ウエイトと聖黄金の夜明け団
GDは首領追放の騒動によりメイザースとウェスコットを失い、ホロス夫妻事件においてはフロレンス・ファーやハンター夫妻を失った。事実上の半壊状態である。
1902年になると、GDで大きな改革案が出されるようになる。それはGDから実践魔術の色を薄め、オカルティズムの社交クラブ色を強めることであった。また、ホロス夫妻事件でケチのついた「黄金の夜明け」の団名称の変更である。
しかし、当然の如くブロディ・イネスやホーニマン等の実践派魔術師の大反対によって、これは廃案に終わった。
同年の総会において、GDは「三人委員会」制度を導入した。新リーダーは、ブロディ・イネスとパーシー・ブロック、M・W・ブラックデンである。
しかし、パーシー・ブロックは間もなくこれを辞任。その後はF・W・フェルキンが引き継いだ。
イエイツとホーニマンはスフィア・グループとの抗争に破れてからは第一線からは退いていた。
ともあれ、ブロディ・イネス、フェルキン、ブラックデンによる新体制のGDは、団の名称を「黄金の夜明け」から「曙の星」への変更を決めた。
一方でアニー・ホーニマンは「紫達人」なる秘密の首領と接触を果たしていたらしい。彼女は、これに自信を得て、再びスフィア潰しに挑戦する。
彼女は、スフィアの魔術的な悪影響を祓う儀式を行うべきだと、三人委員会に強く要求した。
だが、ホーニマンには味方はおらず、1903年に退団した。
その一方で、団内ではA・E・ウエイトが勢力を強めて来ていたのである。
ウエイトについては、自伝の「命と思考の影」やR・A・ギルバートの伝記「A.E.WAITE Magician of many parts by R.A.GILBERT」(WEISER)により、その生涯を知ることができる。
アーサー・エドワード・ウエイト。かの世界的ベストセラーのタロット、ライダー版の生みの親としてあまりに有名な彼は、1857年にアメリカのニューヨークにて私生児として生まれた。彼は幼いうちに、母親と共にロンドンへ渡り、カソリック教徒として育てられた。彼がどのような教育を受けたのかは詳しくは分っていない。ただ、貧しい家庭であったがゆえに正式な教育を受けられなかったらしい。
それでも旺盛な読書家で、少年時代からホラー小説を書き始めている。彼の友人に、かの英国ホラー界の巨匠アーサー・マッケンやアルジャーノン・ブラックウッド、幻想文学の巨匠チャールズ・ウィリアムズが居るのも、その辺りに影響があるのかもしれない。
彼は妹の死がきっかけで心霊主義に興味を持つようになる。これにより彼は、ずいぶんとインチキ霊媒を見ることになったらしい。彼は神秘体験や霊的なものを軽信せず、懐疑的な視点でもって物を見るという側面を持つようになる。彼が、実践派魔術師になりきれなかった要因の一つが、ここにあるのかもしれない。
彼は実践派魔術師というよりも、思弁派神秘主義者と言ったほうがピッタリくる。しかし、単なる学者では終わらず、占い等の実践も行ってはいたようである。
彼の著書は、神秘主義、歴史といった色合いが強く、一般向けではあるが、同時に学術的な側面をも含んでいた。言ってみれば、オカルティズム思想の啓蒙書といったところか。
彼の著書は42冊にもおよび、翻訳書を加えると80にも及ぶ。翻訳においては、エリファス・レヴィの著書の英訳が大きな業績の一つである。
彼の著書としては「神聖カバラ」、「黒魔術と契約の書」、「錬金術の博物館」、「フリーメーソンの秘密伝統」、「薔薇十字団の真の歴史」等が有名であり、これらは現在でも魔術教養書として大きな価値を持っている。かの反ウエイトで通ったクロウリーですら、薔薇十字の教養書として、ウエイトの著書を弟子達に薦めざるを得なかったことからも、分るであろう。また、魔術カバラに厳しい見解を持っているG・ショーレムも、ウエイトの仕事には一定の評価を与えている。
彼は聖杯伝説にも強い関心を持っており、「聖杯」なる著書もある。
