アンドレーエの生涯


 「化学の結婚」の著者、ヨーハン・ヴァレンティン・アンドレーエは、1588年ヘレンブルグで生まれた。
 父親のヨーハン・アンドレーエはプロテスタントの牧師であったが、芸術や錬金術の研究が趣味で、その手の書物のコレクターとしても知られていた。何しろ時の皇帝フリードリヒ2世が、錬金術に関する助言を求めて大公妃と共に、家を訪問するほどだったという。
 ヨーハンがヘルメス哲学に関心を持ったのも、そんな父親からの影響であろう。
 母親のマーリヤは当時としては珍しく学問のある女性で、医学や薬学に通じていたという。彼女は、病人を見ると放ってはおけない人で、そのためアンドレーエ家は、貧しくて普通の病院へは行けない病人達の駆け込み寺になっていたという。
 「薔薇十字の名声」の一節を思い出すエピソードだ。おそらく、これにも母親の影響があったのではあるまいか?

 アンドレーエは、早くから父親同様、牧師になることを目指していたらしい。父親が校長をしている教会学校に入った。
 しかし、友達作りが苦手な性格で、必然的に本の虫となる。愛読書としては、古典ではリヴィウスとヨゼフス、エラスムスの風刺文学、筆禍事件で獄死した劇作家のニコデモス・フリッシュリンが挙げられる。後に、アンドレーエも、風刺的な作品ばかりを書き、結果として多くの災難をこうむることになるのだが、早くもその芽がみられる。
 また、建築学や工学にも関心を持ち、これを学んだ。

 父親の死をきっかけにアンドレーエは、学問の都市として知られたチュービンゲンへと出る。
 大学に入学した彼は牧師となるべく神学を学ぶが、興味は別の方へと向いてしまう。歴史や数学、錬金術ことヘルメス哲学や占星術にも関心を持った。
 そんなわけで、彼は頭は良く、一部の教授達からは高く評価されて個人の書庫への出入りを許される等もしたが、お世辞にも優等生とは言えなかったらしい。
 また、彼は学業の傍ら、多くの著書を書きまくる。その殆どが、小説や戯曲だ。そして、これはチュービンゲンで上演されたりもした。
 しかし、これが大学当局の勘気に触れることになる。
 アンドレーエは、もともと風刺的な作品を好んで書いた。そのうえ、かなり下品な色恋沙汰をテーマにしたものらしい。彼は自伝で、これらを「若気の至り」として黙して語らず。大学との間に、どんないざこざがあったのかは分からない。異端的な思想が嫌われたとも、風刺作品が権力者を怒らせたとも、風俗上の問題だとも、言われているが定かではない。だが、1606年、彼は退学となり、そのまま諸国遍歴の旅に出ることになる。
 ちなみに、「化学の結婚」の初稿は、この頃書かれたらしい(1605年説が有力)。その時、アンドレーエは若干17歳だった言うから、驚く他は無い。
 
 この追放は、彼のあしかけ5年間、4回にも渡る旅のきっかけとなるのである。
 この旅は、彼の思想形成にたいへん重要な結果をもたらす。
 ここにおいて彼は名だたる学者、錬金術師、オカルティスト達と交際し、彼らから知識を吸収した。
 
 やがて彼は突然チュービンゲンに舞い戻り、大学に論文提出で牧師になるための学位を取ろうとして断られたりしたが、そこに2年も留まる。ここで、かの「薔薇十字」文書、「名声」と「告白」を捏造したグループと接触を持ったらしい。

 その後、彼はチュービンゲンを出たり戻ったりを繰り返す。
 ヨーロッパのあちこちを旅してまわる。
 そして、1614年、母親のコネから宮廷の後押しを受けて、牧師職を手にする。

 アンドレーエが文通した学者やオカルティスト達は300人以上にも登る。そう、「友愛団」なみの知的ネットワークを個人的に築いていたのである。
 この頃、アンドレーエは、フィオーレのヨアキムの影響を受けた空想的な革命思想、パラケルススの錬金術思想に染まっていた。これは、彼と付き合いのあったチュービンゲンの学者グループとて同様で、この2つを合体させた思想、すなわち「薔薇十字」運動が起ころうとしていた。

 やがて1616年に「化学の結婚」が出版される。
 これは、かの「名声」や「告白」よりも後に印刷されたが、先にも述べた通り、初稿は彼が学生時代に書いたものであり、成立自体は一番古い。
 
 だが、アンドレーエは、しばしば自分達の文書がきっかけとなって起こった薔薇十字運動に対して、非常に批判的になる。
 例えば彼は、自伝の中で、自分の書いた「化学の結婚」は勿論、「名声」すらも、お遊び、娯楽、気晴らしでしかなく、薔薇十字団などというものは単なる冗談にすぎなかった(!!)とまで言い捨てる。
 そして、「真の薔薇十字団探し」に熱中する人々を、「メルヘンの徒」と呼び、嘲笑さえした。
 実際、彼は風刺関係の著書を、この時期にも乱発している。単なる冗談だという可能性も、確かに否定できない。
 しかし、この薔薇十字思想そのものを完全に否定したのか、と言うと、決してそうとも言えない。
 嘲笑したかと思うと、評価できる部分もあると舌の根の乾かぬうちから、そう主張したりもする。

 彼は膨大な著書を残したが、それらの著作の中で、薔薇十字思想を嘲笑したり、賛美したりと言ったことを繰り返している。
 この矛盾した態度は、どうにも我々を混乱させる。
 どうもアンドレーエは、自分達によって作り出された運動を全面的には支持してはいなかったようなのだ。それどころか、この世界の改変、革命思想にもつながるこうした運動に、危険性すら感じていたらしい。
 もともと、アンドレーエは、風刺作品を好んで出す傾向が強く、政治的な危険性も考慮しなければならない立場にあった。だいたい、当時はカソリックとプロテスタントとの宗教戦争が泥沼化した30年戦争の真っ只中にあった。宮廷とも親しい牧師である彼が、政治とは無関係で済ませられるわけがない。
 また、多くの学者達が指摘している通り、「化学の結婚」の主張は、必ずしも「名声」や「告白」の内容に同調しているわけでは無い部分もある。
 さらに、薔薇十字団の噂は、どんどん一人歩きをはじめ、大きくなって行った。多くの知識人が関心を持つだけでは済まず、フランスでは薔薇十字の排斥運動が起こり、政治的にこれを利用しようとする者まで現れる始末。
 確かに、これはヤバい。

 アンドレーエは、その後も忙しい生涯を送った。
 著書が教会当局より発禁にされたり、戦争で荒廃した街カルフの再建事業に関わったり、宮廷説教師に任命されたり、ベールハウゼンの地方総督に任命されるなど、おおむね成功者としての人生を送った。
 彼は1654年に死去するが、生前は自分が「化学の結婚」の著者であることは、ごく一部の人間にしか打ち明けなかった。彼がそれを公にしたのは、死後に発表された「自伝」の中でのことである。
 彼は、その自伝の中で「化学の結婚」は、「冗談の産物である」としているが、どこまでが彼の本意なのかは、未だに分からない。
 

「薔薇十字団」 ロラン・エディゴフェル 白水社
「化学の結婚」 ヨハン・アンドレーエ 紀伊国屋書店