グリゴーリー・クリークのこと 

もしくはT-34の開発遅延に関する一考察 

あるいは歴史について


 ソヴィエト連邦の軍人の中でも、とりわけ人気がないと思われる人物の1人にグリゴーリー・クリークがいる。ドイツとの戦争が始まる直前、ソ連の国防人民副委員(国防次官に相当)及び砲兵総局長という要職にあったクリーク元帥は、その任務に相応しい能力を発揮できず、却ってソ連の軍事力の整備に多大な損害を与えたとされている。そしてT-34戦車の開発にあたっても、クリークは誤った指導により名戦車の実用化を遅らせた張本人として、一方的に悪役を振られることが多い。
 例えば、『世界の戦車イラストレイテッド7:T-34/76中戦車 1941-1945』(スティーヴ・ザロガ著、高田裕久訳、大日本絵画、1994年)では、次のような一文がある。

「…こうして、T-34のプロジェクトは、すべてが順調に最後まで進むかのように見えたが、開戦直前の赤軍を襲った、とんでもない政治がらみの問題によって紛糾することになるのだ。
 火種は、国防人民委員部のK(ママ)・クリーク元帥で、彼はT-34戦車を激しく嫌っていた。そこで、彼の息がかかった人材ばかりを集めて独自の研究所を設立し、T-34の導入に際して、ありとあらゆる変更要求の報告書を、嵐のように発行した。このあおりを受けて、1940年9月15日までに部隊に引き渡されたT-34は、わずか3両でしかなかった」(9ページ)

 さらに訳者は、「嵐のように発行した」の部分の後に、「世間でいうところの、嫌がらせである」などという余分な(としか言い様のない)注釈までつけている。
 しかし…何というか、あまりにも粗雑な記述ではある。クリークがT-34の開発を押しとどめようとしたのは何故だったのか、理由の説明が一言もなされていないからだ。人はわけもなく何かを「激しく嫌っ」たりするものだろうか?どれほど愚昧な人間であっても、何らかの決定を行なうにあたっては、必ずや然るべき理由(と思われるもの)を見い出すはずである。その辺りの説明をすっ飛ばし、単に「嫌いだったから」で済ませてしまう本書の姿勢には首をかしげざるを得ない。

 一方、ロシアで発行された『第2次世界大戦におけるソヴィエト連邦の装甲兵器 1939-1945』(マリヤ・アルヒポヴァ著、アスト/ハルヴェスト共同出版、2005年)という本を読むと、T-34の開発に関する極めて興味深い一節に出会う。以下、該当する部分を訳出してみよう。

「T-34生産の推進に関して、軍と工場の技術者たちとの間に意見の相違が生じたため、作業にブレーキがかかる結果となり、9月15日までに完成した量産車両は3両にしかすぎなかった。
 そのきっかけとなったのは、試験場付きの技術者たちが提出した報告書で、この中では実用試験の結果明らかになったT-34の欠点が指摘されていた。すなわち機械的な信頼性の低さ、エンジンとメインクラッチの不備、4段変速式ギアボックスの動作の不良、それに狭い砲塔、といった諸点である。これらの欠点については設計局のメンバーも充分に理解しており、開発陣や工場の技術者たちは、生産・組み立ての過程でこうした問題を是正しようと努力していた。しかし、報告書は国防人民副委員であったG.I.クリーク元帥に提出されてしまう。そしてクリークは問題の本質を理解せぬまま、装甲車両総局長のYa.N.フェドレンコやその前任者であるD.G.パヴロフ(訳注:この時は西部特別軍管区の司令官であった)などの支持をも得て、国防人民委員部にT-34の生産の一時停止を提案した」(77ページ)

 ご覧の通り、ザロガ氏の記述とは大幅に話が違っている。確かにここでもクリークの行動は批判されているが、しかし彼の決定はそれに先立つ論争の結果として下されたものである。理由もなしにT-34を憎む狂人というわけでは決してない。そもそも、生産の一時停止を支持したのもクリーク1人だけではなかったようなのだ。
 もう1つ、ミハイル・バリャチンスキー著『T-34 第2次世界大戦最良の戦車』(ヤウザ/コレクツィヤ/エクスモ共同出版、2006年)の内容にも注目したい。本書によれば、独ソ不可侵条約締結後の1940年、ソ連軍当局はドイツから購入したIII号戦車の性能試験を実施し、この結果が関係者に大きな衝撃を与えたというのである(註)。テストの結果、T-34はIII号戦車と比較して装甲と武装で勝っていたものの、機動力や乗員の配置、視察装置、トランスミッション、行動の隠密性(T-34は走行時に極めて大きな騒音を発した)といった様々な項目で劣っており、これがT-34の量産の停止と性能の向上を求める報告書につながった。
 さらに、3両の先行量産車両は1940年の11月から12月にかけて様々な試験にかけられたが、その中でも多くの不具合が発見されたという。そこでクリークとフェドレンコは、パヴロフの支持をも受けつつ、「改良型であるT-34Mの完成まで暫定的にT-34の量産を停止し、代わりにBT-7Mの生産を再開すべきである」との意見具申を行なった。だが、結局この提案は上層部の取り上げるところとならず、T-34の開発が継続されている。

