ロシア史雑話25
第5親衛戦車軍の人びと
1943年7月、それは戦争が始まってから3回目の夏のこと。スターリングラードでの痛手から立ち直り、頽勢挽回を目論むドイツ軍は、乾坤一擲の大作戦「ツィタデレ」を発動。ソヴィエト野戦軍の包囲撃滅を企図し、中部ロシアの要衝クルスクに対する南北からの攻勢を開始した。
北翼を担当したドイツ中央軍集団が名将ロコソフスキーの堅陣を攻めあぐねるのを尻目に、南部から攻め入った南方軍集団は着実に前進を続けていた。とりわけSS3個装甲師団を基幹とする戦車部隊の活躍はめざましく、赤軍が多大な労力を投じて築き上げた防御線を比較的短時間で突破。ソ連側の抵抗と反撃を排除しながらひたすらクルスクを目指して進むその様は、猟犬の群れと格闘しつつも疾走を止めない手負いの猛獣の姿を思わせた。
しかしながら、赤軍は新たな「猟犬」たちを呼び寄せていた。7月12日早朝、プロホロフカ鉄道駅を指呼の間に望む地点まで進出していたドイツ装甲部隊の将兵は、北東の彼方で砂嵐と見まがう膨大な土煙が立ち込め、それが彼らの方へ近づいてくるのを見た。後方のステップ戦線から引き抜かれた増援部隊、ロトミストロフ中将率いるソ連第5親衛戦車軍が戦場に到着したのである。後に史上最大の戦車戦と称される戦いが始まろうとしていた…と、今から取り上げようとしているのは、戦車戦の話では実はない。プロホロフカ戦車戦の一方の立役者である第5親衛戦車軍について、人員の民族構成を示した興味深い資料が存在するので、これを手がかりに当時のソ連軍(あるいはソ連社会そのもの)を舞台裏から観察してみようというのである。高々1個戦車軍の話ではあっても、その構成は多民族国家・ソ連の縮図と言うべきものとなっており、様々な考察の材料を与えてくれる。
まずは早速、第5親衛戦車軍の民族構成表を見ていただくことにしよう。引用元は戦史研究家ヴァレーリー・ザムーリン氏の労作『プロホロフカ 大戦争の知られざる戦い』である(ただし原史料はロシア国防省中央文書館に保存)。1943年7月5日時点における第5親衛戦車軍の民族構成表
No. 民族名 兵卒 下級幹部[下士官] 幹部及び指揮官[士官以上] 合計 割合(%) 1 ロシア 17734 10806 4520 33060 74.1 2 ウクライナ 2485 1542 1210 5237 11.7 3 ベラルーシ 346 247 202 795 1.8 4 アルメニア 100 40 43 183 0.4 5 グルジア 93 38 19 150 0.3 6 アゼルバイジャン 67 24 15 106 0.2 7 ウズベク 231 71 13 315 0.7 8 タジク 40 10 3 53 0.1 9 トルクメン 33 10 2 45 0.1 10 カザフ 294 82 29 405 0.9 11 キルギス 55 18 3 76 0.2 12 カレリア 24 10 3 37 0.1以下 13 フィンランド - - 6 6 0.1以下 14 ユダヤ 208 176 323 707 1.6 15 チェチェン及びイングーシ 1 3 - 4 0.1以下 16 カバルダ及びバルカル 3 3 3 9 0.1以下 17 オセチア 22 10 13 45 0.1 18 ダゲスタン諸民族 27 19 8 54 0.1 19 タタール 744 331 78 1153 2.6 20 チュヴァシ 446 164 44 654 1.5 21 モルドヴィア 293 111 34 438 0.9 22 バシキール 146 22 14 182 0.4 23 カルムィク 26 3 1 30 0.1以下 24 ウドムルト 154 62 7 223 0.5 25 マリ 144 71 14 229 0.5 26 コミ 56 59 9 124 0.3 27 ブリヤート 32 19 1 52 0.1 28 モルドヴァ 15 12 4 31 0.1以下 29 ブルガリア 3 1 2 6 0.1以下 30 ラトヴィア及びラトガリ 7 - 2 9 0.1以下 31 エストニア 1 2 - 3 0.1以下 32 リトアニア 2 1 2 5 0.1以下 33 ポーランド 11 6 2 19 0.1以下 34 ドイツ - - - - - 35 ギリシア 2 2 3 7 0.1以下 36 中国 - - - - - 37 その他 103 57 13 173 0.4 38 合計 23948 14032 6645 44625 100 言うまでもなく、部隊の構成は人員募集の場所や時期など様々な条件により大きく左右されるはずであり、第5親衛戦車軍の民族的内訳を赤軍自体のそれと同一視できるものではない。しかしながら、同戦車軍の多彩な民族構成がソヴィエトの軍隊の特徴を如実に表していることは確かであろう。民族別に人員を記録するという慣行自体、「単一民族」を標榜する国家では考えられないはずだ。ソ連崩壊から20年の歳月を経た今日、第2次世界大戦当時のソ連軍を無造作に「ロシア軍」と表記する書物が散見されるが、それはあらゆる意味で正しくないことが分かる。
