ヴァン・ヘルモントとローゼンロート
薔薇十字運動は、やがて位階制を始めとしたフリーメーソン的な要素を取り込んでゆく。そして、それは18世紀のドイツにおいて、いわゆる黄金薔薇十字団の運動となって開花する。ここにおいて、フリーメーソン、ヘルメス哲学、カバラと言った本来異なるはずの体系は融合を果たすことになる。
その下地を作ったヘルメス哲学者が、ヨハンネス・パプティスタ・ヴァン・ヘルモントである。
彼はヘルメス哲学を支持し、部分的であれ、カバラを認めた。
彼が、まず畑を耕したからこそ、かのローゼンロートとフランキスクス・メルクリウス・ヴァン・ヘルモント(以下で詳述するヨハンネスのヴァン・ヘルモントとの混同に注意。なお、二人は親子である)という種子が育ったのである。
古い薔薇十字運動と、GD等の近世の魔術結社の源流となる黄金薔薇十字運動を区別する最大の特徴は、錬金術思想の重視にあると言われる。こうした傾向を作った者が、このヴァン・ヘルモントであった。
ヨハンネス・パプティスタ・ヴァン・ヘルモントは、1579年にブリュッセルで生まれた。彼の父親は政治家で、彼の一族は裕福であった。彼の父親は、彼が生まれた年に没した。彼は幼い頃から高い教育を受け、ルーヴァン大学に進学した。
生真面目な彼は、当時の大学に激しく失望したらしい。大学の教育は形式的で、裕福な家の出身者たちに、さして学問が身に付いてもいないのに、学位を形式的に与えているだけだったという。彼は、初級の課程を終えた時、身に付いたことといったら、くだらない論争のやり方だけだった、と厳しく批判している。
結局、彼は修士号の授与を辞退し、さらに将来を約束してくれるはずの聖職者の道も辞退し、ルーヴァンに留まって学者の道を進む。最初は哲学の研究を行うも、関心は次第に医学へと向いてゆく。そして、1599年に医学博士となる。
その後、彼はヨーロッパを旅して回る。この時に、既に彼の医学者としての名声は知れ渡るようになり、各国の王や貴族達からもお呼びがかかるようになる。しかし、彼は権力に関わることを避けて、こうした勧誘を全て辞退した。
彼は1609年に裕福な女性、マルフリートと結婚することによって、彼女の持参した広大な荘園を手に入れ、領主となった。これにより、彼は世間から離れ、学問に没頭できるようになる。この時、彼はパラケルススの著書に出会い、これに熱中する。
こうして、彼はパラケルスス派の医学者・ヘルメス哲学者となるのである。
彼は、1621年に「傷を治療する磁気について」を出版する。これは、当時すったもんだの論争を引きおこしていた武器軟膏論争に関わるものである。この論争の中心は、ある種の軟膏を武器に塗れば、その武器によって傷つけられた怪我が癒えると言う話を巡ってのことである(これを馬鹿馬鹿しいとみなすのは当時の時代背景を無視した傲慢な態度である。当時、磁石のメカニズムもわかっていなかったわけで、離れた物同士が影響を与えるかについては当時の当時の学者にとっては、切実な議論だったのである)。
それに関連して、当時、軟膏は悪魔の仕業か、はたまた自然の法則に基づいた作用なのであろうか? ということについても議論されていた。魔女は幻覚性のある植物を使って軟膏を作り、それを用いて邪悪な術を行う等が、まだ大真面目に信じられていた時代である。
聖職者達は、こうした軟膏は邪悪な悪魔の魔力によるものとして、退けた。
しかし、これに反対したのが、当時のパラケルスス派の医学者達であった。彼等は、こうした軟膏の作用は、単純に自然の法則に従って作られたものにすぎず、魔女はそれを悪用しているに過ぎない。軟膏そのものには罪は無い、という主張だ。
ヘルモントはの著書は、パラケルスス思想を発展させたものであり、宇宙にあまねく磁気理論とそれを用いた病気の治療について述べたものである。
