ダシュウッドと地獄の火クラブ
クロウリーは低俗な黒魔術として、現実からの逃避を目的とした貴族の遊びがあるとして、これをMagicと呼んで、自分の奉じるMagickと区別した。彼の念頭には、ダシュウッド卿の「地獄の火クラブ」があったのかもしれない。
これはイギリスの黒ミサに関連した一大スキャンダルであった。
とはいうものの、これはかのモンテスパン夫人事件に比べれば、(悪趣味ではあるが)かなり罪の無い事件であっただろう。
フランシス・ダシュウッド男爵は、1708年バッキンガムシャーの貴族の家に生まれた。彼の父親は商人の出で、大地主でもあった。その財力にものを言わせて、名門貴族の女性と結婚し、貴族の称号を得た。
ダシュウッドは長男として生を受けたが、彼の母親は1719年に死去。その後も父親は、再婚をしたが、信じがたい程の結婚運の無さで、次々に妻が若くして急逝。4回も結婚を重ねた。
そして、その父親も1724年に死去した。
ダシュウッドは若干16歳ににして、莫大な財産と准男爵の地位を得た。
父親が厳格で真面目な性格だったために、彼は厳しい教育を受けていた。だが、そのタガが突然はずれてしまったために、貴族の悪友仲間たちと好んでつきあうようになり、すぐに不良貴族となった。
当時の不良貴族は、度の過ぎる悪戯にせいをだしていた。それは女遊び等の比較的無難なものから、庶民を遊びで半殺しにしたり、商店を破壊したりし、貧民街に放火する等、非常に悪質なものもあった。当然の如く彼らは、市民達からは蛇蝎の如く嫌われた。彼らは、本来だったら逮捕されるようなこともしていたのであるが、貴族の特権を利用して、それを免れていたのである。
ダシュウッドも、こうした不良貴族の一人として、こうした悪友達と享楽的な生活にせいをだした。とはいっても、彼の遊びは、女遊びと大酒飲みといった程々のものだったらしい。
そして、彼はただの頭の悪い不良ではなかった。彼は大の学問好きで、芸術にも深い関心を持っていた。不良であると同時に、深い学識と教養も同居していた。
「地獄の火クラブ」は、ダシュウッドのオリジナルではない。イギリスの不良貴族の間では、黒魔術を遊びで行う者が少なくなかった。
当時、ゴシック・ロマンス等の流行から、怪奇趣味が流行していた。そのため、これに影響され、黒魔術に憧れる者も少なくなかった。
また、怪しげなグリモワールも多く流布していた。こうしたグリモワールの類は、当時は発禁であったから、主に地下出版であった。そして、こうした地下出版はポルノ出版社の分野である。いわば、ポルノ出版社が主にグリモワールを出していたのである。
こうしたことから、性と放蕩貴族と黒魔術が結びつくのは必然的だったといえる。
ともかくも「地獄の火クラブ」を名乗る不良貴族のクラブはいくつもあったらしい。有名なものは1720年頃にフィリップ・ウォートン卿によって創設されたものだ。しかし、これはわずか1年後に国王の勅令によって解散を命じられた。
それでも、同様の黒魔術クラブは、作られ続けた。1725年にも裁判所命令によって、こうしたクラブの一つが禁止されている。
ダシュウッドは、17歳の時にこうしたクラブの一つに入っている。
1729年、彼は家庭教師と共にヨーロッパを旅行する。これが彼の人生に大きな影響を及ぼす。
彼はまずロシアへ行き、そこでスウェーデン国王を詐称して、ロシアの王妃を含めた上流階級の女性に手を出すという悪ふざけをする。
続いてスペインで闘牛を見物しながら、女遊びを繰り返す。
しかし、イタリアに入った途端、彼は豹変する。
ルネサンスの芸術に圧倒され、彼は関心を女遊びから芸術と宗教に移し変えたのである。
彼はカソリックに心を奪われ、真剣に祈り、宗教的陶酔を経験し涙を流した。
ここで彼は贖罪者を相手に奇妙なパフォーマンスを仕出かした。家畜用の強力な鞭を持って、懺悔に訪れた人々に向かって、「本気で懺悔をしたいのなら、俺の鞭を受けろ!」と怒鳴った。
これが原因で、彼は警察の取調べを受け、国外退去を命じられた。
イギリスに帰国すると、彼はカソリックに改宗した。
そして、領地に聖堂を建設し、悪友達にカソリックへの改宗を薦めた。
さらに彼は、真面目なカソリック信徒による神学研究のクラブの創設も計画した。終いには、イギリスの国教をカソリックに戻す運動も真剣に計画した。
だが、これまで行いがあまりに悪すぎたため、彼のカソリックへの信仰は、ジョークだと周囲は受け止めた。
これにより、彼は深く傷ついたらしい。
1741年に彼は国会議員に立候補して当選した。王党派のトーリー党議員になっている。
