首領追放
アニー・ホーニマン追放等により、ロンドンのイシス・ウラニアとエジンバラのアメン・ラーのテンプルでは、メイザースの独裁に対して不満が高まっていた。
1897年にウェスコットがGDから退団すると、彼が勤めていた役職「イギリスの首領達人」の位階は、ロンドン幹部の一人フロレンス・ファーに引き継がれた。
フロレンス・ファー(1860~1917)は、かなりの美貌の舞台女優で、恋多き女としても知られている。文豪バーナード・ショーの愛人だったこともある。
彼女はW・B・イエイツの愛人だったこともあり、彼に誘われてGDに入団した。演劇に精通していたために、団の儀式の指導者となった。そして、彼女自身オカルティズムへの情熱も強く、入団するやいなや魔術に夢中になる。
彼女はエジプト趣味が濃厚であり、彼女の魔術にもその影響が見て取れる。「飛翔する巻物」の一部を執筆し、エノキアン魔術やヘルメス哲学に関する文書もものにしている。
反面、彼女はおおらかすぎるところもあり、本来極秘にしなければならないはずの団の儀式用の服を着て仮装パーティーに行った等のエピソードも残っている。
彼女は、GDの役職も少々ズボラにしてしまったようである。例えば、内陣への参入管理も、いい加減に扱っていたらしい。
1898年、もう一人の人物がGDに入団した。
そう、かのアレイスター・クロウリーである。
クロウリーは、ロンドン幹部達からは評判が良くなかった。同性愛の傾向がある不良青年。メイザース派のアラン・ベネットと近い人物。
アラン・ベネット(1872~1923)は電気技師であり、喘息と貧困に悩まされながらも、強烈な実力派魔術師として知られていた。東洋思想への造詣が深く、後に仏教に改宗し、英国仏教協会の創立者にもなっている。彼は、クロウリーから生涯に渡って尊敬を受けた数少ない人物の一人である。
ベネットは徹底したメイザース派であり、クロウリーは彼に接近することにより、ロンドン幹部達からメイザース派の一人と見なされ、ますます反感をかったらしい。
もともと謙虚さと無縁な性格なクロウリーのこと、これも災いしたのだろう。彼は団員の家を訪ねては、奇妙な詩を朗読しては、顰蹙をかっていたらしい。
1899年にクロウリーは、内陣入りを希望した。試験の成績は問題は無かったにも関わらず、フロレンス・ファーはこれを拒否した。
そこでクロウリーは1900年にパリへゆき、メイザースに助力を求めた。メイザースは忠臣に対しては面倒見が良い。ただちに彼の内陣入りを認め、5=6イニシエーションをほどこしたのである。
ちょうどこの頃、フロレンス・ファーはメイザースに書簡を送っている。
メイザースが「イシス運動」等のGDと関係の無い活動ばかりしていることに不満をもらし、いっそのことイシス・ウラニア・テンプルを閉鎖してはどうかという内容の手紙を出した。
この時、メイザースは、このロンドン幹部の反抗の黒幕にウェスコットが居ると疑心暗鬼したらしい。しかも悪いことに、この時彼はホロス夫人を、本物のアンナ・シュプレンゲルだと信じていたのである。
そして、メイザースはこの頃になると、ウェスコットのSDA書簡の捏造に気づいていた。そこで、これをネタに威嚇に用いた。「ウェスコットと秘密の首領の往復書簡は捏造である。秘密の首領と交流があるのは私メイザースだけである」と。
そうすることによって、ロンドン幹部達の黒幕であろうウェスコットに圧力をかけるつもりだった。しかし、あいにく彼らの黒幕なんてのは存在しない。
ファーは、メイザースの返信を見て驚愕した。
驚いたロンドン幹部達は、この事実を確認するための調査委員会を設置した。そして、委員会はウェスコットとメイザースに「説明」を要求した。
ウェスコットは説明をはぐらかし、肯定も否定もしない曖昧な態度を取った。「捏造というのは正確ではない、しかし証人が他界しているので証明も何もできません」。
メイザースはというと、ひたすら威嚇だった。「答える義務など無い、調査委員会など認めない、ただちに解散せよ」。
ロンドン幹部達はメイザースに出頭を要求したが、彼はこれを拒否。そして、フロレンス・ファーを「イギリスの首領達人」の座から外した。
すると、調査委員会は、イシス・ウラニア・テンプルを一時的に活動停止とし、独自の調査を始めたのである。
これはメイザースの命令を無視した行為であり、事実上のクーデターの始まりだった。
一方、クロウリーは、イギリスに帰国していた。彼は田舎でアブラメリン魔術の修行に励んでいたため、この状況をよく知らなかった。それで、内陣団員の権利である内陣用文書の貸し出しを要求したが、これを拒否され、そのうえ彼の内陣入りも認めないとの返答を受けた。
