見えない大学とイギリスの薔薇十字団
そもそもの薔薇十字運動の起源はイギリスにあったという説がある。
当時、ドイツではプロテスタント勢力とカソリック勢力が対立していた。プロテスタント勢力としてはボヘミア国王フリードリヒ4世であり、カソリック勢力としてはハプスブルグ家の皇帝であった。両者は1620年に武力衝突し、フリードリヒ4世の敗北で終わった。しかし、この時イギリスはフリードリヒ4世を支持しており、イギリス王室はジェームズ1世の娘エリザベスを、王妃として政略結婚させていた。
言うまでも無く薔薇十字文書は、極めてプロテスタント的である。そして、既存の旧勢力に対する革命的な思想も含んでいた。
すなわち、この薔薇十字文書は、フリードリヒ4世を支援する政治的な宣伝ビラ的な意味を持っていたのではないか、ということだ。
では、誰がこんな政治工作をしたのか? それはジョン・ディーではないか、ということだ。ディーは1580年代にはドイツにおり、ハプスブルグ家のルドルフ2世や上記のフリードリヒ4世の盟友であり熱心なプロテスタント信徒であったアンハルト侯らと接触している。この時、ディーはイギリスのスパイとして、密かに政治的工作をしていたのではないか? ということだ。
薔薇十字文書が、魔術、ヘルメス哲学、カバラ思想を含有しているのは、この魔術師であるディーによって作られたからだ……。
面白い仮説だが、出来すぎてるようにも思う。
ともあれ、薔薇十字運動はイギリスでも花開く。
きっかけは、ジェームズ朝最大の魔術師ことロバート・フラッドの著書と、ミヒャエル・マイヤーの著書が英訳されたことによる。
フリーメーソンと薔薇十字団の結びつきはドイツの黄金薔薇十字運動で結実されるが、こうした思想は19世紀のイギリスにおいて根付くことになる。
1804年にヨハン・ゴットフリート・ブーレは、「化学の結婚」が行われたとされる1459年はドイツ、オーストリア等の建築家の親方がレーゲンスブルクで会合を開いた年と一致することを論拠にして、メーソンと薔薇十字団は起源を同じにすると主張した。
トマス・デ・クインシーは1824年に、フリーメーソンの起源は薔薇十字団にあると主張した。彼が言うには、1633~46年の間に薔薇十字運動はイギリスに入っており、この時イギリスの石工ギルドとの間に、両者の同化が行われたのだと主張した。
メーソンと薔薇十字のはっきりとした形を持った、かつ物証もある結合は、ドイツの黄金薔薇十字運動であった。しかし、それ以前にも、既に伏線となる動きがあったのではないか、という上記のような魅力的な推測は多くの人によって成され、一概には否定できない説得力を持っている。
上記のクインシーの推測も全く根拠が無いわけではない。
例えば、薔薇十字文書が登場した時と、同じ時期に既にイギリスにこの思想を支持し、それに倣った友愛団を組織した宮廷の有力者がいた。宮廷学者にして王の相談役だったライアス・アシュモールがそれである。また、かのアンドレーエの弟子や盟友達が、同じ時期にイギリスを訪れている。注目すべき人物は、サミュエル・ハートリブ、ジョン・デュリー、ヤン・アモス・コメニウスである。
どちらにしても、薔薇十字文書は、既に1652年に英訳され、出版もされているのである。
フリーメーソンの発生がイギリスであることを考えれば、メーソンにある象徴の数々が、こうした17世紀に起こったイギリスへの薔薇十字思想の流入と結びつけて考えたくなるのは、人情であろう。
また、自然科学史において、極めて重要な役割を果たした英国王立学会(ロイヤル・ソサエティ)の設立は、薔薇十字運動にあったのではないか、という説もある。
1660年に王政復古が行われ、チャールズ2世が即位する。この王の名の下に王立学会は設立された。かつての清教徒革命やクロムェルの恐怖政治によって、流血沙汰にうんざりしていた人々は、なるたけ平和な方法を取るべく努力していた。したがって、「宗教の議論はしない。純粋に科学だけを議論する」、「実験ならびに科学的データの蒐集と吟味、審査を主な仕事とする」という、この王立学会の規則は、こうした政治的予防策に端を発していた。しかし、この規則ゆえに、この学会は人類の科学発展に大きく貢献することになるのだが、それは後の話しである。
