悪の樹・クリフォト教義


 あらゆる宗教において、「悪」の考察は外せない。
 ユダヤ教やカバラにおいても、それは同様であった。カバラにおいても、「悪」の考察は、様々な方法で行われたし、多くの教説や議論が存在する。
 
 クリフォトの教義は、盲人イサクの系統を継ぐカバリストであるトドロス・ベン・ヨセフ・ハ・レヴィ・アブラフィアという13世紀後半の人物よって、よく知られるようになった。
 トドロス・アブラフィアは、グノーシス派の影響を受けている人物で、そういった思想を持ったカバリスト・グループにも所属していたらしい。
 また、モーゼス・デ・レオンとも親交があり、少なくとも息子のヨセフは、レオンと友人であった。レオンは著書のいくつかを、この友人に献辞している。
 また、トドロス・アブラフィア自身も1280年代に「栄光の宝庫」なる著書を残している。

 このクリフォトと言う言葉は、「殻」という意味である。それも卵の殻のような「外殻」の意味を持つ。
 これは、エゼキエルの幻視と関係してくる。「エゼキエル書」の第4章1節に「北のほうから激しい風が大いなる雲を巻き起こし、火を発し、光を放ちながら吹いてくるではないか。その中、つまり火の中には、琥珀金のような輝きのようなものがあった」とある。
 これは、「神性」が4つの「殻」で囲まれていることを示すという。すなわち、中心の「琥珀金のような輝き」こそが、「神性」である。しかし、それは4つの「殻」に包まれている。一つ目の「殻」は「激しい風」であり、2つ目は「大いなる雲」、3つ目は「巻き起こる火」、4つ目は「その火の周囲の輝き」であった。これは、とりもなおさず「神性」は常に、こうした「殻」に囲まれた形で出現するということでもある。
 この「殻」は、「悪」である。
 ずっと後世(16世紀)のイサク・ルリアは、「悪自身の中に善の閃光がありえる」とした。
 この教義は、やがて合成され、これは、「善」は「悪」と殻と実のように結合されている、あるいは「善」は「悪」の内に見出されることもある。また、その逆も然り。ということにもつながるようにもなった。
 いわば、これは「悪」と「善」は表裏一体、隣合わせの存在でもある。言ってみれば、「クリフォト」は「セフィロト」の硬貨の裏側のような存在でもあるのだ。
 しかしながら、本来、「クリフォト」というものは、独立した原理でも要因でもない。これは「セフィロト」それ自体の不均衡な破壊的側面のことにすぎない。
 「セフィロト」においては、均衡が重要になってくる。しかし、完全なる均衡、完全なる安定は、同時に不動の状態であり、それでは進歩は望めない。だからこそ、「樹」には、対象的なシンボルが存在し、それはお互いに干渉し合い、引き合っている。「樹」の「安定」は、慣性の安定ではなく、緊張の安定である、とも言い換えられるだろう。例えば「コクマー」と「ビナー」の関係などがそうだ。
 これは二つの崖に架けられた吊り橋にも似ている。両の崖の橋から引っ張られるからこそ、橋はピンと立ち、安定していられる。しかし、片方の崖ふちから引っ張る力が無くなれば(すなわち切られてしまえば)、橋はまッ逆さまに転落してしまうであろう。
 しかし、この緊張した安定にも、問題はある。互いに引っ張り合っていると、たまに力が片方に偏り、不均衡な状態に陥ることがある。これが「クリフォト」の状態なのだ。
 「クリフォト」の球である「クリファー」は、「セフィロト」の球である「セフィラ」の流出の過程で、こうした不均衡な状態の現れとして出現した。例えば、ケテルがコクマーを流出した時、その力が余分に出来て、力があり余ってしまった。余ったがゆえに力が過剰となり、不均衡が生じた。この病的な過渡期の状態の時に、ケテルに対応する「クリファー」が生じる。
 すなわち、「クリフォト」は、「セフィロト」の流出・進化の過程で、周期的に生じてしまう均衡の喪失の位相の間に抑制が効かなくなって生じた存在であるのだ。
 したがって、こうした「悪」を切り離したり、消滅させようとしても無駄である。それは本来あるべき姿の不均衡な結果にすぎないからだ。だから、カバリストは「悪」を消滅させようとするのではなく、それを補い、調整を取ることによって、「クリファー」が生じた「セフィラ」に再吸収させなければならない。
 例えば、先の例で言えば、ケテルの過剰な力から生じたクリファーを解決するのは、ケテルと引き合っているコクマーを活性化させることにより、両者のバランスを取り、中和させればよいのである。
 「樹」を登って、修行を行おうとする修行者にとって、この考えは重要である。
 修行の過程で、何らかの不均衡が生じると、そこにクリフォトが生まれ、修行者はそこに転がり落ちるかもしれない。
 
