アルフレート・グリスラフスキ


―私が聞いているところによれば、あなたは1943年にはクバンで戦っておられたそうですが…

 そうです、1943年春のことです。その後、6月にはドイツへ戻って防空隊で勤務しました。クバンの戦いは厳しかったですね。双方共に大きな損害が出ましたよ。

―私たちは質問のリストを用意してきましたので、よろしければこれに沿ってお話をうかがいたいと思います。まず最初に、これまで出版されている書籍の中で、誤って書かれている点についてお気づきではないでしょうか?例えば、あなたご自身に関する誤りなどはありませんか?特に目立つものだけでも教えていただけないでしょうか?

 時には、写真の下に間違ったキャプションがついている場合もあります。あるいは、写真の下にキャプションがなかったりとか。間違いはそれほど多くはないと思いますし、これが正しい、これが正しくないと断定することはできません。

―ロシアの前線で戦った搭乗員と、ドイツ本土防空戦の参加者との感覚の違いをお聞きしてもいいでしょうか?

 ロシアでは戦争そのものも、飛行機も、戦いも全く異なっていましたね。ロシアで行われていたのは純粋な空中戦でした。仕事…うーん…ゲームというのとも違うな、スポーツ、そう、スポーツに似たような感じです。もしもこのような表現が許されるのであれば。生存を賭けたギリギリの戦いではありませんでした…一方、ここドイツでは、高高度から街々に爆弾が降り注がれ、辺り一面で爆発が起きるのを見ながらの戦いですから、より個人的な、より感情的なものとなりましたよ。連合軍の爆撃機は800機ずつ、そして戦闘機も同じくらいの数がやって来る。これは全く違う戦場です。ここドイツでは、搭乗員の命は平均して7日だけ、1週間だけしかもちませんでした。ロシアではこれほどの緊張はありません。勿論、損失は出ていたのですが、しかしたったの7日間ということはなかった。

―どうしてそうなったのでしょうか?戦闘機ですか、それとも爆撃機の防御砲火にやられたのですか?

 問題は爆撃機の銃手です。はっきりとは憶えていませんが、爆撃機のクルーは8~10人で構成されていて、操縦手以外の全員が攻撃してくる戦闘機を迎え撃つわけです。それが大変だった。だから、私たちは正面から攻撃し、2倍の速さで接近することで、防御砲火の圏内にいる時間を短くしようと務めました。私は常に正面攻撃をやっていて、後ろから接近したことは一度もありません。敵の爆撃機は全体が機関銃だらけで、2連装のも4連装のもありました。

―[敵の護衛]戦闘機はどうでしたか?

 爆撃機は6000から7000メートルの高度を飛んでいました。戦闘機はそれ以上です。私たちにとって、チャンスは1回しかありません。1回だけの攻撃ですよ。10000メートルの高さに戦闘機がいて、私たちも10キロから正面攻撃をかけました。ものすごい速さで接近し、空気も薄いから、機体を安定させることはできません。そんな中で姿勢を真っ直ぐにし、攻撃目標を選ばなければならず、数秒の後にはそいつに向かって突進していきます。チャンスは1回きり。数秒の出来事ですよ。撃った相手の飛行機の上、高さにして2~3メートルのところを飛び越えて離脱しました。

―そうすると、西側の連合国の戦闘機部隊は、基本的にはそれほど大きな脅威ではなかったのですね?

 いや、そういうわけではなく、激しい戦いも繰り広げられたのですが、しかし主な任務はやはり爆撃機を食い止めることでしたから。ちなみにロシアにいた頃、私は4機のダグラス・ボストン爆撃機を迎撃したことがあり、この時は後ろから攻撃をかけました。カフカースでの出来事です。戦闘機もいたのですが、戦闘が始まった時からずっとエドムント・ロスマンが拘束してくれたので、私は爆撃機を攻撃することができ、4機全てを1人で落としました。1機の片方のエンジンを発火させ(ちなみにボストンには2つのエンジンがありました)、乗員が爆撃機から脱出する。これを1機、また1機と同じように繰り返したのです。

―ソ連と[西側]連合軍のパイロットを比べたらいかがでしょうか。技術や勇敢さという指標ではどうですか?