1745年には金持ちの未亡人サラと結婚した。この夫婦の関係は記録が少なく謎が多い。ダシュウッドは結婚後も女遊びを続けた。だが、離婚はしなかった。やがてサラが1766年に病に倒れると、彼は3年間つきっきりで、彼女が死ぬまで献身的に看病した。彼は妻を「最良にして最悪の友」と呼んだ。
彼のイタリア芸術とカソリックへの信仰心は強かった。
彼は「聖フランシスコ修道会」というクラブを作り、真面目にカソリック神学の研究を行った。
また、巨額の金を使ってイタリア人の技師や芸術家を雇って、ルネサンス風の豪邸を建てさせた。
そんな彼が、またもや豹変するのは1750年頃からである。
熱心なカソリック教徒が、どうして悪魔主義の享楽的な遊び人と化したのか? その理由については記録が無く、謎である。
ともあれ彼は、「地獄の火クラブ」を結成した。
まず、テムズ川上流の田舎にある修道院跡を買収し、ゴシック風の建物に改修した。
これが「メドナム修道院」である。
そこにはエジプトの神々の彫像をたて、ローマ神話に題材をとったポルノ絵画を天井や壁に描いた。
特にホラスとハーポクラテスの彫像が目立っていたという。
入り口にはラブレーからの引用、「汝の欲することを成せ」の文字が書かれた。
図書室は、真面目な神学書とエロティシズム文献、ポルノが同居する奇妙な蔵書となっていた。それを見たある人物は「聖歌集と「カーマスートラ」がならび、祈祷書とポルノが並ぶ妙な書架だった」と報告している。
他に十二使徒に猥雑なポーズを取らせた戯画もあった。
同時に、カソリックを迫害して英国国教会を組織したヘンリー8世を非難し嘲る絵もあった。
彼は、どうもカソリックに愛情を反感の両方を含んだ複雑な心境を持っていたらしい。
そして、彼の悪魔崇拝は、あくまで「遊び」であった。
彼の「地獄の火」クラブの名簿を見ると仰天させられる。
当時の名だたる名士達の名前が、ゾロゾロあるのだ。
王室関係者、貴族、大地主、軍人、国会議員、市長、学者、芸術家などだ。中には、ベンジャミン・フランクリンや画家のウィリアム・ホガース等の歴史に名をのこしている人物もおり、また呆れたことに高位聖職者もいた。
高級娼婦も多く参加し、メンバーたちをもてなした。
彼女達は「修道女」と呼ばれた。
このクラブは「秘密クラブ」であり、その活動やメンバーについては、他言無用だった。
ダシュウッドの副官として、二人の人物がいた。
一人はサンドウィッチ伯爵である。あのパンにハムをはさむサンドイッチの考案者として有名な貴族である。彼は、賭博好き、女好きでならした札付きの遊び人で、ダシュウッドの同類で、お互い気があった。
もう一人は、ホワイトヘッドという老詩人である。彼はフリーメーソンの著名な会員でもあった。
彼は、やがてダシュウッドの忠実な執事となり、「地獄の火」クラブの世話役となる。
クラブの会員達は、彼を老ポールという愛称で呼んだ。
ダシュウッドの死後、「地獄の火」クラブに関する資料のほとんどを、彼は焼却した。主人の名誉を守るためであった。この通り、彼の主人への忠誠は本物であった。
ダシュウッドは、このクラブ活動にとりわけ熱心な会員達を十二人選んで幹部とした。もちろん、これは十二使徒に合わせたパロディである。
会員達は、一癖も二癖もある者ばかりだった。
単なる遊び人もいれば、本気で悪魔崇拝や黒魔術に凝っている者もいたし、また札付きの変人も少なくなかった。
この「メドナム修道院」には黒ミサ専用の礼拝堂が用意された。
ここで彼らは、蒸留酒を飲み、「汝の欲することを成せ」を合い言葉に、カソリックの儀式をパロディにした冒涜的なミサを行ったらしい。
祭壇には山羊の画像、逆さ十字架が飾られ、死刑囚の手首のミイラで作った「栄光の手」が置かれた。そして、裸の美女を祭壇にし、ワインを注ぎ、それを飲んだ。
黒ミサの後は、殺人以外のあらゆる形式を含んだ乱交パーティーが行われた。
私は、ここで彼らの文字通りの酒池肉林の記録を描写するつもりはない。
ただここで強調すべきは、彼らのやっていたことは、実際のところ「遊び」であったということだ。
実際、彼らは悪魔の存在を本気で信じていたかすら疑問である。また、モンテスパン夫人事件の時のように幼児を生け贄にするような狂った真似はしていない。
しかし、こんな真似をしていれば、どうしても噂にはなる。
特に地元の農民達は、好奇心から、メドナム修道院を見物にくる。中には、こっそりと建物の中に侵入する者までも出る始末。
そこで、ダシュウッドは「地獄の火」クラブの本拠地を移動させた。
そこで彼はウエスト・ウィカムの洞窟に目を付けた。
その洞窟は先史時代の住居跡であり、近郊の迷信深い農民達の間ではバケモノが出る所として、恐れられていた。
しかし、「地獄の火」クラブのアジトには、ふさわしいところではないのか?
