(1)北海道拓殖計画と殖民軌道
殖民軌道の歴史は内務省北海道廰(庁)による第一期北海道拓殖計画末期の1924(大正13)年に始まりました。明治初頭の開拓使時代より進められてきた北海道開拓は、第一期拓殖計画が始まる明治末期には鉄道沿線への入殖が一段落し、入殖地は内陸部へと広がっていきました。対象となった根釧原野や宗谷地方は火山灰や泥炭の積もった土地で、道路を開削しても雨や融雪のために泥濘(ぬかるみ)がひどく、真冬の凍結期以外は通行が困難でした。そこで、「道路の一変形」として軌道を建設し、入植者各自の馬で台車を牽引する新しい交通手段の導入が試みられました。それが殖民軌道です。
殖民軌道は、第二期北海道拓殖計画が終了する1946(昭和21)年度までに34線・約625kmが建設されました。原則として馬力線で運行組合が管理しました。運行距離が長く輸送量の多い根室線と枝幸線だけはアメリカ製ガソリン機関車を投入して動力化し、北海道廰直営線として軌道法第32条に準じ鉄道省と協議、「北海道廰殖民軌道」として時刻表にも掲載されました。その後、根室線の直営は省線標津線の開通に伴って終了しますが、ガソリン機関車は藻琴線や真狩線に転用されました。
▲根室線中標津停車場の賑わい
(所蔵:北大付属図書館北方資料室)
戦時中、北海道の鉄道は農産物や木炭、木材、石炭などの輸送で賑わいました。殖民軌道も同様で、ガソリン機関車が使用されていた線区では、ガソリン不足を補うための木炭ガス発生装置の装備や蒸気機関車の投入がなされました。1942(昭和17)年には殖民軌道の名称が「簡易軌道」に改められ、やがて終戦を迎えます。
(2)北海道廰(庁)、北海道、北海道開発局
戦前の北海道廰(庁)は中央官庁である内務省の管轄下にありました。殖民軌道についても内務省北海道廰拓殖部殖民課が監督していました。新設は北海道廰が行い、道廰直営の2線(枝幸線・根室線)を除く実際の運営は、北海道廰の監督の下で地元に設立された運行組合が行っていました。
戦後、内務省の解体に伴って簡易軌道の新設・改良や復旧・維持は農林省の所管となり、新しく生まれた地方自治体である北海道に管理委託され、戦時中の酷使と資材不足で疲弊していた各線の復旧工事がさかんに行われるようになりました。実際の運営は北海道と管理委託契約を結んだ運行組合が行いました。
やがて、総理府に北海道開発庁が設けられて1951(昭和26)年に同庁の事業実施機関である北海道開発局が発足すると、簡易軌道事業のうち新設・改良については簡易軌道改良事業として同局が所管することになりました。その際、改良事業の対象となる線区は「公共物」に編入され、土地改良財産に準じて地方自治体と北海道とが管理委託契約を結ぶことになったため、「町(村)営軌道」という名称が誕生しました(対象とならなかった多くの馬力線は、運行組合の後身である運行協力会が管理、運営)。一方で、簡易軌道の復旧・維持については、簡易軌道補強事業として従来通りに北海道を通じて農林省の補助で行われたため、同一の事業に北海道と北海道開発局が複雑に絡み合う北海道独特の二重行政の問題がここでも見られました。
実際の現場では、開発局による改良工事を受けた区間の線路や枕木などは開発局と管理委託契約を結んで管理する国有物、従来の軌道用地や農林省の補助事業で維持されている区間の線路や枕木などは北海道知事と管理委託契約を結んで管理する道有物(実際は農林省所管の国有財産)、自治体が独自に取得した用地や敷設した線路などは町村有物、というように、建物、車両から工具の一つ一つに至るまで上記の三種類に分類して管理していました。
北海道開発局の改良事業は1952(昭和27)年度から1965(昭和40)年度まで実施されました。路盤や軌条の改良と自走客車やディーゼル機関車の投入による動力化が積極的に行われ、原乳輸送のためのミルクタンク車も現れました。また、標茶線(II)のようにあらたに建設された線区もありました。その頃の簡易軌道は地域輸送の一翼を担う大切な存在でした。それは、改良事業の対象とならなかった馬力線ですら昭和30年代後半まで使用され続けたことからも分かるように、簡易軌道の敷設された地域の道路では、この頃まで明治以来ほとんど変わらぬ泥濘(ぬかるみ)との闘いが続いていたからです。
昭和40年代に入り、道東・道北地方でも大型機械による抜本的な道路改良工事が始まって通年通行が可能になると、簡易軌道は存在理由を失います。1970(昭和45)年度末をもって農林省の簡易軌道整備事業が終了すると、それに合わせて各線が次々と廃止になります。そして、最後まで残った茶内線の廃線式が行われた1972(昭和47)年5月1日、簡易軌道は終焉の時を迎えます。