アブラメリンの書


 より正確には「魔術師アブラ-メリンの聖なる魔術の書 1458年にユダヤ人アブラハムが息子ラメクに与えしもの(The Book of Sacreo Magic of Abla-Melin the Mage As deliverad by Abraham the Jew unto his so Lamech A.D.1458.)」である。
 成立はおそらく18世紀であろう。

 M・メイザースがパリのラルセナル図書館にて発見し、英訳した本である。
 私は初めてこの本を見たとき、もしかしたらメイザースの創作ではないかと一瞬疑った。と言うのも、これは他の同時代のグリモワール類と比べて余りにも違いすぎるからだ。
 これは、「ソロモンの鍵」のように、妙な薬草や動物の生贄だのは要求しない。魔法円すら出てこない。
 必要とするのは、銀の皿と祭壇、人目につかない郊外の庭付きの家屋かベランダ付きの一室。これだけである。

 このアブラメリンの魔術を実践しようとする者は、春文の日から秋文の日までの6ヶ月間、一種の隠遁生活に入ることを要求される。
 この間、「いかなる形態であれ肉食は厳禁」、「太陽が昇ってる間は眠ってはならない」、「病気の治療以外の目的で出欠してはならない」、「薬物を使ってはならない」、「慈善や物乞いには快く応じること」、「1日に2時間は聖なる書物を読んですごさねばならない」と言った様々な戒律が課せられ、これを厳守しなければならない。
 この6ヶ月の隠遁生活は3期に別れ、二ヶ月ごとに祈祷の回数と内容が増大してゆく。
 この間、術者はアブラメリンの香を焚き、「心を祈りで燃え上がらせなければならない」。
 この期間が過ぎたなら、術者は銀の皿を載せた祭壇を用意する。そして思春期前の少年を連れてきて、彼を霊媒にして祈ると「聖なる守護天使」が現われ、銀の皿の上にメッセージを書くと言う。
 こうして聖なる守護天使の知遇を得た魔術師は、悪霊達を支配下におき、第3部に書かれている名前を記した方形を用いて、様々な奇跡を行うことが出来るようになるという。

 この書は3部構成になっており、第1の書はアブラハムがこの奥義に出会うまでの来歴が語られ、最も重要な第2部ではアブラハムが息子ラメクへの秘伝伝授の書簡の形で、魔術の式次第、注意事項を詳しく解説している。そして、第3部において、名前を記した方形を用いて様々な奇跡を起こす方法が記されている。

 メイザースの序文によると、天使召喚は魔術の一般思想であり、アブラメリンの概念は、次のような理屈に基ずいているという。
 まず、天使の力と善なる霊の力は、堕ちた悪霊より勝る。これら悪霊は罰として光の魔術師に奉仕しなければならない。全ての物質的現象は善なる霊の支配下にある悪霊の労働によって生じている。彼ら悪霊は善の支配から逃れたら復讐を企てる。ゆえに悪霊たちは人と契約を結ぶ際、主従を逆転させ人を支配化に置こうと企てる。そのためなら、悪霊たちは手段を選ばない。ゆえに彼らを支配しようとする術者は、最大可能な限りの意志の強さ、魂と意志の純潔さ、自分を制御する力を必要とされる。それは自己犠牲によってのみ得られる。そもそも人間は中庸の存在であり、天使と悪霊の中間点にいる。全ての人間には、守護天使と悪霊、使い魔がついており、どちらに勝利を与えるかは人間の意に任せられている。ゆえに悪霊どもを支配するには、高次の善なる守護天使と知遇を得ねばならぬ。
 以上によって、「アブラメリンの書」で提唱される大作業は、浄化と自己否定によって、「守護天使」との知遇を得て、悪霊を支配する力を得る、ということなのである。

 近代の魔術師達は、この「聖なる守護天使」とは、天界から降りてくる白い翼と輪っかを持った霊とは考えない。
 これは、人間なら誰もが心の中に持っている「神性のかけら」、仏教で言うところの「仏性」である、と考える。人間なら誰もが心の中に「神」の部分を持っている。しかし、これは多くの煩悩の中に埋もれていて出てこない。そこで、修行によって、この「神」の部分と接触して、引き出す。これこそが「守護天使と知遇を得る」ことであり、これに成功すれば、自分の心の中に棲んでいる悪霊達を支配化に置き、命令することが出来るようなる、というわけだ。
 人間の意識の中には、大きな力を持った部分がある。これが悪霊であり、これを支配下におき、制御し、使いこなせば様々なことが出来る。
 「ゲーティア」などの悪霊の召喚と支配も基本的にはこれと同じ理屈に基ずいているのだが、アブラメリンの方法が、遥かに強力かつ確実である、というわけなのだ。

 この魔術書には、どうしてもおどろおどろしい伝説がついて回る。
 この書の中で、第3の書にある方形を用いる時は、必ず守護天使との知遇を得てからにすること。さもないと、効果が無いばかりか、最悪の場合は支配下に置かれていない悪霊が暴れ出して恐ろしいことが起こるぞ……。
 クロウリーがボールスキン館でアブラメリンを実践した時の恐ろしいエピソードの数々、腕に方形を描いて逃げた妻を帰らせることに成功したが直後に自殺してしまった音楽家、D・フォーチュンが「心霊的自己防衛」でも引用している「オカルト・レヴュー」誌への投稿などだ。

 しかし、私はフランシス・キングの見解に賛成したい。
 すなわち、この書はルネサンス期の自然魔術師達の価値観を引き継いだもの。神秘主義者の修行を思わせる静寂主義を目指したもの。鬼面人を驚かすコケ脅しを避けたもの。これが、この本の著者の意図だったのではあるまいか?

 この本には、邦訳が2つ存在する。
 一つは、翻訳の大家の松田先生の訳であり、さすが! というべき読みやすい文章である。ただ、省略ないし簡略がちょっと気になる。もう一つは、完訳に近いのだが(私も人のことは全然言えた義理ではないのだが)誤訳が目立つ。
 両方入手するのが理想だが、とりあえず前者を推薦する。