 ロシアも連合軍も、パイロットに違いはありませんでした。私はロシア時代、多くの戦闘機が加わって非常に激しい戦いを繰り広げ、しかも双方共に1機も落とされなかったという経験を数多くしています。時には、まる1時間もそのような戦いがつづいたのですから。実際、差なんてものはなかったですよ。手強い相手だった。西部戦線から東部戦線へ移ってきた搭乗員はたくさんいましたが、彼らはこんなことを言うわけです。
「ロシア人が何だってんだ、東部戦線での戦いはイギリスよりはずっとたやすいよ、問題なんてあるもんか!」
 そして数日後には落とされてしまったんですね。というのも、ロシアのパイロットは非常に優秀だったからで、これには議論の余地はありません。けれども、先程お話しした通り、ロシア戦線での戦闘機戦というのはどこかスポーツや競技に似たところがありました。

―そうしますと、東部戦線と西部戦線の双方で戦ったドイツ戦闘機部隊のスコアの差は、どのように説明したらいいのでしょうか?もしもソ連の搭乗員が連合国軍と同じくらい手強かったのなら、何故このような差があるのでしょうか?あるいは、西部戦線ではそれほど多く出撃しなかったからなのではありませんか?

 いや、そういうわけでもないのですが、ただロシアでは、こちらが4機で出撃すると、ソヴィエトの飛行機が40から50機も戦闘隊形を組んで進んでくるのに出会う機会がよくありました。このように選択肢が多い方が、少ない場合よりも簡単に撃墜できるものなんです。目標を見つけて撃墜するのが楽でした。

―ドイツの戦闘機はしばしば、ソ連の爆撃機が爆弾を落とし終えたところで攻撃をかけてきた、と言われることがあります。損傷を受けたり落伍したりした飛行機を狙い撃ちにする、というわけです。そこで質問なのですが、爆撃が行われる前の段階で、空襲を防ぐために攻撃したことはあったのでしょうか?

 私たちが警報を受けて飛び立つ頃には、すでに爆撃が終わっている場合がほとんどでした。通常、私たちが攻撃する爆撃機は、自分たちの仕事をし終えていましたね。部隊にはレーダーの類は何もなく、電話で情報をもらっていたのですから。爆撃機が爆弾を落とす前に捕捉できるケースは稀でした。ある時、カフカースで一度だけ、爆撃の目標とされた橋の50キロ前で爆撃機を攻撃したことがあります。私たちは彼らが飛んでくるのに気づき、爆弾を落とすまでに迎撃できたのです。しかしこれは滅多にない出来事であり、私たちが迎撃空域に達する頃には爆撃が終わっているのが普通でした。別段そのような戦術を採用していたわけではなく、逆に爆弾を落とす前の爆撃機を捕捉することが主要な任務だったのですが、単に私たちの到着が遅すぎただけなのです…
 例えば、こんな出来事がありました。とある飛行場に駐留していた時の話です。私たちが着陸すると、周囲の森に潜んでいた[ソ連の]偵察隊員がこれを見てソ連軍に通報し、すぐにロシアの爆撃機が飛んでくるので、私たちは燃料のない状態でこれを迎撃する羽目になりました。それで、私たちも作戦を考えましたよ。着陸するふりをし、降下に入ったところですぐにまた上昇、やって来たソ連の飛行機を攻撃する、というものです。激しい戦いになり、敵機のうちの多くはセヴァストーポリまで逃げ帰ることができませんでした。この戦闘の後、空襲は止みました。クリミア半島、セヴァストーポリに近いツュリフタリという飛行場です。飛行場とさえ呼べないかもしれない、単なる広場でした。

―ソ連の爆撃機のうち最も撃墜しやすかったのはどれでしょうか、あるいはどの爆撃機が落としにくかったでしょうか?

 どれが難しい、どれが簡単、というのは答えにくい質問ですね。みんな大体同じくらいでしたから。例えばペー・ツヴァイ、Pe-2。この飛行機の後方では銃手が機関銃を構えていて、我が軍の戦闘機の多くがこのPe-2の砲火によって落とされました。

―つまり、全体としてはほとんど違いがなかったのですね?

