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CIAのチベット介入(1956-1969)

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CIAのチベット介入(1956-1969)
—-「美国介入西藏叛乱内幕」崔希逸(2005-0830中国青年報)より抄録。
『THE SHADOW CIRCUS – The CIA in TIBET』(2001年にインド在住チベット人により制作され、英BBCで放映されたとのこと) というドキュメンタリーがあり,YOUTUBEにも日本語字幕つきで公開されていることを知った。
おそらくこの文章の由来するところはこのドキュメンタリーであろう。内容に矛盾はない。
ただドキュメンタリーの中でのダライ・ラマの発言には少々驚かされた。

仏教の考え方としては動機と目標が正しければ手段は暴力的でも許される。

暴力も方便だと言っている。

【当時の西蔵の情況】
1956年頃から,康区では大規模な武裝衝突が発生し始めていた。武裝勢力中に“四水六崗衛教軍”(西方でいうところのカンパ・ゲリラ)というものがあり,人数は少ないが,西藏軍区に大きな損失を与えていた。各種の原因で,中国国内ではあまり知られていないので,簡単に紹介しておこう。

旧西藏,つまり元の西藏噶廈政府の統治区は,地理的にほぼ以下の三部分に分けられる:

  1. 衛藏地区:西部を指し,現在の西藏自治区の大部分と新疆、青海の一部を含む。
  2. 康区:東部を指し,現在の四川西部と西藏東部と雲南西北部を含む。
  3. 安多区:北部を指し,青海の大部分と甘粛、新疆の一部を含む。

各区の藏人には特性があり,“敬虔な衛藏人、勇敢な康巴人、勤勉な安多人”と評される。
このうち康区は漢区に近接し,民主改革の嵐は最初にこの地を襲った。1956年以降,康区の各地で次々と大規模な叛乱が発生し,康巴人は“雪域護教志願軍”を組織して,解放軍と戦斗を交えた。敗れた康巴人の一部は西部の衛藏区に逃亡したが,再び徐々に結集し,騒擾を起しつつあり,これが“四水六崗衛教軍”の成立前後の情勢であった。
当時康区の理塘(今四川甘孜州理塘県)の人恩珠・貢布扎西は,早くから拉薩で商売をやっており,拉薩の康巴人の間や,康区の巴塘や理塘などの地域に一定の声望があった。彼は拉薩へ逃れてきた康巴人を語らい,1957年5月にダライラマに黄金の宝座を献上するための募金を名目に,四水六崗を組織した。(按:藏語では“曲西崗珠”で,四水は黄河、長江、雅魯藏布江、瀾滄江を指す。六崗はこの四水流域の西藏地区を指す。“四水六崗”は狹義では指康区を指し,広義では藏区全体を指す。)到1958年5月13日,四水六崗は各路の人馬を召集して秘かに会同し,人数を点すると合計二千二百余人で,みな馬匹と武器を帯し,步銃や猟銃以外に刀矛を帯し,殆どは康巴人だったが,安多人もいた。
1958年6月16日,恩珠・貢布扎西等は山南地区の竹古塘で,正式に“四水六崗衛教志願軍”の成立を宣言し,司令部を設けた。

新中国成立後,中央政府は中国領土の一部である西藏の平和的解放を決定した。1951年5月23日午後,中央政府の努力により,《西藏の平和的解放に関する協議》が正式に締結され,ダライラマは西藏地方政府を代表して毛主席に打電し,西藏問題の平和的解決の協議の支持を表明し,西藏の平和解放を宣布した。
四水六崗衛教軍
1951年秋,西藏平和解放協定の締結を承けて,解放軍は聖なる古都ラサに進駐した。当時のラサ当局は協定を遵守したが,ラサ周辺地区の一部の部落首領やラマたちは既得権益が損なわれることを怖れ,中国共産党の指導に遵うことを肯んじなかった。藏区に勢力を張る一部の商人たちが隊伍を組み,中央政府の指導に対する武力対抗を準備し始め,これが後に変じて強大な勢力をもつ四水六崗衛教軍に発展した。

 

米国人は西藏人の独立を支持することに興味を示した。米国人は已にこれを全地球的規模での“共産主義封じ込め”の一環と見なしており,少くとも“藏独”分子の抵抗運動は米国による“赤色政権の傷口に塩を塗る”ための陰謀であった。これはCIAのある工作員の言であるが,当時の米国政府はまだ“藏独”支持を明確には表明していなかった。米国の支持を得られるかもしれないと思った衛教軍は興奮したが,西藏は僻遠の地で通信は不便であり,米国という西方の国について知るところは少く,ただ中国の放送の傍受により米国が当時の中国の最大の敵であることを窺い知るのみであった。

CIAの“ST Circus”作戦
1957年秋のある肌寒い夜,西藏の上空には円い月が掛かり,視界は甚だ良好であった。サイパン島で訓練された二人の叛乱分子が西藏上空から落下傘降下した。その内の一人阿薩爾・ 諾布は回想する:

