グリスラフスキ談話に対する所感


 何よりもまず印象に残ったのは、グリスラフスキ氏が西部戦線よりも寧ろ東部戦線で戦った敵たちの方に対して親近感を表した点である。ソヴィエト空軍は確かに手強いライバルだったが、しかし彼らとの対戦は生存を賭けた死闘ではなく、感覚的にはスポーツに近い爽やかな戦いと認識されていた。一方、本土上空にアメリカ重爆部隊を迎え撃った防空戦は全く様相が異なり、生きるか死ぬかの極限状態での闘争が続いたのだという(パラシュート降下者が銃撃された挿話も陰惨なイメージを強めている)。通常、我々がヨーロッパでの戦いに対して持つ印象は全く逆で、独ソ戦の方が悲惨な泥沼の戦いと見られている。実際に彼我双方ともあれだけ大きな犠牲を出し、非人道的な行為も多かったわけだし、戦争終盤に多くのドイツ軍将兵がソ連軍の捕虜となることを嫌って西方へ脱出した等々、ドイツ人が米英よりもソ連を恐れていたというエピソードには事欠かない。しかしグリスラフスキ氏の談話は全く逆で、寧ろ西部での戦いの方が過酷であったかのように回想されている。
 これに関しては、グリスラフスキ氏の具体的な戦歴を考慮に入れる必要があるだろう。氏が高名なJG52の一員としてソ連空軍とわたり合ったのは1943年春までのことで、それ以降はドイツ本土の防空任務へ転じている。つまり、スターリングラードを経験したとはいえいまだカフカースまで押し込んでいる段階の東部戦線から、米英重爆部隊による本土空襲が激化しつつあった西部戦線に移ったわけだ。この違いは非常に大きいと思う。
 「本土防衛」という響きは勇ましいが、その実は同胞たちの頭上へ爆弾の雨が降り注ぐのを横目に見ながら、圧倒的に優勢な敵との戦いを強いられる、極めて憂鬱なシチュエーションなのだ。その上、多少なりとも責任感の強い軍人であれば、祖国が敵の侵攻にさらされている事実自体に忸怩たるものを感じなければならない。これに対して、敵地の奥深くに攻め入っている軍隊であれば、そのような葛藤とは無縁でいられるし、純粋に敵と戦うことだけ考えていればそれでよい。東部戦線におけるグリスラフスキ氏の精神的な「余裕」の背景にも、そうした要素があったのではないか。
 もしも氏の戦歴が全く逆のものであったら、つまり戦争前半は西部方面での侵攻戦に参加し、後期は東部戦線へ移って祖国を蹂躙する赤軍の攻勢に直面していたのであれば、東西の敵に対する見方も相当に違っていたのではないかと思われる。逆に、グリスラフスキ氏と対峙していたソ連空軍のパイロットにとっては、まさにこの戦いこそが祖国防衛戦であり、「生存を賭けたギリギリの」闘争以外の何物でもなく、「スポーツに似たような」爽やかな感覚の共有など望むべくもなかった。
 戦争を戦った兵士たちが対戦相手のことをどう認識するかは、個々の兵士が経験した戦場や戦局からも大きな影響を受けるものであって、一概に「○○人は××人を憎んでいた」「好意を持っていた」等と断言できるものではない。当たり前と言えば当たり前だが、しかし歴史を大局的に俯瞰して見る癖がついた後世の人間には、意外に忘れられやすい真理である。

 ただし言うまでもなく、このインタビューを取っているのはロシア人だから、グリスラフスキ氏が気を遣い、ソ連のパイロットに対する一種のリップサービスを行った可能性は否定できない。また、労働者階級に属するグリスラフスキ一族は共産主義に一定のシンパシーを持っていたようで、これも氏のソ連観に影響を与えたと見てよい。同時代人たち、就中「労働者」という階級意識を有する人々に対し、共産主義は非常に強い求心力を示していたのだ。この事実もまた、ソ連の存在感を思い出すことの少なくなった現代においては、とかく見すごされがちであるように思う。

 次に、パラシュートで脱出したドイツ機の搭乗員がアメリカ機から銃撃されたという話について。本インタビューを訳す際の資料として『続・東部戦線のメッサーシュミットBf109エース』(ジョン・ウィール著、手島尚訳、オスプレイ軍用機シリーズ55)を読んでいたところ、全くの偶然なのだが次のような興味深い箇所を見つけた。それはグリスラフスキ氏と同じJG52で戦ったハインツ・エヴァルトの談話で、ルーマニアの油田上空においてアメリカの重爆部隊を迎撃、被弾・脱出を経験した時の回想である。

