おそらくこの文章の由来するところはこのドキュメンタリーであろう。内容に矛盾はない。
ただドキュメンタリーの中でのダライ・ラマの発言には少々驚かされた。
仏教の考え方としては動機と目標が正しければ手段は暴力的でも許される。
暴力も方便だと言っている。
旧西藏,つまり元の西藏噶廈政府の統治区は,地理的にほぼ以下の三部分に分けられる:
- 衛藏地区:西部を指し,現在の西藏自治区の大部分と新疆、青海の一部を含む。
- 康区:東部を指し,現在の四川西部と西藏東部と雲南西北部を含む。
- 安多区:北部を指し,青海の大部分と甘粛、新疆の一部を含む。
各区の藏人には特性があり,“敬虔な衛藏人、勇敢な康巴人、勤勉な安多人”と評される。
このうち康区は漢区に近接し,民主改革の嵐は最初にこの地を襲った。1956年以降,康区の各地で次々と大規模な叛乱が発生し,康巴人は“雪域護教志願軍”を組織して,解放軍と戦斗を交えた。敗れた康巴人の一部は西部の衛藏区に逃亡したが,再び徐々に結集し,騒擾を起しつつあり,これが“四水六崗衛教軍”の成立前後の情勢であった。
当時康区の理塘(今四川甘孜州理塘県)の人恩珠・貢布扎西は,早くから拉薩で商売をやっており,拉薩の康巴人の間や,康区の巴塘や理塘などの地域に一定の声望があった。彼は拉薩へ逃れてきた康巴人を語らい,1957年5月にダライラマに黄金の宝座を献上するための募金を名目に,四水六崗を組織した。(按:藏語では“曲西崗珠”で,四水は黄河、長江、雅魯藏布江、瀾滄江を指す。六崗はこの四水流域の西藏地区を指す。“四水六崗”は狹義では指康区を指し,広義では藏区全体を指す。)到1958年5月13日,四水六崗は各路の人馬を召集して秘かに会同し,人数を点すると合計二千二百余人で,みな馬匹と武器を帯し,步銃や猟銃以外に刀矛を帯し,殆どは康巴人だったが,安多人もいた。
1958年6月16日,恩珠・貢布扎西等は山南地区の竹古塘で,正式に“四水六崗衛教志願軍”の成立を宣言し,司令部を設けた。
米国人は西藏人の独立を支持することに興味を示した。米国人は已にこれを全地球的規模での“共産主義封じ込め”の一環と見なしており,少くとも“藏独”分子の抵抗運動は米国による“赤色政権の傷口に塩を塗る”ための陰謀であった。これはCIAのある工作員の言であるが,当時の米国政府はまだ“藏独”支持を明確には表明していなかった。米国の支持を得られるかもしれないと思った衛教軍は興奮したが,西藏は僻遠の地で通信は不便であり,米国という西方の国について知るところは少く,ただ中国の放送の傍受により米国が当時の中国の最大の敵であることを窺い知るのみであった。
“下を覗くとヤルツァンポ江が月光を反射して輝き,一片の雲もなく,皓々たる夜だった。パラシュートを背に跳び下りる時には,全身が恍惚感に包まれた。”
1958年夏,貢布扎西は藏南の哲古宗(山南措美県)に衛教軍の新司令部を開き,数千名の叛乱分子が結集した。阿薩爾・諾布は事態の推移を無線で米国に報告した。1958年7月,CIAは衛教軍に最初の空中からの武器投下を行ったが,大部分は旧式のLee-Enfield(李・恩菲爾徳)歩兵銃であった。当時の米国の援助に関しては,ダライも1990年の自伝の中で以下のように述べている:
“それは彼ら(米国人)の西“藏独”立への関心を示すものではなく,共産党政府壊滅のための全世界的な行動の一環であった。”
ラサ叛乱
1959年藏歴春節のラサは不穏であった。3月10日,広汎な藏族同胞が春節を祝っている最中に,叛乱が醸成された。中央政府と十四世ダライとの間の齟齬により,ダライが殺害されようとしているとの謠言が流れたのだ。そこで“藏独”分子は“ダライの安全を護る”ためにダライの居住するポタラ宮を包囲した。3月17日,“藏独”分子はダライを擁してポタラ宮を脱出し,衛教軍の支配域を経て,CIAで訓練された二人の“藏独”分子の護送下に中印辺境に達する。3月19日,ダライ逃走の報に接した中央政府は全面戒厳を決定し,武力鎮圧を準備する。
3月20日午前2時,ラサ市内の叛軍は全面進攻を開始し,我が軍は鎮圧実施を決定。3月29日,貢布扎西の率いる衛教軍は解放軍の打撃下に山南地区の隆子県へ逃れ,インドを後盾とした長期叛乱を企図する。しかしラサ叛乱を平定した解放軍は迅速に南下し,山南の叛軍を壊滅させ,叛徒はインド方面へ逃れる。ダライ集団の長期抵抗の企図は水泡と帰し,3月31日インドの提斯浦爾(Tezpur)に至る。ダライがインドへ逃れて後,密かに米国コロラド州ロッキー山中のキャンプ・ヘイル(Camp Hale,Colorado)に送られて訓練を受ける“藏独”分子の数は增加し,最終的には合計259人に達した。
1959年9月,CIAはキャンプ・ヘイルにおける訓練を終えた18名の叛軍をラサ東北300余キロの査格拉本巴に降下させた。彼らの任務はその地で兵力を募り解放軍と対峙することであった。最終的にはこの部隊の規模は3.5万人に達し,彼らは米国に武器の援助を要請した。その後,CIAは数次にわたり武器の空中投下を行ったが,M1カービン銃や迫撃炮や対戦車擲弾やブレン軽機銃などが含まれ,その規模は小さくはなかった。明らかに,ダライラマの西藏脱出後におけるCIAの武器支援はもはや糊塗できないものとなっていた。
