気づかざるを得ないのですから。
 いずれにせよ、だからこそ、学会での報告は、必ず、自分の研究には如何なる意味があるか、ということからはじめなければならないと思います。勿論、それは聴衆に媚びる、ということではありません。それは、自分の研究が「聴衆にとって」どういう意味があるのか、ということ聴衆にわかるように説明する、ということです。如何なる研究も、現在、更には将来に渡っても聴衆を持たなければ存在しないのと同じです。だからこそ、研究者は、自らの研究に価値がある、と思うなら、その価値を聴衆にわかるように明らかにしなければなりません。そしてその為には、研究者側の努力が必要です。聴衆に、自分の研究の意味を理解させ、その上で自分が、その研究を行うに当たり、如何に適切に研究対象を選択し、適切なデータを集め、相応しい方法で分析を行ったのか。それをもう一度、自らの意識の上に明確に載せて、徹底的に無駄を省いた上で、しかし、魅力的に整理して再現する。それは決して、簡単なことではありません。しかし、それこそがよい学術報告であると思いますし、研究者が自らをアピールする方法であると思います。ついでに言えば、もしも、学兄の研究においてこのいずれかの部分において、聴衆に説明できない部分があるとすれば、それは学兄の研究に致命的に欠ける部分があるということを意味しています。
 つまり、我々は、研究を行う際には、それが最終的に何かしらの聴衆に向けられるものであることを、常に意識する必要がありますし、このことを意識することによって、はじめて緊張感を持って研究をすることができるのです。残念ながら、今回の学兄の報告には、この緊張感が決定的に欠如していたと思います。
 勿論、私自身も、こうして学兄に偉そうに申し上げたことの半分も、実現できている訳ではありません。しかし、私は、我々の研究はかようにあるべきだと思っていますし、何よりも、聴衆を持たない研究はつまらないと信じています。学兄はせっかくよい研究をされているのだからこそ、もっと多くの人々に学兄の話が理解されるべきだと思います。その為には、心地よい「仲良しサークル」から抜け出し、その外にいる人々の評価を得るのにどのようにすべきかを考えて置かれるべきだと思います。学兄の研究は、既にその段階に達しているものと信じています。何よりも、聴衆を持たない研究は、やっている我々にとっても「面白くない」ではありませんか。
 我々の研究のよりよい発展と、何もよりも学兄の将来の為に、今後のご活躍を心からお祈りいたしております。

註・勿論、架空の人物です。お間違えなきようにお願い申し上げます。自意識過剰は、「だめ」、ですよ。


13)ある韓国研究者の「ありふれた」日常 (2007.2.9)

 今の所属先に移ってから今年の4月でちょうど10年。思えば、それからずいぶんいろいろなことがありました。アメリカに行く機会を得たのも、はじめての書籍を出版したのも、この職場に移ってからのこと。いろいろな機会をいただいて、活躍の場もずいぶんひろがりました。研究環境も恵まれていて、客観的に見れば、順調そのもの。恐らく同世代の韓国研究者の中でも、私は「かなり」恵まれた人間だと思います。その意味で、今の職場には感謝してもし過ぎることはないとも思っています。
 従って、以下は、単なるわがままなのですが、そんな私にも「不満」というか、なんとなく釈然としない思いを抱えていることがあります。それは私が担当する様々な教育の場において、自らの研究やそれに基づいた内容について話す機会がほとんどない、ということ。こういうと驚かれる方もおられるかも知れませんが、今の職場に移って10年間、私は職場において、韓国や北朝鮮に関する講義等を行ったことは一度もありません。理由は簡単。私の職場の時間割に、それを行える講義枠がないからです。皮肉なことに、職場の外では、いろいろな話をする機会は本当にたくさんあります。しかし、職場ではその機会はありませんし、その需要があるようにも思えない。ここで自分の仕事が本当に必要とされているのか。そういう思いが頭をかすめたことは、正直、一度や二度ではありません。
 とはいえ、それは恐らく仕方がないことなのだとも思います。言うまでもなく、研究やその他の世界における需要と、今の職場における需要は同じではありません。私の研究は、必ずしも、学生の将来や職業と密接に関係するものではありません。だから、そこに直接的な需要があると考えることは、恐らくかなり傲慢なことなのです。
 だからこそ、多くの研究者は、「口に糊する」為に、様々な努力をしています。そして、その大半の研究者は、私よりはるかに多くの苦労をされておられます。その意味では、私の置かれた立場は、私のような研究者が今日置かれた、しかしその中では極めて恵まれた、それでもやはり「ありふれた」ものなのでしょう。
 得意ではない外国語で、学生と横一線に、はじめて読む専門書を辞書っぴきで読んでいくのは、確かに緊張感のある、刺激的な経験です。私の研究にもプラスになっているようにも思います。何よりも、大学院生達と様々なことについて思いをめぐらすのは楽しいし、やりがいのあることだと思っています。ただ、やっぱりふと思わずにはいられません。私のやっていることは、そんなに、ここでは価値のないことなのだろうか。いつの間にか「二つ」に分裂してしまった私の仕事を、「一つ」にすることは、できないのだろうか。自分がいるこの場所に、自分が最も力を入れている話の聴衆がいないことに、寂しい思いをしないでもありません。
 そんな思いを抱えながら、研究者としての18年目の春を迎えることになりそうです。


