アグリッパの生涯


 アグリッパ、本名ハインリヒ・コルネリウスは、1486年ケルンにて生を受けた。
 彼がアグリッパ・フォン・ネッテスハイムを名乗ったのは、ネッテスハイム家なる貴族の血を引いていたからだとも、あるいは、ケルンの創立者の名にちなんだとも言われるが、はっきりとはしない。ただ、裕福な家庭に生まれた。おかげで、彼は高い教育を受けることが出来た。
 
 彼はケルン大学に入学し、法律学、医学、哲学、各国語を学んだ。特に新プラトン主義に興味を示し、これが後のオカルティストの道を進む土台の一つとなる。十代後半で神童と呼ばれ、優秀な成績を納めて注目を集めた。
 卒業後の1501年にはマクシミリアン1世の神聖ローマ帝国の宮廷に書記として就職する。その後、彼は密偵を命じられ、1506年にフランスのパリに送られる。彼にとっては、これは学問の世界に復帰するチャンスとなり、パリ大学に入り、多くの知識人、オカルティスト達と交流した。
 
 ここで彼はスペインの貴族ヘロナと知り合う。この貴族は農奴たちの反乱に遭い、領地から追い出されていた。アグリッパは、このヘロナに協力し、反乱鎮圧にスペインへ向かった。ここで彼は優秀な「軍師」ぶりを発揮する。反乱軍は圧倒的に数が多く、ヘロナの軍は貧弱で、とうてい適うとは思えなかった。しかし、アグリッパは、数々の奇策を練っては砦を奪還したり、絶体絶命の包囲陣から奇跡と言いたくなるような見事な策略で脱出に成功するなど、まるで三国志演義を思わせるようなエピソードを残している。
 だが、この戦いは最初から無理があった。戦力に差がありすぎたのだ。結局、アグリッパは、善戦むなしく、反乱鎮圧を諦めて、フランスに帰らざるを得なくなる(その後、ヘロナは戦いを続けたが、農奴達に捕らえられ、殺されたらしい)。
 
 スペインからの帰国直後の1509年、アグリッパはフランスのドール大学に行き、教鞭を取った。ここで彼は神学博士の学位を取る。
 カバラについて論じ、かの名著「オカルト哲学」の執筆を開始する。
 ここで彼は多くの信望者を獲得することに成功する。
 だが、早速トラブルが起こる。ここで聖書を講義しようとしたのだが・・・。彼は、そこで聖書を、教会の権威によらず、自分の「理性」にしたがって解釈するという「自由検証」を主張した。
 これは、そこで力を持っていたフランチェスコ修道会を怒らせる結果となった。もともと彼らはアグリッパのカバラ研究について、良い顔をしていなかった。結局、彼は、町から追い出されてしまった。

 次にロンドンへ行き、「ロマ書」の註釈を執筆する。続いてケルンへ戻り神学を講義した。だが、ここでもトラブルを引き起こし、街を出るはめになる。
 1511年、ロンバルティアへ行き、7年間を過ごす。ここで、フランス軍に対抗した戦闘に参加した。これのおかげで、所持品や書物、原稿を失うはめになる。 
 1518年には、メッツへ向かい、法律学の知識をもとに弁護士となる。
 だが、またまたトラブルを引き起こす。彼は魔女裁判で訴えられていた農奴の娘を弁護した。彼は法廷で、頭が空っぽな審問官を論破。娘の無罪を勝ち取った。しかし、審問官と彼の属するドミニコ修道会は、当然のようにアグリッパを逆恨みし、彼と家族をメッツから追い出した。

 1523年に、彼はフライブルグへ行き、医者となった。名医との評判を得て、さらにバザの司教からも気に入られ、1524年にはフランソワ1世の母の宮廷医師兼占星術師に任命され、リヨンへ向かう。
 いよいよ、これで成功か・・・と思いきや、またもやトラブルを引き起こす。給料が未払いとなり、それをめぐってのトラブルが原因で、1526年にそこを立ち去らざるを得なくなる。

