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この物語はフィクションです。実在の人物、地名、団体等とは一切関係ありません。

書庫小説『元禄武士道』

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元禄武士道


大石内蔵助良雄率いる赤穂浪士四十七名が江戸・本所松坂町の吉良上野介義央邸に討ち入ったのは、元禄十五年十二月十四日(グレゴリオ暦1703年1月30日)の午前4時ごろのことだったと言われている。

この時、吉良邸の北隣に屋敷を構える旗本・土屋主税逵直(知行・三千石)邸では、主人の逵直が寝間で休んでいた。
ただならぬ物音に目覚めた逵直が、
「何事ぞ」
布団をはねのけて起き上がると、土屋家の家老・竹中半右衛門がやってきて報告した。
「申し上げまする。ただいま、御隣の吉良様御屋敷に赤穂の御浪人方が討ち入りをかけましてござる」
「何、ついにやったか」
逵直は歓喜して枕を放り投げ、家来に命じて服装を整えると、自ら槍をつかんで庭先に降りた。
凍てつくような寒さの中、江戸の町は一面の雪化粧に覆われていた。
海鼠壁の塀一枚を隔てた吉良邸から、海鳴りのような凄まじい気合声と剣戟の音が聞こえてくる。
土屋家邸内でも、家臣たちが慌しく駆け回り、不測の事態に備えて対応に追われていた。
やがて……。
塀の向こう側から、赤穂浪士の片岡源五右衛門高房、原惣右衛門元辰、小野寺十内秀和の三名が名乗り出て、
「我々は播州・赤穂五万三千石、浅野内匠頭長矩家来にて、旧主・長矩の恨みを報ずるべく、吉良上野介殿御屋敷に推参いたした次第。御当家には御迷惑ではござろうが、火の元万事念入りに仕り致し、お手数はかけ申さず、何卒、御容赦くだされ」
逵直は、
「心得た」
と答え、家老の半右衛門に吉良家に援軍は送らず、もしも吉良家中の者が自邸に逃げ込むようなことがあれば、これを討ち取り、首を浪士に引き渡すよう命じた。
さらに、逵直は家来に命じ、塀沿いに高張提灯を並べさせ、吉良邸内を明るく照らし出し、浪士たちがはたらきやすいように図った。
吉良邸表門前で浪士たちの陣頭指揮を執っていた大石良雄は、土屋家の三ツ石畳と九耀の家紋が記された提灯を目にして、
「土屋殿。かたじけない」
と頭を下げた。

元禄十四年三月十四日(グレゴリオ暦1701年4月21日)、江戸城・松の廊下において、勅使御馳走役の播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が指南役の高家筆頭・吉良上野介義央に短刀で斬り付け、長矩は即日切腹、赤穂藩浅野家は領地没収のうえ家名断絶となった。
この事件は、それから1年9ヵ月後の吉良邸討ち入りでクライマックスを迎え、事件後脚色されて『忠臣蔵』となり、赤穂浪士の名を一躍天下に知らしめたが、
「主君の仇を討った忠義者」
という評価から、
「単なる逆恨みの暴挙」
という批判にまで分かれ、今なお議論の尽きないところである。
討ち入りに際して赤穂浪士は“浅野内匠家来口上”を用意し、討ち入り決行についての意義を述べている。

「伝奏御馳走之儀付吉良上野介殿へ含意趣罷在候処、於 御殿中当座難遁儀御座候歟及刃場(傷)候、右喧嘩之節御同席御抑留之御方在之上野介殿討留不申内匠末期残念之心底家来共難忍仕合御座候 偏継亡主之意趣候志迄御座候、私共死後若御見分之御方御座候は奉願御披見如斯御座候、以上
浅野内匠頭長矩家来
元禄十五年極月日 大石内蔵助」

これを要約すると……。

「伝奏ご馳走役の儀について、吉良上野介殿へ意趣を含みおられた所、殿中においてその場で避けがたい儀がございましたのか、刃傷に及びました。この喧嘩の時、ご同席していて、これを留める方がいて、上野介殿を討ち取ることができず、内匠頭の死に際の無念の心情は、家来どもとして耐え忍び難いことでございます。ただひとへに亡主の意趣を継ぐ志だけでございます。私どもの死後、もし、お検分の方がござれば、お上に見せて頂くようお願いします。かくのごとくございます。以上」