14)ごめいわくをおかけしています (2007.8.20)


 大学院に入学し、研究を開始して以来、もう18年。「木村君はいつも元気だねぇ」と周囲から言われながら、ここまで猛然と走ってきました。気がついてみると、私も既に40代、よくも悪くも「若手研究者」と呼ばれることも少ない歳になってしまいました。
 何時も思うのですが、研究者の仕事というのは、厄介なもので、研究成果を出さなければ勿論、その研究成果が一定の水準を常に出し続けなければ、「忘れられてしまう」、厄介なものです。研究がうまく行けば、次を期待され、次の成果も最低限以前と同じ水準、可能な限り、前回よりもよいものを出し続けなければなりません。加えて、日本全体の経済が好転する中でも、大学を取り巻く状況は悪化するばかり、私のような「時代遅れな」研究者の居場所は次第になくなっていくばかりです。
 走り続けなければ、居場所がなくなり、走り続けても、先は見えない。そのような状況の中で、昨年末辺りから、精神的にずいぶん「きつく」なってしまい、2月辺りから、ついに病院通いの身になってしまいた。周囲の方にもずいぶん迷惑をかけてしまっています。とはいっても、病状はさほど重いものではなく、仕事、特に書き物はできるのですが、パーティー等、人に会うのが厳しくなってしまい、多くの方にずいぶん、ごめいわくをおかけしています。悩みの根源は、そもそも自分自身に自信が持てなくなってしまっていることです。自分はただ駄文を書き連ねているだけなのではないか、どこかの研究者がやっているような、何かしら「最先端の技術や枠組み」を使った研究以外は何の意味もないのではないか、悩みに悩む毎日です。
 全く情けない話なのですが、ずいぶん回復してきましたので、少しずつ、但し、焦らず、皆様への「借り」をお返ししていくつもりです。
 ということで、これからもよろしくお願い申し上げます。


15)本が出ます (2007.11.12.)

 2003年に『韓国における「権威主義的」体制の成立』をミネルヴァ書房から出版して以来、間に新書や編著2冊こそ出したものの、長らく本格的な専門書を出していなかった私ですが、この12月にミネルヴァ書房から『高宗・閔妃』(ミネルヴァ評伝選)、名古屋大学出版会から『民主化の韓国政治:朴正煕と野党政治家たち 1961~1979』が相次いで出ることになりました。発売予定は、『高宗・閔妃』が12月10日、『民主化の韓国政治』が12月20日頃の予定です。また、2000年に第一刷りを発売し、しばらく品切れになっていた迷著(?)『朝鮮/韓国ナショナリズムと「小国」意識』(ミネルヴァ書房)が、三刷りに入りました。これまで古本屋でしか手に入らなかったこの著作が、お近くの書店で買えるようになりますので、是非、お買い求めください。また、同じ著作は、韓国の出版社から同じ表題で、同じ頃に出版される予定です。さら、中公新書『韓国現代史』も執筆中です。

 相変わらず、「政治学とは何か」、「地域研究とは何か、そしてそもそも自分の研究にはどういう意義があるのか、という問いを自らに投げかけ続ける日々が続きますが、これらの出版によって、失われてしまった私の自信が少しでも回復するとよいな、と思います。皆さん、ご期待と、できましたら、ご声援をお願い申し上げます。


16)実り多きオーストラリア生活(2008.4.13.)

 昨年末にばたばた専門書2冊と翻訳1冊を出版するという、無謀な試みをしてから早数ヶ月、そろそろ様々な形でこれらの仕事の評価も出揃ってきたところで、勤務先のご好意で、ANU、Australian National University、Faculty of Asiaqn Studies のVisiting Scholarとして、オーストラリアに二ヶ月間滞在中です(正確にはこの文章はこの滞在中に、機中泊含め2泊3日で一時帰国 - 世界が狭くなるというのも困ったものです - する為のシドニー発香港行きの飛行機の中で書いています)。滞在の目的は、現在、5月末原稿完成予定で作業を進めている中公新書の執筆の為の時間を取ること、そして僅か2ヶ月とは言え、家族と過ごす時間を確保する、ことでした。実は、中公新書の方の原稿は幾つかの理由(註)で「今」の段階では余り進んでいないのですが、久々に家族と過ごす時間が取れたことには本当に喜び、また、大学には感謝しています。毎朝家族と朝ごはんを食べて、子供の学校の送迎をし、また、家族と夕ご飯をいっしょに食べる。これだけのことがいかに幸せかが身を持って感じられる日々になっています。
 また、実は、この短いオーストラリア滞在中には、私の人生の転機になるかもしれないこともあったのですが、大学の外にいたおかげで、改めて今の自分が置かれている、家庭的、そして、社会的(地理的含む)環境を客観的に見、またそれに感謝することができました。私は(あの「高宗」同様 - わからない人は『高宗・閔妃』(ミネルヴァ書房)をご参照を - )「弱い」人間ですので、何度も、今の職業的、社会的、或いは生物的生活を投げ出しそうになったことも幾度もあったのですが、投げ出さずにここまで来てよかったと思っています。

(註)
 理由1:オーストラリア国立大学の図書館に思ったほど資料がなかったこと。韓国研究での日本の有利さを改めて実感しました。
 理由2:「海外にいるから飛び込んで来ないはず」の仕事が飛び込んできたこと。特に英語の論文の注文が来たのは予想外でした。
 理由3:自分の能力が思ったほどなく、つまらないことにずいぶん時間を費やしてしまったこと。まあ、これはいつもの事ですけどね。


17)コンプレックスのある風景(2008.9.17.)

