リガルディと「黄金の夜明け」
20世紀後半において、儀式魔術の台風の目となり、最大級の影響をおよぼしたフランシス・イスラエル・リガルディは1907年にイギリスで生まれているが、少年時代にアメリカへ移住し、アメリカ国籍を取ったためアメリカ人とされる。
彼の残した業績は、非常に大きい。「黄金の夜明」の暴露、クロウリー擁護、中央の柱、実践家に向けた数々の著書、ニュージーランドの「エメラルドの海」の再編成やアリゾナ州での活動等の戦後におけるGD魔術の復興。
こうした彼の業績については、別項で詳述したい。
彼が魔術に興味を持ったのは、17~18歳の少年時代であったらしい。この頃、彼は画家をめざしていた。しかし、クロウリーの「第四の書」を読んだのがきっかけで、クロウリーに手紙を出している。
やがて、クロウリーの高弟であり、後の4代目OTO首領となるカール・ゲルマーと接触し、「春秋分点」を読み、熱烈なクロウリー信望者となる。
1928年に彼は単身パリへ行き、クロウリーの無償の秘書となり、直接の弟子となる。クロウリーは彼に「蛇」というニックネームを与えた。
だが、クロウリーの破天荒な行いと気まぐれに、だいぶふりまわされたらしい。
とはいうものの、この時期はクロウリーの魔術活動がもっとも脂の乗った時期でり、この時期のクロウリー文書の多くを読むことが出来、これは大きかった。
1931年頃から、アシジの聖フランチェスコに興味を持ち、この聖人から貰った名フランシスを彼は愛用することになる。
1932年に彼は「生命の樹」を出版する。これが原因で彼はクロウリーと衝突し、1933年にはクロウリーと決別してしまった。
この著書はクロウリーの著書からの剽窃も多く、それでいてテレーマ教の思想を除外したものとなっている。だいぶ後になって、クロウリーに気兼ねしてか彼はこの自著を否定するような発言もしている。
しかしながら、この「生命の樹」と「石榴の園」(1932)は、実践を主眼においた儀式魔術における魔術カバラの解説書として大きな価値を持っている。実際、GD系の魔術を志す者にとっては、必読書であろう。この著書がリガルディの最初の大きな業績であったことは間違いない。
「生命の樹」と「石榴の園」の出版に対して腹を立てた人たちが他にもいた。
この著書の中には、GD系魔術の秘伝が多く含まれていたのである。
A∴O∴派の魔術師たちは、この本の出版を「秘密の誓い」を破るものとして批判し、モイナの後を継いでいた指導者のラングフォード・ガースティンはリガルディに抗議の手紙を出しているほどである。
だが、ここで彼に味方が現れる。ダイアン・フォーチュンである。
フォーチュンは、1922年にメイザースの未亡人モイナと衝突し、A∴O∴を脱退。1922年に「内奥の光協会」を設立している。
しかし、GDはメーソン系の伝統に則った結社である。親となるロッジからの「認可」が無ければ、その団は正統な組織とは見なされないという伝統がある。フォーチュンはA∴O∴と対立しているわけであるから、その後継団体とはいいがたい。
そこでフォーチュンは、1925年に「曙の星」の支部であり、その生き残りである「ヘルメス・ロッジ」に参入していた。
フォーチュンは、当時のオカルティズム雑誌のなかで、リガルディの著書を擁護したのである。これは、対立関係にあったA∴O∴への当てこすりの意味もあったのかもしれない。
「曙の星」系の「ヘルメス・ロッジ」は、この騒動の中、二枚舌戦法を取った。フォーチュンにもA∴O∴の双方に「あなたの言うことはもっともだ」という内容の手紙を出したが、肝心の便箋をそれぞれ間違った封筒に入れて出してしまったという笑い話しが残っている。
ともあれ、これをきっかけに、リガルディはフォーチュンと接近する。
1933年に二人は会見する。