一方、具体的な民族構成を見るとロシア人将兵が部隊の大多数を占めている。これもまた否定できない事実である。何しろ100人中74人までがロシア兵なのだ。しかも広義のロシア、すなわち現在のロシア連邦を構成する様々な非ロシア民族(タタール人、モルドヴァ人、バシキール人等々)を除いてこの割合で、ロシア兵は名実共に第5親衛戦車軍の主力を構成していたと言っていい。
ただし、この数字はソヴィエトにおけるロシア人の比率を単純に反映したものではない。少なくとも、1939年に実施された全ソ国勢調査では、ロシア人がソヴィエト全体の人口の中で占める割合はおよそ58%にすぎない。つまり、戦車軍では人口比をはるかに超えるロシア人将兵が勤務していたわけで、この現象をどう評価するかについては意見が分かれるところであろう。ロシア人に次ぐ第2位を占めるのはウクライナ人。これも人口を考慮すると妥当な結果である(もっとも、国勢調査の結果と比べると低い比率なのだが)。問題は、ソ連第3位の人口を有しているはずのベラルーシ人で、第5親衛戦車軍における割合はわずか1.8%。人口数では格下のタタール人に負けている。
おそらくこれは、ベラルーシが戦争の極めて早い段階でドイツ軍の占領下に置かれ、以後の徴兵や動員が不可能となったことと無関係ではないだろう。ベラルーシの最終的な解放は、1944年夏のバグラチオン作戦発動まで待たなければならない。それ以降の赤軍でベラルーシ人将兵の数がどのように変化していったか、もしも統計があるのなら興味深い結果が現れるのではないかと思う。中央アジア及びザカフカース諸共和国の民族の割合も高いものではない。1939年の国勢調査で人口第4位(2.8%)のウズベク人を例に取ると、第5親衛戦車軍での勤務者は0.7%にとどまる。カフカースはともかく、中央アジアには直接の戦火が及んでいないのだから、素人目にはより多くの兵員が徴募されても不思議はないように映る。
その一方で、元兵士たちの回想を読むと、中央アジア出身の兵隊に対しては非好意的で偏見に充ちた述懐が多いように感じられる。言葉(ロシア語)が通じない、自分たちの生活習慣を戦場でも頑として変えようとしない、戦争に対する準備が全くできていない等々と。見方を変えれば、さしものソヴィエト体制も連邦内の全ての民族を悉く戦場へ駆り立てられるほど強力で完成されたものではなかったと言えるかもしれない(言語の問題一つ取ってみても、近代軍隊を運営する上では重篤な欠陥であろう)。第5親衛戦車軍における「中央アジア人口」の低さは、そのことを雄弁に物語っている。勿論、言葉も分からない軍隊の一員として嫌々戦いに放り込まれるのと、祖国防衛の信念と共に喜んで戦場で斃れるよう教育されるのとでは一体どちらが幸福なのか…という問題は別に残っているのだが。
同じくソ連の「共和国組」を見ていくと、バルト三国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)出身者の極端な少なさが目につく。もっとも、これらの国々が置かれた状況(強制的なソ連併合と開戦直後のドイツ軍による占領)を考慮するなら、取り立てて異とするに足らない現象ではある。寧ろ、少数ではあれバルト出身の兵士が含まれていることの方が不思議なくらいだが、併合前の39年に行われた国勢調査でもソヴィエト国籍のバルト諸民族が登録されているので、あるいはそちらにルーツがあったのかもしれない。何と言ってもロシア帝国時代はその版図に含まれていた地域だから、好むと好まざるとに拘わらず人のつながりは保たれていたのである。次に、ソ連の中でも自前の共和国を形成するには至らなかった大小様々な民族について。とりわけ数が多いのがタタール人で、上述の通りベラルーシを抜き3位の座を占めている。39年の国勢調査におけるタタール人の比率はおよそ2.5%なので、ほぼ人口比通りの将兵を戦車軍に送り出しているわけだ。
タタール人も中央アジア諸民族と同じく独自の言語を持ち、かつイスラム教を根幹とする独自の民族文化を保有しているはずなのだが、一方でロシア人とのつき合いははるかに長く、それこそモスクワ大公国の時代からロシア国家の枠内での生活を余儀なくされてきた経緯がある。中央アジアに比べると、ロシア人主体の軍隊で勤務することについては一日の長があったのだろう。参戦者の手記などを読んでも、タタール人兵士に対する否定的な見方はほとんど現れることはない(少なくとも対中央アジアほど目立つものではない)。