 その後、彼はカール5世に認められ、歴史の記録係として雇われる。
 だが、またもやトラブルだ。
 1527年、アグリッパは問題作「学問と芸術の不確かさと虚しさについて」を執筆していた。
 内容は、要するに、魔術のみならず、あらゆる学問は誤りに満ちている。いくら学問を積んで知識を溜め込んでみたところで、それによってもたらされるのは、虚しさと、「いかに自分が無知であるか」を思い知らされるだけである、といった感じのものである。ここで、彼は学問そのものを否定している。さらに、当時の学者や知識人達の傲慢と、知的テロリズムを糾弾したものである。
 これは、アグリッパの代表的著作の「オカルト哲学」の内容と大きく矛盾する。実際、この著書は、1510年に「オカルト哲学」で展開した主張の撤回ではないのか? とさえ言われている。
 しかし、それにしてはおかしな話しだ。この「虚しさについて」は、1530年に発表された。だが、肝腎の「オカルト哲学」が出版されたのは、その後の1531年である(執筆されたのは1510年だ)。
 この矛盾した態度は、我々を混乱させる。彼がこんな書を出したのは、迫害されている、と感じた被害者意識から出たヤケクソの主張だったのか?
 あるいは本気で学問を否定し、単に金儲けのために「オカルト哲学」を出版したのか? それにしては、どうして「オカルト哲学」に、自説撤回の断り書きを載せないのか? あるいは、「オカルト哲学」出版による異端の嫌疑を避けるための予防策として、「虚しさ」を出したのか? これについては、今もなお議論が絶えない。
 ただ、この本はパリ大学当局を怒らせて、没収され、焚書にされた。
 さらに、彼の支持者であったカール5世をも怒らせ、投獄される。

 その後、ケルンへ戻ったが、そこで聖職者達と衝突し、追い出される。
 さらにフランスへ渡るも、故皇太后を批判したために再び投獄された。
 そして、1535年グノーブルで、熱烈な信望者と彼を蛇蠍の如く嫌う敵達を抱えたまま、50にも満たない短い生涯を終えた。

 それにしても、彼の生涯を見ていると、「本当についてない奴だ」と、つぶやかざるを得ない。結婚を例に取ってみても、二人の妻に先だたれ、三回も結婚しているのである。
 そして、成功か、と思いきや、トラブルを起こし、それをオジャンにする。もっとも、このトラブルは、彼の論争好き、攻撃的な性格によるものが多く、自業自得と言わざるを得ない部分もあるのではあるが…。
 こうした妥協を知らない性格は、パラケルススやもっと後世のメイザースやクロウリーに通じるところがあるのやも知れない。
 優れたオカルティズム思想家の業なのかもしれない。

 アグリッパに関しては、いくつもの伝説がある。
 悪魔の化身である黒犬を買っていた、という話しは有名であろう。
 他にも、さまよえるユダヤ人のために、彼の恋人を魔法の水鏡に映してみせた、という話しもある。
 また、こんな話しもある。アグリッパの家に下宿していた学生が、机の上に開かれたままになっていた魔術書を見て、そこに書かれていた呪文を唱えた。すると、悪魔が出現した。
 「俺を呼んだのは貴様か? さあ言え、何が欲しい?」
 しかし、学生は恐怖のあまり口が効けない。からかわれたと思って怒った悪魔は、学生を絞め殺してしまう。
 そこへアグリッパが帰って来て、死体を発見する。じぶんがに嫌疑がかかることを恐れた彼は、悪魔を呼び出し、この学生の死体を歩かせ、適当なところで倒すように銘じた。
 やがて、市場に顔色の悪い学生が、ヨタヨタと歩きながら現れた。そして、学生はバッタリと倒れた。
 それを見た人々は、その学生が急病で死んだのだと思い込んだ……。
 無論、これらは後世の作り話しであり、我々には「面白いフィクション」以上の価値は無い。
 だが、これは同時に、彼の魔術師としての名が高かったがゆえの伝説でもあるだろう。


「オカルティズム事典」 アンドレ・ナタフ 三交社
「オカルト」 コリン・ウィルソン 河出文庫
「ルネサンスのオカルト学」 ウェイン・シューメイカー 平凡社
「ドイツ・オカルト事典」 佐藤恵三 同学社
「ルネサンスの魔術師」 B・H・トレイスター 晶文社
「ルネサンスの魔術思想」 D・P・ウォーカー 平凡社