 これらの書籍とザロガ氏の『T-34/76中戦車 1941-1945』とを比較すると、クリークに関する記述は驚くほど食い違っている。どちらが本当なのか、ここで判断できるだけの材料を持っているわけではない。しかしどちらが真実に近いと感じられるかは一目瞭然である。と言うより、ザロガ氏の描き出すクリーク像があまりにも不自然なのだ。

 本稿の筆者は、特にクリークの再評価・名誉回復を求めるものではない。ただ、戦後60年以上が過ぎた現在もほとんど思い出されることなく、言及される時は一方的な非難や嘲笑の的にしかされないこの軍人に興味を抱いただけなのである。

★ ★ ★ ★ ★

 ここでクリークの経歴を簡単にご紹介しておくことにしよう。
 グリゴーリー・イヴァノヴィチ・クリークは、1890年10月28日(グレゴリオ暦11月9日)、当時はロシア帝国の領土であったウクライナのポルタヴァ近郊で、貧しい農民の家庭に生まれた。1905年のロシア第1革命においては兄がストライキに参加、投獄を経験しており、これがグリゴーリーをして革命運動に近づけさせるきっかけとなったことは間違いないだろう。
 1912年、ロシア帝国軍に召集され、それまでに学校で4年間の教育を受けていたため(比較的高度な知識の要求される)砲兵隊に配属された。下士官に昇進したクリークは、第1次世界大戦が始まると前線に出動、しかし革命の勃発によりボリシェヴィキ派に身を投じる。赤軍の一員として内戦を戦い、まずクリメント・ヴォロシーロフの、そしてツァリーツィン防衛戦に参加した際にはヨシフ・スターリンの知遇を得ており、これが彼の運命に大きな影響を与えることになった。
 内戦で勇敢な戦いぶりを見せ、幾度となく負傷したクリークは、ソヴィエト政権樹立の後には砲兵の指導者としてキャリアを積み上げていく。とりわけ1937年以降の昇進は目ざましく、この年にソ連砲兵部隊の総責任者である砲兵局長に任命され、39年には砲兵総局長と国防人民副委員を兼任、さらに40年になるとソヴィエト連邦元帥とソヴィエト連邦英雄の称号を与えられた。また、スペイン内戦においては共和国の軍事顧問として派遣された他、ノモンハン事件とソ・フィン戦争にも参加している。
 しかし、1941年にドイツとの戦争が始まると、クリークの運命は一気に転落へと向かう。彼はいくつかの軍を任されて実戦に臨むが、全く戦果を挙げることができず、1942年3月には早くも元帥の称号を奪われてしまった。44年以降は第一線を離れて編成総局の第2次長に回されており、クリークの軍人としてのキャリアはここで終わったと言っていいかもしれない。対独戦終了後の1945年7月に沿ヴォルガ軍管区の副司令官となるが、翌年には退役。そして1947年に逮捕され、50年の8月24日に銃殺されている。埋葬地はクイブィシェフ(現サマラ)とモスクワのドンスコイ修道院という2つの説があり、いまだ明らかにされていないという。
 1957年9月28日、ソ連最高会議の決定により名誉回復。

 以上のようなクリークの経歴は、同じソ連軍の中で最も著名な司令官の1人、ゲオルギー・ジューコフ元帥と似たところがある。共に帝政末期(もっともジューコフの方が6歳若い)に貧しい農民の息子として生まれ、第1次世界大戦に従軍。クリークは砲兵、ジューコフは騎兵という、専門性の高い兵科の出身者である点も共通している。さらに、2人とも早くから革命派に身を投じており、革命後の内戦など豊富な実戦経験を持っている。社会の下層からのし上がった、いわば叩き上げの革命戦士であり、黎明期のソヴィエト政権にとっては彼らのような経歴の持ち主こそが必要な人材だったのかもしれない。
 ただし2人が軍人として残した実績の差は如何ともし難く、ジューコフがそのキャリアのピークを1945年の栄光の中で迎えるのに対し、クリークのそれは開戦直前の1940年に終わってしまうのだが…