ともあれ彼は、この著書の中で、軟膏を悪魔の仕業とする主張を退けている。軟膏は自然魔術の技術に他ならず、これを悪用するも善用するも、その人の心がけ次第である。軟膏も病気治療などの良い目的で用いるのなら、それはカトリック信仰と何ら矛盾しない。
そして、彼は善良な魔術を擁護し、こうした魔術を復興させる鍵としてカバラの研究を訴えた。
だが、結果的に、この著書は、彼の敵たちを激怒させることになる。ヘルモントは、カトリックの聖人達の聖遺物による奇跡も、彼の自然魔術の理論で説明しようとした。確かに、これは伝統的な聖職者達にとっては、ひどい冒涜に思えたのだろう。
彼のこの「傷を治療する磁気について」は、ルーヴァン大学の医学部からも公然と非難された。1624年には、「スパー鉱泉水のパラドックス」と「スパー鉱泉水についての補遺」を出版するが、これがまたさらに彼の立場を悪くしてしまった。
彼の敵たちは、彼の著書を異端思想であるとして、かの悪名高いスペインの異端審問所に告発した。1625年に異端審問所は、彼の主張は異端であると決め付け、彼の論文を没収した。さらに2年後には宗教裁判に呼び出され尋問を受ける。そして、ルーヴァン大学神学部やケルン大学、リヨン医師協会なども尻馬に乗って、彼を攻撃した。
これはタイミングが悪かったと言わざるを得ない。薔薇十字運動やパラケルスス派による教会の堕落の非難によって、当時の聖職者達は煮え湯を飲まされていたわけであるが、この頃、その古い思想を奉じる人々の本格的な反撃が行われていた時期でもあった。そんな時期に、ヘルモントは魔術擁護の著書を出してしまったがゆえに、見せしめ的に攻撃されてしまったのだ。
結局彼は、1630年に、公の場で自説の撤回を余儀なくされる。
しかし、彼はガリレオ同様、内心では己の信念を曲げなかった。
彼は、まさにこの時に「メルセンヌ宛ての書簡」という有名な手紙を書いているが、その中で、自説の正しさを強く主張しているのである。
この中で、彼はマクロコスモスとミクロコスモスのアナロジーを主張し、パラケルスス的な錬金術思想を論じ、自然魔術とカバラを擁護している。
1634年、彼はついに逮捕される。彼の蔵書、論文はことごとく没収された。その後、修道院に監禁され、尋問を受け、さらに自説の撤回を強制された。彼はそれに素直に従った。彼は自宅に帰されたが、外出を厳しく禁じられた自宅軟禁の状態に置かれた。2年後に多額の保釈金を支払い、やっと自由の身になった。
1642年に彼は3つ目の出版物「新熱病理論」を出す。これは教会の検閲を受け、教会の許可を得た上での出版であった。1644年に「新医学著作集」を出した。
彼の従順な態度は、教会の態度を和らげ、両者の関係は回復する。
1644年の冬に、彼は腹膜炎を患い、死去した。
その2年後の1646年、教会は宗教的名誉回復の通知書を、彼の未亡人に送っている。
彼の死後から4年後の1648年に、彼の遺著「医学の庭園」が出版された。これは、「新医学著作集」の新版と共に2巻本の形で出版された。
皮肉なことに、この死後にだされた本こそが、彼の最高傑作であり、17世紀の医学・科学に大きな影響を与え、彼の名前を不動のものとするのである。
この著書は、数版を重ね、4ヶ国語に翻訳された。
この著書の中身は、おそらく1610年代に検討され、1634年までに書かれたらしい。
彼は科学史においては、「ガス」の概念の発見と命名を行い、胃の消化の仕組みを研究したことでも知られている。
彼は明らかにパラケルスス派の医学者であったが、パラケルススの思想そのものを無批判に受け入れるのではなく、それを基本に独自の思想を発展させている。そのため、パラケルススそのものに対しては、批判的になることも多かった。
また、彼の考えるカバラもまた、独特であった。彼はカバラを天界の秘儀を知るための技術であるとしていたが、ヘブライ文字の持つ霊力については否定している。
ヘルモントの思想に関して言えば、ここでそれを詳細に論じるのは、私の能力を越えている。ただ、パラケルススの強い影響を受けた生気論者、自然魔術を指示するヘルメス哲学者であった、とまとめておきたい。
