アンナ・キングスフォードとヘルメス協会
多くのフリーメーソンは長らく女性の参入を認めなかった。英国薔薇十字協会もまた、その規則を踏襲していた。しかし、「黄金の夜明け(GD)」団は女性の参入を認めていた。この点でも、GDは革新的であったとも言える。
アンナ・キングスフォードは、1846年にアンナ・ボーナスとして生まれた。彼女は10代の後半にキングスフォード牧師にとつぎ、教師として生計を立てていた。
彼女は動物実験反対運動という、正直ちょっと馬鹿馬鹿しい政治運動にはまってしまう。この運動の理論武装のために医学を修めるべくパリへと向かう。
彼女は非常に病弱であったため、単身外国へ行くのは危険であったが、夫は教区牧師のため、持ち場を離れることは出来なかった。そこで、エドワード・メイトランドという弁護士の保護のもと、フランスへと渡った。メイトランドは、神秘主義にも強い関心を持っており、その後アンナの最大の理解者の一人となる。そして、彼女の死後に伝記を書くことになる。
フランスにて彼女は医学を修め、医学博士となる。
パリにおいても様々な活動に従事し、いわゆる英国ロマン派の作家、詩人としても活動した。そして、文豪ヴィクトル・ユゴー等とも親交を結んだ。
現在残されている写真を見て驚かされるのは、彼女は大変な美形であったことである。しかも20代後半になっても10代の少女にしか見えなかったと、当時の彼女を知る者は言う。
その反面、彼女の身体は結核に冒されており、ボロボロだったという。病気の苦痛を和らげるためにクロロホルムを常用しており、これが彼女の幻視体験の基だったのではないかとも推察される。
しかし、彼女の幻視体験の背景には、ヘルメス哲学やスーフィズムが常にあり、それゆえに彼女は優れたオカルティストでもあったのである。
とかく彼女は現世を悪とみなし、他界に憧れる傾向が強かった。ゆえに彼女は幻視や夢を重視し、これを研究した。
彼女の作品として重要なものが「夢日記」であり、これの小説版が「夢物語」である。これは一種の夢の解釈を扱った作品である。
彼女は自分の見た夢を日記に記録し、それの解釈を試みた。こうした作業において彼女は、夢や幻視から、ヘルメス哲学の精神の変容を見出そうとした。
なお、「夢日記」の一部は下記の参考文献で日本語で読むことが出来る。
彼女は、いくつもの運動に関わっていた。
先の動物実験反対運動の他に、女性の権利を訴える女権運動にも大きく関わった。
そして、神智学にも関わった。彼女は、かのブラバツキー夫人、アニー・ベサントやエドワード・カーペンター等とも親交があった。神智学協会ロンドン支部を設立したのも彼女である。
しかし、彼女はブラバツキー夫人とは、やがて対立する。キリスト教に批判的だったブラバツキー夫人に対し、アンナはキリスト教神秘主義を奉じていた。
彼女は言う。
「もしもオカルティズムが全てであり、天の鍵を独占しているというのなら、キリストなどは必用でないはずだ!!」
やがて1884年にブラバツキー夫人がロンドンに到着すると、両者の関係は悪化する。
これによりアンナは、神智学協会から脱退。メイトランドと共に「ヘルメス協会」を設立した。
もっとも、この協会は1886年にはアンナの健康状態が悪化したために閉鎖され、その2年後の1888年に彼女は42歳の若さで夭折する。
ここで注目すべきは、かのGDの創立者ウィン・ウェスコットとマグレガー・メイザースが、彼女の「ヘルメス協会」の名誉会員であったということである。
また、メイザースの「ヴェールを脱いだカバラ」は、彼女に献辞されている。また、ウェスコットの「創造の書」の序文でも、彼女への献辞が書かれている。
GDにおける女性の地位の尊重は、おそらく彼女からの影響と推測される。
彼女の著書としては、「夢日記」の他に、キリスト教神秘主義やグノーシス主義の再評価等を扱った「完全なる道 キリストの発見」、「太陽を身にまとい」、また占星術を扱った「神学化された占星術」などがある。
「黄金の夜明け」 江口之隆 亀井勝行 国書刊行会
「英国ロマン派幻想集」 E・ダーウィン他 国書刊行会