「私は何度も回転しながら空中を落下していった。前日、ブレーメン出身のハンス・ブレッターが落下傘で降下している時に米軍の護衛戦闘機に撃たれたので、私は同じ目に遭いたくなかったのだ。我々が南東部戦線で戦っている間、ロシア人のパイロットが落下傘降下中のドイツのパイロットを狙ったことは一度も無かった。アメリカ人どもは『総力戦』を頭に叩き込まれているのかもしれない」(同書74ページ)

 勿論、たった2人の証言だけで「ソ連の戦闘機乗りはパラシュートを撃たなかったがアメリカ人は撃っていた」と断定できるものではない。実際には様々なケースがあったはずだ。しかし他方、グリスラフスキ氏も同じことだが、現実に地面へ激突するリスクを冒してまでパラシュート開傘を遅らせている点を考慮すると、やはりドイツ空軍の間で「アメリカ人には気をつけろ」というイメージが一定程度広まっていた可能性は否定できない。
 これに関して思い出されるのが、レイモンド・トリヴァー/トレバー・コンスタブル共著のThe blond knight of Germany(邦題『不屈の鉄十字エース』)における、「“スターリンの鷹”の闘志は、落下傘で脱出する敵パイロットを撃たぬ、騎士道的精神にこだわるドイツのパイロット魂とは異種の恐るべき勇猛さを持っていた」というあの一節である(「ラヴリネンコフ氏大いに笑う」参照)。まるで、騎士道精神を持たないソ連機搭乗員は当然パラシュートを撃っていたかのような書きぶりだが、事実はアメリカ人の方がそのような行為に抵抗がなかった(少なくともドイツ人からはそう見られていた)ことになる。おそらくトリヴァー・コンスタブル両氏も意識して嘘を書いたのではなく、単なる思い込みだったのだろうが、いずれにせよ冷戦時代に書かれたこの手の書物には(東西いずれの陣営であっても)注意が必要だと言えそうだ。

 もっとも、独ソの戦闘機乗りが本当に騎士道精神を発揮してパラシュートを撃たなかったのか?という点については何とも言えない。独ソ両軍は基本的に同じ土地の上で押し合っていたため、味方の地上軍がパラシュートで脱出した敵を捕まえてくれる可能性があったからだ。であれば、撃ち殺すよりも着陸させて捕虜にした方がはるかによい。グリスラフスキ氏の談話にも、そのような形で捕えられた敵の搭乗員が出てくるし、逆に「敵地の上空では決して無理をするべきではない」と述べているのは、捕虜となることに対して現実的な恐怖感があったからなのだろう。
 翻ってアメリカ人の場合を考えると、彼らはルーマニアであれドイツ本土であれ常に敵地へ侵攻して戦っていたわけで、仮にドイツ機を落としたとしても、パイロットに脱出されてしまうとこれを捕獲できる可能性は皆無である。放っておけば、彼は安全に着地して新しい機に乗り、次の機会には再び友軍の爆撃機を攻撃してくるはずだ。であれば今のうちに…という思考が働いたとしても不思議ではない。無論、お世辞にも誉められた行為とは言えないのだが。ただ、相手がどの時代の誰であっても、「何故そのようなことを行ったのか」を理解する努力だけは欠かすべきではないと思う(騎士道とか何とかいう変な理屈をつけるのではなく)。

