第24期広島朝鮮史セミナー 共通タイトル・「李承晩とその時代」
第1回 李承晩と韓国ナショナリズム
- 「大韓民国」を考える -
木村 幹(神戸大学大学院・助教授)
2001.5.26
ひろしま国際センター・大ホール
主催 ひろしま朝鮮史セミナー事務局
はじめに - 2001年の大韓民国と李承晩
1.李承晩のイメージ
A.日韓関係の中の李承晩
1) 「反日の闘士」 - 李承晩ライン、竹島問題
2) 「反共の闘士」 - 朝鮮戦争
B.大韓民国史の中の李承晩とその時代
1) 李承晩と朴正煕 - 二人の巨人
2) 「独裁者」としての李承晩
3) 「(経済的)失政者」としての李承晩
4) 「建国者」としての李承晩
2.李承晩を生んだ時代
A.近代朝鮮史の中の李承晩
1)1875年誕生・「近代の申し子」 - 李承晩と「西洋の衝撃」
2)培材学堂・「遅れてきた開化派」 - 李承晩と徐載弼
3)『独立精神』・「間に合わなかった外交官」 - 李承晩と李完用
4)韓国併合と李承晩の登場 - 列強(アメリカ)への信頼と、その崩壊
B.李承晩と日本統治
1)「伝道者」としての挫折
2)「亡命社会の教育者」としてのデッド・ロック
C.大韓民国臨時政府大統領
1)三一運動とウィルソンの「平和の為の14原則」
2)「哲学博士」李承晩の政治的浮上 - 個人的ネットワークと外交の重要性
3)「委任統治請願」と臨政との角逐
D.解放を前にして
1) 政治的孤立と運動の停滞
2) Japan Inside Out ・アメリカによる「予言者」李承晩の再発見
3) 韓国ナショナリズムの「論理」の出現
E.小結
1)一貫する「小国」意識と「大国≒アメリカ」への依存
2)完成された援助要求「正当化」の論理
3.大韓民国と李承晩
A.米軍政府支配と李承晩 - 「一線を踏み外さない挑戦者」
1)70歳の老亡命・独立運動家 - 「汚れた手」と「使える足」の欠如、「完成した」思想
2)三「政府」鼎立状況の中の李承晩 - 「無謀な挑戦」の回避と競争者の消滅
3)反信託統治運動と独立促成国民会 - アメリカとの対立
4)南朝鮮単独政府樹立案と「大韓民国」の成立 - 南単独、米軍政府からの政権移譲、西側同盟、そして中心としての李承晩
B.第一共和国と李承晩権威主義体制の成立
1)一民主義と国会との対立 - 大韓民「国」の「形」を巡って
2)朝鮮戦争と51年の危機 - 自由党結党と一民主義の放棄
3)釜山政治波動と52年の二つの選挙 - カリスマによる政治的スイープ
4)李承晩政権の安定と大韓民「国」の「形」の確定 - 大統領直接選挙制と、形骸化し、信用を失った政党と国会
おわりに - 朴正煕を準備したもの
1)理念と制度の二つの「形」 - 大韓民国の「基本形」
2)軽視された経済と、援助受容正当化の論理 - NIEsへの布石
3)カリスマ的大統領に支えられた「政府党体制」 - 維新体制のルーツ
主要参考文献
李承晩博士紀念事業会★南実録編修会編『★南実録』、悦話堂【韓国】、1971年
イ・ハンウ『巨大なる生涯・李承晩90年(上・下)』、朝鮮日報社【韓国】、1996年
ロバート・T・オリバ『米大学教授が見た人間李承晩』、日本観光株式会社出版部、1958年
「人間李承晩百年」『韓国日報』【韓国】、1975年3月11日~8月14日
李元淳編『人間李承晩』、新太陽社出版局【韓国】、1956年
方善柱『在美韓人の 独立運動』、翰林大学校出版部【韓国】、1989年
『大統領李承晩博士談話集(一)(二)』、公報処【韓国】、1956年
木村幹『朝鮮/韓国ナショナリズムと「小国」意識』、ミネルヴァ書房、2000年
李承晩略年表
1875 黄海道にて出生
江華島事件
1877 ソウル移住
