徳次が連れて行かれたかざり職人の家は、男っ気のある親方の下(もと)に、何人かの職人がいる店でした。そこで徳次は十八歳まで飾り金物の丁稚(でっち)職人として奉公しています。しかし徳次が一生懸命働いた稼いだ給金は、給料日のあとにその後妻がやってきて、毎月全額持って行ってしまいました。ですから徳次には遊んだり自分のモノを買ったりするお金が一銭もありません。徳次は遊びにも行かず、ただひたすら黙々と金属の加工をし、飾り物作りに打ち込んでいました。仕事に打ち込んでいる時間だけが、彼にとっての幸せな時間だったのです。
明治四十四(一九一一)年のことです。十八歳になった徳次は、ズボンのベルトに穴を開けずに使えるバックル「徳尾錠」を発明しました。いまでも広く使われているバックルです。徳次はこの発明で新案特許を取り、十九歳で独立しました。その届け出のための必要書類を準備しているとき、徳次ははじめて自分が出野家の養子であったこと、そして自分の両親は、とうに死んでいたことを知りました。そして実の兄である早川政治と対面しました。彼はその兄と、「早川兄弟社」を設立しました。そして「徳尾錠」の製造販売を開始したのです。
独立資金は五十円でした。このうちの十円は兄弟でお金を出し合いました。四十円は借金しました。徳次が考案した商品を作り、兄が販売担当です。苦しい財務からのたち上げでしたが、二人は寝る間も惜しんで働き、「徳尾錠」は、大ヒット商品となり、事業は拡大していきました。
次に徳次が発明したのが、二十二歳のときの、独創的な芯の繰出し装置付きシャープペンシルです。棒を金属ではさむと、摩擦の力で軽い力でも強固に固定できます。この現象を応用しました。これがいまも広く使われているシャープペンシルの事始めです。大正四(一九一五)年、徳次は、このシャープペンシルに「早川式繰出鉛筆」という名前を付けて特許を出願しました。最初は、軸をひねって芯を出す機構の特徴から、「プロペリングペンシル」という名前を付けて売り出しました。のちにこの商品は「エバー・レディ・シャープ・ペンシル」と名付けられ、この名前が詰まって生まれた言葉が「シャープペンシル」です。この名前はさらに詰まって、ついには会社の名前にまでなりました。それがいまの世界的の大手家電メーカー「シャープ」の社名の由来です。
しかし、この「早川式繰出鉛筆」は、売出し当初は、「和服に向かない」、「金属製なので冷たく感じる」など、まったくもって評判が悪いものでした。おかげで当初は全く売れません。それでも銀座の文房具屋に試作品を置いてもらうなどの努力を続けていました。「徳尾錠」の成功があったから、その利益でなんとかやりくりできたのです。もし「徳尾錠」がなければ、「早川式繰出鉛筆」はそのまま挫折してしまっていたかもしれません。
ところがこの時代、意外に思うかもしれませんが、日本の東京・銀座は、まるでニューヨークのマンハッタン並みの国際都市だったのです。そして徳次の「シャープペンシル」は、なんと欧米人の間でたいへんな人気となり、ついには西洋でも大人気商品となって育っていったのです。日本人は今も昔も洋物が好きです。おかげでシャープペンシルは日本でも売れ始めました。徳次の会社は、このシャープペンシルの大量生産で会社の規模を拡大しました。さらにこのとき、当時としては先駆的な試みである「流れ作業方式」を導入することで、製品の生産効率を格段に高めています。こうして「早川兄弟社」は、大正十二(一九二三)年には、従業員二百名を抱える中堅企業に成長しました。「早川式繰出鉛筆」も、米国特許を取得し、事業は完全に軌道に乗ったのです。
ところが、徳次は激務がたたって、過労で倒れてしまいます。二十九歳のときのことです。このときは当時としては珍しい「血清注射」による治療で命拾いをするのですが、徳次は、ようやく病から抜け出せたその翌年、三十歳のときに、関東大震災(大正十二年)に遭遇してしまいます。徳次自身は、震災で九死に一生を得るのですが、苦労を共にしてきた愛する妻と、二人のお子様を亡くしてしまいます。会社も、工場も、焼けて失(な)くなりました。借金だけが残りました。さすがの徳次も「何もかも、元に戻ってしまった」と、泣きに泣きました。死のうとすら思ったそうです。しかし生き残った社員たちが彼を励ましてくれました。
