ウェスコットと黄金の夜明け黎明期


 1888年に設立された黄金の夜明け団は、近代魔術の母体と成る。そして、様々な流派や多種多様な近代の神秘主義にも巨大な影響を与えた。しかし、これは逆に言うなら、分裂や抗争があったことをも示している。
 こうした歴史を知ることには賛否両論もある。魔術の実践とは無関係なスキャンダル趣味ではないのか? 同時に、過去の先達の業績だけではなく失敗を知ることも、今後のために重要である。彼らの思想をより深く理解するためにも、彼らの人生や行動を知ることも重要だとも。どちらにしても、尊敬すべき過去の先達の負の側面をも見ることになるので、辛い点もあるかもしれない。
 だが、私は敢て、ここではこの議論については、ノーコメントで通したい。
 そしてここでは、このような歴史を、(極めて簡略化した形ではあるが、)単純に紹介したい。

 黄金の夜明けの中心人物は、ウィン・ウェスコット博士である。1848年に外科医の息子として生まれた。しかし、彼の両親は彼がわずか10歳のときに死去し、孤児となっている。同じく外科医の叔父に引き取られ、高度な教育を受け、彼もまた医学の道に進んだ。
 1871年には医師の資格を得て、1881年にはロンドンの検視官となっている。
 彼は非常に学識のある人物で、オカルティズムの作業もまた、学術的な側面も強い。
 彼の著書としては「創造の書」、「ベンボー枢機卿のイシス・タブレットの歴史とオカルティズム的考察」、「数字の秘められた力と神秘的効果」、「サンクタム・レグナムの魔術儀式」、「カバラ入門」、「ヘルメス文書集成」、その他にも多くの団内文書も書いており、それらはGD系の魔術師たちからも珍重されている。
 彼は、温厚で友好的な好人物として知られている。同時に、シュプレンゲル書簡の捏造や、後年のGDの内紛の見事な泳ぎ方などを見ても分るように老獪なタヌキ親父的な側面もあった。
 さらに、時おり火のような激しさを見せることもある。実際、彼は薔薇十字思想を貶めるようなことする人物に対して、激しい批判の文章を書いたりした。
 また、彼はブラバツキー夫人とも親交があり、GDと神智学協会東洋部とは友好関係にあった。また、GDにも神智学協会の会員が多くいた。
 ウェスコットは、「イギリスの首領達人」という役職に付いた。議事記録、5=6位階への認定監督、通信係、会計監査をこなし、事務仕事においても有能な人物であった。
 彼はメイザースの影に隠れがちだが、その実、途方も無い大物オカルティストであったことが分るであろう。

 GD創立時の指導者としては、他にウィリアム・ロバート・ウッドマンがいる。彼は1828年に生まれ、1851年に医師の資格を得て開業している。カバラの研究家としても知られ、「英国薔薇十字協会」の会誌の編集を行い、さらには会長にも就任している。
 彼はどちらかというと、GDに権威を与えるために名前を貸すために指導者の一人となった感が強い。彼はGD設立のわずか3年後の1891年に死去しているため、GDの歴史ではほとんど出てこない。

 ごく創立当初のGDは、儀式魔術を行う魔術結社というより、オカルティズム好きの中産階級が集う社交クラブ的な色彩が強かったらしい。これは「英国薔薇十字協会」の雰囲気を踏襲したものといえる。
 初期の入団者としては、後の哲学者アンリ・ベルグソンの実妹にして後のメイザース夫人になるモイナ・ベルグソン、アニー・ホーニマン、ノーベル文学賞詩人のW・B・イエイツ、魔術史家にして神秘主義思想研究家のA・E・ウイエト、実力派魔術師として知られるブロディ・イネス等が挙げられる。
 1888年ロンドンに創設された最初の団は、イシス・ウラニア・テンプルと呼ばれる。これはドイツにあるという「リヒト・リーベ・レーベン」、「ヘルマニュビス」に続いて3番目とされた。しかし、ドイツ本部のテンプルは架空の存在であり、「ヘルマニュビス」には実在説もあるが少数のイギリス人からなる前身のような団であったらしく、従ってイシス・ウラニア・テンプルが事実上の元祖であろう。
 同年、2つの支部が設立された。
 一つはウェストン・スパーメアに作られたオシリス・テンプルである。これは英国薔薇十字協会の会員だったベンジャミン・コックスによって建てられた。これは団員数も10名と小規模であり、寿命も短く1895年にコックスの死と共に自然消滅した。
 もう一つはブラッドフォードにT・H・パティンソンによって設立されたホルス・テンプルである。

 最初の大きな変化は1891年である。
 メイザースはパリ滞在中に「秘密の首領」と接触したらしい。これがきっかけとなり、団内でのメイザースの権威は嫌でも高まった。
 これにより、メイザースは団の大改革を実行する。魔術史に残る名儀式5=6位階のイニシエーションを考案し、位階制度を改革し、名誉位階的だった内陣を上級魔術師の団とした。
 これによって、GDは単なる社交クラブではなく、本格的な実践派の魔術結社となったのであった。
 1892年には、内人の回覧文書「飛翔する巻物」の制度が始まる。