 グリスラフスキ氏の談話の中では、ドイツ戦闘機部隊の戦いの「流儀」について触れられた部分もあり、ソ連側のスタイルと比較することで興味深い絵が見えてくる。
 すなわち、世界最高のエースであるハルトマンも、また駆け出し時代のハルトマンを教えたグリスラフスキ氏も、戦場では決して無理をせず、状況が不利と見るや退いて次のチャンスを待つことを厭わなかったというのである。グリスラフスキ氏の場合は敵の支配領域に限定しているが、いずれにしても冷静かつ合理的な戦い方を心がけていたことがうかがえる。実は、この点はソ連側からの証言でも裏づけられるのであって、複数の元赤軍パイロットが「ドイツの戦闘機は絶対に有利な場合にしか襲ってこなかった」と回想している(例えばセルゲイ・ゴレロフ氏など)。とりわけ、制空権がソ連側に移った大戦後半にはその傾向が強かったようだ。
 一つ間違えば消極的として叱責されかねないこうした戦術が許容されたこと、またハルトマンの大戦果に関する「最初から士官として赴任したため、自らの裁量で任務が遂行できた」との説明、あるいは個人のスコアを何より優先させたシュタインバッツの事例などから、ドイツ空軍は比較的自由度の高い、前線の兵士たちにイニシアティヴを発揮させる軍隊だったのではないか、という印象を受ける。これに対してソ連空軍では、厳格な任務遂行を求められたと回想する元搭乗員が多く、ドイツのケースと鮮やかなコントラストをなしている。
 以前「護衛戦闘機ヤコヴレフ」に書いた通り、この辺りに独ソ両軍の戦争に対するアプローチの相違が現れているのではないか。つまり、ドイツ軍は兵士たちにある程度の自由を与え、最大限の戦果を挙げさせる方法を選んだ。一方のソ連軍は、あくまで勝利を唯一絶対の目標とし、兵士たちには多少の不自由を忍んででも勝つために必要な役割を演じることを要求したのである。そして結局、ドイツ軍はより多くの敵を倒し、ソ連軍は最終的な勝者となった。
 こうしたやり方のうち、どちらが正解だと断言することはできない。ただ、両者とも戦局の展開に応じ、それぞれのアプローチの持つ短所と長所の双方に直面した点では不思議と似通っている。緒戦期のソ連軍は統帥のまずさを現場でカバーする力がなく、結果として全くいいところなく敗れ去ったのだが、上層部が立ち直った大戦後半においては、上下一体となって驚異的な破壊力を発揮した。これに対してドイツ軍の場合、勝っている間は前線のイニシアティヴにより目覚ましい戦果を挙げることができた一方、負けが込んでくると個々の「エゴイズム」が不利に働く部分もあったのではないかと思う。絶対有利な時にしか戦いを挑まない合理性は、人員の損耗を防ぎながら戦果を重ねる上では有効であるものの、ここ一番の重要な局面で敵の攻勢を阻止すべき時には却って邪魔になりかねないからだ。
 上記ゴレロフ氏は、ソ連の戦闘機隊が戦局不利な時にも任務を果たし続けたことについて、「ドイツ人だったらこんな真似はできなかっただろう」と述べている。彼のように愚直なソヴィエト兵士にとって、ドイツ空軍は確かに恐るべき敵ではあったが、任務遂行に必要な闘志と自己犠牲の点ではどこか欠けた部分があるように感じられたのかもしれない。

 もう一つ、かつての同僚たちに対するグリスラフスキ氏の評価にも注目したい。周知の如く、JG52はハルトマンやバルクホルンといった伝説的な撃墜王を輩出しているわけだが、グリスラフスキ氏は彼らのようなスーパーエースばかりでなく、例えばフュルグラーベなどの「知られざる」名パイロットや、20~30機を撃墜したところで戦死してしまった下士官たちのことを思い起こしている。さらに、あのハルトマンといえども自分と比べて「どちらが上であったかは分からない」と述べる一方、「自分はベストではない。運に助けられた」とも語っているのだ。
 生き残った者が優れているとは限らない。運という要素が占める割合は非常に大きい。この述懐は、実際にあの過酷な戦争を生き抜いた人物の口から発せられているだけに、計り知れない重みを持っている。我々はどうしてもエースたちの撃墜機数だけに注目してしまいがちなのだが、自らもエースの1人であったグリスラフスキ氏は、優れた素質を持ちながらも運に恵まれず、早すぎる死により目立った功績を残せぬまま終わった幾多の同僚を思い出さずにはいられないのだろう。そして、彼らから全ての可能性を奪った恐るべき敵たちのことも。グリスラフスキ氏がしきりとソ連軍搭乗員を褒めているのは、上述のようにリップサービスの要素も否定できないが、根底にはやはり腕利きの戦友たちを葬り去った敵に対する畏怖の念があるのではないか。

 インタビュー全体を通じて浮かび上がってくるのは、善良で楽天的、権威に屈することなく自らの信念を守る人間味豊かなコスモポリタン、という極めて魅力的なグリスラフスキ氏の個性である。平時にあっては善き家庭人、善き友人として多くの人々から尊敬を集めたことだろう。
 しかし同時にグリスラフスキ氏は、ドイツ戦闘機隊の古強者であり、133機の敵機を落としたエクスペルテでもあった。平和を愛する労働者の息子は、戦時にあっては優れた戦士としての天分を発揮し、ルフトヴァッフェが誇る大エースの1人にまで成長している。この事実は、もしかするとグリスラフスキ氏自身にとっては不本意なものであるかもしれない。本人の資質とはかけ離れた部分で歴史に名を残すことになったからだ。談話の中でも述べられているように、「意味もなく」撃ち合いを演じなければならなかったことが、あの恐ろしい時代を生きた人々に共通の不幸だったのである。

(12.06.05)

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