前回のブログについて、様々な反響があった。自分としては毎週のようにやっている考察班の活動を少しばかり拡張した程度だったのだが、けものフレンズのファン以外にも興味を持っていただけたのはとても嬉しく思う。
そして、(非公式ながら)6話での感想(とネガキャン)の中心であった「かばんとサーバルの旅を終わらせるなんて酷い」という主張に対しての説得が出来たということに、一ファンとして静かな満足感を覚えている。
きっとそれは、現在けものフレンズのファンではない人にとっても、大事な事だろうから。
そして、感想は次のフェーズへと移行した。
誰かがほんの少し優しければ……
量もそんなに無い。
さて置かれてしまった。
結構”単純に”という言葉を使う人が多かった気がします。
以上、要約すると、
「内容がつまらない、面白くない」
となるだろう。
エンターテインメント作品に対する論評としては最も厳しい言葉の一つである。
では、アプリ版からずっと見ている私はどうなのか。
それが一番、皆さんの興味を満たすものの一つだろう。
私の批評眼からは以下の通りである。
「うん、つまらないし、面白くないね」
そもそも、本当に面白かったらこんなブログなど書かなくてもツイッターやニコニコ動画やアニメ系まとめサイトやらが我先に取り上げるはずである。私の出る幕など一切ない。
しかし今、私はこうやってキーボードを打鍵しているのである。これは「面白くない」と結論づけて十分な状況だろう。木村監督、ますもと氏は大いに反省すべきだ。
さあ、これで一般の方々に対しては満足の行く回答を出せたと思う。
これ以上ここに残っても仕方がない。
ブラウザバックして帰りましょう。
(おわりったらおわり)
帰れ―!
……そろそろ良いかな。
ここまで残った人へ。地獄へようこそ。
ここから先は私の批評眼ではなく”考察眼”から見える光景を通して、
「一見面白くない『けものフレンズ2』を、ファンたちは如何に楽しんでいるのか」
を解説していきたいと思う。
なぜ先に人払いをしたのか。
ここから先の内容は読者の皆さんを「納得」させるために書いているわけではない、それでもそれを「知りたい」という人のみが、此処から先を読むべきだと考えているからだ。
長文に対する覚悟は宜しいだろうか。
それでは、具体的な回に対する実例を上げて、ファンたちの狂気を見ていこう。
2話『ぱんだとぱんだ』
1:尻尾の黒いパンダ
たどりついたある林で、ジャイアントパンダと、レッサーパンダというよく似た名前のフレンズに出会ったサーバルたち。しかし、名前は似ててもなんだか全然タイプが違う。そして、サーバルたちはレッサーパンダの案内で先に進むことにしたが、なかなか目的地に辿り着かない。そんな中、サーバルたちは林であるものを発見する。
初っ端ラスボスである。
この話を何も考えずに観た時の空疎さは相当なものであり、頭を抱えるファンたちが後を絶たなかった。ストーリー展開の粗は確かに多い、それは紛れもない事実だ。
(今は敢えてここには触れない、後で触れるから安心して欲しい)
しかし、この回にはストーリーより重大な問題を抱えていた。
これが作中でのジャイアントパンダの後ろ姿である。
実は、動物好きならば、一瞬で「何かがおかしい」と気づく部分があるのだ。
ヒントを出そう。
これでもうお分かりだろう。
なんと、「けものフレンズ2」のパンダの尻尾は、実際の動物と違って「黒」いのである。
これがいわゆる「パンダの尻尾騒動」と呼ばれる事件である。(今付けた)
界隈は戦慄した。
こんな基本的な所を間違えていて、今後大丈夫なのだろうか。
アンチはこれみよがしに「2は動物に対するリスペクトが足りない」という主張を繰り返した。
しかし、とある存在がこれに一応の解決を与えた。
我ら栄光の「けものフレンズ考察班」である。
過剰なほどの動物に対する知識と愛を持ち、どんな小ネタも見逃さない。その読みはマリアナ海溝よりも深い。
真の考察班は背景ばかり見ている。
彼らはこの「異常」とも言える事件に対して、どのように立ち向かったのか。
まず、「これはもしかしたら”意図的に”黒くしているのではないか」と考えた。
根拠が無いわけではない。
公式は今まで「パンダの尻尾が白いこと」をしっかりとデザインに入れていたのである。考察班のバイブル的存在、「けものフレンズBD付きオフィシャルガイドブック」の3巻に、それはしっかりと示されている。
持っていない考察班はモグリだぜ。
今まで正しかったデザインを、いきなり黒くするのはどうにも不自然である。そこにはなにか「黒くしなければならない理由」もしくは「黒くすることで伝えたい意図」があるのではないか。
考察班はリサーチを続けた。そしてその一人が、とうとう一匹のパンダにたどり着いた。
パンダの名前は『トントン』
1986年に恩寵上野動物園で、日本国内で繁殖した初のジャイアントパンダとして生まれ、2000年に死亡するまで一生を上野動物園の顔として生き続けた。
このトントンは、世界でも類を見ない、黒い毛が尻尾の先に混じっているジャイアントパンダだったのである。
