ロシア史雑話23(つづき)

ツァーリ誕生(2)



 これまでに見てきたような状況はドミトリー・ドンスコイの孫であるモスクワ大公ヴァシーリー2世チョームヌイ(盲目公)の下で大きく変わります。ヴァシーリーの治世(1425~62年)は叔父や従兄弟との血で血を洗う内戦に明け暮れ、野蛮と残酷とがモスクワ大公国を覆ったと時代して、一般にはあまりポジティヴな評価を与えられていません。にも拘わらず、ロシアが自らツァーリの称号を獲得するため大きく前進したのは、まさにこの時期のことでした。

 それでは一体、何が起きたのでしょうか?まずは、ルーシの宗主国であったキプチャク汗国の分裂が挙げられます。それまでも内紛が珍しくなかった汗国では、この時に至ってクリミアとカザンが固有の領土を持つ汗国として独立し、統一は完全に過去のものとなりました。ルーシ側は自立した全ての汗国の主にツァーリの称号を奉っていますが、しかし分裂そのものがが「タタールのツァーリ」の権威を著しく損ねるものであったことは間違いないでしょう。

 さらに重要と考えられるのは、ルーシにとってもう1つの、そしてより古い「ツァーリ」のルーツであったビザンツ帝国の衰亡です。この当時のビザンツは、オスマン帝国の猛攻を受けて存亡の危機を迎えており、回天の一策としてカトリックとの教会合同に踏み切りました(1439年)。合同とは言い条、実際にはカトリック教会に対する正教会の敗北宣言に等しい措置で、西欧から援軍を得るための苦渋の決断であったと言えます。しかしそれからわずか14年後の1453年、教会合同の甲斐なくビザンツ帝国はオスマン・トルコの猛攻を受けて滅亡、1000年の歴史に幕を下ろしました。
 
 こうした一連の流れは、言うまでもなくルーシの人々に大きな衝撃を与え、その世界観を根底から覆すものでした。まずはビザンツとカトリックとの合同にあたり、師であるビザンツ以上に反カトリシズムをへの傾斜を強めていたルーシはこれを頑として認めず、コンスタンティノープル総主教座への反発を強めていきます。そして1448年、ルーシの教会はモスクワ府主教ヨナを(コンスタンティノープルの許可を得ることなく)自らの手で選出し、これをもってロシア正教会は独立を果たすこととなりました。
 この出来事と、さらに1453年のビザンツ帝国滅亡を見て、ルーシの人々は孤立無援の感を深くしたはずです。何しろ正教世界の大親分であるビザンツがカトリックとの合同に「転向」し、その上に滅びてしまい、なおかつブルガリア、セルビアなど他の正教諸国も軒並みトルコに併呑されていたからです。けれども、孤独は往々にして誇りの観念をもたらすもの。俺がやらなきゃ誰がやる。正教徒の統べる国がルーシだけとなった段階で初めて、その支配者が「正教のツァーリ」となる心理的動機が生まれたのです。
 かくして、ヴァシーリー2世は長いルーシの歴史の中でも、生前からツァーリの称号をもって呼ばれた最初の人物となりました(1440年代初頭)。注目すべきは、彼にツァーリ号を冠した最初期の文献が、ビザンツとカトリックとの合同を決めたフィレンツェ公会議について記したものであることです。すなわち、ビザンツ教会とカトリックとの合同正教の放棄ビザンツ皇帝が「正教のツァーリ」の資格を失うこの資格がモスクワ大公に与えられる、というロジックです。ルーシは「ツァールストヴォ」(ツァーリの国)に向けて、その最初の一歩を踏み出したことになります。

 そうなると、困ってしまうのが従来の「ツァーリ」即ちハンとのつき合い方。ルーシの支配者が自らツァーリを名乗る以上、他のツァーリに従属し続けることはできません。汗国の宗主権を否定し、彼らからツァーリの称号を剥ぎ取るというプロセスがどうしても必要になってくるのです。
 15世紀後半、モスクワ大公のツァーリ化キャンペーンと並行して進められたのが、まさにこのようなプロセスでした。具体的には、文献の中でハンに対する否定的な形容辞が現れ始めたこと。さらに、タタールのツァーリの権威をその源泉から断とうというわけか、キプチャク汗国の祖・バトゥを貶める言説もこの時期に目立っています。勿論バトゥは同時代の人間ではありませんから、過去にさかのぼり、バトゥが登場する文献に手を入れて彼を悪の権化に変えてしまうという手法が採られました。つまり、タタールによる征服を悲憤慷慨調に描き出すルーシの歴史叙述は必ずしも同時代のものとは限らず、後から特定の意図をもって編集された可能性もあるわけで、この辺りには注意が必要でしょう。