彼は、その洞窟を3年かけて堀りすすめ、新たな秘密アジトの「地獄の火洞窟」を1754年に完成させた。
その洞窟は女体を表しているとも、カソリックの地下墓地を表しているとも、ギリシャ神話の世界観をあらわしているとも言われる。複雑で深い構造を持った洞窟だった。
ともあれ、そこは「メドナム修道院」に負けず劣らず手の込んだ作りで、そこで黒ミサや悪魔の喚起実験、乱交パーティーなどが行われた。
1760年、大きな事件が起こる。
ジョージ3世がサンドウイッチ伯爵を始めとした王党派の貴族や国会議員たちを取り立て、内閣を組織した。ピュート内閣である。それは偶然(?)から、「地獄の火」クラブの関係者を多く含んだ内閣だった。
一部に、これを揶揄して「地獄の火クラブ内閣」と呼ばれることもある。
ダシュウッドも財務大臣にノミネートされた。政治的野心のさほど強くない彼は、いささか困惑しながらも、これを引き受けた。
これがきっかけとなって、「地獄の火」クラブは衰退する。
メンバー達は政務に忙しくなって、悪魔崇拝の遊びにうつつをぬかしてる時間が無くなってしまったのである。
1762年の会合をもって、このクラブは閉鎖された。
このピュート内閣は、無能な代物だった。
だいたい、浪費家のダシュウッドを財務大臣にすること自体、無茶な話しだ。ダシュウッド自身も「わしは最低の大臣になるだろうな」と呟いたという記録が残っている。
国民からの人気も最低だった。
それでもダシュウッドは、さぼらず真面目に仕事はした。
そして、准男爵から男爵に昇格した。
スキャンダルは1763年に起こる。
「地獄の火」クラブのメンバーだった企業家のジョン・ウィルクスが裏切ったのである。
彼は最初は王党派だったが、共和派に鞍替えした。かつての仲間達とは、政敵同士となってしまった。
そして、彼は全てを新聞に、ぶちまけたのである。
こうして内閣の閣僚達が黒ミサと乱交パーティーにふけっていたことが世間にばらされた。
怒り狂った元メンバー達は、名誉毀損でウィルクスを告訴した。
そのうえ、適当に罪をでっちあげて、彼を逮捕しロンドン塔に収監した。
しかし、ロンドン市民達がそれに激怒し、暴動を起こした。
国王には腐った果物がぶつけられ、ウィルクスを逮捕させた貴族は暴徒に捕まってリンチされた後、汚水の満ちた溝に放り込まれた。
マスコミは面白がって、このスキャンダルを大袈裟に誇張して、報道した。
たまらず、当局はウィルクスを釈放した。
彼は見事に政界にカムバックを果たし、後にロンドン市長になっている。
ダシュウッドは、必死になって弁明したが、無駄だった。
結局、彼は辞職を余儀なくされたのである。
「メドナム修道院」は1477年に売却され、一般公開もされたが、すぐに飽きられて廃墟となった。
ダシュウッドは、その後、悠々たる老後を送った。
旅行に明け暮れ、キャプテン・クックと共に海を渡ったりもした。
彼は終生愛したイタリアへの旅行を願いながらも1781年に死去した。
「ロンドンの怪奇伝説」 仁賀克雄 メディアファクトリー
「黒魔術の手帳」 澁澤龍彦 中公文庫