 実際のところ、クリークの軍事指導者としての能力には問題があり、とりわけ彼がソ連の軍事機構の中でも高い地位を占めた際にその弊害が露呈することになった。砲兵総局長の職にありながら、クリークはこの重要な任務を円滑に遂行することができず、次官のニコライ・ヴォロノフ、グリゴーリー・サフチェンコ、ウラジーミル・グレンダリの3名が一種の「三頭政治」を行なって総局を運営していかなければならなかった。
 のみならず、クリークは部下にとってはたいそう「仕えにくい」人物であったらしい。後に砲兵元帥にまで上り詰めたヴォロノフの回想によれば、クリーク総局長は部下を恐怖で縛りつけることが人使いの極意だと心得ており、「監獄行きか、それとも勲章か」というのが命令を与えるに際してのお得意のフレーズであった。しかもその命令たるや具体性を欠き、部下たちは何を求められているのかさっぱり分からず、ヴォロノフ次官のところへ駆け込んでは説明を求めるのが常であったという。
 さらに、1937年の赤軍大粛清において、クリークは人間的に甚だ好ましからぬ一面を見せることになる。トゥハチェフスキーを筆頭とするそれまでの軍内の指導グループと折り合いが悪かったクリークは、粛清裁判に証人として呼ばれたのを好機として、被告人たちを積極的に弾劾している。時としてその証言は感情的な悪罵にまで発展し、いかに結果の決まった見世物裁判とは言え、周囲に見苦しい印象を与えるものであった。

 しかし同時に、この恐ろしい時代の中で、クリークは極めて勇敢な行動をとったとも言われている。37年に赤軍を襲った粛清に際して、クリークはライバルを蹴落とそうとする一方、自らと親しかった戦友たちに関してはこれを庇おうと試みた。さらに砲兵総局長の地位を得た後で、大粛清により軍がどれほど大きなダメージを受けているかを理解したクリークは、砲兵総局のサフチェンコ次官と装甲車両局のパヴロフ局長、及びその部下であったパーヴェル・アリルエフ(スターリンの義兄弟)の3人と語らい、軍への弾圧の中止を求める意見書を国防人民委員ヴォロシーロフに宛てて書き送った。この大胆な所行に恐れ戦いたヴォロシーロフは、意見書を開いてさえみようとしなかったそうである。そこで4人は、スターリン本人に対して意見書を提出したという。
 実のところ、この話がどれだけ事実を反映しているのか、はっきりとは分かっていないらしい。しかし、クリークがあのように悲惨な最期を遂げたことを考慮に入れるならば、彼が何らかの形でスターリンの不興を買っていたという可能性もあながち否定できるものではない。クリークと共に意見書を提出したとされる3人のうちアリルエフは間もなく死亡、パヴロフとサフチェンコは1941年から42年にかけていずれも粛清の犠牲となっている。一方スターリンにひたすら忠実であったヴォロシーロフは、クリークなどと同じく対独戦初期の大敗に責任があったはずなのだが、にも拘らず天寿を全うすることができた。

 繰り返しになるが、本稿は彼クリークの再評価を試みようとしているわけではない。そもそも、こうした断片的なエピソードの羅列のみによって人間を評価することなどできようはずもないからだ。しかし他方、クリークについて言及される場合、専ら否定的なエピソード(例えばT-34開発遅延の如き)ばかりが持ち出されている点には注意を喚起しておきたい。逆に、例えば粛清の停止を求めたというような逸話は、それが現実の出来事か否かはさておき、ほとんど人目に触れることがないのだ。
 もしもクリークがそれなりの戦績を残した軍人であれば、その場合は上記エピソードについても大きく取り上げられたはずである。独裁者を恐れずに意見する硬骨漢であり、それ故戦後になって報復を受けた悲劇の軍人として…しかし実際には、クリークに対する一般的な評価が極めて低いせいか、「肯定的な逸話」が故意にスルーされているのではないだろうか。