CIAの間接的援助下に,西藏叛軍は手負の獣の如く斗ったが,時間の推移とともに,その蟷螂の斧のごとき行動は,意義を失った。その間CIAは計49名の訓練された“藏独”分子を西蔵に降下させたが,生き延びたのは12人のみで,しかもその内の二人は解放軍に捕えられ,他はすべて射殺された。叛軍の支配地域は已に狭まり,自己の生命の維持さえ困難になっていた。情況が不利であるにも拘らず,狂信的な“藏独”分子は一時の衝動に任せて行動し,戦略性を欠き,米国人を焦らせたが,彼らはまったくCIAの意見を容れず,好んで大規模な解放軍との全線対決を繰返した。またこれら叛軍は当時は十分な無線設備を持たなかったため,相互間の連絡に支障をきたしていた。米国が彼らに十分な通信設備を提供できなかった理由は,一つにはCIAが彼らの通信の機密保持能力を憂慮したことがあり,また当時彼らが使用していたPRC10型無線機は消費電力が大きかったが,空中投下物資としては電池ではなく武器を選択したという事情もあった。
アイゼンハワーは1960年のソ連によるU-2撃墜事件後類似行動の再発を厳禁し,1960年末にはCIAは“藏独”分子に対する援助を打ち切った。支援を失った“藏独”分子は独力で厳冬を乗り切らざるをえず,一部は凍死し,また一部は皮革を齧って飢えをしのいだ。
1961年秋,米国ではケネディーが大統領となり,西藏叛軍は再び希望を見出した。就任直後のケネディー政権は,叛軍に対する支援を再開した。CIAはムスタンの4つの叛軍キャンプに継続して武器の空中投下を行い,またキャンプ・ヘイルで訓練された七名の西藏人を送り込み,叛軍の增強を行った。
この間,中央政府は西藏のための道路と飛行場の建設を行っていた。交通の改善により,中国の辺防部隊も西藏向けの大量の武器裝備の補充が可能となった。1960年代中期には,“藏独”分子にとっての環境はますます悪化していた。インド及びネパール政府はムスタン基地の“藏独”分子の滲透に不安感を抱いていた。CIAによる“藏独”分子に対する支援活動も米国国内で批判を浴びていた。ケネディー政権の駐インド大使ガルブレイスはCIAの活動を“愚か”と評した。そこでCIAは“藏独”分子の西藏における活動を情報收集のみに制限することにした。しかし叛軍は表面上は同意しても,実際には1960年代末まで,武力滲透を継続した。CIAによる空中補給は1965年5月が最後となった。
1972年,ニクソンが大統領に就任し,米中の国交は正常化された。これは“藏独”分子に対する弔鐘であった。西藏叛軍のムスタン基地は1974年まで存続する。1974年7月,中国政府の圧力により,ネパール軍はムスタン営地を包囲。叛軍は投降を拒絶。最終的にはこの無駄なあがきを眼にしたダライラマは,自ら投降勧告をテープに録音し,それはムスタン営地で放送された。ダライラマの肉声の投降勧告に接して,叛軍の多くは武器を棄て,一部は河に投身し,一人はその場で自らの喉を割いた。
しかしながら,ムスタンの最後を託された叛軍司令旺堆嘉措はダライの命令を無視し,精鋭を率いてインドへの突破を試みる。一ヵ月後,この叛軍部隊は廷克斯峠でネパール軍の伏撃に遭い,死を賭して決戦し,全滅する。
西藏平叛に関る主要な戦斗
1、1959年3月20日-22日,ラサ薬王山戦斗(ラサ市内平叛を含む)で,叛乱武裝5300余人を殲滅,撃斃545人,傷、俘4800余人。
2、1959年4月8日-4月21日,山南地区の平叛戦斗で,撃斃、傷、俘虜の叛乱分子2000人弱。
3、1959年7月上旬-8月中旬,藏北(Memo:那曲北部方面)で掃討戦。
4、1960年2月29日。恩達、丁青、嘉黎、扎木地区(Memo:昌都方面)における包囲戦は,47日にわたり,撃斃叛乱分子1100余人,傷、俘虜4800余人,帰順する者4100余人,無反動炮6門,高射機銃1挺、軽機銃119、無線機6、步銃3700、落下傘268を捕獲。
5、1960年4月末,溫泉、黒河、巴青(Memo:那曲東部方面)における包囲戦は,38日にわたり,撃斃、傷、俘虜の叛乱分子5000余人,および空降特務7人。
6、1960年には申扎、薩嘎、定日(Memo:日喀則方面)における掃討戦、阿里地区の馬泉河以北、国境以北、青藏公路以西における掃討戦、昌都東南における掃討戦などがある。戦果は不祥。
これ以外に,叛乱分子は米国やインドの直接の支援の下,ネパール北部のムスタン地区に盤踞していわゆる“衛教軍”を組織し,1960年から辺境地区を擾乱した。1964年には中央軍委の批准を経て,西藏軍区は扎東に中共特委と軍事指揮部を置き,駆逐に努めるが,衛教軍に対する駆逐作戦は1974年に衛教軍がネパール政府により武裝解除されるまで続いた。
1959—1961年における平叛では,参戦部隊の犠牲官兵は1551人,負傷1987人である。