1887 科挙受験(失敗)
1890 最初の結婚(朴氏)
1894 日清戦争勃発
培材学堂入学
1895 培材学堂初級英語班教師、春生門事件
露館播遷
1896 徐載弼からの学習(世界地理、歴史、政治学等)
1897 培材学堂卒業
大韓帝国成立
1898 協商会会報創刊( → 『毎日新聞』・主筆 → 脱退)
独立協会・万民共同会参加
『帝国新聞』創刊(主筆)
独立協会事件にて投獄
中枢院議官選任
1899 議官職剥奪、投獄( → 以後、獄中にて執筆活動)
1904 日露戦争勃発
『独立精神』
釈放、高宗密使として、渡米
1905 ジョージ・ワシントン大学入学
ヘイ国務長官、T.ルーズベルト大統領と面談、「独立請願書」提出
第二次日韓協約(保護国条約)
1907 ジョージ・ワシントン大学卒業、ハーバード大学入学
1908 プリンストン大学入学
1910 プリンストン大学卒業、Ph.D. Neutrality as influenced by the United States
韓国併合
帰国(10.10.)、YMCA青年学校学監
1911 全国巡回伝道(二次)
1912 再渡米(3.26.)、ミネアポリスにて監理教代表大会出席
ウィルソン大統領面会、講演会推薦状を受け、全米で韓国独立演説
1913 ハワイ移住、「韓人寄宿学校( → 韓人中央学院)」学長
1917 「世界第25回弱小民族代表会議」出席
1918 ウィルソン「平和の為の14原則」
徐載弼・安昌浩等と「新韓協会」設立
1919 ウィルソンへの請願書
三一運動
上海「臨時議政院」、国務総理・李承晩、選任(後に大統領に)
1920 上海到着(12.8.)
1921 上海出発(5.20.)、ハワイへ戻る
1925 大韓民国臨時政府、李承晩大統領解任
同政府、「欧米委員部」廃止決定( → 李承晩の「自称」続く)
1931 満洲事変
1932 同政府、李承晩を国際連盟への韓国独立嘆願の全権代表に任命( → 欧州訪問)
1941 Japan Inside Out (邦訳『私の日本観』)
日本、真珠湾を奇襲攻撃
1943 スティムソン国防長官との書簡交換
1945 日本無条件降伏
朝鮮人民共和国、主席・李承晩、選任
帰国(10.16.)
独立促成中央協議会( → 独立促成国民会)、結成(10.25.)
「信託統治反対運動」
1946 南朝鮮民主議院、議長
「南韓単独政府樹立案」主張
渡米( → 翌年帰国)
1948 制憲議会選挙
国会議長・李承晩( → 大統領就任で辞任、申翼煕)
大統領・李承晩
大韓民国建国
1950 第2回国会選挙
朝鮮戦争勃発
1951 自由党結党、総裁・李承晩
1952 釜山政治波動(大統領直接選挙制改憲)
李承晩大統領再選
1953 来日、初の日韓会談(吉田茂)
朝鮮戦争休戦
「族青」勢力粛清
1956 李承晩三選
1960 「3.16選挙」、李承晩四選
1961 4.19学生革命、李承晩政権退陣
ハワイ亡命
1965 ハワイにして客死
註・本年表作成に当たっては主として、イ・ハンウ『巨大なる生涯・李承晩90年(下)』、朝鮮日報社【韓国】、1996年を参考にした。尚、日本統治以前における李承晩の経歴については、不確定的部分が多い。
李承晩言行集
野蛮と言うのはその飲食と衣服と宮室が汚い、ということではなく、そこに倫紀がない、と言うことを意味している。開化と言うのもまた、衣服・飲食・宮室が美しい、ということを意味するのではなく、倫常が保たれている、ということを意味している(帝国新聞、1901年)。
現在、キリスト教の国が、文明富強・太平安楽の地位にあるのは、その国内に悪人が他の国より少ない為である。[キリスト教の国の中には]国内から悪事を追い出した国が多いのだ。善事が悪事に勝る国は善人の天国であり、悪人の地獄である。悪事が善事に勝る国は悪人の天国であり、善人の地獄なのだ(神学月報、1903年)。