驚いたクロウリーは、パリへ赴き、メイザースの兵隊となることを志願した。
すなわち、クロウリーがメイザースの全権大使となって、ロンドン幹部達を査問にかける。そして、メーザースに忠誠を誓うならよし、逆らうようなら団から除名する。粛清を実行する、というわけだ。
この作戦の第一段階として、まずはロンドンのプライス通りにあるGD用の部屋を押さえることだ。そこにはGDの重要な文書やイニシエーションに欠かせない儀式一式が置かれているのだ。
これがいわゆる「プライス通りの戦い」である。
クロウリーは酒場で屈強な用心棒数人を雇い入れると、ブライス通りの部屋に乗り込み錠前を交換した。ただちに警官が呼ばれたが、部屋を貸している家主が留守であったため、部屋の正当な持ち主が不明であったため、交換された錠前はそのままにされた。
しかし、家主が帰宅すると、ロンドン幹部達は、すぐに錠前をまた交換し、部屋を奪還した。
そこで、再びクロウリーが、再奪還すべく部屋に向かった。またもや警官が呼ばれた。
クロウリーは、この部屋の中身は団の首領たるメイザースの物と主張。ロンドン幹部たちは、団の物であると主張した。警官は、民事不介入であるとし、弁護士に相談すべきであると言ってクロウリーを帰らせた。
そこでクロウリーは、フロレンス・ファーが、メイザースの財産を不当に横領していると告訴した。しかし、ロンドン幹部側も弁護士をたて、部屋の中身は「団」の財産であると主張した。法的に争っても勝ち目が無いことに気づいたクロウリーは、告訴を取り下げた。
この間、両者の間に魔術戦が行われたらしい。
クロウリーは、ロンドン幹部達が自分を呪っていると信じた。メイザースから貰った薔薇十字章は変色し、彼を見た馬が不自然に興奮し、雨合羽が自然発火したという。精神にも異常な影響が現れ、理由も無いのに不安や怒りの感情に襲われたという。
これは全く根拠が無いわけではない。ロンドン幹部達は、クロウリーの愛人のアストラル体を呼び出し、「説得」した。すると、彼女はクロウリーから虐待を受けたと警察に訴えたという。
クロウリーは、ロンドン幹部に魔術的に反撃すべく、テュフォン・セトを喚起した。だが、この呪いは成功しなかったらしい。
当然の如く、クロウリーの査問に応じる幹部は一人もいなかった。
この騒動により、ロンドン幹部は激怒し、ついに1900年4月19日に、メイザースとクロウリーを団から追放する決定を下した。
クーデター軍の主な幹部は、ホロレンス・ファー、W・B・イエイツ、ハンター夫妻、M・W・ブラックデン、ヘレン・ランド、チャールズ・ロシュー、ヘンリエッタ・パジェット、リーナ・ヒューズ等である。
そして彼らは、首領追放後に、新執行部を選出した。
この新執行部には、あのメイザースによって追放されたアニー・ホーニマンが復帰した。
また、女性団員へのセクハラ疑惑により評判の悪かったメイザース派幹部のエドワード・ベリッジもこの時に追放されてしまった。
ベリッジは、ただちにメイザースと連絡を取り、独自の新イシス・ウラニア・テンプルを設立する。
これが、GDの最初の分裂であった。
エジンバラのアメン・ラー・テンプルはというと、メイザース派も居たが、結局のところロンドン幹部側に付いた。
一方でアメリカのトート・ヘルメス・テンプルはメイザース側に付いた。
ウェスコットの行動は一番奇妙だ。
メイザースは、この反乱の黒幕はウェスコットではないかと勘ぐっていた(そんな事実は無かったのだが)。ロンドン幹部は以前、ウェスコットに心を寄せる者も多かった。
ロンドン幹部達は、ウェスコットに復帰を要求したが、彼はこれ断り、ベリッジの新イシス・ウラニアの首領として入団したのである。
要するにこれは、例のSDA書簡捏造の件を突っ込まれることを避けるためであったと思われる。
クロウリーはというと、困惑しながらパリに戻った。
そこでメイザースは、豆に反乱団員達の名前を書き込み、黒魔術を実践していた。
意気消沈したクロウリーは、そのまま魔術修行を中止して、何もかも投げ出して旅に出てしまった。
これで、騒動は二派の分裂で取り敢えず終息を迎えたのである……とはいかなかった。
スフィアのトラブル、A・E・ウエイトのクーデターという大きな騒動が、まだ続くのである。
「黄金の夜明け」 江口之降 亀井勝行 国書刊行会
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