 一番難しかったのは、言うまでもなく襲撃機Il-2です。強力な装甲で守られていて、新人がこれを落とすのはほとんど不可能でした。重要なのは、弱点をしっかりと把握することです。Il-2の一番弱い部分は、機体の腹についているラジエーターでした。私たちはここを狙っていましたね。ラジエーターにはシャッターがあるから、これが閉められるまでに射撃を始めるのが大切です。不意打ちを喰らわせ、最初の攻撃で撃つわけです。後方銃手を乗せたIl-2はより手強い相手でした。

―ドイツ空軍では、この飛行機をどう呼んでいましたか?例えばツェメント・ボンバー、コンクリート爆撃機といった呼び名が知られていますが。

 いやいや、それは時たま会話の中に出てきただけですよ。私たちは単にイル・ツヴァイ、Il-2と呼んでいました。特別な呼び名などはありません。

―襲撃機乗りのことはどのように思われていましたか?彼らは勇敢だったとか、攻撃的だったとか、積極的、消極的、どう感じられましたか?

 あれは本当に不屈の男たちでしたよ!断言できます。Schneidige Kennern!果敢な人々でした。彼らは私たちと同じように若かったですね。私たちの唯一の問題というのは、彼らと撃ち合わなければならなかったことです。全くの無意味なんですが、それが戦争なんですよ。戦いが終わるごとに、私たちは汗でびっしょりに濡れていました。

―エーリヒ・ルドルファーは、ある戦闘の後で7機のIl-2を撃墜したと言っています。あなたはどうお考えでしょうか、1回の戦いでIl-2を7機落とすのは現実的と思われますか?

 彼は、ルドルファーは非常に経験豊かなパイロットでしたから、可能だと思いますよ。ところで、お聞きになりたいのはどういうことでしょうか?簡単に落とせるか、ですか?

―現実に落とせるのか?というのが疑問なのです。

 私はルドルファーとは一度も話した機会がないので分かりませんね。彼が嘘を言っているかどうかは知りません。

―あなたのご経験からすると、可能と思われますか?

 はい、それは充分可能でしょうね。マルセイユだって、1回の戦闘で10機以上を落としたことがありますよ。

―ただ、それは戦闘機ですよね。疑問というのはつまり、もしもIl-2が落としにくい飛行機だとしたら、1回の戦闘で7機を落とすのは現実的かどうか?ということなのです。

 もしも相手の弱点を知り、これを射撃する力を持っていれば、可能なことだと思います。私だって、ボストン爆撃機を一度に4機落とした経験がありますから。そして基地に帰ってきた時、司令は私を信じてくれようとせず、それは不可能だと言ったんですよ。もしも本当だったら、上級軍曹に昇進できるくらいの戦功だ、と。その後、高射砲部隊の兵士たちから、全て事実だった、メッサーシュミットのうちの1機がこれこれの時に4機のボストンを落としたのを見た、という報告が来たのです。カフカースでは私は幸運に恵まれ、間もなく少尉に任官しました。そしてドイツに戻り、防空隊へ入った時にはもう中隊長になっていましたよ。

―クバンの戦いでは、どの戦闘機がもっとも危険な相手でしたか?この戦区では、ソ連軍の多くの航空隊がエアラコブラを装備しており、最も優れたエースたちがこの機体を使っていた、「コブラ」が最強だった、という説も広まっているのですが、これはいかがでしょうか?実際はどうでしたか?

 それはアメリカ製の戦闘機ですね。ただ、イギリスのスピットファイアも使われていました。実際のところ、そんなに大きな違いはありません。エアラコブラが特別だったとは思わないですね。

―ヤクはどうでしたか?

 どの飛行機も、ヤクも、ミグも、ラグも、みな全て非常に危険な相手でした。たくさんの戦いがありました。ロシアの搭乗員はとても優れていて、非常に苦労しましたよ。

―ドイツの戦闘機隊では、敵に関してどの程度の情報を与えられていましたか?偵察情報、作戦情報に関する定時の報告はあったのでしょうか?対峙している部隊の名前、搭乗員の名前などはご存知でしたか?どのような情報を得ていたのでしょうか?