尻尾の黒いパンダは、実在したのだ。
となれば、「けものフレンズ2」に登場したジャイアントパンダは、「トントン」ないし、トントンのように動物園の主役であったジャイアントパンダがモデルであると考えることができる。
2:レッサーパンダの劣等感
その上で2話を視聴してみよう。注目すべきポイントはレッサーパンダのセリフである。
『ジャイアントパンダちゃんと違って……』
『私って、ジャイアントパンダちゃんみたいに可愛くないし……』
と、ジャイアントパンダと自分を比べて、自分を卑下する発言が見受けられる。
そう、作中のレッサーパンダはジャイアントパンダに対して、相当な劣等感を抱いているのである。
では、その劣等感の原因は何だろうか。
「人の動物に対する認識はフレンズに反映される」という半分メタい設定がある。
キンシコウが孫悟空の格好をしているのは顕著な一例だ。「キンシコウは孫悟空のモデルになった」という言説は人口に膾炙している。彼女の緊箍呪と如意棒はそれが反映された物だろう。(しかしながら、その発端となった日本モンキーセンターの小寺重考氏は後にそれを「勘違いであった」と訂正しているのではあるのだが)
そして、この設定からフレンズの内面もまた、人の認識を反映していると類推出来る。
そう考えた場合、一つの答えにたどり着く。
「彼女の劣等感の原因は、他ならぬ私達にある」という答えに。
3:パンダとパンダ、それとヒト。
動物園の2種類のパンダ、同じ名前を冠しながらも、私達の認識は天と地ほども違う。
パンダの野生、炸裂です。
1972年、日中国交正常化を記念して中国から「カンカン」と「ランラン」が贈られた時から現在に至るまで、私達のジャイアントパンダに対する認識はほぼ変わっていない。
「動物園の主役、動物園の人気者」
1974年に歴代最大の入場者数、約764万人を達成したのは、「客寄せパンダ」のお陰と言って差し支え無いだろう。
2008年に「リンリン」が死亡しパンダのいなくなった上野動物園の入場者数は、1949年から維持していた300万人を初めて下回った。
現金なものである。
その後、2011年には「リーリー」と「シンシン」が中国からの”リース”という形で来園、入場者数は470万人へと爆上がりした。
2017年には「シャンシャン」が誕生
当時の盛り上がりは今更説明するまでも無いだろう。
パンダブーム再来
熱狂は未だ続いており、昨年は6年ぶり、400万人が来園した。
やっぱりみんな現金。
そんな躍進と対照的なのがレッサーパンダである。
想像よりデカかった……
読者諸兄の中に、現在、上野動物園はレッサーパンダを展示していないことをご存知の方はどれほどいらっしゃるだろうか。
2016年に西園の施設改修工事が始まって以來、展示の見通しが立っていないのだ。
しかし、殆どの人は入れ替わるように誕生したジャイアントパンダに夢中で、全く気づかなかった。ぶっちゃけ、私もこの記事を書いた時に初めて気づいたくらいである。
早く再会したいですね。
私達はついつい、”珍獣”に惹かれてしまう。
どうしても”珍しい動物”ばかりに気を取られてしまう。
レッサーパンダも珍獣ではあるものの、ジャイアントパンダと比べるとどうしても”ありふれた動物”として受け止められやすい。素通りしてしまう人も少なくないだろう。
レッサーパンダの劣等感は、そんな私達の心理的バイアスの反映かもしれない、と考えるのは行き過ぎた想像だろうか。
しかし、動物園は全ての動物に対して等しく真摯に向き合い、愛情を持って飼育している。
そう、本来、動物たちは平等な存在なのだ。
私達も、動物たちの間に本質的な価値の差異はないということを再確認しなければならないかもしれない。
本当に動物が好きならば、ブームや珍しさに惑わされる事無く、どこの動物園にもいるありふれた存在に、地味な存在に、ちゃんと向き合うべきではないだろうか。
と、作品を通じて勝手に考察班たちは感じた、多分。
少なくとも私は感じた。
感じたということにしておいて下さい。
4:二人の解放、二人の友情
「ううん、お礼を言うのは私の方。だって、私のこと、守ろうとしてくれたし。いつも寝てばっかりの私と、一緒に遊んでくれるし~!こちらこそありがとう~!」
ずっと劣等感を感じていた相手からの感謝の言葉。
レッサーパンダにとって、これ以上の慰めの言葉は無いのではあるまいか。
二人はひしと抱き合う。
その時、我々は2話の本質に気づくのだ。
人がいなくなったことにより、二人は人間の価値基準から開放されたこと、そして人の姿を得たことにより、二人は対等な友人となったことを。
人類が絶滅した設定と、フレンズという概念を上手く利用した、皮肉めきながらも美しいストーリー。
これをエモいと言わずして何というべきか。
と、考察班にかかればこんなものである。
無論これは勝手にストーリーを補完し解釈した冷奴である。信じるか信じないかはアナタ次第。
考察班の主食。
なお、BDのPR動画では、尻尾は白に修正されていた。
なんでやねん!
