ロシア史雑話23

ツァーリ誕生(1)


 ロシアで「皇帝」のことを「ツァーリ」(царь)と呼ぶというのは、比較的よく知られた事実かと思われます。実際のところ、ロシア語には皇帝を指す言葉として別に「インペラートル」(император)があり、ピョートル1世以降のロシア皇帝はこちらを公式な称号として使用していたのですが、人口に膾炙しているのはやはり「ツァーリ」の方です。ロシア人自身にとっても、君主の称号として「ツァーリ」は「インペラートル」より伝統的で、親しみやすいと感じられるものだったようです。
 そして、これまた知る人は多いと思うのですが、このツァーリという言葉はラテン語「カエサル」(caesar)に由来するものです。ロシアは東ローマ(ビザンツ)帝国からキリスト教を受け入れ、また最後の皇帝の姪をモスクワ大公の妻に迎えたことによってその後継者を自認し、「第三のローマ」の支配者として皇帝つまりツァーリの称号を名乗るようになった…一般的には、大体このような形で「ツァーリ」の由来が紹介されています。教科書的な説明、と言っていいかもしれません。
 しかし一方、「ツァーリ」号については全く異なる説明がなされることもあります。帝国は帝国でも、ローマではなくモンゴル帝国の支配者をその起原とするもので、大ハーンの称号がロシアのツァーリの基になった、というわけです。この場合は、ロシア帝国=モンゴル帝国の後継国家と定義づけられるわけです。

 ローマ(ビザンツ)皇帝とモンゴルの大ハーン。一体どちらがツァーリの原形であるのか…いや、どちらかが排他的に正しいとは限らないから、こういう問題の立て方はよくないか。ともあれ、改めてツァーリという称号の起原を探ってみるなら、ロシア国家自体のアイデンティティにもつながる重要なものが見えてくるかもしれません。
 ここで注目されるのは、ロシア中世史の研究家であるアントン・ゴルスキーのツァーリ論です(А. Горский <<Всего еси исполнено Земля Русская...>> М., 2001, сс.134-149などを参照)。この中でゴルスキーは、どれか1つの「起原」にとらわれるのではなく、具体的な歴史状況の中でツァーリ像が変化してきたことを明らかにしています。必ずしも通説と合致してはいませんが、非常に興味深い論であることは間違いないので、以下にご紹介したいと思います。

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 元来、「ツァーリ」(古くは「ツェーサリ」)という言葉は、教会スラヴ語の書物を通じてルーシに入ってきたものと考えられています。具体的には神を「天なるツァーリ」と呼んだ他、ダビデやソロモンなど聖書中の君主たち、あるいはローマ皇帝やビザンツ皇帝にツァーリの称号が付されていました。12世紀末になると、神聖ローマ皇帝を「ドイツのツァーリ」あるいは「ローマのツァーリ」と表現する文献も現れています。
 一方で、ルーシの支配者を「ツァーリ」と呼ぶ慣習も意外に古い起原を持っています。最古の用例はヤロスラフ賢公の死(1054年)を伝えるもので、キエフのソフィア聖堂の壁には「我らのツェーサリが身罷った」という落書きが刻まれています。これ以外にも、ルーシの有力な諸公が「ツァーリ」と呼ばれ、あるいは「ツァーリとして統治した(царстовавать)」と表現される例は珍しくありません。
 それでは、ロシアの支配者は古くからビザンツなどと並ぶ皇帝の地位を求めていたのか?というとさにあらずで、この当時、ルーシの「ツァーリ」は単なる美称にとどまっていました。つまり、偉大な公の業績や徳を顕彰するための飾りにすぎず、政治的な地位を表わしてはいなかったのです。また、ヤロスラフ賢公の例からも明らかなように、ツァーリの称号は基本的に亡くなった公へ追贈されるもので、現実的な統治者のステータスとしては機能していませんでした。
 モンゴル侵攻以前、ルーシを支配していたリューリク一門の中では明確な主従関係が成り立ちにくく、一族中の最年長者でありキエフを支配した者が、ごく緩やかな頂上権を主張するという状態が続いていました。「大公」の称号でさえ、特定の政治的な地位を指すものとして定着したのは12世紀末以降にすぎません。つまり、当時のルーシには、ツァーリの名で呼ばれる絶対的な支配者そのものが存在しなかったわけです。

