僕たちのリアル Mobile Suit GUNDAM

 ドラム缶ほどもある巨大な物体がゴロゴロと地面を跳ねる!それを避けながら走る主人公アムロ……その“巨大なドラム缶”とは、人型兵器・モビルスーツの放ったマシンガンの薬莢だった。1979年4月7日。TVアニメ『機動戦士ガンダム』第一話「ガンダム大地に立つ!」のワンシーン。ロボットが、視覚的な説得力を持ってスケール感と重量感を与えられる事により、モビルスーツとなった──。

“低俗なロボットアニメ”が、セル画に描かれた“荒唐無稽なロボット”が、高度なリアリティ表現を手に入れた画期的な瞬間である。モビルスーツは『機動戦士ガンダム』の世界観を決定づけるのに充分すぎるほどの魅力を備えていた。

『ガンダム』がアニメというメディアに同時代性を与え、『ガンダム』がアニメというカルチャーに批評性を求め、『ガンダム』がアニメという表現を革新した。

 そろそろTVマンガなど卒業しなければならない年頃──。『ガンダム』は、ドラマより音楽より僕たちを刺激し、全く新しい視点を教えてくれた。

『ガンダム』は、僕たちの感性に打ち込まれた抜き差しならない楔であった。

TVアニメ『機動戦士ガンダム』。その存在は、放映当時ほとんど知られていなかったが、口コミによってそのうわさは拡がり、再放送、そして映画化によってその人気は確固たるものとなった。

 その人気拡大に大きく貢献したのがプラモデル、通称“ガンプラ”。これは、従来の玩具(ダイカスト)とはまったく違ったコンセプトで商品化され、その完成度の高さと相まって絶大な人気を得た。結果としてTVなどのマス媒体に頼らずに“ガンプラ”の商品展開(ガンダムセンチネルやF90シリーズなどのMSV)の方が先行して「宇宙世紀」という作品世界の“歴史”が作られていくといった手法まで登場するに至ったのである。

 また、忘れてならないのが“ニュータイプ”という新人類の概念。「宇宙という新しい生活環境を得た人類がそこに順応するための新しい能力を持った人間を生みだした」という、このストーリーは僕たちの心に素直に入り込んできた。

日本には、かつて伝統的な村の共同性があった。それは、ものごとの価値基準や道徳の母体となるもの。しかし高度経済成長に伴い、村の共同性が崩壊して核家族化が進み、その母体は消えていった。さらにTVや電話の個室化に象徴されるように、家庭内でも互いがどのようなメディア環境を生きているのかも判らなくなり、僕たちはあらゆる共同体から「自由」になっていった。

 さて“道徳の母体”が消失した結果「何が良いことで、何が悪いことか」といったことが自明でなくなった。その代償としてなのか「子どもVS大人(家庭内、校内暴力)」「ネクラVSネアカ」「子どもVS子ども(いじめ)」といった差別化をはかることによって、消失した基準や居場所をつくろうとしてきた。また新宗教や自己啓発セミナーなどの急成長も、これと大きく関連していると思われる。

“ニュータイプ”は、そんな不安定で窮屈になってしまった僕たちのコミュニケーションに明るい可能性(あるいは幻想)を見せてくれた。

ニュータイプ=新人類は、オタク?

 ところが、あの1989年8月の「宮崎勤事件」。それでなくとも当時“ネアカ”“ネクラ”といった分類が定着し、アニメファンも差別される方向にあり、すでに認知されつつあった“オタク”という呼称も一種、差別用語として用いられるようになっていた時期の事件だった。メディアはアニメファンを“犯罪に走り兼ねない社会不適応のオタク”“ダサくてクラいモテない若者”という図式で報道し、悪しき社会現象へと書き替えてしまった。

 僕たちは、その過去を忌まわしい体験として封印し、アニメとは決別したつもりで、音楽にファッションに美術に、その表現欲の翼を自由奔放に延ばしていった……『ガンダム』を密かに打ち込まれたまま。



GUNDAM芸術宣言

 60年代後半から70年代に生まれた僕たちはアニメ、コミックといったサブカルチャーに影響を受けて成長してきた。戦争も安保闘争も体験していない僕たちの共有するものはテレビや雑誌といったメディアを通して体験している。

 しかし、「他人とコミュニケーションのないオタク」という世間の思い込みは全く違ってる。僕たちは当時、生産が追い付かず稀少だったガンダムのプラモデル(ガンプラ)を友達と一緒に買いに行き、3部作となった劇場版の前日には必ず友達と徹夜で並び、教室やアニメ誌上で友達と激しく作品論を戦わせていた。

 現在でも、ガンダムをモチーフに現代美術作品を制作、発表によって、まだ出会っていない友人たちとコミュニケーションしようとしている。

 この企画に集まった僕たちは、アートフィールドに身を置きつつ“自分たちのルーツ”を題材に取り入れながら絵画、立体、ファッション、音楽と、さまざまな分野で創作、発表をしている。故に、僕たちなら『ガンダム』を通して「今」を語ることが出来るのである。

“ジャパニメーション”が世界中でヒットし、クリエイターを中心にアンダーグラウンド・シーンでは日本のサブカルチャー・インポート現象ともいえるムーブメントが起きている。

そして当然、日本国内でもその動きは活発でアートシーンの一部となっている現在、僕たちのように『ガンダム』をテーマにした美術展を企画する者が現われるのは必然なのだ。

『ガンダム』が僕たちに与えた衝撃をアートとしてファッションとして音楽としてストリートに展開したい。

これは紆余曲折しながらも決して切ることが出来なかったアニメ文化への僕たちなりの参加であり、僕たちが体験した“リアル”を通して、鑑賞者にとっての“リアル”を表出しようとする試みなのである。

 そう、僕たちの体にはガンダムが流れている。

ミナミトシミツ 勢村譲太  1996