 

“下を覗くとヤルツァンポ江が月光を反射して輝き,一片の雲もなく,皓々たる夜だった。パラシュートを背に跳び下りる時には,全身が恍惚感に包まれた。”

彼らは降下後秘密裡に貢布扎西(Gompo Tashi)と連絡をとった。この秘密作戦のコードネームは“聖塞克思”(ST Circus)であった。この作戦により米帝国主義は正式に“藏独”に参与することとなった。

1958年夏,貢布扎西は藏南の哲古宗(山南措美県)に衛教軍の新司令部を開き,数千名の叛乱分子が結集した。阿薩爾・諾布は事態の推移を無線で米国に報告した。1958年7月,CIAは衛教軍に最初の空中からの武器投下を行ったが,大部分は旧式のLee-Enfield(李・恩菲爾徳)歩兵銃であった。当時の米国の援助に関しては,ダライも1990年の自伝の中で以下のように述べている:

“それは彼ら(米国人)の西“藏独”立への関心を示すものではなく,共産党政府壊滅のための全世界的な行動の一環であった。”

1958年にはその後も,米国人は二度にわたり叛軍に空中からの物資投下を行っている。米国の供給した裝備により,解放軍はそれなりの打撃を蒙った。貢布扎西はCIAのRoger E McCarthy(1959-1961のチベット担当)に1958年12月25日に行った襲撃の詳細を報告している。貢布扎西は200人を出動させ,“予定時刻に一斉に進攻し,解放軍との15日にわたる戦斗で,西藏における漢人住居500と多くの車輌を破壊した。貢布扎西によればまた400名の当地の武裝分子が解放軍の宿営地を襲撃したことがあるが,“その戦斗は10日続き,解放軍に手痛い打撃を与えた。”その後1959年1月24日には,“再び130人の衛教軍が丁青宗(現昌都丁青県)にある中央政府の党政機関に対する包囲攻撃を行った。その日は視界が悪く,敵の飛行機は役に立たなかった。こちらには現地の4000余人の助勢があり,丁宗の堡壘はすぐに奪取でき,勝利を目前にした時,空が突然晴れ渡り,敵の飛行機が飛んできた……”

ラサ叛乱

1959年藏歴春節のラサは不穏であった。3月10日,広汎な藏族同胞が春節を祝っている最中に,叛乱が醸成された。中央政府と十四世ダライとの間の齟齬により,ダライが殺害されようとしているとの謠言が流れたのだ。そこで“藏独”分子は“ダライの安全を護る”ためにダライの居住するポタラ宮を包囲した。3月17日,“藏独”分子はダライを擁してポタラ宮を脱出し,衛教軍の支配域を経て,CIAで訓練された二人の“藏独”分子の護送下に中印辺境に達する。3月19日ダライ逃走の報に接した中央政府は全面戒厳を決定し,武力鎮圧を準備する。

3月20日午前2時,ラサ市内の叛軍は全面進攻を開始し,我が軍は鎮圧実施を決定。3月29日貢布扎西の率いる衛教軍は解放軍の打撃下に山南地区の隆子県へ逃れ,インドを後盾とした長期叛乱を企図する。しかしラサ叛乱を平定した解放軍は迅速に南下し,山南の叛軍を壊滅させ,叛徒はインド方面へ逃れる。ダライ集団の長期抵抗の企図は水泡と帰し,3月31日インドの提斯浦爾(Tezpur)に至る。ダライがインドへ逃れて後,密かに米国コロラド州ロッキー山中のキャンプ・ヘイル(Camp Hale,Colorado)に送られて訓練を受ける“藏独”分子の数は增加し,最終的には合計259人に達した。

1959年9月,CIAはキャンプ・ヘイルにおける訓練を終えた18名の叛軍をラサ東北300余キロの査格拉本巴に降下させた。彼らの任務はその地で兵力を募り解放軍と対峙することであった。最終的にはこの部隊の規模は3.5万人に達し,彼らは米国に武器の援助を要請した。その後,CIAは数次にわたり武器の空中投下を行ったが,M1カービン銃や迫撃炮や対戦車擲弾やブレン軽機銃などが含まれ,その規模は小さくはなかった。明らかに,ダライラマの西藏脱出後におけるCIAの武器支援はもはや糊塗できないものとなっていた。

CIAの間接的援助下に,西藏叛軍は手負の獣の如く斗ったが,時間の推移とともに,その蟷螂の斧のごとき行動は,意義を失った。その間CIAは計49名の訓練された“藏独”分子を西蔵に降下させたが,生き延びたのは12人のみで,しかもその内の二人は解放軍に捕えられ,他はすべて射殺された。叛軍の支配地域は已に狭まり,自己の生命の維持さえ困難になっていた。情況が不利であるにも拘らず,狂信的な“藏独”分子は一時の衝動に任せて行動し,戦略性を欠き,米国人を焦らせたが,彼らはまったくCIAの意見を容れず,好んで大規模な解放軍との全線対決を繰返した。またこれら叛軍は当時は十分な無線設備を持たなかったため,相互間の連絡に支障をきたしていた。米国が彼らに十分な通信設備を提供できなかった理由は,一つにはCIAが彼らの通信の機密保持能力を憂慮したことがあり,また当時彼らが使用していたPRC10型無線機は消費電力が大きかったが,空中投下物資としては電池ではなく武器を選択したという事情もあった。

