カリオストロ伯爵とエジプト儀礼


 フリーメーソンにオカルトを結びつけた最も重要な要素は「テンプル騎士団起源説」である。そして、もう一つ、それに次いで重要なものが「エジプト起源説」である。
 この「フリーメーソン・エジプト起源説」は、百年以上に渡って、ヨーロッパのオカルト界に影響を与え続けることになる。
 これがいわゆる「エジプト熱」との相乗効果もあって、オカルティズムに様々な影響を与えた。タロットカードのエジプト起源説がクール・ド・ジェブランによって唱えられ、エジプト産のミイラは万能薬になるとされ、その粉末を服用することすら流行した。
 また、西洋魔術の起源はエジプトにあるとされる。あの「黄金の夜明け」などでも、エジプト趣味の入ったイニシエーションが行われていた。

 この「フリーメーソン・エジプト起源説」について語るなら、あの奇態な人物カリオストロ・アレクサンドロ・ディを無視することは出来ない。
 なぜなら、このエジプト起源説を提唱し、「エジプト式儀礼」なる魔術色の強い儀式をフリーメーソンに持ち込んだのは、彼であるからだ。

 このカリオストロの評判はお世辞にも良いとは言いがたい。彼の名前には、「詐欺師」とか「山師」とかいうのが、よく」冠せられる。
 また、彼は文学作品にも良く登場するが、概してロクな役は与えられていない。胡散臭い自称魔術師、詐欺師、怪しげな術を使う山師……。
 本当の所はどうなのであろうか?
 彼は確かに、詐欺師的な部分もあった。いや、詐欺の事件も確かに起こしている。
 しかし、彼は、同時に真剣なオカルティストであった、という再評価がされるようになってきている。
 そもそも、優れたオカルティストは大なり小なり山師的な部分をもっていることが多い。カリオストロやクロウリーは、その極端な例であろう。

 カリオストロの本名は、ジュゼッペ・バルサモ。1743年にシチリア島で生まれたらしい。少年のうちに修道院に入れられたが札付きの不良少年で、お祈りの時間に冒涜的な悪ふざけをしでかし、追放される。
 その後、彼はアルトタスという優れたギリシャ人錬金術師の弟子となり、オカルティズムを学んだ。そして、師匠に連れられて、エジプトや中近東、マルタ島、ロードス島を旅行して回ったという(が、確かな証拠はない)。
 そして、1768年にロレンツァという類まれなる美貌の女性と恋に落ち、結婚する。
 その後、このおしどり夫婦は、ヨーロッパ中を旅し、多くの偽名を駆使しては社交界に乗り込み、胡散臭い商売を繰り返していたらしい。
 彼がカリオストロ伯爵を自称するのは、1776年のことである。
 そして、彼がフリーメーソンに参入するのは、1777年のことだ。そのロッジは、やはりというかテンプル騎士団系フリーメーソンの厳格戒律派で、「希望ロッジ」と呼ばれる支部であった。
 これの参入すると、カリオストロは、フリーメーソンの活動に夢中になる。
 彼は露天の古書店で、ジョージ・ガストンなる人物が書いたエジプトの魔術とフリーメーソンに関わる文書を入手したと主張した。これにより、彼は「エジプト儀礼」なる、現代のフリーメーソンの儀礼の基となったイニシエーションを発見した、と主張した。
 彼によると、フリーメーソンの創立者は、ソロモンの神殿の建設の時代よりさらに過去に遡ること千年以上、預言者エリヤとエノクであるという。エノクは将来ソロモンの神殿が建てられることを知っており、神殿が建てられることになるモリヤ山の内部に九層からなるアーチで覆われた地下室を設け、その最下層をなす礎石に「テトラグラマトン」を刻んだ三角形の銘板を設置した。これこそが後のフリーメーソンのシンボリズムとなる…・・・。
 もちろん、ピラミッドを建設したのも、フリーメーソンの石工でしかあり得ない!!
 カリオストロは、こうしたエジプト起源説を基に、新たなフリーメーソンの分派、「エジプト・メイソンリー」を設立した。
 これは女性の参入を認めていたことを除けば、だいたい標準的なフリーメーソンと同じだったという。位階制も上位位階を3つにするなど、ほぼ同じだった。最高位は「大いなるコプト人」なる位階で、これにはカリオストロが就任した。
 規則も、標準的なフリーメーソンの「陸標(アンダーソン憲章の基礎となった実践派メーソンからの規則)」を尊重するものだったという。
 このエジプト風メーソンで、彼は「エジプト式儀礼」なる古代エジプトから伝わるイニシエーションを行った。
 これは具体的にどのような儀式だったのか?
 参入者は白いローブを着せられ、各色の帯を締めさせられる。この帯の色に従って参入者達は6組に分けられる。そして参入者達は「寺院」と呼ばれる帳の内部に招かれる。すると、剣を手にした者が二人入って来て、参入者を縛る。すると、そこに「偉大なコプト人」カリオストロが入って来て、縄を解き、秘密の叡智を明かされる。
 この儀式の最中、参入者は裸にされる等の性的な胡散臭さを報告する記録もあるが、真偽は分からない。
 だが、大雑把に眺める限り、このエジプト儀礼は、束縛と解放を扱った、従来のフリーメーソン儀礼に、ちょっと手を加えただけのように思える。
 そもそも、シャンポリオンがヒエログリフを解読する相当昔の話しである。彼が正確なエジプト式のシンボルを使えるはずは無いのだ。