 そして、1893年には、エジンバラにアメン・ラー・テンプルが設立される。
 リーダーはJ・W・ブロディ・イネス。1848年生まれの弁護士であり、小説家。あの「ドラキュラ」の作者ブラム・ストーカーの友人でもあった。神智学協会の会員でもあり、クリスチャン・サイエンスの熱心な信者でもあった。
 このエジンバラ支部の主な会員としては、後の「曙の星」のリーダーとなるR・W・フェルキン、ウィリアム・ペック、カーネギー・ディクソン親子等がいる。
 これはロンドン本部と並ぶ本格派の魔術師の結社であり、かのタットワを用いた瞑想も、ブロディ・イネスによって持ち込まれたものである。
 
 一方、メイザースは1892年の大改革を終わらせると、そのまま妻のモイナと共にパリに渡る。
 そして、1894年には、フランスのパリにおいてアハトゥール・テンプルを開設した。これは団員数が10名ほどという小規模なものであったが、メイザースの本拠地だけあって、その内容は非常に濃いものだったらしい。エジプト風の儀式場が作られ、儀式も盛んに実践された。
 夫妻がなぜパリに移住したのか、その理由は分らない。
 だが、これがGD内紛の伏線の一つとなった。
 そもそもメイザースの改革にも反感を持つ団員もいたし、ドーバー海峡を挟んで団をコントロールしようということ自体、かなり無理がある。そのうえ、メイザースは、妻のモイナの親友であったアニー・ホーニマンからの送金で生活していた。いずれも、これらはトラブルの種となる。

 最初のトラブルは1894年に起こる。
 台風の目となるのは、上記のアニー・ホーニマン。モイナ・メイザースの親友にして、メイザース夫妻の生活資金の提供者。
 そしてもう一人は、ホメオパシー療法士であり、医師でもあったエドワード・ベリッジ博士である。
 エドワード・ベリッジ博士は、ハリス主義なる一種の性愛思想を含んだ活動をGD内で行っていた。彼はホーニマンにハリスの著書を送ったのであるが、それに対してアニー・ホーニマンが猛烈な批判を行った。彼女は性に対して極めて潔癖だったのである。ベリッジは取り敢えずは謝罪したが、彼女の陰口を言い続け、悪いことにこれが彼女の耳に入ってしまった。
 ホーニマンはベリッジの活動を規制するようにメイザース夫妻に要求したが、メイザースはこれをはねつけた。というのも、ベリッジはメイザースの熱心な信望者であり、メイザースとしても忠臣を処分する気はなかった。
 この騒ぎは、ホーニマンの謝罪でもって、いったん収まったが、大きな禍根を残すことになる。
 ホーニマンはメイザースがパリで行っている政治運動に反対し、送金を滞らせた。
 激怒したメイザースは、ロンドンの幹部達に「自分は秘密の首領の唯一の代理人であり、他の団員は自分に服従すべきである。逆らうものは除名する」という恫喝を行った。
 メイザースがパリより送って来る魔術知識を重要視していたロンドン幹部達は、これに従った。
 しかし、ホーニマンとメイザース夫妻の関係は悪化した。ホーニマンは、団の運営作業である団の管理・監督に関する付託書を送らず、夫妻への送金を停止し、抵抗した。
 これに激怒したメイザースは1896年にホーニマンを、団から除名した。
 ロンドンの幹部達はホーニマンに同情し、彼女の除名取り消しを求める署名運動を起こしたが、メイザースはこれを拒否した。
 これが、最初のGDの大きなトラブルである。

 1897年に、GDはアメリカに3つの支部を設立する。
 金のやりくりに困っていたメイザースは、どうもテンプルの認可状を販売していたらしい。さらに、この新テンプルを収入源にしようと目論んでいたのかもしれない。
 ボストンにイーメ・テンプル。フィラデルフィアにテミス・テンプル。そして、シカゴにトート・ヘルメス・テンプルが設立された。
 しかし、残念なことにイーメとテミスは短命で終わり、2年ほどで自然消滅した。
 トート・ヘルメス・テンプルはがんばった。そして、このトート・ヘルメスは、一人の天才魔術師を生み出すことになる。ポール・フォスター・ケイスである。だが、これはずっと後の話しだ。

 だが、1897年に起こった、もっと大きな深刻な出来事は、ウェスコットの突然の退団である。
 彼の退団の理由は大きな謎の一つである。
 有力な説によると、団員の一人が団内文書を貸馬車の中に置き忘れ、それが拾得物として届けられ、お役所にウェスコットと団の関係がばれてしまった。お役所は、検死官がそのような活動を行うことは不適切だと判断したために、彼は退団せざるを得なくなってしまったという。
 あるいは、GDよりも「英国薔薇十字協会」の活動の方に関心が傾いてしまったためではないかとも言われる。
 一つ確実なのは、彼の退団によって、メイザースに権力が集中し、彼を団の独裁者にしてしまったことであろう。


「黄金の夜明け」 江口之降 亀井勝行 国書刊行会
「英国魔術結社の興亡」 F・キング 国書刊行会