エメラルド・タブレット
12世紀以降になると、キリスト教圏のヨーロッパにおいて錬金術は盛んに研究、実践されるようなる。それと同時に、ヘルメス・トリスメギストスによって書かれたとされる文書がいくつも現れた。その中でも最も有名なものが、この「エメラルド・タブレッド」、あるいは「ヘルメスのスマグティナ碑文」であろう。
実際、中世ヨーロッパから近代の錬金術師で、これを知らない者などなく、また有名な錬金術師のほとんどが、この文書への注釈をほどこしている。
伝説によると、この文書はヘルメス・トリスメギストス自らが、エメラルドに板に掘り込んだものだという。そして、ヘルメスの墓に彼と共に埋葬された。それを、かのアレクサンダー大王が発見した。あるいは、アブラハムの妻のサラが発見した、とも言われる。
実際には、これが広く知られるようになったのは、12世紀のラテン語訳が登場してからである。それ以前には10世紀に書かれたアラビヤ語の錬金術書「創造の秘密と自然の技術の書」に付録として収録されていた。この本の著者は、ティアナのアポロニウスとされるが、実際はイスラム教徒の錬金術師の著書である。また、既に9世紀には、ゲーベルによるアラビヤ語訳が存在したとの説もある。
どちらにせよ、このアラビヤ語以前に、4世紀頃にギリシャ語で書かれたオリジナルが存在したと考えられるが、残念なことに、そのギリシャ語原本は現存しない。
このエメラルド・タブレットのラテン語訳にはいくつもの種類があるが、有名なものに17世紀にアタナシウス・キルヒャーがアラビヤ語から翻訳したものがある。
ともあれ、この文書は短いながらも、実に見事に錬金術の思想、ヘルメス哲学の思想が凝縮されている。これが、後世のヘルメス哲学者や錬金術師に重視されたのも、当然の結果であろう。
「Verum est sine mendacio,certum et verrissimum:Quod est inferius est sicut id quod est superius.Et quod est superius est sicut id quod est inferius,ad perpetranda miracula rei unius.(これは偽りのない真実にして、確実で最も真実なことである。下にあるものは上にあるもののごとく、また上にあるものは下にあるもののごとくであるが、それは唯一なるものの奇跡の成就のためである。)」
この冒頭の一文で、いきなりヘルメス哲学の最も重要な思想が要約された形で解説されている。すなわち、マクロコスモスは模倣と言う形でミクロコスモスを流出したが、この両者は互いに感応し合い、一致し、相互変換する関係を説いている。
「Et sicut res omnes furunt ab uno,meditatione unius:sic omnes res natae fuerntab hac una re,adoption.(万物が一者より来て存在するように、万物は順応によって一者より生じた。)」
ここにおいて、新プラトン主義の宇宙創造、流出説と上記のヘルメス哲学を合体させた思想が表現される。
引き続き、文書は続く。
「太陽はその父であり月はその母、風がそれを胎内に宿し、大地が乳母。これは全世界の全ての完成の父である。その力は大地において完全なるものである。火から土を、粗大なものと精妙なものを、見事に、極めて巧みに分離せよ。それは地上から天へと上昇し、再び大地に下降し、上なるものの力と下なるものの力とを受け取る。かくして汝は全世界の栄光を手に入れ、ゆえに全ての暗黒は汝から離れるであろう。これは万物のうちで最強のものである。なぜならそれは全ての精妙なものに打ち勝ち、あらゆる固体に浸透するからである。このようにして世界は創造された。以上の次第が、驚くべき順応の源である。このため私は全世界の哲学の3つの部分を持つために、ヘルメス・トリスメギストスと呼ばれた。太陽の働きについて私が話したことはこれで終わる。」
普通に見れば、確かに意味不明のアホダラ経である。
しかし、ヘルメス哲学を知るものが読めば、これは宇宙の全一性の教義や天地にある万物の間にある、あるいは宇宙の創造と錬金術作業との間にある、類比と交感の教義が含まれていることが分かるであろう。
「錬金術」 セルジュ・ユタン 白水社
「錬金術大全」 ガレス・ロバーツ 東洋書店
「錬金術事典」 大槻真一郎 同学社
「世界神秘学事典」 荒俣宏 平河出版