3話『うみのけもの』
1:ジャパリパークのボッタクリタクシー
海のそばまでやってきたサーバルたち。目的地はすぐそばのはずなのだが、探してみてもどこにもない。そこでたまたま近くにいたフレンズ、バンドウイルカとカリフォルニアアシカたちに尋ねてみることに。するとイルカたちは目的地を知っていたが、サーバルたちだけではいけないという。そこでサーバルたちはイルカたちに案内してもらうことに。
東南アジアの観光タクシーのようなバンドウイルカとカリフォルニアアシカの”ご褒美”要求が話題になった3話。
1期で確立された「やさしい世界」の崩壊とされ、相当な物議を醸した回である。
しかし、彼女たちの行動にはどうにも不自然さが残る。何らかの法則に従って”ご褒美”を要求しているように私には思えたのだ。
それを解明すれば、あのぼったくりタクシーのようなご褒美要求の理由も説明できるかもしれない。
私は図書館に駆け込んだ。
イルカに関する書籍を片っ端から借り、熟読した。
「迷ったらその動物を徹底的にリサーチする」
考察班の鉄則である。
そして、一冊の本に辿り着いた。
水族館の動物に対するトレーニングを、一般人に対しても分かりやすく解説した本である。
イラストを多用し、ストーリー仕立てで進んでいく内容はとても楽しく感動的、読了後はイルカショーを見る目が変わるはずだ。
そして、この本の内容こそ、3話の謎を紐解く鍵であった。
2:3話に見る「オペラント条件づけ」
さて、ここで一つ、読者に質問しよう。
「水族館のイルカはご褒美(魚)を食べたいからジャンプをする」これは正しいか。
否、実情はそう単純ではない。
「オペラント条件づけ」という言葉を聞いたことはあるだろうか。
「自発的に行った行動の中で、満足感をもたらすものは、繰り返されるようになる」
という、心理学者”スキナー”が提唱した理論である。
イルカのトレーニングも、この法則に則って行われている。
①イルカを動かすきっかけは別に存在している(行動のきっかけとなる刺激)
②そして、イルカがそのきっかけを受けて、トレーナーの意図通りの行動を起こす(行動)
③そうしたら、イルカにその行動を増やすための快の刺激を与える、これが「ご褒美を与える」に当たる(行動を増やす刺激)
この①②③の繰り返しによって、イルカはトレーナーの指示どおりに動くようになるのである。
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つまり(言葉遊びのような言い回しで非常に申し訳ないのだが)
イルカがジャンプをする理由は、行動前の「魚が欲しいから」というきっかけではなく、行動後の「魚が貰えた」という、過去の結果なのである。
ギャンブル依存症に例えてみれば分かりやすいかもしれない。
ギャンブル依存症患者は「大金が手に入るからギャンブルをする」のではない。
「ギャンブルをしてお金が稼げた」という過去の結果に行動を強化されてギャンブルをするのである。
カジノ側が必ずしもギャンブラーに利益を与えないことは、少し考えれば誰でも分かることだが、それでも破産するまでギャンブルを辞められない人が後を絶たないのはこういう理由なのである。
つまり、オペラント条件づけによる行動において、「事前に結果を確約すること」は不必要……というより不可能なのである。 私達の常識的な「契約関係」のルーティン――「結果を予め約束して」から「行動を起こす」は、この場合において通用しない。
魚を持っていない状態でも、指示を出せばイルカはジャンプをするし、コインが一枚も入っていない状態でも、スロット台を前にすればギャンブラーは回さずにはいられないのだ。
(勿論、結果が全くなくなればそれは「負の強化」となり、行動を消滅させることになってしまうので、カジノ側もいきなり負け続けにするのではなく、勝ちと負けを交互に与えることによって「間欠強化」を行い、ギャンブル依存症にさせていたりする)
それを踏まえて3話を見てみると、イルカもアシカも「結果が見込めない状況でありながらも行動を起こしている」事が分かる。「ご褒美が貰えないと分かっていても、行動を起こしている」のである。これは完全に「条件づけされた行動」だ。
そして、オペラント条件づけされた行動はルーティン上、「結果を予め約束すること」が出来ないのである。
故に、「ご褒美」を「行動」の後から要求しなければならなかったのだ。