タタール人以外にも、現在のロシア連邦を構成する数多くの少数民族が第5親衛戦車軍の将兵として名を連ねている。総じてカフカース系の割合が少ないという印象を受けるが、この地方が一時的にではあれドイツ軍の占領下に置かれていたこと、また今日なお解決されていない複雑な民族問題が存在することなどを考慮する必要があろう。逆に、ヴォルガ以東からシベリアにかけて居住する民族は相対的に数が多い。中でもチュヴァシは、戦前の人口比率(0.8%)をはるかに上回る割合だが、どのような背景があるのだろうか。
これら諸民族の中でも、極めてユニークな存在感を示しているのがユダヤ人である。戦車軍内での「人口」はベラルーシ人に次ぐ第5位、39年の国勢調査の結果(1.8%弱)とあまり変わらない比率を占めているわけだが、注目すべきはその数ではない。兵卒よりも将校の人数の方が多いという、軍隊の常識ではあるまじき階級構成こそが問題なのである。実際、ごくわずかな代表者しか送り込んでいない民族(例えばフィンランド人の如き)を除くと、こうした特異なパターンは他には見られない。
ユダヤ人将校団の数的優越という事実だけを見てしまうと、この民族が軍の中枢を占めるエリート集団であったかのような印象を受けるかもしれない。神秘的な「ユダヤの優秀性」云々は措くとしても、彼らが多く知的な職業を選んだこと、またソ連の社会上層の中にユダヤ系の人士が少なくなかったことなどから、ユダヤ人が指導的な地位を得るのに有利な客観的条件は、ある程度までは現実に存在したと言っていいように思う。しかし同時に、ロシア帝国以来の歴史的な反ユダヤ主義には抜き難いものがあったし、ユダヤ人は社会生活の様々な局面で不利な取り扱いを受けていた。軍隊もまた例外ではなく、ユダヤ系の元ソ連軍兵士の回想には、戦時に経験した悲しむべき差別体験が何度となく現れる。ユダヤ的な姓を持っているだけで叙勲リストから外されることさえ珍しくなかったという。エリートと被差別民の二重性が、ソヴィエトにおけるユダヤ人像をひどくぼやけたものとし、その評価を難しくしているのである。
いずれにせよ、第5親衛戦車軍におけるユダヤ人兵士と将校の統計は極めて興味深い史料であり、検討に値するものであると思う。
最後に、ソ連圏以外の国々に出自を持つ人々についても簡単に触れておきたい。在籍が確認されているのはフィンランド、ブルガリア、ポーランド、ギリシアの各民族だが、彼らが先祖代々ソ連国内で暮らしていたのか、それとも共産主義に共鳴したなどの理由で移り住んできたのかは分からない。どちらの可能性もあると思う。とりわけ数が多いポーランド人は、バルト諸民族と同じく元々はロシア帝国の臣民であった時代があり、革命後もソ連での生活を選択した人々がいたのである(ロコソフスキー元帥の例を想起すべし)。
一風変わっているのがドイツ人と中国人で、該当者は1人もいないのに枠だけが存在している。たまたま第5親衛戦車軍には在籍していなかっただけで、他部隊では従軍例が多い民族だったのだろうか。しかし捕虜や投降者による補充が見込まれたドイツ人はともかく、中国人というのは全く想定外であり、色々と想像力を刺激される話ではある。突っ込んで調べてみると、小説よりも奇なる事実が出てくるのかもしれない。★ ★ ★ 無論、第5親衛戦車軍は人員管理の必要上からこうした構成表を作成したのだろうし、民族関連の史料として取り上げるなどとは、本来の意図からは大きく外れた使い方である。しかしそれだけに、戦時のソ連軍における民族構成を一点に凝縮した、いわばトレンチ(試掘坑)のような役割が期待できるかもしれない。本格的な研究はともかく、このような史料上の「トレンチ調査」であれば比較的簡単に実施が可能であるから、今後も機会を見つけて続けたいと考えている(無責任に穴ばかり掘り返して自己満足、とならないよう気をつける必要はあるだろうが)。
なお、構成表の日付は1943年7月5日であり、有名なプロホロフカ戦車戦はちょうど1週間後に生起している。具体的な戦闘の経過と結果については今もなお議論が続いているものの、第5親衛戦車軍が甚大な損害を被り、多くの将兵が戦死したこと自体は論争者のいずれの側からも否定されていない。表に名を連ねている数多くの民族の子弟が、同じ戦場に屍を曝したのである。プロホロフカは諸民族の共同墓地となったのだ…(11.12.17)
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