 だが、ここで強調すべきは、カリオストロはフリーメーソンの活動に関しては、大真面目だったということだ。
 これは、彼を詐欺師と弾劾する歴史家達も認めている。少なくとも、彼は壮年期に入ってからは、金目的の詐欺は殆ど行っていない。また、彼らは貧民救済のボランティアに非常に熱心だった。これは彼がフリーメーソンの精神を尊重していたからに他ならない。
 また、彼はインチキ薬を売ってたとの批判もあるが、最近の調査で、彼の処方した薬剤は、当時の医学に準じたまともな物であったことも判明している。

 また、彼らは魔術に強い関心を持っていた。
 特に彼が熱中したのは、一種の透視術で、「鳩」ないし「孤児」と名づけた子供の霊媒を用いて、水のはった器を覗かせては、透視や未来予知を行った。記録によると、この予言は非常によく的中したという。
 また、コルネリウス・アグリッパの著書からゲマトリアの方法を知り、これを改造して独自の姓名判断を行った。

 ともあれ、彼はヨーロッパの社交界で一躍スターとなったことは間違いない。
 彼はエジプト風メーソンの教義にある「エリヤやエノクの弟子は決して死なず、いずれはエリヤのように肉体を持ったまま、天国へと登る。また、12の命を持っていて、一度死ぬたびに不死鳥のごとく遺骨から蘇る」を引き合いに出し、自分は数千年も生きていると仄めかし始めた。これはサンジェルマン伯爵の法螺の真似だろう。
 社交界には、彼を偉大なオカルティストと信じる者もいたし、いかれた山師とみなす者もいた。どちらにしても、皆カリオストロを面白がり、彼らからの寄付金、メーソンへの入会金などによってひと財産を築き上げた。
 だが、彼の後半生は、転落の一途だ。
 ロシア宮廷で、浮気がらみのスキャンダルに巻き込まれ、パリに戻って来ると今度は、あのマリー・アントワネットを巻き込んだ詐欺事件「首飾り事件」のとばっちりを食らう。
 その後、彼はイギリス、スイス、オーストラリアを転々とするが、いずれもかつてのような成功は収められなかった。
 そして、イタリアのローマでエジプト風メーソンのロッジを開設しようとした。が、これはまずかった。バチカンとフリーメーソンの対立が深刻化していたこの時期、彼は格好のスケープゴートとされた。
 1789年、彼は異端の嫌疑をかけられ逮捕される。
 そして、彼は釈放されることはなく、1795年に獄死。52歳だった。

 なお、この後、ちょっとした後日談がある。
 フリーメーソンの信望者だったカリオストロは、当然のように政治思想は啓蒙主義を支持していた。彼は「フランス人への手紙」なる啓蒙主義の本を書いている。これは、フランスではちょっとしたベストセラーになった。この本の中で彼は、古い秩序が新しい秩序に取って代わることを予見している。フランスはやがて、投獄や追放を勝手に決める権限は消滅し、国会を召集する大公を抱くようになるだろう。その時こそ、バスチーユの監獄は取り壊され、公衆のための遊歩道となる。その時が来るまで、私カリオストロはフランスには戻らない……。
 この本が、どの程度までフランス大革命に影響を与えたかは分からない。
 しかし、革命政府は、カリオストロを「革命の英雄」の一人である、と認定した。
 そして、カリオストロをパリに迎えようと彼を探したが遅すぎた。その時、彼はこの世になかった。