主君・浅野は殿中で吉良に傷を負わせ、切腹となったが、なぜ浅野が吉良に対して恨みを抱いたのか分からない。
浅野は即日切腹させられ、もはや当人の口から理由を訊くことはできぬし、吉良は「浅野の乱心」と言い張るばかりで、主家を失い路頭に迷った浪士たちは当惑するしかない。
再三、幕府に対し、自分たちの納得のゆく裁きをしてほしいと願い出たが、主家の再興は認められなかった。
殿中で刀を抜いた浅野に御咎めがあるのは当然であり、そのことに自分たちは異議を唱えるつもりはない。
ただ、浅野が吉良に対して殺意を抱いていたのは確かである。ゆえに、自分たちは家臣の務めとして、亡君の遺恨を晴らすため、吉良の屋敷を襲ったものである……。
現代人には到底、理解できないかもしれないが、
「胸の躍るような快挙」
と褒めるのも、
「逆恨みの復讐殺人」
と貶すのも、どちらも間違いなのである。
彼らはただ淡々と、家来としての務めを果たしたまでなのだから……。

徳川家康が豊臣家を滅ぼし、名実ともに徳川家が日本の支配者となってから八十余年。
戦乱の絶えた徳川時代、武士は“軍人”から“官僚”への転向を余儀なくされ、町人の旺盛な経済力は武士階級を圧迫し、賄賂や汚職は当然の金権政治が横行し、武士道の大義は地に堕ち、世相は頽廃した。
五代将軍・徳川綱吉の悪名高き「生類憐みの令」が人々を苦しめ、側用人・柳沢出羽守吉保が権勢を恣にしていたのが元禄年間である。
そんな時代に、赤穂浪士のようなヒーローが現われたことは、幕府当局にとって民衆の不満のガス抜きにはちょうどよかったのかもしれない。

浪士の討ち入りを事実上黙認した土屋逵直は、吉良邸との塀沿いに射手を配置し、
「もし塀を乗り越える者あらば、たとえ吉良家中の者にても容赦はいらぬ。その場にて射殺せ」
と命じた。
そして、庭に篝火を焚かせ、槍を握ったまま床几に腰掛けた逵直は、塀の向こう側から聞こえてくる闘争の物音に耳を傾けた。
(わしも、今少し若ければ……)
討ち入りに加勢していたやもしれぬ、と思い、微苦笑を浮かべた。

土屋主税逵直の祖先・土屋惣蔵昌恒は戦国時代、甲州・武田家に仕えた武士であり、天正10年(1582年)の「天目山の戦い」で主家が織田信長に滅ぼされた際、主君・武田勝頼に殉じて壮絶な戦死を遂げた。
後日、昌恒の遺児・忠直が徳川家康によって召し出され、土屋家は再興することを得た。
ちなみに、時の幕府老中・土屋相模守政直(常陸・土浦九万五千石)は土屋逵直の同族(分家)であり、老中の政直は浅野長矩の殿中刃傷事件に居合わせ、事件の処理に当たっている。

東の空が白みかける頃、吉良邸では戦闘が一段落し、浪士たちの吉良を捜す物音に取って代わった。
厳しい寒気の中、槍を握ったまま微動だにせぬ逵直は、生涯に二度とこのような興奮を味わうこともあるまい、と思っていた。
武勇の誉れ高き家柄に生まれながら、泰平の世に“戦士”は必要ない。
父祖のように鎧兜に身を固め、軍馬に跨り、戦場を縦横無尽に駆け巡りながら、敵と命のやり取りをすることもなくなった武士たちの思いは、
(生まれてくる時代を間違えた)
であった。
逵直は、同じ武士として、浪士たちの討ち入りに僅かながらも助太刀できたことが、自分にとって生涯の“華”だと思った。
「吉良上野介殿、討ち取りましてござる」
浪士・武林唯七隆重が無事本懐を遂げたことを伝えると、続いて浪士一同の勝鬨の声が払暁の空を衝いた。
逵直は槍を握り締め、ゆっくりと床几から腰を上げた。

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