 「脱タタール化」の一つの頂点とも言えるのが、1480年にモスクワ大公イヴァン3世がアフマド・ハンの軍勢を退けた事件で、一般にはこれをもってタタール支配の終焉と見なされています。しかしこの舞台裏をのぞいて見ると、イヴァン大公の懺悔聴聞僧であったロストフ大主教ヴァシアンが、前線に出動した大公に戦意高揚の書簡を送るという興味深い一幕が演じられていました。イヴァンはどちらかといえば決戦に及び腰だったのに対し、聖職者であるヴァシアンの方が好戦的な言辞を弄し、大公の背中を押しているのです。
 この書簡の中でヴァシアンは、「イヴァンこそが真のツァーリであり、バトゥ以来の歴代ハンはツァーリの名に値しない偽物である」という、モスクワ大公ツァーリ化の総決算とも表現すべきロジックを用いています。裏を返せば、当時はまだハンを真のツァーリと見なし、これと戦うことに踏み切れなかった心理が残存していたわけです。所謂「タタールのくびき」からの解放にあたり、ルーシの人々が打ち砕かなければならなかったのは、彼ら自身の中で歴史的に醸成されてきたツァーリ/ハンへの畏れの感情でした。

 以後の展開は皆様ご案内の通りで、イヴァン大公の孫のイヴァン4世(雷帝)は公式にツァーリの称号を名乗り、これは雷帝の血統が絶えた後もロマノフ王朝によって引き継がれていきます。この際にクローズアップされていったのが有名な「モスクワ=第3のローマ論」を初め、「キエフ大公ウラジーミル・モノマフがビザンツ皇帝から帝位のシンボルを受け取った」「リューリクは実はアウグストゥスの一族であった(!)」等々といった、ローマ/ビザンツ系の帝権を受け継いだという主張です。しかし他方、旧キプチャク汗国の後継国家(カザン、アストラハン、クリミアなどの諸汗国)の君主はいずれも「ツァーリ」と呼ばれ続け、かつまたモスクワ大公はハン/ツァーリの国(具体的にはイヴァン雷帝によって併合されたカザン汗国)を征服したことによって自らがツァーリとなったのだ、とする考え方がロマノフ朝初期まで保たれていた形跡があります。ルーシの支配者がツァーリを名乗るということについて、ルーシの人々自身の頭の中でも、なおしばらくはその意味を整理するための時間がかかったのでしょう。

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 以上見てきた通り、ロシアのツァーリという存在は、ビザンツあるいはモンゴルといった出来合いの帝国の権威をそっくりそのまま受け継いだものではありませんでした。ツァーリはツァーリ以外の何者でもない、としか言いようがないのかもしれません。
 モスクワ大公がツァーリへの「目覚め」を経験するにあたっては、正教世界が失われつつあるという危機意識が一つのきっかけとなっており、正教(=ルーシにとってはキリスト教そのもの)が重要な構成要素であることは否定できません。いわば、正教がツァーリの核になったわけです。しかし他方、この「目覚め」が実現するまでには、キリスト教とは縁もゆかりもないモンゴルの支配者をツァーリに戴き、しかもチンギス・ハンの子孫に対し選択的にこの称号を認めていた時代が200年も続いていたこともまた事実なのです。
 もしもキプチャク汗国の君主たちがキリスト教を受け入れていたら?その時には、ロシアの歴史は大きく変わっていたかもしれません。数ある歴史上のIfの中でも、「タタールのツァーリのキリスト教君主化」という仮想は、実は非常に魅力的なものではないかと思います。勿論これはあまりにもロシア中心的な思考の産物であり、汗国はルーシだけから成り立っていたわけではありませんし、ハンたちとしても非キリスト教徒の臣民の方を重視する大きな理由があったのでしょうけれども。

 様々な権威と理念、信仰などを次から次へと重ね塗りし、矛盾に満ちた転変の末に生まれたロシアの君主・ツァーリ。そういう目で見ると、実はけっこう魅力的な存在だと思いませんか?

(10.10.05)


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