スフィア・グループ抗争


 メイザース追放後に引き起こされた大きなトラブルが、このスフィア・グループを巡っての団内抗争であった。

 フロレンス・ファーは、「スフィア・グループ」という秘密サークルを、GDの内陣で主催していた。このサークルの主な目的は、アストラル界にて秘密の首領たちと接触することであった。
 この団内秘密サークルは、少なくとも1897年にメイザースから許可を得て活動していた。ファーはアストラル界において、秘密の首領の一人と接触しており、これが一つのきっかけであった。
 やがてファーは、アメン・ラー・テンプルのブロディ・イネスと共に、こうした団内サークルを結成した。他にウェスコットも彼独自の団内サークルを主催していたのであるが、彼の退団に伴い、ファーのサークルがこれを吸収合併した。
 主なメンバーとしては、R・W・フェルキン、ハンター夫妻、M.W・ブラックデン等が挙げられる。
 こうして、この団内秘密サークル「スフィア・グループ」は、GDの最大派閥となった。
 
 スフィアのメンバー達は、盛んにアストラル界に飛んでは、シンボル等の情報を集めた。
 またメンバー達は、自分を「樹」の特定セフィラと同一化し、グループ共有の集合的オーラの内に「樹」を投影し、構築しようとしていた。
 このように、スフィアのワークは極めて興味深い反面、問題も含んでいた。
 水晶球スクライニングにせよ、魔術鏡にせよ、パス・ワーキングにせよ、その他の瞑想にせよ、これによって得られる幻視を無批判に受け入れることは、様々な意味で危険である。
 スフィアのメンバーたちはアストラル界投射を行っては、それによって得られたシンボリズムを無批判に取り込み、GDの象徴体系に改変を加えた。
 彼らは、こうした作業によって得られたビジョンを受動的に受け取るだけで満足し、本来行わなければならない位階のサインや五ぼう星の小儀礼等を怠ったりすることもあったようである。こうした本来行うべきGDの技法は、ヴィジョンから自己欺瞞を選別する技術なのだが、これを無視してしまったわけだ。
 これは結果的に、GDの象徴体系を狂わすことにもつながった。

 これに怒って、スフィアを攻撃したのが、アニー・ホーニマンであった。
 メイザースによってGDを追放されたホーニマンは、首領の追放と入れ替わるようにして、執行部の一人として復帰した。これはW・B・イエイツの手引きによるものであったらしい。
 ホーニマンは3年ほどGDには居なかったのであるが、その間、団の運営は乱れているように彼女には見えた。
 実際、ファーは内陣への昇格試験も、大らかに扱っており、試験なしで内陣入りをした団員もいたらしい。
 ホーニマンは、こうした杜撰な団経営をも、スフィアのせいであると考えたらしい。
 ここで彼女はW・B・イエイツを味方に引き込んだ。
 イエイツは、メイザース追放後、三首領の一人インペレーターの地位についていたのである。

 W・B・イエイツ(1865~1939)。この1923年にノーベル文学賞を受賞している世界的詩人について、ここで多言を費やす必用は無いであろう。
 彼は詩人であると同時に、オカルティストでもあった。彼の関心は、西洋魔術、神智学、ケルトの民話・伝説、ヨーガやウパニシャッド、心霊主義、道教、仏教の禅にまで及んだ。
 彼の文学を理解するうえで、こうしたオカルティズム思想の考察は絶対にはずせない。しかし、長らく日本では、(おそらくオカルトへの蔑視と偏見からであろうが)イエイツ研究においてオカルトは軽視される傾向にあり、GDとの関係に至っては無視に近い扱いを受けてきた。もっとも、最近になって研究がなされるようになって来ている。
 イエイツは少年時代から妖精や幽霊の出てくる伝説に強い興味を示していた。
 1884年ジョージ・ラッセルと呼ばれる神秘主義者と出会う。彼は神智学者であり、AEとも呼ばれていた。これはAeon(永劫)の頭2文字を取ったものである。イエイツは彼と意気投合し、ヘルメス協会を設立した。イエイツは、この友人の思想を厳しく批判することもあったが、同時に強い影響も受けた。
 1885年頃からインド哲学に興味を持ち始め、1886年には心霊主義者たちの交霊界にも出るようになる。1888年にはブラバツキー夫人と面識を持ち神智学協会に入会する。しかし、1890年には退会した。
 彼がGDに入団するのは、1890年のことであり、大英博物館で知り合ったメイザースの手引きによる。
 メイザース追放時には、彼はクーデター軍の一人であったが、その後もメイザースとの親交は続いたようである。彼いわく「友情は決して終わらなかった」。

 ともあれ、ホーニマンとイエイツは、ファーに対し、スフィアの活動の詳細を他の内陣たちにも公開するように要求した。ファーは、それを受け入れたが、同時にスフィアをGDの総会にかけ団公認の正式グループになるように採決にかけることを要求した。
 1901年の総会で票決が行われ、圧倒的な賛成多数によってファーの提案は正式に採択された。
 だが、ここで大きなトラブルが起こってしまう。
 この時の票を数えるのは、執行部においてはホーニマンの仕事であった。そこで公平さを確認するために、M・W・ブラックデンとパーマー・トマスらが、投票監査人をつけるべきだと主張した。
 ホーニマンとイエイツは、これを自分等の人格が疑われたものと怒って抗議した。ブラックデンは謝罪したが、パーシー・トマスはこれを拒否。すると、イエイツは彼を一時的に副インペレーターの座から外した。
 ホーニマンは同情集めを狙って、彼女の役職たる書記を辞任。
 イエイツはというと、トマスと「スフィア」を非難する公開書簡を回した。いわく、「スフィアは団を分裂に導く危険なサークル」、「トマスはホーニマンを中傷している・・・」
 しかし、トマスは、これに反論する文書を回した。いわく「公開書簡の内容は事実無根。最近のイエイツの横暴ぶりには目に余るものがある。メイザースよりひどいのではないか」
 イエイツは負けじと、それに再反論する文書「ルビーの薔薇と金の十字架団は魔術結社として存続するか?」を出したが、逆効果に終わったようである。
 前にも書いたとおり、総会においては「スフィア」を公認する案が、圧倒的多数で支持を受けた。そして、今後団内でサークルを作るのは自由であるとも採択されてしまった。
 イエイツは、これを機会にインペレーターを辞任した。

 ともあれ、このスフィア・グループを巡っての抗争もこれで一段落ついたと思いきや、かのホロス夫妻事件が起こる。
 1901年のことである。
 この事件をおりに、フロレンス・ファーやハンター夫妻らの有力メンバーが退会した。
 そして、1902年に、GDの新たな改革案が出された。
 A・E・ウエイトによるクーデターも間近に迫っていた。 
 
 
「黄金の夜明け」 江口之降 亀井勝行 国書刊行会
「英国魔術結社の興亡」 F・キング 国書刊行会
「W・B・イエイツとオカルティズム」 島津杉郎 平河出版社