 敵に関しては、全く知らなかったですね。何も知りませんでした。

―ソヴィエトの搭乗員に関してはどうでしょうか?

 撃墜されて捕虜になった者が、私たちの飛行場へ連れてこられた場合だけですね。私たちは彼に色々なことを聞きました。それだけです。その他は、敵については何ひとつ知りませんでした。

―ドイツ人同士では、ソヴィエトのパイロットに関する何らかの噂、意見、エピソード、冗談などを言い合うことはありませんでしたか?

 ある時、私たちは[基地から]そう遠くない場所でソヴィエト機を撃墜し、搭乗員はパラシュートで脱出して、近くに着地しました。私たちは彼をお客さんのようにして迎え入れ、タバコや酒を与えて、色々と質問し始めました。ところが相手はたいそう驚いて、もうすぐ銃殺しようというのに何故こんなことをするんだ?なんて言いましてね。私たちは、一秒たりとも銃殺などは考えなかった、と言ってやりました。何があろうとも、彼を撃ち殺すなんてことは起こり得なかったですよ。率直なところ、私たちは彼が何を恐れているのか分からなかった。

―西部戦線では、パラシュートで降下するドイツのパイロットは、非常にしばしばアメリカ機によって撃たれたことが知られています。東部戦線でもこのようなケースはありましたか?ドイツのパイロットはロシア人を、逆にロシア人はドイツ人を撃っていたのでしょうか?

 いいえ、ロシア戦線ではそういうことはありませんでした。そのような出来事は一度も耳にしていません。ロシアでは、両軍ともやらなかったですね。地上からは撃たれましたが、戦闘機同士であれば決して撃ったりはしません。戦後、何人かのアメリカ人将校と会った時、アメリカ人はパラシュートで脱出した搭乗員をいつも撃っていたのに対し、ロシアではそんなことは一度もなかったと言うと、彼らは私の言葉を全く信じようとしませんでした。私が最後に撃墜された時、それはアメリカの戦闘機に落とされたのですが、私は8000メートルから地表ギリギリまでパラシュートを開かずに落下し、アメリカ機に撃たれるのを避けました。もしもそうしていなかったら、空中で撃ち殺されていたでしょうね。

―体当たり攻撃についてはどの程度までご存知ですか?つまり、ソ連の飛行機が弾薬を使い果たし、あるいは損傷を受けてしまい、他の方法では敵機を落とすチャンスがなくなった時に体当たりをした、というケースのことなのですが?

 そのような話は一度も聞いていません。ドイツでは、本土防空戦で体当たり攻撃をした搭乗員がいましたよ。しかし、ロシアでソ連側がというケースは知らないですね。飛行機の空中衝突はありましたが、わざとやったようには見えませんでした。やはり、一度も聞いたことのない話です。

―実際には、戦争の全期間を通じ、あらゆる戦線でソ連の飛行士が実施した体当たり攻撃はおよそ500の事例が知られているのです。これに遭遇したことがないというのは、ちょっと不思議な気がするのですが?

 いや、私は聞いていないですね。私のいたカフカースではありませんでした。もしかしたら、北方や中央の戦区ではあったのかもしれませんが、私たちのところではそういう出来事はなかったですよ。一度も聞いたことがありません。

―戦いの合間にはどのようなことをされていましたか?地上にいた時、ロシアではどうやって休息の時をすごし、何を食べていたのですか?
 また、どんなタバコを吸っていましたか?

 私はタバコは吸わないですし、今までも吸ったことはありません。サッカーをやりましたね。ロシアは非常に暑かった。ある時、暑い中でサッカーをしていたところ、空襲警報が発令されました。私たちはサッカーのユニフォームのまま離陸したのですが、高度を上げてみるとものすごい寒さです。サッカー用のパンツのままだったからとてつもなく寒く、気温は0℃を何度か下回っていましたっけ。脚が凍るようでしたよ…当時はふつう高度3000から4000メートルで戦っていて、後にドイツへ戻った時は7000から10000メートルというところでした。

―ロシアで戦ったドイツ戦闘機隊にとって、最も典型的な戦闘はどのような形で起きていたのでしょうか?自由索敵攻撃ですか、爆撃機の護衛ですか、それとも偵察ですか?

