ロシア史雑話15(つづき)

モスクワ創世記(2)


 さて、年代記以外の史料にはモスクワ創建についてまた違った話を伝えるものがある。「モスクワの始まりについての物語」がそれで、だいたい16~17世紀に書かれたと考えられている。「物語」によると、かつてこの地を支配していたのはクチカなる大貴族だが、ユーリー・ドルゴルーキーは彼から土地を奪ってモスクワを造ったのだという。クチカの子らはユーリーの嫡子であるアンドレイ・ボゴリュープスキー公に仕え、後に陰謀をたくらんで公を暗殺したのであった。
 年代記にはクチカその人は現れず、当然のことながら彼のモスクワ領有についての記事もない。しかし興味深いことに、アンドレイ公の暗殺(1174年)に関わった人物として「クチコヴィチ」という人物が示されている。これは「クチク(クチョク、クチェク、クチコの可能性もある)の息子」を意味している。またモスクワを「クチコフ」、すなわち「クチク(?)の街」と呼んでいる箇所も見受けられる。これらを総合するに、おそらくはユーリー公以前のモスクワについて何らかの伝承があって、それが「物語」や諸年代記の中に少しずつ反映されたのではないだろうか。


 さらにもう一つ。近年ノヴゴロドで発掘された白樺文書(白樺の樹皮に書かれた手紙や覚え書きなど。年代記には含まれない私的な情報が多く、貴重な史料である)にも「クチコフ」という地名を含むものがあった。手紙自体から時代の特定はできないが、より下の地層から1066年の文書が発掘されたので、当然それ以降に書かれたものであるはずだ。してみるとユーリーによって城壁が築かれてから10年、「モスクワ」の名はいまだ定着していなかったものらしい。
 もしかすると、これはロシア史においてささやかな曲がり角だったのかもしれぬ。モスクワではなくクチコフの方が伝わっていたなら、ロシアの首都はそう呼ばれていたであろう。すると「クチコフオリンピック」「クチコフ及び全ルーシの総主教」「ドイツ軍クチコフに迫る」「クチコフは涙を信じない」等々、何となくおかしな響きを持つ組み合わせが沢山できてしまう。ま、そうなったらなったで慣れていただろうけどね。

 それじゃ、モスクワという名前自体はどこから来ているのか?実はこれは簡単な話で、「モスクワ川」の畔に立つ街だから「モスクワ」、なのである。かのスターリングラードもスターリン批判後に「ヴォルゴグラード」(「ヴォルガ河畔の街」の意)に改名しているが、当たり前すぎて面白味に欠ける名前ではあるかもしれない。
 ところで、ルーシの都市には「名づけ親」を持つものもいくつか見受けられる。例えばヤロスラヴリ、ウラジーミル、ユーリエフなどで、これらの街はみな創建者である公にちなんで名づけられた。で、もし本当にユーリーがモスクワを作ったか、あるいは少なくともこの街を特別に重要なものと考えていたのなら、おそらくは「ユーリエフ」という名を与えていただろう(「モスクワ川のユーリエフ」すなわち「ユーリエフ・モスコフスキー」になっていた可能性もあるが)。しかし現実にはこの通り、単に川の名を取って「モスクワ」とされてしまったわけだ。ここからも、ユーリー時代のモスクワが微々たる存在だったことがうかがえるであろう。
 実際、13世紀半ばのモンゴル侵入までモスクワは固有の公を戴かず、従って「モスクワ公国」も存在はしていなかった。初代モスクワ公はダニール・アレクサンドロヴィチ(1261~1303)であるが、彼は有名なアレクサンドル・ネフスキーの子供たちの中でも末っ子にすぎない。その支配領域もそれほど大きなものではなく、ごくつつましやかな小公国と言うにふさわしい存在だったのである。

 その後の経過は皆様ご承知の通り。この取るに足らない小都市は機略縦横の歴代モスクワ公によってあっと言う間ににルーシ諸地方を征服し、統合し、大帝国ロシアの首都となり、冷戦時代には共産主義諸国の中心として世界の半分を従えるまでに至った。歴史とはかくも不可思議なものであり、あるいは不可思議であるからこそ面白いのである。
 もしもユーリー手長公が、あのちっぽけな要塞の後身である現代のモスクワを目にし、あるいは自分がロシアの偉大なる首都の建設者として讃えられていることを知ったなら、一体どんな顔をするであろうか?

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(00.08.10)


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