★ ★ ★ ★ ★

 グリゴーリー・クリークの経歴を振り返ってみるに、彼が果たして歴史的「加害者」であったのか「被害者」であったのか、にわかには判定し難いところがある。しかし、こと後世の評価となると、クリークは明らかに被害者であり犠牲者であると言っていいと思う。
 とにかく叩かれやすいポジションなのだ。回想録などで自分の行動を正当化する暇もなく死んでしまったわけだし、粛清の対象者として、あらゆる栄光を奪われて最期を迎えることになった。その一方で、同じ粛清の犠牲者であるトゥハチェフスキーらと違ってスターリンと派手に対立したわけではなく、そもそもがスターリンやその側近の引き立てを受けて昇進した人物である。だから、スターリン批判期の名誉回復に際してもそれほどの「恩恵」に預かることができなかった。今でもクリークの名前は、専らスターリンの(無能な)手下として取り上げられる場合がほとんどで、彼自身もまた粛清に倒れたのだという事実は忘れ去られてしまっている。

 さらにまた、独ソ戦を論じるに際して、クリークはソ連軍の初戦での大敗を「説明」する恰好の材料となっている観がある。しかも、ソ連軍(あるいはソ連そのもの)に対して否定的・肯定的いずれの立場をとる者からも情け容赦なく叩かれているのだ。
 否定派にとってみれば、ソ連軍は人員の質も兵器の質も劣悪で、秩序というものを欠き、独裁者の意向に振り回されるみじめな集団である。そして、クリークのような輩はその「典型」として殊更に戯画化される。こんな人間が指導部に入っているダメ軍隊、というわけだ。これに対して、ソ連軍を多少なりとも肯定的に評価しようとする人々は、優秀な兵器を持ち先進的な戦術を研究していたソヴィエトの軍事組織が何故有効に機能しなかったか、その理由を突き止めなくてはならない。そして行き着くところ、クリークなど「一握りの無能な指導者」に責任を負わせることになる。みんな頑張っていたのに指導者(の一部)がダメでした、という具合。この場合には、クリークはソ連軍の中でも「例外」的存在として描かれるわけだ。
 いずれの場合にせよ、クリークが思う存分に罵られ、批判の対象となっている点では変わりがない。彼の弁護者はおらず、彼を非難することは全ての者にとって都合がよい。かくてクリークの愚行は面白おかしく伝え広められ、その名は伝説的な存在となっていく…

 かかる「クリーク伝説」の形成にあたって、そもそも彼自身の行いがその出発点となったことは否定できない。いわば身から出た錆である。それからまた、クリーク1人だけが不公平な歴史的評価の犠牲となっているわけでもなく、実に多くの人々が同じような不運に見舞われている。取り立てて彼1人の不運を云々する必要など、本当はないのかもしれない。
 それでもやはり、このような「伝説」を見過ごしにするべきではないと思う。
 冒頭に紹介した「彼はT-34戦車を激しく嫌っていた」の如きテキストから感じられるのは、人間に対するどうしようもない興味のなさである。そうとしか表現の仕様がない。愚かだったから、残酷だったから等々のごく粗雑な性格付けでもって、ある人物の具体的な行動を「説明」してしまうというのは。おそらく、書き手にとってはその方が万事につけて楽であり、都合がよいのだろう。しかし、人間をあまりにも蔑ろにしたやり方であることは否めない。ここでは名戦車T-34の誕生という「なじみの物語」を成り立たせるため、クリークという一個人の思惟や決断(あるいは彼の人格そのもの)を完全に無視し、特定の役割を果たす傀儡にまで貶めてしまっているのである。
 人間に対するこのような扱いは、実はスターリンによる大粛清の論理とほとんど変わるところがないのではないか。どれほど正確な数字を引用していようと、どれほど当時の状況を活き活きと描写していようと、こうした姿勢で書かれた歴史は読む気になれない。

 三度繰り返すが、本稿の筆者はクリークの再評価を求めるものではない。しかし、彼の魂が(あの恐ろしい時代を生きた全ての人々の魂と同様)安らかであってほしいと心から願う。


(09.08.10)

註:ドイツIII号戦車とT-34の比較試験に関するバリャチンスキー氏の記述は、日本で一般に語られているところは大きく異なっていて驚かざるを得ない。この試験でソ連側は、T-34の性能がIII号のそれを凌駕していることを知って自信を深めた、というのが我々の持つイメージであるからだ(上記ザロガ氏の著作でもそうなっている)。該エピソードの真相もさることながら、ソ連軍に関する我々の「常識」が一体どこから来ているのか、当のロシアでの通説とどの程度まで差があるのか、改めて考え直すべきなのかもしれない。


戻る