 パトロール、自由索敵攻撃、地上攻撃でした。常に2機がパトロールに出ていて、通常は飛行場からそう遠くないところを飛んでいます。彼らが着陸すると、すぐさまロシア機が攻撃してきましたよ。兵員や兵器を対象とした地上攻撃もやりました…自由索敵攻撃も…それ以外の任務としては、He111やJu88の護衛ですね。この時には非常に激しい戦いがありました。

―地上目標の攻撃はどれくらい頻繁に行われていたのですか?

 非常に大規模な地上攻撃を行った時のことを憶えていますよ。モズドクとスターリングラードの間の平原、カルムィク・ステップが舞台で、ロシアの騎兵隊が突破してきたのです。ドイツ軍は強力な敵軍から奇襲攻撃を受けたので、私たちは地上攻撃でもって友軍を支援するよう命じられました。それで、彼らを救ったわけです。

―頻繁には行われていませんでしたか?

 地上攻撃の目標の大部分は、飛行場に駐機しているソ連の飛行機でした。地上目標に対する攻撃というのは、最も魅力的かつ危険な任務ですね。それから最も恐ろしいものでもあります。地上砲火による危険は大きく、低空を飛ぶためパラシュートで脱出する余裕もないのです。私たちに対しては、撃てるものなら何でも撃ちかけられましたし、機関銃や小銃はおろか、ピストルを撃ってくる者さえいたんですよ!

―ドイツの[戦闘機]搭乗員について書かれているところによれば、地上攻撃は大きな危険を伴うため好まれない任務であり、出撃を拒否する者さえいたそうです。こうした命令が出た場合、断ることはできたのでしょうか?

 (笑い)いえ、それは無理な話ですよ。誰一人そんなことはできませんでしたし、考えすらしなかったですね。ドイツでは、3機の飛行機に10人の搭乗員が群がるという有様でしたから。私は、飛びたいのは誰か、誰が志願するか?と尋ねました。そして全員が戦いに出ることを望んだのです。そこで、出撃するのはお前とお前、お前だ、という風に私が決める羽目になりましたから。常に一番経験のある者を飛ばせるようにしており、若手は戦闘には参加させませんでした。

―どうしてそれだけパイロットがいるのに、飛行機の数が少なかったのですか?

 私たちのところでは、搭乗員の方が飛行機より多かったのです。

―それは分かるのですが、しかし何故3倍もの差がついたのでしょうかね?

 私のいた隊では、搭乗員の数は足りていましたが、飛行機は少ししかありませんでした。特に戦争の最後の1か月になると、3個中隊でわずか50~60機でしたからね。

―ハルトマンに関して書かれたものを読むと、彼は敵機を攻撃する際、ほんのわずかでも危険が生じると敵に向かうのを止めてしまい、次の攻撃のチャンスを待ったと書かれています。事態が非常に危険と感じられた場合はそうした、というのです。この話は本当なのですか?

 もしも前線を越えたところまで進出していて、しかも大きな危険があり、戦いを行うのが困難であれば、リスクを冒すことなく自軍の支配領域まで戻る方がいいでしょうね。

―そのような命令が出ていたのですか?

 いや、命令というわけではありませんが、ただもしも前線を越えたところで戦っていて、なおかつ危険が大きいようなら、慎重な行動を取るに越したことはなく、戦闘を中止して自軍の領域へ帰る方がよいでしょう。例えば冷却系統などに1発でも命中弾があれば、それだけで全てが失われるわけです。前線の向こう側では、あらゆるリスクを回避すべきでしょう。実際、私はハルトマンにもそういうことを教えました。ロシアでは気をつけろよ!とね。私がドイツへ戻った時点で、ハルトマンは9機しか撃墜していませんでした。そして、帰国する時には彼にこう言いました。もしも今みたいに考えなしで、野心に引きずられて(彼はおそろしく野心的な人間でした!)戦っていたら、3週間で死人になってしまうぞ、と。ところがその後、ドイツではひっきりなしに彼の名前をニュースで聞くことになりましたよ。ハルトマン、ハルトマン、ハルトマン…!