 何を今更、という感じもあるのですが、自分は、なんてたくさんのコンプレックスを抱えているのだろう、と思います。中高生の頃は、自分の容姿(身長の低さに加えてそれ以外全般)が嫌で嫌で写真を取られることさえ避けていたので、残っているのは卒業アルバムの写真くらいしかありません。これに高校時代には、劣等生としての勉学上のコンプレックスが加わり、これは後でも述べるように、今でも尾を引いています。自信喪失の結果として、勉学を放棄して、挙句の果てに浪人生活を送り、またそれが更なるコンプレックスになりました。大学に入ると、高校時代の同期が、「先輩」になっているのが嫌で嫌で、彼等の顔を見るのも辛かったのを覚えています。
 こういった自己嫌悪は今も当然続いていて、最先端の「難しい」政治学はわからないし、また、資料が満足に読めないので、本当の意味での実証的な歴史研究にも取り組めません。英語は勿論、韓国語も漢文も、時間をかけてきちんと勉強した訳ではないので、どれもこれも中途半端です。基礎になるべき教養がないので、文章は上手くならないし、講義や講演で人前で話す時も、終わった後は何時も自己嫌悪の塊になっています。かといって、仕事を断るのもまた、「恐い」ので、やめとけばいいのに、更に仕事を入れてしまうことの繰り返しです。重い腰を挙げて、何とかやってみるも、後に残るのは、「もっとましなものはできなかったのか」という後悔の念ばかりです。いつも愚痴と不満ばかり言っているので、周囲との人間関係は壊れるし、遂には精神的に調子を崩して、家族にも迷惑をかけてしまいます。いったい何をやっているのかわかりません。
 それでも少しずつわかりかけてきたこともない訳ではありません。それはとにかく、私にはできることしかできないし(当たり前ですね)、それをこなして行くことにより生きてゆくしかない、ということです。自分が本当は関心がないこと、そして、やってもできないこと、をやるのはつまらないし、意味がありません。今更、頭の良い人たちみたいに、「華麗で器用な生き方」ができる筈もないし、自分のやっていることが、学界その他で中心的な地位を占める筈もありません。それでも「あがき続ける」ことで、自分が「ここ」にいることを示すことはできるかもしれません。自分の居場所を「こじ開ける」というと下品だけど、居場所がないよりはずっといいように思います。「できる人たち」から、「できの悪さ」や「品の悪さ」を指摘されるのは辛いけど、今更秀才や、エスタブリッシュメントになれる訳でもありません。間違いは間違いで後で認めて直せばいいし、パーフェクト・ゲームを追い求めて、無駄な時間を費やすよりは、「今できる何か」を残す方がずっと良いように思います。「ウサギと亀」の「亀」は、いつかは必ずウサギに追い抜かれる。それはでも、それは「亀」が何もしなかったことは、きっと意味しないのだと思います。
 皆さんはそう、思いませんか?

18)「あとがき」も読んでくださいね(2009.11.6.)

 今年も相変わらずハイペースでの執筆を続けています。6月に論文集、そして10月に編著を出し、これで単著7冊(課題を絞った専門書3冊、論文集1冊、評伝1冊、新書2冊)、編著4冊(政治学関係2冊、韓流関係1冊、政治経済学関係1冊)になりました。新聞各紙をはじめ、雑誌や学会、更にはインターネット上でも様々な「評価」をいただき、ありがたく思いつつも、その度に一喜一憂しています。
 但し、少し困っているのは、私の書き方が悪いせいもあって、これらの著作が時として、韓国のナショナリズムや、民主化や、現代史や、歴史の「あらゆる面」を描写しようとしたものだと受け止められていることです。それぞれの本の「あとがき」を読んでいただければわかるのですが、私が目指しているのは、韓国のそれぞれの事例を用いつつ、政治学や歴史の理解において、私が重要であると考える(そして他の方が書かれた著作や論文で見落とされている)「ある側面」を「描き出すこと」です。勿論、私の本を読んで何らかの全体像が得られるのではないか、と期待された方には申し訳ないのですが、研究者ができるのはあくまで限定された事例の、限定された側面を描き出すことだけです。その点を理解していただくと、不十分な私の本も少しは皆様のお役に立てるのではないか、と思います。
 ともあれ、余裕のある方は「あとがき」も読んでいただけると嬉しいです。わがままかもしれませんが、そう思います。

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