ロシア史雑話24

シニョール・フリャージン


 15世紀から16世紀にかけての200年間は、ロシア史の中でも「大いなる時代」と表現できるかもしれません。所謂タタールのくびきの中で徐々に力をつけてきたモスクワ大公国が、その覇権を確実なものとして国土の統一を達成。ツァーリの称号を手に入れ、タタール支配を終焉に導いたばかりでなく、沿ヴォルガ地方とシベリアの併呑を通じて帝国化の第一歩を踏み出したのも同じ時期の出来事でした。現在のロシアの原型を作り上げた壮大な歴史ドラマが、2世紀をかけて演じられたことになります。

 この当時、モスクワ大公国で活躍した人々の中に、「フリャージン」と呼ばれる一群の技術者たちがいました。彼らは建築を中心とする様々な部門で活躍し、モスクワの発展に大きな貢献を行っています。
 例えば、イヴァン3世の時代にクレムリンのレンガ造りの城壁を完成させたアレヴィズ・フリャージン。同じくクレムリンの塔の建設に携わったアントン・フリャージン、マルク・フリャージン、大イヴァンの鐘楼の設計者であるボン・フリャージン、鋳造技師にして外交官としても活躍したイヴァン・フリャージン、それにキタイ・ゴロドの城壁を造ったピョートル(ペトロク)フリャージン。他にも複数のフリャージンが、史料でその活動を伝えられています。
 こうまとめてしまうと、大公国を支えた優秀なロシア人テクノクラートの一族であるかのように誤解されてしまうかもしれませんが、実はそうではありません。まず「フリャージン」というのは姓ではなく、ある特定の人々に共通のあだ名なのです。また、フリャージンたちは一部の例外を除き血縁関係で結ばれてはおりません。つまり、一族の称号でもないわけです。さらに彼らは、モスクワ大公国で働いていたものの、ロシア人ではありませんでした。
 彼らはイタリア人でした。

 何故イタリア人たちがモスクワ大公国で働いていたのか?どうして彼らはフリャージンと呼ばれていたのか?そもそもフリャージンとは何を意味しているのか?そもそもロシアとイタリアの歴史的なつながり自体がイメージし辛いと思われますし、ましてフリャージンなどという謎めいた存在については、日本ではほとんど知られていないのではないでしょうか。
 まずは「フリャージン」の由来について触れることにしましょう。驚く勿れ、フリャージンの正体は、実は「フランク」なのです。そしてそのルーツはビザンツ帝国にあります。ビザンツでは西欧世界からの到来者を「フランク」と呼ぶ慣習があり、これがいつしかルーシにも伝播することになりました。その際、「フランク」がルーシの言葉に取り入れられる過程で「フリャーギ」「フリャージ」に転訛し、ここで取り上げている「フリャージン」という呼称に変わっていったわけなのです。
 ただし同じ西ヨーロッパ人でも、古くからスラヴ人とつき合いのあったドイツ人に対しては「ネーメツ」(複数形は「ネムツィ」)なる特別な名称が用意されていました(こちらをご参照下さい)。従って、フリャージンと呼ばれたのは南方のラテン世界の出身者、とりわけイタリア人に限られていたようです。後述するように、イタリア人の多くは黒海を経由してロシアに到来していますので、黒海周辺諸国に大きな影響力を持っていたビザンツが情報源になったと考えられます。
 ルーシが西の彼方からやって来た人々を認識する場合、北方の「ネーメツ」と南方の「フリャージン」という2つのグループが区分されていた。ごく大雑把にまとめると、このような構図が描けるでしょうか。

 次に、では何故イタリア人たちはわざわざモスクワまでやって来たのか。中世のイタリア商人が東地中海で活発な交易を行っていたことはよく知られていますが、実は彼らの活動の範囲はもっと広く、黒海にまで及んでいました。とりわけジェノヴァは、第4次十字軍によるビザンツ帝国の滅亡(1204年)と復活(1261年)に伴う混乱を足がかりに本格的な黒海進出を果たします。沿岸部にはカッファを初めとする複数の植民都市が築かれ、今日でもクリミア半島のスダークでは、ジェノヴァ時代の見事な城壁を目にすることができます。一方、ジェノヴァの宿命のライバルであったヴェネツィアも黙ってはおらず、イタリア商業都市による熾烈な勢力争いが黒海を舞台に展開されることとなりました。
 イタリア人が黒海沿岸で買いつけたのは毛皮や蝋、それに奴隷といった商品で、逆に毛織物、貴金属、武器、ガラスなどをこの地へ輸出しています。そして、黒海地域での有力な取引相手の一つが、14世紀初頭から着実に勢力を拡大していたモスクワ大公国でした。
 勿論、モスクワは黒海沿岸から遠く隔たっていますが、ロシアの伝統的な貿易路である河川交通を利用すれば、この程度の距離は問題になりませんでした。具体的には、中部ロシアからアゾフ海を経て黒海に至る大河・ドン川が、モスクワ大公国とイタリア商人とを結ぶ大動脈の役割を果たしたのです。モスクワというと、オカやクリャジマを経由したヴォルガ水系との結びつきが強いイメージがありますが、この時期はドン水系もまた重要な交易ルートの役割を果たしていました。

