エッティラとアリエット


 あのエッティラ版タロットの産みの親、ジャン・バプティスト・アリエットの生涯については、未だに謎が多い。
 彼は1783年にフランスで生まれた。長らく彼の本職は理髪師ないしかつら職人だと思われてきたが、これは伝説で、本職は出版業者か数学教師であったらしい。と言うのも彼は1772年以降の著書で自分のことを「代数学の教師」を自称しているからだ。あるいは、最近の研究で、穀物や種子を扱う商人であったとも言われている。
 そもそも彼が理髪師と誤解された原因は、パリのシャルトル街の「理髪師の家」と呼ばれる所に住んでいたためであるという。

 彼は1763年に結婚し、1767年に離婚。彼がカード占いに関心を持つようになるのは、この頃かららしい。
 彼が最初にカード占いの本を出すのは、1770年のことである。この時、既に彼はエッティラというペンネームを用いていた。これは彼の本名のアリエットを逆に綴ったものである。
 この最初の本は「エッティヤあるいはカード遊びの楽しみ方」である。ただし、これはタロットではない。ピケと呼ばれる32枚のトランプを用いた占いである。トランプとは言っても、これは数札の一部しかなく、スートも物によってはパッと見がタロットの小アルカナに酷似しているものもある。ここにおいて、彼は彼独自の占いのルールを規定した。また、ここでは「逆位置」も採用している。
 この著書には茶葉占いや卵占い等も混在した一般向けの占い入門書であった。
 しかしながら、これによって、彼はカード占いの達人として知られるようになった。
 彼の伝説で最も有名なものは、フランス革命の血なまぐさい惨事を予言したことだ。
 そして、彼こそが、カード占いを職業にした最初の人物でもあった。彼は医者が「かかりつけ」になるように、「心の医者」たる占い師も「かかりつけ」とすべしとして、熱心な顧客からは月々の月謝を要求した。
 彼は上流社会の人間を多く顧客につけ、財を築いた。カード占い師として、これほど成功した物は、ほかにはル・ノルマン嬢ぐらいのものであろう。

 エッティラがタロットの熱心な研究家となったきっかけは、やはりクール・ド・ジェブランのエジプト起源説に触れたためらしい。
 ジェブランは「現代世界との比較で分析された古代世界」という本を1782年に出しているのだが、その第7巻で、タロットは古代エジプトの「トートの書」の名残であると主張した。
 エッティラは、この説をいち早く支持した。そして、ジェブランの説をさらに補完し、証明しようとしたのである。
 当時、ヨーロッパでは「エジプト熱」なる古代エジプトが大流行していたし、カード占いに秘教的な意味合いを求めていた彼にとっては、たいへん魅力的なものだったのであろう。

 エッティラは、そのジェブランを賞賛する一方で、1783年に「タロットと呼ばれるカード遊びの楽しみ方」という4分冊からなる本を、出版検閲局に何度も拒否されながらも、出版した。
 これこそが、まさにエッティラ版タロットの理論書とでもいうべき代物である。
 この著書が発行された年から遡ること3953年前、すなわちノアの大洪水の171年目に、かの偉大な知恵者ヘルメス・トリスメギストスによって選ばれた神官達に秘儀を伝授した。その秘儀とは宇宙の真理、人類の歴史、万能の治療薬の知識を含んだものであった。
 これこそが「トートの書」であり、ヘルメス・トリスメギストスの17人の弟子達によって、78の神聖文字に対応した78の章から成るという。
 アリエットの説によると、タロットとは、この78の章を要約したものであり、オリジナルのそれは黄金の板に刻み込まれ、メンフィスの神殿に安置されていたのだという。