先に述べたアンドレーエの弟子のコメニウスは、この王立学会は、自分らの活動の継承である、と自著に書いている。
王立学会の起源はオックスフォードの自然哲学および実験哲学に興味を持つ学者グループにある。その主なメンバーとしては、ボイルの法則で有名なロバート・ボイル、ウィリアム・ベティ、クリストファー・レンらがいた。この会合は1648年から始められ、1659年まで続いた。そして、主だったメンバーがロンドンに移って、1660年に王立学会を設立することになる。
このオックスフォードのメンバー達は、あきらかに薔薇十字運動を知っていた。
まず、学会の創立の中心人物であったジョン・ウィルキンズは、自著の中で「薔薇十字の名声」からの引用を行っている。また、彼は自著「数学の魔術」の中で、かの永遠に光を放つランプについても考察を行っている。どちらにせよ、ウィルキンズはロバート・フラッドの「両宇宙誌」を土台に思想を構築しており、薔薇十字を知らないほうが不思議なのだ。
また、ボイルは手紙その他の中で、「見えない大学」なる理想の学院について言及している。この「見えない大学」とは実在したのか? どのようのなものだったのか? 王立学会の雛形と見て良いのか? これは今も科学史家達の間で議論の絶えない問題である。だが、この「見えない大学」こそが、薔薇十字団の言い換えた名前ではなかったのか? この説は信憑性はともかく大変に魅力的な説ではある。
もっとも、仮に英国王立学会が薔薇十字運動の結果の一つだったとしても、それは厳密な意味での薔薇十字思想を受け継いだものとはいえないと思う。この学会は、病人の治療もしなかったし、社会の改革にも革命にも興味は示さなかったし、またヘルメス哲学の精神の変容の思想も放棄してしまっていた。
むしろ注目すべき動きは2世紀以上後の1860年代になってから起こる。ずっと上記で書いた通り、薔薇十字とメーソンを結びつける仮説が本格的に紹介されるようになった後である。
それは、ロンドンのメーソン会員であったロバート・ウェントワース・リトルとケネス・マッケンジーによって行われる。二人は、ドイツで消滅した黄金薔薇十字運動をイギリスに移植しようとしたのである。
特にマッケンジーはドイツ語に通じており、ドイツ人の薔薇十字団員からイニシエーションを受けたと自称していた。彼はエリファス・レヴィとも親交があったこともあり、一説には彼こそがGD設立の基となった「暗号文書」の著者ではないか、と推測する人も居る。
リトルは1865年に、「コンスタンティヌスの赤十字」という組織を作った。
その翌年の1866年にリトルは、エジンバラにあった薔薇十字系の団に入団している。それはフリーメーソンの変形した組織であった。彼はそこであっという間に高位階に昇進する。
翌1867年に、リトルは「赤十字」を再編成し、ついに「英国薔薇十字協会(SRIA)」を設立した。当時の儀式は極めてスコットランド式メーソン的なものだったらしい。リトルは1868年にマッケンジーから借りたドイツの文書にあった儀礼と比較し、またマッケンジーの助力を得て、儀式を作りなおしたらしい。
マッケンジーは1872年に英国薔薇十字協会に加入したが、リトルと意見が合わずに1875年に退団している。
かのブルワー・リットンは、確かに会員ではあったが、本人の知らない間に勝手に1871年に名誉会員にされてしまったらしい。リットンは後から、そのことを知ったが、それを受け入れた。しかし、彼は一度も会合に出席したことはなかったらしい。
かのウィン・ウエスコットが入会するのは1880年であり、彼は1891年にウッドマンの死によって同団の指導者たるマグスの要職を引き継いだ。リトルが初代、ウィリアム・ロバート・ウッドマンが2代目(1878年に引き継いだ)、そしてウェスコットが3代目である。
そして、かのマグレガー・メイザースも入団し、これで役者は揃ったことになるのである。
「薔薇十字の覚醒」 フランシス・イエイツ 工作舎
「薔薇十字団」 クリストファ・マッキントッシュ 平凡社
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