―ハルトマンについて、それ以外に何か話していただくことはできませんか?彼は本当に素晴らしかったのですか、それとも単に幸運だっただけなのでしょうか?

 はっきりとお答えすることはできません、というのも私が会った時には、彼はまだルーキーだったからです。ただ、間違いなく優れたパイロットではありましたよ。例えば、私と彼とでどちらが上かは分かりませんが、彼は優秀なパイロットでした。それに、勿論、非常に幸運でもあったのだろうと思います。

―お聞きしたいのはこういうことです。ハルトマンはJG52の他の搭乗員に比べてとても若く、経験も持っておらず、多くの隊員よりも遅い1942年末という時期に着任し、華々しい勝利を飾り始めたのはようやく1943年の夏になってからです。一方、JG52にはたくさんの熟練搭乗員が在籍しており、やはり空中戦で多くの戦果を挙げています。例えばバルクホルンなどがそうです。それでも、一番の結果を残したのはハルトマンだった。これは奇妙なことのようにも感じられるのですが。

 43年当時のロシアでは、JG52の最優秀の搭乗員は撃墜されたり、あるいは防空隊に編入されてドイツへ、西方へ転勤になったりしていました。グラスムック、フュルグラーベ、エルンスト・ジュース…一方、彼はその経歴をスタートさせたばかりの中尉でしたから。

―それでは、戦争が始まる少し前からキャリアを積んでいたバルクホルンはいかがでしょうか?彼の撃墜数は300機にとどまっていますが、ハルトマンはそれより50機も多く落としているのです。

 どうしてそのようなことが可能だったのか、答はだれにも見つからないでしょうね。バルクホルンはパリで亡くなりました。彼は素晴らしいパイロットでしたよ。それからロシアの搭乗員たちも非常に優れていたから、生き残るためには幸運に恵まれる必要がありました。

―もしもロシア人たちがそれほど優秀で手強かったのなら、どうしてこれほど戦果に差ができたのですか?彼らとドイツの戦闘機乗りを比較したらいかがでしょうか?ソ連最高のエースでも、撃墜数は62機にすぎません。

 運ですよ。状況にも恵まれましたね。ツキのあった搭乗員たちは、そのほとんどがとても長い間、戦争のほぼ全期間を通じて飛んでいました。だから、実戦経験も豊かだったわけです。また、ハルトマンはプレッシャーをかけられることがありませんでした。かつての私と違い、彼は軍曹を経ずしてすぐ中尉に任官され、その後は中隊や飛行隊を指揮するようになったわけで、非常に幸運だったと思いますよ。誰の下にもつかず、やりたいようにできましたし、極めてオープンなシステムでしたから、彼は誰に何をやらせるかを自分で指示し、また何がどのように行わなければならないか、ということを全てしっかりと認識していました。

―つまり、自分で任務を選択できたのでしょうか?

 任務はGefechtststand(原註:司令部、指揮所)から下されるものです。勿論、警報により出動する時は別ですけどね。つまり、彼も命令に従って行動したことは確かですが、しかし命令をどのように実行するかは彼の裁量に任されていたわけです。

―ドイツの優れたエースたちのうち、あなたは誰をご存知ですか?

 私たちの隊には非常に優秀な下士官たちがいて、どんな飛行機でも乗りこなすことができました。彼らは20機から30機を落としたところで戦死したのです。誰がベストだったか、ですか?実際には、生き残った者が優れているとは限りません。例えば、私だってベストじゃないですからね。全ては運ですよ。時には飛行機に30から40もの弾を喰らって帰ってきたものです。

―最も尊敬に値するのはどのパイロットでしょうか?

 グラーフは最高でした。それからシュタインバッツ、ラル、オブレーザー、シュタインホフ…

―それでは、列機や僚機のことを最も配慮していたのは誰でしたか?