 彼は、自分のオカルティズム理論に基づき、タロットの体系を改変させた最初の人物でもあった。この行為は後世のオカルティストから批判も受けたが、多くの人間が彼の後に続いたのも事実である。
 それに、アリエットにとっては、これは「改変」ではなく、「長い時代の中で変形してしまったタロットを、本来の姿に戻す」ことであった。
 彼はヘルメス哲学者でもあった。したがって、錬金術の哲学的な側面も研究していた。当時、旧約聖書の世界創造の記述を錬金術の作業と照応させることが盛んに行われていたが、アリエットもそれを支持していた。
 ゆえに、彼はタロットを、ヘルメス哲学、当時のエジプト熱、錬金術、旧約聖書、数学魔術なども絡めて大幅な改造を行ったのである。
 この改変は非常に大きく、ライダーやマルセイユ等の一般的なタロットに慣れ親しんだ人が、いきなり手にすると面食らうこと必定であろう。
 彼は大アルカナの名称を変更した。絵柄も改変させた。また、78枚のカード全てに、1から78までの通し番号を入れ、順序までも変更してしまった。例えば「愚者」のカードをNo.78とし、小アルカナのさらに一番最後に持って行っていまったのだ。
 これは非常に奇抜に見えるが、彼の説では、もともとタロットは「トートの書」という1冊の書物であったわけだから、これは当然の結果なわけである。
 
 彼のタロットの№1は「混沌」であり、№2は「光」で世界創造の1日目である。№5の「世界」が6日目に割り当てられているが、これが世界創造の完了であり、№8の「エヴァ」が7日目の安息日に照応する。これはまさに、ヘルメス哲学、錬金術の作業を「旧約聖書」の世界創造と照応させた思想であり、これをタロットとも照応させようとした試みなのである。
 アリエットは、こうした思想をヘルメス文書の一つ「ピマンデル」とも関連付けている。

 続いてエッティラは1786年には「完全なる金属論 哲学的ヘルメrスの七つの作業」、1787年には「額を吟味することによって人を知る術、古代賢人の人相学の理論」、「掌の線と特徴を読む術 手相学の理論」という錬金術や人相、手相の本を出す。

 彼は、自分の考える真の姿のタロットの復元をもくろむ。
 1788年に「トートの書の解釈会」というタロット研究のサークルを作る。これで彼は真のタロット製作のための資金をも集めた。
 そして、1789年に、ついに名作エッティラ版タロットが出版される。このタロットの登場は衝撃だった。多くの別バージョンのエッティラ版タロットが後に続いて作られ続け、一時期フランスではタロットと言えばエッティラのタロットで、マルセイユ系の伝統的タロットを隅に追いやってしまったこともあった。アメリカにおいてライダー版タロットがマルセイユを追いやったように。
 同1790年には彼は「ヌーベル・エコール・ド・マギ」なる魔術研究サークルを創設する。
 これの意義は大きく、彼の弟子達がエッティラの思想をまとめた「トートの書の理論と実践の訓練 芸術、科学、神託の知恵の理解」を出版した。
 1791年からは、彼は週刊誌の発行を始める。これは4ページからなるパンフレットだった。しかし、内容はオカルティズムというよりは、政治的な内容のものだったらしい。当時のフランスは、かの大革命のさなかにあり、エッティラもこれに興味を持たずには済まなかったのであろう。

 アリエットは同1791年に死去したが、かのロゼッタ・ストーンが発見されたのは、そのわずか8年後の1799年である。そして、かのシャンポリオンのヒエログリフ解読によって、タロット・エジプト起源説は学問的には崩壊してしまった。
 しかし、秘教的な思想としては生き残り、多くのオカルティスト達を魅了した。
 アリエットの弟子として著名なのがド・ユグランことジェジャレルである。彼は師がタロットと占星術を照応させた思想をさらに発展させ、タロットによる「惑星時計」のような理論を築き上げた。
 エッティラのタロットは、その後も何種類ものバージョンを生みながら出せれ続け、一時期はフランスのタロットの主流派となったことすらある。
 また、タロットとオカルティズムを結びつける思想も、彼がいたからこそあったとも言えるであろう。
 ずっと後世のエリファス・レヴィも、アリエットの説を批判しながらも、タロットと秘教との関連を指摘した業績は大きいと認めている。


「タロット」 鏡リュウジ 河出書房新社
「オカルティズム事典」 アンドレ・ナタフ 三交社
「タロット大全」 伊泉龍一 紀伊国屋書店