 こうした状況が根本的に変わるのは13世紀半ば、バトゥ率いるモンゴル軍がルーシ全土を席巻した時のことでした。これ以降、ルーシの史料ではモンゴル帝国及びキプチャク汗国の支配者をツァーリ/ツェーサリとして呼ぶようになるのです。
 しかし、モンゴルには勿論「ハン」という立派な称号があるし、ルーシでもこれが知られていなかったわけではありません。それでは何故ハンがツァーリと同一視されるようになったのか?ゴルスキーは、バトゥの侵攻がビザンツ帝国の一時的な滅亡(1204-1261年)と重なったことを重視しています。第4次十字軍によるコンスタンティノープルの陥落は、「ツァーリグラード征服の物語」などの文献によってルーシでもよく知られていました。ツァーリグラードすなわちツァーリのいます都コンスタンティノープルが異邦人に踏みにじられたこの出来事は、ルーシでは「ツァールストヴォ(ツァーリの国)の喪失」として受け取られていました。そして、バトゥの軍勢がルーシを席巻したのはまさにこの時期のことです。つまりルーシの人々の世界観の中で、モンゴルのハンは「空席」となっていたツァーリの座を占めたというわけなのです。
 なお、ビザンツ帝国はそのまま滅び去ったわけではなく1261年には復活を果たしたのですが、ゴルスキーによれば、この出来事によって状況が変わることはありませんでした。と言うのも、コンスタンティノープル回復後のビザンツは、キプチャク汗国とは友好的な外交政策を進めたからです。結果として、汗国はルーシを含む東欧諸地域の支配権をビザンツから認められたような形となり、ますます威信を高めていきました。

 かくして、ルーシは全く新しいツァーリ、「モンゴル/タタールのツァーリ」を自らの頭上に戴くことになりました。このツァーリは、遥か彼方のツァーリグラードにあってルーシにはあまり影響を与えなかったビザンツのツァーリと異なり、実態のある強大な政治権力として諸公の上に君臨する存在でした。すなわち、ツァーリは真にルーシの宗主となったわけです。
 一般的な歴史イメージと異なり、ルーシはツァーリすなわちハンの宗主権を認めており、その支配の正統性に疑問を抱くことはありませんでした。世俗の最高権力者であるウラジーミル大公も教会の長である府主教も、就任の際にはハンの認可を必要としており、複数の大公候補者が争いを起こした場合にはハンの裁きによって解決が図られていました。また、13世紀後半から14世紀前半にかけてのルーシ史料で、諸ツァーリ(ハン)に対する否定的な形容詞が付されている事例はほとんど存在しません。
 逆に、ルーシの諸公を「ツァーリ」と呼ぶ史料は、モンゴル侵攻以前に比べて激減しています。ハン=ツァーリが現実的な支配権を行使している以上、これに服するルーシ諸公がツァーリを名乗ることは一種の越権行為と考えられたのでしょう。

 モスクワ大公国がタタールを破った初の戦いとされるクリコヴォの戦いも、こうした状況を背景に考える必要があります。実のところ、ここで汗国側を代表したママイは、キングメーカー的な実力者ではあったものの、チンギス・ハンの一族ではないためハンの称号を持っていませんでした。ルーシの同時代の史料でママイを「ツァーリ」と呼ぶものはなく、一方でママイの立てた傀儡のハンは「ママイのツァーリ」と表現されていました。つまりルーシ側は、汗国内部の事情をよく理解していたと考えられます。ドミトリー・ドンスコイが撃破したのはあくまでもツァーリの下にいる軍閥の一指導者にすぎず、ツァーリそのものの権威に挑戦したわけではなかったのです。

 また、クリコヴォの戦いから2年後、ママイを倒して汗国を掌握したトフタムィシ(トクタミシュ)・ハンはモスクワを襲撃し、これを蹂躙しています。この時、抗戦準備を整えられなかったドミトリー・ドンスコイは北方へ逃れ、モスクワは汗国軍の劫略にさらされました。興味深いのは、ドミトリー大公のこの行動を伝えるいくつかの年代記が、「ツァーリ自らが彼に向かって来ることを知り…これと戦わず、ツァーリに手向かうことなくして」モスクワを捨てたと書いていること。ドミトリーはトフタムィシにはっきりと恭順の意を示したわけではないし、ルーシの軍勢の一部は汗国軍と戦っているから、こうした記述が完全に真を伝えているとは考えられません。ドミトリーがモスクワを放棄したのは、実際は兵力を集めるための時間稼ぎだったはずです。
 しかし重要なのは、ドミトリーの行動を正当化するために「ツァーリへの服従」という説明がなされている事実そのものです。トフタムィシは、ママイとは違い歴としたチンギス・ハン一族のメンバーであり、正統なツァーリ(ハン)たる資格を有する人物でした。それ故、トフタムィシへの「服従」は、ドミトリー・ドンスコイにとって何ら恥ずべきこととされなかったわけです。「タタールのツァーリ」の権威は、クリコヴォ後もなお健在でした。

 …思ったより長くなってしまったので、一旦ここで中断。後半ではいよいよ、ロシア人が「ツァーリ」の称号を手にするまでのプロセスを追っていきます。

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(10.10.05)


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