彼は1883年にウエスコットと知り合い、1888年にはメイザースと大英図書館にて知り合っている。彼は英国薔薇十字協会の儀式を無断公開したため、ウエスコット等とはあまり良好な関係ではなかった。しかし、エドワード・ベリッジの誘いを受けて1891年にGDに参入している。しかし、1892年に退団し1896年に複団。内陣には1899年に入っている。
ウエイトは懐疑派の神秘主義者らしい団の改革案を唱えていた。
すなわち、秘密の首領の存在を否定すること、団の昇格試験の廃止、アストラル界に関わる作業の廃止、キリスト教神秘主義思想の導入、儀式の変更であった。
言ってみれば、団の魔術色を薄め、神秘主義者の社交クラブ色を強めるということだ。
1903年の総会において、ウエイトはクーデターを決行する。この総会では、先の三人委員会が再選出されるはずであった。しかしウエイトは、配下の者達に命じて反対票を投じさせ、採決に必用な3分の2以上の票を阻止した。さらに異議申し立てを行い、会議を混乱、紛糾させた。
しかし、一説によると、これはウエイト一人のクーデターではなく、三人委員会の一人ブラックデンが前から内通していたとの説もある。
少なくとも、すぐにブラックデンは反旗を翻し、ウエイトの側に付いた。しかも、ブラックデンは団の文書やイニシエーションに欠かせない儀式用具一式を管理している立場にあり、それを持ったままウエイト側に付いたのである。さらに、ヘレン・ランド、パーマー・トマスらの幹部もウエイト側に付いた。
そして彼らは同年1903年に「聖黄金の夜明け」団を設立して独立した。
これが2回目の大きな分裂である。
「聖黄金の夜明け」団の首領にはウエイト、ブラックデン、W・A・アイトンが付いた。
アイトンは90歳もの高齢のキリスト教の聖職者にして錬金術の研究家であった。彼は霊の喚起作業には極めて批判的で、七惑星の精霊の喚起にすら反対するほどであった。やがてアントンは高齢のため間もなく死去。その公認にはウェバー大佐なる軍人が就任した。
結局、この新団は魔術作業のほとんどを放棄してしまった。
そして、イニシエーションも極めてキリスト教色の強いものに改変された。
ウエイトの評価は極端に分かれる。実践派よりも思弁派であったこと、霊的な事柄に懐疑的であったこと。魔術師というより、神秘主義者であったこと。確かにこれはメイザースやクロウリーとは、非常に対照的である。
実際、クロウリーやリガルディは、ウエイトに対しては非常に否定的である。しかし、リガルディも「完全版 黄金の夜明け」の中でウエイト考案の儀式を「非常に感動的」であるとして紹介する等、評価している所もある(Llewellyn社から出てる旧版の「黄金の夜明け」には、この記述は無い)。
思うに、これは「正しい・正しくない」の問題ではなく、単に思想の違い、価値観の違いであると思う。実際のところ、ウエイトが魔術界に残した業績も小さくは無い。
また、この「聖黄金の夜明け」のクーデターについても、実はブラックデンが黒幕だったのでは? という説も一部にあるらしい。
独立後も「聖黄金の夜明け」とフェルキンやブロディ・イネスの「曙の星」とは部分的に交流もあり、ウェスコットとも付き合いは続いたらしい。
なお、これは余談であるが、長らくウエイトはロンドン空襲によって焼死したと思われてきた。しかし、彼の伝記作者のギルバートの調査により、これは伝説にすぎず、1942年に普通に自然死を遂げているという。
この2回目の大きな分裂の後、ブロディ・イネスは自分のアメン・ラー・テンプルの経営に専念するようになる。
フェルキンも「曙の星」の運営を熱心に行った。
そして、アストラル的な作業も行い続ける。
しかし、間もなくフェルキンはそれと同時に、大きな暴走(?)を始めることになるのである。
「黄金の夜明け」 江口之降 亀井勝行 国書刊行会
「英国魔術結社の興亡」 F・キング 国書刊行会
「A.E.WAITE Magician of many parts by R.A.GILBERT」 R.A.Gilbert WEISER
※参考文献に洋書を紹介するという反則をお許しください。ウエイトについては、どうしてもこの本を無視できませんでした。