ヴァン・ヘルモントは、その遺著によって、パラケルスス的な医学思想を17世紀のヨーロッパに大きく広めることになる。それはひいては、ヘルメス哲学を当時の知識人たちの間に広めることにもなったのである。
ヨハンネスのヴァン・ヘルモントは、ヘブライ文字の霊力を認めなかった。
しかし、ローゼンロートとフランキスクスのヴァン・ヘルモントは、彼の影響を強く受けながらも、カバラに対する考え方は逆であった。
クリスティアン・クノール・ローゼンロート(1636~1689年)や、上記のヨハンネス・パプティスタ・ヴァン・ヘルモントの息子であるフランキスクス・メルクリウス・ヴァン・ヘルモント(1618~1699年)は、ヘブライ語によるカバラを重視する方向で研究を進めた。
このヴァン・ヘルモント親子は、その思想において、しばしば逆説的な主張が多いと指摘される。
それでも息子のメルクリウス・ヴァン・ヘルモントは、父親の思想を広げることに尽力した。彼はヨーロッパ中を旅し、各地の知識人と知り合って、父親の思想を喧伝した。そして、哲学者のライプニッツやヘンリー・モア達とも親交があった。
彼はローゼンロートとも親交を結び、共に協力して、父の著書の翻訳活動を行った。
またローゼンロートは、1667年の著書「ヘブライ語の真の自然的なアルファベットに関する短い叙述」において、そのカバラ重視の思想を結実させる。
ロイヒリンから連なるカバラの複線が、ここで開花したといったところか。
ともあれ、ローゼンロートは、この著書の中で、ヘブライ語は天界で用いられている言語であり、神に直接な起源を持つ言語である。したがって、ヘブライ語は他の言語よりも遥かに自然と調和しているのである。したがって、この言語を用いれば、あらゆる自然の秘密を探ることができるはずである。もちろん、錬金術における黄金変性も含めて。
かくして、ヘルメス哲学とカバラは、ここにおいて邂逅を果たすのである。
もともと、様々な象徴、寓意の解釈において両者を結びつけることは、ある意味、容易でもあったし、それなりの説得力をも持った。例えば、ヘキサグラムにしてみても、エレメントの記号を重ねた図形とダビデの星の解釈と合わせた象意を持つのではないか?
ローゼンロートの友人であり、フランキスクスのヴァン・ヘルモントも、ほぼ同様の意見であり、彼は輪廻転生すら信じた(これが災いして、異端審問所に一時期、逮捕・幽閉された)。
錬金術とカバラを融合させようとする考え方は、既にアグリッパの頃に伏線があり、ロバート・フラッドが試みているが、それをより発展させたのが彼等であろう。
彼等は、錬金術好きの領主、クリスティアン・アウグスト公爵の保護を受け、こうした研究を行った。
ローゼンロートのオリジナルの著書は高価であったために、なかなか普及しなかった。そこで1714年に「フィラレステの愛人」なる匿名の人間が、ローゼンロートの著書から、主要な部分を抜粋し、英訳した。これが「ヘルメスの術に関する短い探究。勉強家向け。その中に……それが付加されているのは「解明されたカバラ」からのコレクションおよび化学的・カバラ論文の翻訳、題名はエシュ・メツァレフ、あるいは浄化する炎」という、ひどく長く分かりづらい題名の本である。これはロンドンで出版された。これが、ローゼンロートの思想の普及に一役かったようである。
後に、この本は、かのウィン・ウェスコットの手によって、序文が付されて復刻されることになるのだが、それはずっと後の話しである。
こうして、ヘルメス哲学とカバラは融合し、黄金薔薇十字団へと流れ込んでゆくのである。
「近代錬金術の歴史」 アレン・G・ディーバス 平凡社
「薔薇十字団」 クリストファー・マッキントッシュ 平凡社
「錬金術とカバラ」 ゲルショム・ショーレム 作品社
「キリスト教神秘主義著作集16 近代の自然神秘思想」 教文館