ロシア史雑話27

ロシアン・ティーはどこから?


 ジャムを入れた熱い紅茶、すなわち日本人が「ロシアン・ティー」と呼んでいるお茶については、ロシア人は実はそんなことをしない…というのは比較的よく知られるようになってきた豆知識かもしれません。ロシア人が紅茶に入れるのは、通常は砂糖か蜂蜜、レモンといったところで、それほど珍しい飲み方でもないのです。ジャムを混ぜるのは、少なくとも広く一般に見られる慣行とは言えないでしょう。また今回の参考文献の1つである『お茶の歴史』(ヘレン・サベリ著、竹田円訳、原書房、2014年)にも、ロシア人が紅茶にジャムを入れるなどとは一言も書かれていません。
 つまり、日本人の考えるロシアン・ティーはファンタジーの産物である可能性が高いわけですが、しかしこの言葉のおかげで、ロシアでも茶が好まれるというイメージは何となく伝わっているように思います。事実、ロシア人は紅茶をよく飲みますし、その喫茶文化はなかなか奥の深いものでもある。そこで本稿では、ロシアとお茶の歴史的な関わりを簡単にご紹介したいと思います。

 ロシアがお茶の存在を初めて知ったのはいつか?これについては複数の説明がなされており、明確に分かっていない部分もあります。ただはっきりしているのは、ロシアが東方に版図を拡大し、シベリアを「発見」した後の出来事だという事実です。というのも、ロシア喫茶文化の源流となったお茶は、中国からモンゴルやシベリアを経由し、陸路はるばるモスクワまで運び込まれたものであるからです。
 一般に、ロシア人とお茶とのファースト・コンタクトは皇帝ミハイル・ロマノフの治世に求められています。すなわち1638年、モンゴルのアルタン・ハン(16世紀後半のモンゴル統一者ではなく、17世紀に勢力を振るったハルハ部の君主)からミハイル帝に贈られた200袋の茶葉が、確かな記録に残るロシアのお茶第一号なのです。ロマノフ朝の初代ツァーリは、同時にロシアで初めて茶を味わった可能性が高い人物ということになります。
 ちなみに西ヨーロッパでお茶が初めて紹介されたのも17世紀初頭の出来事で、時期的にはロシアとあまり変わりません。これが日本だと、すでに13世紀の段階で茶を飲む習慣が根づき始め、17世紀当時は華麗な茶の湯の芸術が花開いていたわけですから、そのギャップの大きさに驚かされます。茶の祖国・中国と(海を隔ててはいるものの)隣り合わせの地理的条件が、日本に喫茶先進国の地位を与えていたわけです。しかしながら、お茶は伝播した先々の社会へ迅速に浸透し、個性的な文化を育むという優れた特質を持っており、ロシアでも例外ではありませんでした。

 ロシアにおける茶の広まりを見ていく上で重要なのが、中国との関係史です。広大なシベリアを征服したロシアの視界に中華帝国が入り始めるのが17世紀末~18世紀初頭のこと。国家間の本格的な接触はネルチンスク条約(1689年)に始まり、1727年のキャフタ条約では通商に関する一定のルールが取り決められています。鉄道などは影も形もない時代のこととて、陸路の貿易は馬やラクダのキャラバンに頼らざるを得ないわけですが、軽くてかさばらず日持ちのよい茶葉は、中国から輸入される品目の中でも重要な位置を占めるようになりました。シベリアを横断する対中国貿易ルート(シベリア街道)を「茶の道」と呼ぶことさえあるほどです。
 こうして輸入量が増えたから茶の人気が高まったのか、あるいは逆に需要が大きかったからたくさん運び込まれたのか。鶏と卵の関係にも似た難問ですが、両方共に正解という言い方もできるでしょう。流通量が少なかった頃のお茶は、上流階級が独占する奢侈品の一つにすぎませんでした。ロシア正教の儀式の中には夜を通して行われる長いものがありますから、信心深い貴族の中には祈祷の後でお茶を飲み、頭をすっきりさせようとした者もいたようです(茶に特有の覚醒作用は、例えば禅宗の僧侶たちにも珍重されており、お茶との宗教の関わりも興味深いテーマになりそうです)。しかし輸入の規模が増えるに連れ、喫茶文化は徐々にロシア社会へ根を下ろし、愛好者の数を増やしていきました。

 具体的な「茶の道」のルートは複数存在しましたが、基本はモスクワからカザンに出、ウラルのペルミやエカテリンブルクなどを経由し、さらにイルクーツクを初めとするシベリア諸都市を経てキャフタに至るというものです。かの有名なシルクロードの北を並走し、ユーラシア大陸のほぼ真ん中を横断して東西をつなぐ、まことに規模壮大な貿易路でした。西欧の茶が海を越え船で持ち込まれたのに対し、ロシアは専ら陸路に頼っていたというのが面白いところです。
 また、茶貿易に従事したのはロシア人ばかりとは限りませんでした。ロシア帝国の東半部ではタタール商人の活動が目立っていたからです。周知の如く、タタール人はカザン・ハン国が併合された段階からロシアの支配を受け続けていたのですが、やがて多くのロシア人がヴォルガ地方に入植し、かつイスラム教に対する締めつけが強まると、これを嫌い東方へ移り住む者が現れ始めました。そして、土地を持たない移住タタールの生業となったのが商業であったわけです。タタール商人による交易活動の主な舞台は中央アジアでしたが、シベリア方面で茶の運送に従事した者もいたのではないかと思われます。実際、カザンは「茶の道」西部に位置する主要都市の1つでした。全てのお茶はこの街を通り、さらにロシア帝国の中枢部へと運ばれていったのです。
 ロシアの喫茶文化を支えた裏方として、彼ら茶商人たちの存在を忘れるべきではないでしょう。インド洋航路を飾ったイギリスのティー・クリッパーのように華やかな挿話には恵まれないものの、広大なシベリアを東西に行き来したキャラバン隊の活躍もまた充分にロマンを感じさせるものです。「茶の道」は、およそ200年にわたってロシアに茶葉をもたらす生命線であり続けました。