 かくしてモスクワ大公国の重要な貿易パートナーとなったイタリア人ですが、時を経るにつれ、大公の下での勤務という新たな関係を築く者が現れ始めました。モスクワにとって幸いなことに、時あたかもルネサンスの時期で、イタリアは先進的な科学技術を次々と世に送り出していました。とりわけ建築(築城)や鋳造(大砲、貨幣)の部門は、国土統一に邁進していたモスクワ大公国に益するところ多く、多くの優秀な技術者が召し抱えられることになりました。彼ら「お雇い外国人」であるイタリアの職人たちが、ロシアの史料では「フリャージン」と呼ばれていたわけです。
 現在でもモスクワ周辺には「フリャジノ」や「フリャゼヴォ」といった地名が残っていますが、これはかつて大公国で働いたフリャージンたちと関係を持つものと考えられます。クレムリンの建設に携わったイタリア人がここに住んだか、あるいは所領として与えられたのかもしれません。

 もっとも、イタリア人の皆が皆フリャージンであったわけではなく、大公イヴァン3世に仕えたアリストテリ・フィオラヴァンティのように本来の姓で知られている例もあります。ボローニャ出身のフィオラヴァンティは、祖国にいた頃から様々な建築物の設計で知られ、後にマーチャーシュ1世から招かれハンガリーで働いた経験もあるといいますから、すでにワールドクラスの名声を博していたことになります。
 このフィオラヴァンティを招いたイヴァン3世は、モスクワ第一の教会であるウスペンスキー聖堂再建という重要な任務を与えますが、彼は見事な仕事ぶりで大公の期待に応えます。同時にフィオラヴァンティは優れた軍事技術者でもあり、モスクワの大砲鋳造技術の発達に大きく貢献したと言われています。後にイヴァン3世がノヴゴロドやトヴェリを屈服させるため軍を発した時、砲兵の運用を任されたフィオラヴァンティの姿もその陣中にありました。もっともフィオラヴァンティ自身はノヴゴロド遠征の後で帰国を願い出たものの、イヴァン3世がこれを許可することはありませんでした。大公にとっては、まさしく「余人をもって代え難い」人材だったのでしょう。

 さらに、モスクワで勤務したフリャージンの中には、ある種の外交的任務を果たした者もいました。その代表格が、同じくイヴァン3世と密接な関わりを持ったイヴァン・フリャージンです。建築や貨幣鋳造といったいかにも「フリャージンらしい」仕事の他に、彼は最後のビザンツ皇帝コンスタンティノス11世の姪ソフィヤ(ゾエ)と大公イヴァン3世が結婚した際、その間を取り持つ使者の役割を果たしたことで知られています。
 実はソフィヤは、ビザンツ帝国の滅亡後はローマ教皇の庇護を受け、ローマで生活していました。モスクワ大公への輿入れに際しては教皇もこれを後押しし、また上記イヴァン・フリャージンが仲立ちを務めるなど、意外なほどイタリアン・コネクションを頼った婚姻であったわけです。「ビザンツからロシアへ」という認識だけでは無視されてしまいがちな、極めて重要な歴史的コネクションと言っていいでしょう。
 ちなみにこのイヴァン・フリャージンですが、ソフィヤ輿入れの大役を果たした後、今度は当時の国際情勢を反映した外交スキャンダルに巻き込まれています。彼の出身地であったヴェネツィアは、この時期になると東地中海及び黒海地域でオスマン・トルコとの苦しい戦いを強いられており、打開策の一環として後背からトルコを脅かす同盟国を求めていました。黒海北岸からカスピ海周辺にかけて広大な勢力圏を持つキプチャク・ハン国も、ヴェネツィアの目には魅力的なパートナー候補と映り、イヴァン・フリャージンは祖国から送られた大使トレヴィサンを案内してハン国行きを企てます。
 ところがこの計画は、ハン国との対決路線を進めていたモスクワ大公イヴァンの怒りを買うことになり、2人は逮捕・投獄の憂き目に遭います。いかにモスクワがイタリア人と密接な関係を築いていたとしても、タタールからの自立という最優先の課題を譲るつもりはさらさらなかったのでしょう。なお、イヴァン・フリャージンの活躍と数奇な運命は、中村喜和著『遠景のロシア』で活写されています。

 結局のところ、イタリア諸都市はオスマン帝国の大攻勢に対抗することができず、黒海という舞台からの退場を余儀なくされます。必然的に、多くのイタリア人=フリャージンたちがモスクワに出入りした時代もまた過去のものとなりました。この後、ロシアが西欧との接触を図ったのは北西方面すなわちバルト海経由であり、交渉の相手もドイツ人やイギリス人に変わっていきます。周知の通り、こうした流れがやがてピョートル大帝の改革というクライマックスを迎えることになるわけです。
 しかしながら、ロシア史における「イタリア時代」の意義も、決して軽んじられるべきものではないはずです。それは、地理的にも文化的にも全く異なる二つの民族が偶然の邂逅を遂げ、互いの要求を合致させることで成立させた色彩豊かな関係であり、歴史の奇跡とさえ呼べるかもしれません。西方世界に対して硬く扉を閉ざしていたように思われがちなピョートル以前のロシアも、実はルネサンス期の活力に溢れたイタリア商人たちと盛んな取引を行い、様々な先進技術を貪欲に吸収していたのです。優れた技能を駆使してモスクワ大公国に貢献した「フリャージン」たちは、この時代の花形というべき存在でした。

(11.06.07)


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