一旦軍事的危機が起こり、敵軍が怒涛のように押し寄せてきても、我々を助けてくれる国家はなかった。従って、我々は単独で敵と戦わねばならなかった訳であるが、にも拘らず、単独で度々勝利してきたということは、上に述べてきたことでも明らかであろう。我が国の人民は勇敢でない、とか、強くなれない、とかいうのは間違いなのである(独立精神、1904年)。
安昌浩や李承晩と同様な愛国愛族の士であったが、朴容晩は日本に対する暴力革命なしに韓国独立は成し遂げられないと堅く信じていた。しかし、彼[李承晩]自身の信念にしてみれば、こんな革命は成功しないのであり、韓国人は何よりも西方列強の外交上の支持と米国人の同情を得んが為にたたかわねばならなかった。[中略]彼は西欧諸国が弱小国家の主張よりも、強大国の主張を当然事として重要視する理解し難き論理に対して、何時も忿満と疑いを持たねばならなかつた。[中略]彼の見解によれば、歴史はこのような推理が戦争を招くだけであることを証明しているというのである(1930年頃の李承晩に関するオリバの回想。オリバ『米大学教授が見た人間李承晩』より)。
延期することは解決ではない。山火は、ひとりでは消えはしない。山火は漸次近づきつつある。数年前だけでも切迫した騒ぎはかすかな囁きにしか聞こえなかった。[中略]アメリカ人は既に熱さを感じている。安閑としてはいられないほど近づいたのである(Japan Inside Out、1941年)。
韓国民は国を自律できないからこそ、アメリカに仲裁権を依頼したのであって、アメリカが韓国のためにどういうことをしようとそれは無駄なことだという論法には何等の根拠もないのだ。もし韓国が自らを完全に防禦できるならば、かれらはアメリカなり或はその他の国家に一体何のために援助を請うたであろうか。友好的な援助を最も必要とする場合は、我々人間にとってどういう場合だろうか。自分が敵よりもっと強い場合に必要とするとでも言うのか(Japan Inside Out、1941年)。
(私の提出した国務総理)任命案が、提出後、国会で否決された事実に鑑みるなら、この国会において、何らかの取り決めが存在し、二つの党が、各々示し合わせて、自党の人物でなければ、投票で否決しようと約束していたとしか思えない。万一、このような事実があったとするならば、私が国務総理を何回改めて任命しようと、彼等の内定する候補でなければ、全て否決されてしまうであろう。[中略]一度も討論することなく否決された今となっては、私も覚悟を決めなければならない[中略]。 最も難しい問題は、周知のように、全民族の大多数が、現在の政党が政権に就くことを望んでいない、ということである。その中である政党の有力者が政権を握るならば、ソウルの政治家の側では歓迎されるかもしれないが、大多数の同朋はこれに失望するであろう(1948年、大統領談話)。
このように言えばそれは[援助国に対する]背恩亡徳だ、という人がいる。しかし、我々に援助を与えたアメリカ人の目的は我が経済を復興させることであった。[中略]それ故、実際の援助は、名目こそ我々だが、その利益は他国のものになってしまっている。[中略] しかし、わが民衆が皆知らねばならないことは、これがアメリカ政府やアメリカ人の作為の結果ではなく、間に日本を手助けする人間の恣意が介在している為だ。我々はアメリカ政府当局やアメリカ国民に対しても少しでも疑念の念を抱いてはならない(1954年、大統領談話)。
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