 私自身は常に全ての列機を連れて帰ってきましたし、1機たりとも失ったことはありません。いつでもそうだったんですよ。常に自分自身が教師であると感じていましたし、列機に対してもそう言っていました。俺が先生だ、お前は生徒だ、ってね。俺のやり方を観察して真似するんだ、俺はお前の面倒を見てやるから、というわけです。一方で、例えばシュタインバッツなどは、しばしば列機を連れずに帰ってくることがありました。彼はそれほど部下の運命を気にするタイプではなく、スコアを稼ぐ方に関心があったのです。

(ユルゲン・グリスラフスキ:アルフレート氏の子息)こうやってお会いして、あの呪わしい戦争のことを一緒にお話しできるわけですから、素晴らしい時代になったと思いますよ。私も若い頃には軍務を志したのですが、父は私に言いました。止めておけ、私は絶対に反対だ、お互いに撃ち合うなんて全く意味がない、と。そういう考えなんです。
「もしもお前たちが我々のように、当時の若者がやっていたように撃ち合うのなら、それは本当に意味のないことだ。全ての人々が一つの世界に住んでいるというのに」

―あなたのお父様は本当にしっかりしていらっしゃいますね!

 そうですね、体調は悪くはありませんが、ただ私は両脚を傷めているんです。パラシュートで脱出した時、脚を強く打ってしまいましたから。ただ、年のわりにはいい状態にあると思いますよ。

(ユルゲン・グリスラフスキ)父たちの世代があの最悪の戦争を乗り越えることができた、という事実には感嘆するしかありません。精神力ですね。

―戦争に関する悪夢を見ることはありますか?

 はい、今から10年も前には、夜中に悪い夢を見ることが頻繁にありました。そして数週間前、あの悪夢が再び現れたのです。

―あなたの駐留していた飛行場の周りに住むロシア人住民とはどのような関係にありましたか?

 よかったですよ!地元の人々とはいい関係を築いていました!私たちはよく、飛行食として支給されるチョコレートを、飛行場の周りで遊んでいた子供たちにあげたものです。問題は何もありませんでした。ハリコフでは、私たちは街の真ん中に住み、市民とは少しももめごとを起こしていません。また、ロシアの人たちと一緒に街の劇場へも行きました。演目は全てロシア語のものだったんですけどね。

―パルチザンはいませんでしたか?

 私たちのいた地区で遭遇した経験はありません。パルチザンが現れたのはクリミアだけです。時には、上空から村々へ投下されるパラシュートを目撃しましたが、あれはパルチザンに向けて何らかの物資を送り届けたのだろうと思います。ただ、私自身が彼らと出会ったことはありません。例外はツュリフタリでの出来事で、周辺の山の上から敵の観測員が見張っており、私たちが着陸したところを狙ってロシアの飛行機を誘導したというあの話だけです。おそらく、これが唯一のケースだったと思いますよ。

―搭乗員たちはお互いにどのような関係を築いていましたか?階級や役職に左右されたのでしょうか?人間関係はフォーマルなものでしたか?

 これに関しては、個々人の性格次第だと言うことができます。例えばハルトマンですが、彼はベルリンから着任した時すでに中尉で、将校だった。一方、私や部下たちはみんな下士官であったものの、経験豊かなベテランぞろいです。ハルトマンは新人でやって来て、常に俺は将校だ、中尉だ、自分がリーダーだなんて主張しましてね。私たちは「大きなお世話だ!出て失せろ!」と答えましたよ。彼は、今に思い知らせてやるぞと言い捨てて、司令官のところへ駆け込みました。
「こんなことが許されるのでしょうか、自分は中尉であり最上級者であるにも拘わらず、彼らは自分を無視しているのであります」
 すると司令官は言いました。
「とっとと出て行け、そして彼らに礼を言うがいい。彼らのようなお人よしだからこそ、貴様のたわごとに最後まで耳を傾けてくれたのだぞ!」
 ハルトマンが私たちのよき戦友となったのは、この出来事より後のことでした。

―彼はそれほどまでに野心的な人物だったのですか?

 私たちはみな同じ船に乗っていたようなものですよ。生きるか死ぬか、問題はそれだけでした。みんな平等で、団結していたのです。

―地上勤務の整備兵との関係はいかがでしたか?

 Shwarze Mannerつまり地上勤務のスタッフとの関係は、本当に素晴らしいものでした!