 しかしながら、馬やラクダのキャラバン隊は積載量に限りがあるのが弱点で、これは最後まで克服できない大問題でした。輸送コストは当然価格にも反映され、19世紀前半までの段階では、ロシアの茶は西ヨーロッパに比べかなり高価なものでした。ロシアでお茶が真に庶民的な飲み物となるまでには、意外に時間を要したと言うことができます。
 状況が大きく変わるのが19世紀後半で、この時期になるとロシア帝国内でも少しずつ鉄道網が整備されるようになりましたし、海上ルートによる茶の輸入も始まっています(オデッサなどが主な輸入港)。そして1903年に開通したシベリア鉄道は、従来のキャラバン・ルートに対して決定的かつ最後の打撃を与えるものでした。結果としてロシアに持ち込まれる茶葉の量は飛躍的に増大し、社会の隅々までお茶を飲む習慣が行き渡るようになったのです。かつて『バルチック艦隊の壊滅』(戦艦オリョールの乗員として日本海海戦を戦ったノヴィコフ・プリボイによる回想録、原題『ツシマ』)を読んだ時、当時のロシア軍艦では「お茶の時間」が設けられていたという記述が印象的でしたが、水兵への供与品レベルまで茶が一般化したのも、上記のような輸送革命の結果であったことは間違いありません。

 ロシアに喫茶の習慣を広める上で、かけがえのない貢献をしたのがサモワールです。サモワールはロシア独自の金属製湯沸かし器で、「自ら沸かす」という言葉がその語源となっています。中央の円筒内に炭火や松ぼっくりを入れて加熱し、周りの空洞部に水を入れて沸かす方式で、下方には蛇口がついているためいつでもお湯を注ぐことができます。また、お茶を入れたティーポットを煙突の上部に置いて保温するという工夫も凝らされています。昔は濃く煮出した茶を少量ずつカップに注ぎ、お湯を足して好みの薄さに調整する淹れ方が一般的であったようです。
 サモワールは18世紀末頃から大量生産が始まり、中部ロシアの街トゥーラがその中心地となりました。軍事に造詣の深い方にとっては、兵器生産のメッカという印象も強いかもしれません。それはつまりこの街が冶金工業の長い伝統を持っているからで、すでにピョートル大帝の時代には大砲の鋳造が始まっていました。この技術が、サモワール作成にも活かされたわけです。
 たかが湯沸かし器と思われるでしょうが、サモワールはロシア人と茶との関わり方に大きな影響を与えるものでした。蛇口をひねればいつでも熱いお湯が出てくるサモワールを囲み、家族や友人たちがくつろいだひと時を過ごすというのが、ロシアにおける「茶の飲み方」の定番となったからです。サモワールは親密で気取らない人間関係、楽しい団欒のシンボルでした。強引にたとえるなら、日本における囲炉裏やちゃぶ台とも似たところがありそうです。そして囲炉裏やちゃぶ台と同様、サモワールも道具としてはとっくの昔に現役を退きながら、今もなお「古きよき時代」の人づき合いを象徴するアイテムであり続けています。

 こうして独自の喫茶文化を確立させたロシアですが、さらに一歩進んで、茶の栽培が試みられたこともあります。候補地となったのは、当時はロシア帝国の領土に含まれていたグルジアやアゼルバイジャン、ロシア南部などいずれも温暖な地域ばかり。この努力はソヴィエト連邦にも引き継がれ、ひと頃は相当量のグルジア茶が出回っていたようですが、しかしブランドとして定着するには至りませんでした。現在ではクラスノダール地方で細々と生産されている程度で、残念ながら茶の国産化という野心的なプロジェクトは未完に終わったことになります。

 最後に、何故日本でジャム入り紅茶が「ロシアン・ティー」と呼ばれるようになったのか?について思うところを。かつて知人のロシア人が言っていたのですが、昔は確かにお茶うけとしてジャムを添えて出すことが多かったそうです。もっとも、ジャムを茶に入れるのではなく、舐めながら飲むわけですが。ジャムばかりでなく、蜂蜜も舐めながら、角砂糖であればかじりながら、という飲み方もありました(今では少数派になっているようですが)。
 その知人の方によれば、昔はみんな貧しかったから砂糖なども少なく、甘いものといえばまずはジャムだった、と。確かに戦後すぐのソ連で砂糖は貴重品であり、体が衰え切って帰ってきた復員者の健康を回復するため、医者が薬代わりに角砂糖を処方したという話さえ聞いたことがあります。一方、ジャムは自分で摘んできた野苺の類を素材にできるから、甘味料としては手に入れやすかったのでしょう。今日でも、多くのロシア人は森に入って野苺やキノコを集めることを好んでいます。
 想像するに、かつてロシア人からお茶うけジャムを供された日本人が、自己流で茶の中に入れてしまい、なおかつ「これがロシアの伝統なのか!」と勘違いしてそのまま広めた…というような事情があったのではないかと。この辺りは、日本におけるロシア受容史という全く別のテーマになりそうです。ただし、お茶もジャムもロシアの食文化にとって重要な存在であることは事実ですから、実はそれほど筋の悪い勘違いでもなかったのかもしれません。

(14.02.08)


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