これで、彼女たちの「ご褒美要求」の理屈は説明が付いた。彼女たちは悪意をもって、それをしている訳ではなかったのだ。
かくして、優しい世界は守られた。某弁護士もにっこりである。
3:感動は、はるかな時を超え……届く。
しかし、まだ私は満足していなかった。
これだけではエモくないのだ。
最終的に、イルカたちはキュルルたちを「ご褒美」なしで岸まで送り返してくれた。
「お前のルールガバガバじゃねぇか」「ゴネ得だ」ニコ動のコメントではそんな言葉が流れた。
しかし、ここにも語られていない理由があるのではないか。
「トレーニングという仕事」には、以下のような内容が記されている
「行動を強化する刺激」というのは、かならずしも、「ジャパリコロネ」のような”ご褒美”である必要はない。イヌや人の場合は「親や飼い主から褒められる、撫でられる」事も「行動を強化する刺激」である。
しかし、「イルカはイヌのように褒められることを理解できないので、ご褒美を使っているだけ(志村 2017:46)」なのである。
それを踏まえて3話の後半を見てみよう。
二人の芸を見て、キュルルたちは大きな拍手を送る。
それを見たイルカたちの内面に変化が起きる。
「懐かしい」過去。
動物の頃に浴びた拍手喝采。
動物の頃には理解できなかった。
しかし、人の姿を得た今、彼女たちはそれを理解したのだ。
「あたたかい」その意味を。「言葉では言い表せない」気持ちを。
”その気持ち”はきっと、二人にとって”ジャパリまん”よりも遥かに強い「行動を増やす刺激」になったのだろう。
ならば、もう”ご褒美”は必要ない。この気持ちこそ、”最高のご褒美”だから。
ここまで話せば十分だろう。
けものフレンズ2の3話とは……
私達が水族館のショーで感じた感動の拍手の意味が、時を超えてイルカたちにしっかり伝わった瞬間
を描いた作品なのだ。
よし、エモいぞ!すごくエモいぞ!
と、勝手に確信に至った私は、これらの妄想を大急ぎでスライドに纏めTwitterに投下した。(新説は学術論文と同じように早いもの勝ちなのである)
このように、作品の「語られていない部分」を研究し、推察し、それを共有することで作品を楽しむという、ある意味病的な楽しみ方をしているのが、我々「けものフレンズ考察班」なのである。
こうして今日も、冷奴は造られ続ける。
「うめ……うめ……」「おわかりもいいぞ!」
知り続けること、想像しつづけること。
さて、如何だっただろうか。
今、読者の皆様方には複雑な感情が渦巻いていると思う。
「まさかここまで深い作品だったのか」から
「いや、流石にこれは無理があるやろ」まで
様々な意見が寄せられることは容易に想像出来る。
そして、最も張り付けられる煽り画像は
これであろうことも、また想像に難くない。
しかし。私はそれら一切に遠慮しない。
そんなものに遠慮していたら、考察班はやってられない。
公式の事情や監督の手腕や脚本家のオツムなど知ったことか。
私は、私達は「君をもっと知りたい」だけなのだ。
フレンズたちが何を考え、何を思っているのかを知りたいだけなのだ。
そのために、舐めるように本編を観て、動物に関する知識を収集し、想像力を最大限発揮させるのだ。
それは、実際の動物と接する時に少し似ている。
行動を緻密に観察し、知識を集め、物言わぬ彼らの心を想像する。
そうして初めて、私達は動物たちと心を通わせることが出来るのだろう。
私がこの記事を通して伝えたいことは唯一つ。
「知り続けることで、想像しつづけることで、見えてくる世界がある」ということである。
アニメであろうと、現実であろうと、そこに違いはない。
私達は今「けものフレンズ2」に試されているような気がする。
自らのイメージや考えに反した存在を「は?」の一言で拒絶するのか。
それとも、「なぜなのか、どうしてか」と、調べ、考え続けるのか。
二者に優劣を付ける気はない。
しかし、見えてくる景色には天と地ほどの差が生まれる、決して埋まらない差が。
その差こそ、「楽しめるか、楽しめないか」の差なのだろう。
最後はいつもどおり、アプリ版からの引用で締めよう。
ジャパリパークに入園する者は、必ずこの問いに答える必要があるとされる言葉だ。
キャッチコピーでもあったこの言葉は、今、別の意味合いを含め、私達を問いかけているように感じる。
『あなたは、けものはお好きですか?』
とはいえ、ますもとたくや氏はこんな本書きながら制作していたと思うとなんとも言えない気持ちにはなるが。それはまた別の話。