ムスタン営地
既に支配地域を失った四水六崗衛教軍は中国から逃れるしかなく,1960年の夏には,基地をムスタンに移した,ムスタンはネパール西部の楔のように西藏へ突き出した三日月状の土地である。CIAの援助下に,分裂分子は活動を継続し,貢布扎西を首とする頑固派は2100名の叛軍を結集し,300人を一組として我が西藏に対する侵犯を繰返した。

 

アイゼンハワーは1960年のソ連によるU-2撃墜事件後類似行動の再発を厳禁し,1960年末にはCIAは“藏独”分子に対する援助を打ち切った。支援を失った“藏独”分子は独力で厳冬を乗り切らざるをえず,一部は凍死し,また一部は皮革を齧って飢えをしのいだ。

1961年秋,米国ではケネディーが大統領となり,西藏叛軍は再び希望を見出した。就任直後のケネディー政権は,叛軍に対する支援を再開した。CIAはムスタンの4つの叛軍キャンプに継続して武器の空中投下を行い,またキャンプ・ヘイルで訓練された七名の西藏人を送り込み,叛軍の增強を行った。

この間,中央政府は西藏のための道路と飛行場の建設を行っていた。交通の改善により,中国の辺防部隊も西藏向けの大量の武器裝備の補充が可能となった。1960年代中期には,“藏独”分子にとっての環境はますます悪化していた。インド及びネパール政府はムスタン基地の“藏独”分子の滲透に不安感を抱いていた。CIAによる“藏独”分子に対する支援活動も米国国内で批判を浴びていた。ケネディー政権の駐インド大使ガルブレイスはCIAの活動を“愚か”と評した。そこでCIAは“藏独”分子の西藏における活動を情報收集のみに制限することにした。しかし叛軍は表面上は同意しても,実際には1960年代末まで,武力滲透を継続した。CIAによる空中補給は1965年5月が最後となった。

1972年,ニクソンが大統領に就任し,米中の国交は正常化された。これは“藏独”分子に対する弔鐘であった。西藏叛軍のムスタン基地は1974年まで存続する。1974年7月,中国政府の圧力により,ネパール軍はムスタン営地を包囲。叛軍は投降を拒絶。最終的にはこの無駄なあがきを眼にしたダライラマは,自ら投降勧告をテープに録音し,それはムスタン営地で放送された。ダライラマの肉声の投降勧告に接して,叛軍の多くは武器を棄て,一部は河に投身し,一人はその場で自らの喉を割いた。

しかしながら,ムスタンの最後を託された叛軍司令旺堆嘉措ダライの命令を無視し,精鋭を率いてインドへの突破を試みる。一ヵ月後,この叛軍部隊は廷克斯峠でネパール軍の伏撃に遭い,死を賭して決戦し,全滅する。

西藏平叛に関る主要な戦斗


1、1959年3月20日-22日ラサ薬王山戦斗(ラサ市内平叛を含む)で,叛乱武裝5300余人を殲滅,撃斃545人,傷、俘4800余人。
2、1959年4月8日-4月21日山南地区の平叛戦斗で,撃斃、傷、俘虜の叛乱分子2000人弱。
3、1959年7月上旬-8月中旬藏北(Memo:那曲北部方面)で掃討戦。
4、1960年2月29日恩達丁青嘉黎扎木地区(Memo:昌都方面)における包囲戦は,47日にわたり,撃斃叛乱分子1100余人,傷、俘虜4800余人,帰順する者4100余人,無反動炮6門,高射機銃1挺、軽機銃119、無線機6、步銃3700、落下傘268を捕獲。
5、1960年4月末溫泉黒河巴青(Memo:那曲東部方面)における包囲戦は,38日にわたり,撃斃、傷、俘虜の叛乱分子5000余人,および空降特務7人。
6、1960年には申扎薩嘎定日(Memo:日喀則方面)における掃討戦、阿里地区の馬泉河以北、国境以北、青藏公路以西における掃討戦、昌都東南における掃討戦などがある。戦果は不祥。
これ以外に,叛乱分子は米国やインドの直接の支援の下,ネパール北部のムスタン地区に盤踞していわゆる“衛教軍”を組織し,1960年から辺境地区を擾乱した。1964年には中央軍委の批准を経て,西藏軍区は扎東に中共特委と軍事指揮部を置き,駆逐に努めるが,衛教軍に対する駆逐作戦は1974年に衛教軍がネパール政府により武裝解除されるまで続いた。
1959—1961年における平叛では,参戦部隊の犠牲官兵は1551人,負傷1987人である。

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