徳次は、借金の返済のために、シャープペンシルの特許を日本文房具に売却しました。それでもまだ借金が残りました。たまらず徳治は夜逃げすることにしました。夜逃げのとき、社員たちがその手伝いをしてくれたそうです。申し訳ない気持ちで一杯になりました。
徳次は大阪に逃げました。手元に残ったいくばくかのお金で、大正十三(一九二四)年、「早川金属工業研究所」の屋号で、日本文房具の下請けとしてシャープペンシルを製造する仕事を個人ではじめました。人生のやり直しをはじめた徳次のもとには、たびたび債権者が押し掛けました。いまのように法的な取立行為の規制などない時代です。借金取りは、徳治にありとあらゆる屈辱を与えました。新たに雇った従業員の前で、脅され、殴られ、罵られ、辱められる。債権者たちは、ありとあらゆる恥辱を徳治に与え続けました。死にたくなりました。
けれどこのとき徳治は思ったそうです。それが「なにくそ!」です。そして闘志を燃やしました。自分で作った人生のツケなのです。すぐにお金はなんとかなるものではないけれど、自分で作ったツケは、カタチを変えてでもなんとかして世間にお返ししなければならない。そう思い返しては、仕事に打ち込む徳治に、借金取りは容赦なく屈辱を与え続けました。
ある日、失意のどん底に陥(おちい)った徳次は、ふらふらと、まるで夢遊病者のように大阪の街を徘徊(はいかい)していました。そのとき彼は心斎橋で、アメリカから輸入されたばかりの鉱石ラジオの展示を見ました。徳次の胸の中に「どうしても作りたい」という気持ちが持ち上がってきました。徳次は一心不乱に鉱石ラジオを研究しました。そして一年後、ようやく国産第一号の鉱石ラジオを発売しました。鉱石ラジオは、方鉛鉱や黄鉄鉱などの鉱石の表面に、細い金属線を接触させ、その整流作用を利用して電波を受信するラジオです。真空管ラジオが生まれるよりも、もっとずっと以前のラジオの仕様です。昔よく学習雑誌の付録についてきた「ゲルマニウム・ラジオ」よりも古くて、性能が劣ります。アンプ(増幅器)が登場するよりも、ずっと前の時代のことです。音声信号も微弱です。ですから音はヘッドホンで聞きました。
この頃、日本でもラジオ放送が始まろうとしていました。ラジオ放送が開始されればラジオが売れる。これは実に楽しみな出来事でした。大正十三年六月一日、会社に社員みんなが集まって、大阪NHKのラジオ放送を受信しました。レシーバーから細々とアナウンサーの声が聞こえました。それを聞いたとき、従業員みんなが抱き合って喜んでくれました。
NHKのラジオ放送の開始に伴い、このラジオは爆発的に売れました。昭和四(一九二九)には徳次は、鉱石ラジオに替わる新技術の「交流式真空管ラジオ」を発売しました。以後、相次ぐ新製品の開発で、「ラジオはシャープ」の名を不動のもにしていきました。
その昭和四年は、ブラックマンデーに始まる世界大恐慌が起きた年です。関東大震災で壊滅した首都東京と、有名な「震災手形」で、日本国内は、明治以来最大のデフレ経済へと向かっていきました。世間に失業者があふれました。徳次は、貧しい人、不幸な人、身障者を積極的に雇用しました。また借金苦にあえぐ社員への援助などもしました。
徳次には、東京で自分を最後まで励ましてくれた社員たちを捨ててきてしまったという、心の負い目がありました。だからこそ、彼は形を変えて自分にできる最大の貢献を、大阪で行い続けたのです。
ラジオの普及と共に業績は拡大しました。「早川金属工業研究所」は、戦時中の昭和十七(一九四二)年に、株式会社になりました。これがいま世界に広がる大手家電メーカー、シャープの創業の物語です。
早川徳次は、晩年、色紙を求められると必ず、「なにくそ」と書きました。どんなに苦しくても、いじめられても、馬鹿にされても、傷つけられても、どんなに心を折られるような出来事があっても、絶対に負けない、くじけない。