  これは「創世記」に出てくるヤコブの子らと戦って滅亡したエドム11人の王にも例えられた。創造の過程に置いて、神が不要と見なした物を破戒する作業でもあった。「創世記」で語られるエドム11人の王達の死は、いわばこの破壊のシンボルと見なされることもあった。クリフォトはこの王達の残滓である廃棄物で作られた「悪」の勢力にも例えられた。
 これは、修行でいうのなら、修行者は自分の内部の人格が不完全であるとこを、まず自覚する。そして、より高次の人格を作るためには、この人格を再構成しなければならない。再構成を行うには、古い建物の一部を破壊しなければならない。当然、破壊すべきは「悪」の部分だ。
 エドムの王達は、その人格のある部分を象徴しており、この「創世記」の物語は、精神の各部分の相互作用を象徴しているとも言えるのだ。
 もっとも、破壊とはいっても、要するにこれは「均衡の獲得」に他ならない。エドムの王達との戦いは、「不均衡の王」達との戦いである。

 モーゼス・デ・レオンやイサク・ルリアは、こうしたエドムの王の例えを、非常に難解なシンボリズムで説明している。アダム・カドモンの両目より発射された光が、セフィロトの諸容器を粉砕し、容器を構成していた光はバラバラの火花となって壊れた殻の領域に落下した云々。こうした寓意は、後世に入っても、いくつものバリエーションを生んだ。
 これについては、敢て触れない。

 また、クリフォトはセフィロトと同様に図式化することも可能である。
 それは、セフィロトより下向きに伸びている、逆立ちした樹である。これは「生命の樹」に対して「邪悪の樹」と呼ばれることもある。各セフィラに「ケテル(王冠)、コクマー(智恵)、ビナー(理解)、ケセド(慈悲)、ゲブラー(唆厳)、ティアファレト(美)、ネツァク(勝利)、ホド(栄光)、基盤(イエソド)、マルクト(王国)」とあるように、クリファーには「パチカル(無神論)、エーイーリー(無神論)、シェリダー(拒絶)、アディシュス(無感動)、アクゼリュス(残酷)、カイツール(醜悪)、ツァーカブ(色欲)、ケムダー(貪欲)、アィーアツブス(不安定)、キムラムート(物質主義)」と名づけれられることもある。そして、セフィロトに神名や天使の位階が照応されるように、悪霊の位階やその他の物騒な名前も割り当てられている。
 とは言うものの、こうした突っ込んだ理論は魔術カバラのものであり、ユダヤ教カバラの、少なくとも正統派では、あまり考察されたことはない。そもそも、ユダヤ教カバリスト達は、天使については熱心に研究を行ったが、悪霊にはあまり関心を持たなかった。
 クリフォトのより詳しい象徴体系については、「The Sorcerer and His Apprentice」(Gilbert編  Aquarian社)に収録されている、メイザースの講義録を紹介することで、終わりにしたい。

 
「ユダヤ神秘主義」 G・ショーレム
「ユダヤ教思想における善と悪」 シャローム・ローゼンベルク 昇光書房
「カバラー」 チャールス・ポンセ 創樹社
「カバラ Q&A」 エーリッヒ・ビショップ 三交社
「神秘のカバラー」 D・フォーチュン 国書刊行会
「魔法入門」 W・E・バトラー 出帆出版
「トワイライトゾーン」誌 No.153 KKワールドフォトプレス
「The Evil of Tree」 W・G・Gray WEISER