そして、リガルディは、1935年にフォーチュンの紹介により、「ヘルメス・ロッジ」に参入するのである。
優秀な魔術師であったリガルディは、あっというまに位階を駆け上がり、1936年には内陣入りをした。
そこには、旧「黄金の夜明け団」から受けついた文書、ブロディ・イネスの高弟W・E・カーネギーディクソンによって持ち込まれた、メイザース・A∴O∴系の文書も多くあった。
しかし、この「ヘルメス・ロッジ」も衰退期にあった。
団の文書にも、おかしな改変が行われ、あるいは埃がかぶっていた。
首領や幹部たちにも、本格派の魔術師はほとんどいなかったらしい。
リガルディが言うには、彼が首領達にエノキアン・チェスの対戦を挑んだところ、全員がこれを辞退したという。要するに、エノキアン・チェスをプレイできる者すら居なかったという。
このままでは、貴重な魔術知識が失われると考えたリガルディは、ついに近代魔術史上の最大級の大事件を引き起こす決心をするのである。
彼は、「ヘルメス・ロッジ」にあった全てのイニシエーション儀式、や教義文書を1937年から1940年にかけて、「黄金の夜明け」という4巻の本にまとめて公開してしまったのである。
この「黄金の夜明け」4巻の出版は、魔術界にパニックを引き起こした。
何しろ、秘伝や奥義が、文字通り、根こそぎ公開されてしまったのだから。
かつて黄金の夜明けのイニシエーションが、クロウリーの「春秋分点」で、公開されたこともあったが、それは省略された内容であったので、それほど深刻なものではなかった。
しかし、リガルディは、ほぼ根こそぎに公開してしまったため、ただでさえ衰退期にあった「ヘルメス・ロッジ」とA∴O∴は、壊滅的なダメージを受けた。両団は、その後1~2年ほど、どうにか活動を続けたが、やがて自然消滅したらしい。
内奥の光協会も、これまでGDとほぼ同じ儀式を行ってきたのであるが、この事件以降、儀式の変更を余儀なくされたらしい。
しかしながら、この書の公開によって、「黄金の夜明け」の魔術は、広く知れ渡り、現代魔術の繁栄がなされたといっても過言ではない。
逆に、この公開が無かったら、GDは神秘思想史の中に埋もれて忘却されるか、未だに厳しい秘密主義のベールに隠された謎の存在として、隠れたままになっていたかもしれない。
この思い切った公開があったからこそ、現代のGD魔術があったとも言える。
事実、この本があれば、簡単な魔術結社を1つ作れてしまうであろう。
この書は、その後も増補等が行われた。これは「The Golden dawn」(Llewellyn社)と増補版である「The Complete Golden dawn System of Magic」(Falcon Press社)で、現在も入手可能である。GD系の魔術を志す者は両方を手元に置くことが望ましいが、敢て選ぶなら前者であろう。なお、前者は下記の参考文献に挙げた通り、邦訳も存在する!!
リガルディはアメリカに帰還したが、そこでは彼を誹謗中傷する怪文書が出回っていた。この怪文書を撒いたのはクロウリーだったらしい。
こうしたことから、当時の魔術界にリガルディの居場所はなくなってしまい、彼は1938年頃に魔術の実践を中断する。また、主な興味や関心がカイロ・プラティック療法やウィルヘルム・ライヒに移ってしまい、それから30年近くも魔術から離れてしまう。
しかし、彼は劇的なカムバックを果たし、再び縦横無尽の活動を再開することになるのであるが、それはずっと先の1960年代以降の話しである。
「黄金の夜明け全書 上・下」 イスラエル・リガルディ 国書刊行会
※これが「黄金の夜明け」の邦訳書である!!
「黄金の夜明け」 江口之降 亀井勝行 国書刊行会
「英国魔術結社の興亡」 F・キング 国書刊行会
「石榴の園」 イスラエル・リガルディ 国書刊行会