「なにくそ」と踏ん張る。頑張る。自分が可愛いからではありません。自分を捨てることで、みんなのために頑張れる。
世の中には、幸せに、とんとん拍子に、何の苦労もなく我儘を通しながら生涯をまっとうする人もいます。ずっとエリートで、安定して良い人生を送る人もいます。けれど、とんでもない苦労を背負う人もいます。人はそれを「不幸」と言います。けれど早坂徳治さんの生涯をたどるとき、「それは本当に不幸であったのだろうか」と考えてしまいます。
耐え難い苦痛を受けるから、それを「試練」として、乗り越える。「なにくそ」と踏ん張る。頑張りぬく。
そしてその「試練」を乗り越えるとき、魂のスイッチが入る。
人生というものは、そういうものなのかもしれません。
早川徳次さんの場合もそうですが、苦痛や苦難というものは、かならず「身近なところに起きるもの」なのだそうです。
体の悩み、仕事の苦痛、すべて自分自身や、自分の身の回りで起きます。
自分とはかけ離れた事柄には悩みは起こらないのですから、これは当然のことです。
伊勢の修養団の寺岡賢講師はこのことについて、
「だから神様は乗り越えることができる試練しか与えないのです」
と述べられておいででした。
なるほどその通りかもしれない、と思いました。
徳川家康公も「人生は重き荷を背負いて坂道を昇るが如し」と述べています。
その「重荷」はかならず「身近」なことにあり、その「重荷」こそが、魂のスイッチであり、人の魂を成長させる最大の栄養なのかもしれません。
戦後生まれの昭和世代は、モノがないところが人生の出発点でした。
モノを得るために必死で働き、小さくても楽しい我が家(マイホーム)を建て、あるいは「いつかはクラウン」を人生の目標として歩んできたように思います。
ところがいまの時代は、すでにモノはあふれ、住まいもこれから先は人口減少に伴って余る時代に入って行きます。
平成に入ってから、多くの人たちが「失われた◯十年」と言います。
なるほど、物質としての経済の成長は停滞しました。
けれどその間、値段にならない価値が、ものすごく日本社会の中で進化しました。
これは武田邦彦先生の受け売りですが、たとえば自動車にしても、値段はバブルの頃とほとんど変わっていないけれど、社内の居住性や快適性といったものは、バブル期の自動車と比べて、今の方がはるかに進歩しています。
外食サービスについても、味やおいしさ、食事空間や食器などは、バブル期と比べても今のほうが、はるかに快適で、しかも美味しくなっています。
つまり、我々昭和世代が「失われた◯十年」と呼んでいる時代は、もしかすると、物質優先社会から、満足や幸福感をたいせつにする社会へと社会構造が変化する大きな過渡期であったのかもしれません。
平成生まれの世代の人たちは、物質的なものは子供の頃からすでに充足しています。
ということは、彼らにとっての人生の目的は、物質的な豊かさではなくて(つまりそれは最初から与えられているから)、もっと内面的なもの、精神的なものへと変化してきているのではないでしょうか。
それが何かと言えば、おそらく「愛、よろこび、幸せ、美しさ、快適さ、癒やし」といったものであるように思います。
カネを含めて、モノを得るためには、他人を出し抜いてでも自分の利益を優先することになります。
あるいはそのために人を使い、あるいはそこで働くことになります。
ところが、世の中の価値観が「愛とよろこび」といった、無形のものへと変化すると、それらは他人を出し抜くという形では、絶対に手に入れることができないものとなります。
この変化がおそらく「分離社会から統合化社会への変化」と呼ばれるものなのであろうと思います。
そしてこの分野で、世界の最先端にある、つまりリードオフマンになっているのは、間違いなく日本であり、日本社会であり、日本人です。
お読みいただき、ありがとうございました。

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