プランシと「地獄辞典」
コラン・ド・プランシの「地獄辞典」は、娯楽のための大衆文学的な作品と捕らえるべきであろう。
ここには膨大な項目と解説、凝った美しい版画もあるが、同時にジョークやユーモアや社会風刺にも満ちている。
文豪ヴィクトル・ユゴーにインスピレーションを与え、南方熊楠もこの本から引用を行ってはいるが、彼も学術的価値の高い本では無いと見ているようである。
しかし、この書の影響はなかなか馬鹿にできないものもある。プランシが「ゲーティア」を読んでいたことは明らかであるし、またこの時代にこれほどの情報を集めるのには、かなりの労力が必要だったはずである。
当時、ヨーロッパではゴシック小説がもてはやされ、怪奇趣味がもてはやされていた。
この「辞典」は、こうしたご時世のニーズに合った作品とも言えた。
これはその名の通り辞典であるが、項目にあるのは、悪魔、妖怪、魔女、魔術、異教、世界各地の怪異に関わる伝説、民俗、怪異談などである。
この辞典の初版は、1818年に出ている。プランシが24歳の時に書かれた。
当時、彼はフランス革命の革新派の影響を受け、反権威主義、反教会主義をつらぬいていた。当然、彼は悪魔や魔術については批判的で、こうしたものを迷信と切って捨て、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」のような話しも紹介している。
(しかし、同時に幽霊談についても、「枯れ尾花」の話しをした後、こういう馬鹿な話しもあるが、本物の幽霊目撃談もある……といったような超常現象の存在を認める立場を明確にさせてもいる。)
宗教についても批判的な記述も多かったようである。
そして、どこか人を食ったようなユーモアに満ち溢れていた。
例えば、彼は悪魔との対話形式を取った、おどけた寓話を書いている。
悪魔がグチって言うには、自分が醜いのは人間のせいだという。いつしか「悪魔にはシッポがある」という話が生まれたので、この通りシッポをはやすはめになった。さらに、女性達が子供たちを脅かして躾るために「角を生やした怖い悪魔が来ますよ」などと言うもんだから、この通り角を生やすはめになってしまった。鼻がみっともなく長く垂れ下がってるのは、聖人が悪魔の鼻をつまんで引っ張り上げたなんて伝説を、人間が作ってくれたおかげだ。耳がビラビラなのは、エクソシストが悪魔払いの儀式のときに、悪魔を叩くと称して悪魔つきにビンタを食らわすもんだから、それを悪魔は全部受け止めなければならず、こんなになってしまった。
終いには魔術師どもが、悪魔に様々な名前や格好を考え出すものだから、いま悪魔はえらい目にあってる……というものである。
ここに、悪魔を信じる人間の迷信深さを笑う風刺があることが分かるであろう。
ところが、1844年に大きな変化が起こる。
突然、プランシは敬虔なカソリック信徒となってしまうのである。この時「地獄辞典」の3版が書かれる事になるのであるが、ここにおいて彼は大幅な書き換えを行うのである。
旧版の反教会的な記述は薄まり、かわりに敬虔なカソリックの立場から書かれるようになる。
例えば、旧版の「異端審問」の項では、教会の暴虐振りを批判する記述であったのが、「若気の至りから間違ったことを書いてしまった」とし、異端審問所とそれを設置した教会を弁護する記述に変わってしまっている。
やがて、これは1863年までに6版を重ねるが、そのたびに改訂が行われ、収録されている項目も増補されていった。そして、最終的には3799項目にも及ぶ大冊となっていた。
そして、このカソリックの立場から書かれた新版は、当時のキリスト教神学者たちからも高い評価を受けるまでになるのである。
初版は20代の頃に書かれたが、最終的な6版が出たのは彼の晩年である。この最後の版に置いて彼は実に800項目もの大増補を行っているのである。
肝心の内容であるが、記述それ自体は、お世辞にも正確とは言えない。ミスや勘違い、間違いも非常に多い。例えば日本の「狐」や「ボンズ(仏教の僧)」の項を見れば、その信頼性の程度が分かるであろう。
しかし、当時の日本は鎖国と開国の前後の期間であり、正確な情報はまだヨーロッパには入ってはいなかった。それでいながら、正確さはともかくも、こうした当時としては珍しい最新のデータを貪欲に取り入れた彼の研究熱心ぶりは評価されても良いだろう。
ともあれ、この「地獄辞典」は、19世紀以降の悪魔学に多少なりとも影響を与えたであろう。日本の方ならジャガーバックスの「世界妖怪図鑑」の後半の様々な動物のコラージュじみた悪魔の絵を見た方も多いであろう。これは「地獄辞典」にある美しい版画挿絵を抜粋したものである。
これらの悪魔の肖像を見ると、奇天烈に動物をコラージュさせただけではなく、鳥に軍人の格好をさせたり、動物に高級官僚のような服を着せたりしている。これは、一種の社会風刺を交えたユーモアであろう。
「地獄辞典」を読む場合、こうしたジョークやユーモアを楽しむようにしたほうが、よりプランシの趣旨に合うのではなかろうか。
それでいながら、単なるジョークのみに終わらず、怪奇趣味からなる教養書としての性格をも同時に含んでいた。
「地獄辞典」は、そのような書ではあるまいか。
コラン・ド・プランシ、本名ジャック・アルバン・シモン・コランは、1794年フランスはシャンパーニュ地方のプランシーで生まれた。かの革命指導者ダントンの血縁説もあるが定かではない。
トロワで学んだ後、1812年にパリに来て教師になったらしい。だが、文筆業に鞍替えし、先にも書いた通り1818年に「地獄辞典」の初版を出す。
彼は多くのペンネームを駆使して、文章を量産したらしい。それで、彼の未発見の著書がいくつかあるといわれている。
彼は「悪魔の肖像」、「封建制辞典」、「聖遺物辞典」なども書いたが、いずれも反権力、反教会的な内容で、当局に睨まれ、筆禍事件をも起こした。
1824年から1830年に不動産業に手を出したが、失敗する。夜逃げに近い形でベルギーに移住。
この時の大きな精神的危機が、彼を敬虔なカソリックに変えてしまったらしい。
彼は1837年にフランスに帰国するが、ここで彼は真面目なキリスト教信仰の書を執筆するようになる。
さらには博物学にも興味をよせ、こうした分野についても筆をふるった。
「地獄辞典」の大幅な改訂は、こうしたことを背景に行われたのである。
1881年、彼はフランスで死去した。
反教会にして迷信を嘲笑する「旧版」と、敬虔なカソリック信徒の立場の「新版」。
この極端な差は、彼の人生の軌跡そのものだとも言える。左翼運動に挫折した革新的な若者が、長じて保守反動的な老人になる。そんな姿を思い浮かべたのは私だけではないだろう。
「地獄の辞典」 コラン・ド・プランシ著 床鍋剛彦訳 講談社
「魔法 その歴史と正体」 K・セリグマン著 平田寛訳 人文書院