(ユルゲン・グリスラフスキ)私は、父が戦友会に招かれた時のことを憶えています。あの時はロスマンも来ていました。そして、彼は整備兵たちのところへ近寄ると、彼らがいなかったら誰一人として1発の弾も発射できなかったよ!と言ったのです。私らはみんな彼らに感謝しなければならない、と。私の父は労働者の家庭の出身で、母も同じくです。戦争が終わった後では、どのような教育があるか、ということが問題とされるようになりました。しかし父は、労働者の息子として、労働者であり続けたのです。

 私のいとこのヘルムートもまたパイロットでした。彼が部隊に配属され、グリスラフスキという姓を名乗った時、「もしかしてグリスラフスキの兄弟か?」と尋ねられたので、彼はそうではありません、いとこですと答えました。そこの指揮官は私のことを知っていたから、彼を私の隊へ回してくれましたよ。私はいつも部下を気にかけ、彼らを連れて帰るよう努力していましたから。

―ルフトヴァッフェに対するナチスの政治的な影響についてお聞きしてもよろしいでしょうか?我が国の空軍では、政治委員や共産党員が政治面で指導的な役割を果たしていました。党員とその他の将校たちはどのような関係にありましたか?

 彼らは影響力を持ちたがり、そのように教え込もうとしましたが、私たちは無視していました。私たちのところに将校を送り、教育をやったこともあります。こっちは相手にしませんでしたけどね。

―ソ連軍における政治的影響を例に出しましたが、私は否定的な影響だけを念頭に置いているわけではありません。我が国では、例えば兵士たちを勇気づけたり、モチベーションを与えたりと、肯定的な影響もしばしば見られました。しかしあなたのお話から判断する限り、ドイツ軍ではこれと類似した事例はなかったようですね。

 彼ら[ナチス]もそのようなことをやろうとしていたのですが、私たちには必要ありませんでしたし、好きにもなれなかったですよ。

―ドイツの搭乗員の中に党員はいましたか?

 いました。私は騎士十字章を受勲した時、オーバーザルツベルクにいるヒトラーのところまで勲章をもらいに行ったのですが、党員だった年長の搭乗員たちはみんなドイツ十字章金章を持っていたのに、私にはありませんでした。

―党員だけがもらっていたのですか?

(ユルゲン・グリスラフスキ)少なくともヒトラー・ユーゲントの経験者ですね。私の祖父は共産主義者にシンパシーを感じていましたが、それというのも炭坑労働者だったからで、父がヒトラー・ユーゲントへ入るのにふさわしい年齢になった時にも、ダメだ、入ってはならないと言ったのです。父は若き共産主義者でした。そういうわけで、私は[「父は」の誤り?]ドイツ十字賞金章を受勲することはなかったのですが、ヒトラーから騎士十字章を与えられた者の中では唯一の例外的存在でした。

―ルフトヴァッフェの他の搭乗員たちはどうでしたか?

 正確なところは分かりませんが、[党員は]たくさんいたようです。戦争が終わってから捕虜になった時、アメリカの将校がやって来て私を尋問し、身元の確認をしました。彼はフランクフルト出身のユダヤ人で、亡命し、アメリカ人と一緒に帰国を果たしたという経歴の持ち主でしたから、非常に攻撃的な若者であり、私にも「お前は嘘をついている!」なんて言いましたよ。私は、自分はナチスではないと答えたのですが、彼は私を怒鳴りつけ、全てを調べ上げてやると脅しつけたのです。しかし3週間後、私は本当にナチス党員ではないのだということを彼も認め、家に帰らせてくれました。申し訳なかった、私たちのミスだった、というわけです。戦争の終わりも近い頃に私は入院したのですが、その病院でカナダ軍の捕虜になりました。

―もしもロシアのパイロットと会うことがあれば、彼と握手しますか?

 もちろんですとも!ロシアのパイロットたちはシベリアから私に手紙を送ってくれて、私も返事を書いたんですよ!かつての敵たちと交流するのに何も問題はありません。戦争は昔の話です。私はアメリカ人やカナダ人、ブラジル人、フランス人のパイロット、ベルギー人、イタリア人たちと一緒に集まって、彼らと会っています。これは本物のインターナショナルじゃないですかね!

(出典:http://www.airforce.ru/history/ww2/grislawsky/index.htm

(12.06.05)

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